卒業試験(10)
「ここは?」
暗闇に…水滴の音が響いた。
「メーデ火山の中だ。」
洞窟の一角には、温かなオレンジ色の光で包まれた部屋がみえた。
「…ファルーナ姫が教えてくれたんだ。宮殿から抜け出した時に、ここに身を隠していたようだ。」
「そうですか…」
確かに可愛らしい姫にピッタリ合いそうな、少し小さめの丸みを帯びた家具が並んでいる。
「こんなところがあったなんて…」
気配を消すにはちょうど良い天然のバリアも貼られているようだ。
「あ! 殿下、お怪我を…!」
改めて灯りの下で見ると、両手首に鎖の後と左足首の洋服の裾に血が滲んでいる。
「構わぬ。」
習いたての治癒魔法を使おうと傷口に手を翳すと王子はそれを避けるように小さなソファに座った。
「い、いけません…私の魔力なら大丈夫です。宿はハロックル様にお任せしてきましたし、黄金の湯も被ってきましたから…」
王子の足を押さえてなかば強引に傷を癒していく。
「…なぜ助けた?」
なぜって…
「あなたが苦しそうだったから…」
考えるよりも咄嗟に身体が動いていた…
―――――――!
膝をついて屈んでいた身体を強引に起こされて、気付いたら王子に抱き締められていた。
「あ、あの…」
「リース、ありがとう。」
覚えのある体温と懐かしい香りに、勝手に心が満たされていく感覚が怖かった…
「は、離して下さい。」
身を捩って逃げようとすると王子はさらに腕に力を込めて動きを封じてくる…ど、どうしよう…こんなに密着してたら胸の鼓動が筒抜け…
「すぐ離すから、少しこのまま…」
すぐといったのに…なかなか離してくれない…
諦めて脱力すると今度はうなじの匂いを嗅ぐように首をもたげながら…頭や背中を優しく撫でてきて…
「ちょ…」
やがて右手が頬に添えられた…
「あの…」
普段は氷のように冷たい印象の美しいお顔が…今は切なげに潜められた形の良い眉と熱を帯びて潤んだ碧と金色の瞳が…確かな体温とともにこちらに近づいて…
ピシッ!!
「っ!」
二人の間に軽い電流を流してこれ以上王子が近づくのを何とか阻止する…どうしよう…顔が熱い…胸が苦しい…
「やめてくださいっ」
「リース…私は…」
「ち、治療がまだです…」
きっと真っ赤になっている顔を見られたくなくて、再び床に膝をついて王子の足首に手を翳す。王子は何か言いたげだったがしばらく黙って大人しく治療を受けていた。
「…。」
気まずい…この沈黙…
「あっ! ロデンフィラムの白茶がありますよ、殿下もお召し上がりになりますか?」
懐かしい…ロデンフィラムに出張に行っていた頃に、フィリとよく飲んでいた。心を落ち着ける効果があるのだ。
「…もらおう。」
先ほどキスを迫ってきた時の凄絶な色気が嘘だったかのように王子はいつもの無表情に戻っていた。
「…何も聞かないのか?」
白茶のカップを手に取りながら王子が呟く。
「え?」
「父上のことだ。」
王子は目を逸らしてため息を吐いた。父上って…魔法で眠っている国王陛下のことか…
「わたしに国のことはよくわかりませんし…」
聞いたところで…国を揺るがすような大事に巻き込まれたくない。ヴァン王子に何か頼まれたら善悪の判断もできずに…この人のためにまた力を使ってしまいそうな自分が怖かった。さっきは訳もわからずロド様に逆らってしまって…ん?
逆らって…?
「うわっ!!」
「どうした?!」
急に大きな声を出して頭を抱え出すリースに王子が驚く。
「殿下…どうしましょう…! さっきわたしロド様にたてついてしまって…しかも2回も…今まであんなに手厚く指導していただいたのに…これで破門にされたら…」
半泣きで身を乗り出すリースを見て王子は呆れたようにため息を吐いた。
「今さらだな。」
テーブルに突っ伏したリースの頭を王子がポンポンと撫でる。
「破門にされたら私の妃になればいいだろう…」
「どうしてそうなるんですか」
本当にしつこいったら…
睨みながら顔を上げると、王子はテーブルの上の左手をそっと握ってきた。
「私の寝室の天井絵…覚えているだろう? お前が望めば一晩中でも見せてやる…あの装飾魔法も、お前が望むなら一から手取り足取りわたしが教え込んで…」
「ちょっ」
いつの間にか耳元で囁かれていた声に慌てて手を振り払う。
「フッ…」
「いっ、今、からかいましたねっ」
真っ赤になったリースに王子は満足そうに声を出して笑った…くっ、悔しい…きっと王子には私の気持ちなんてバレバレなんだわ…。それにしてもヴァン王子ってこんなキャラだったけ…
「すまない、可愛くてつい…」
「は…」
い、今何て…幻聴かな…
「わたしはいつでも本気だ。リース、妃の件もう一度考えてみてくれ。」
王子は今度は打って変わって真剣な眼差しを向けたかと思ったら…ゆっくりと優しく左手の甲を取ってその形の良い唇を落とした。
「わ…わたしは…」
「おっとと! そこまで!」
「バテ君!」
何重もの結界を破って雷のような光の柱から現れたのは氷のように冷たい目をしたローブ姿の男だった。
「殿下、先日も申し上げました通りリースは私と結婚する予定です。」
「けっ、けっ、結婚?!」
すっとんきょうな声を上げるリースを余所に、バテ君の低い声にはいつもの少年ぽい無邪気さはなかった。
「それは初耳だが…所詮予定であろう。」
多少魔力が回復したのか王子の左手からは竜巻のような風が沸き起こっている。
「…ここであなたと争うつもりはございません。殿下、王宮殿へお戻り下さい。ロドから伝言です。禁忌の書への署名はもう結構だと…」
「何だと?」
王子は眉を潜めた。
「国王陛下にお目覚めいただくためとはいえ、殿下への数々のご無礼をお許し頂きたいと申しておりました。」
そういうとバテ君は殿下に向かって片膝を付いて頭を垂れた。
王宮殿は兵士たちの厳重な警護と何より王族にとって絶対的に優位な結界の中にある。ヴァン王子より魔力の高いロド様でも今回のようなマネはできないだろう。
「殿下、王宮へお戻り下さい。それが一番良いかと。」
ロド様の真意は分からないけれど、どの道わたし一人ではヴァン王子を守り切れない。
「明日にはダレッタ国から我が国の闇組織が関与していた宰相暗殺の件で使者が参ります。お急ぎ下さい。」
バテ君は早口でそう言ってまた深く頭を下げた。
王子はゆっくりと席を立つ。
「お送りします。」
バテ君が手を翳した先の空間が歪んで小さく王宮の門が見えた。
「結構だ。来い、リース。」
王子に腕を掴まれた瞬間にバテ君に反対側の手を引っ張られて、気付いたら3人とも雷を帯びた突風に包まれていた。