一番はじめの出来事
なぜかあのおじさんを胸のあたりをくすぐられたような悲しい気持ちになってくる。
どうしてあのおじさんはこんなところで横になっているの?ここは家じゃないよ、布団もないのにどうしてそんなところで寝ているの。
春にはまだ遠い寒風の下で、おじさんは一人病院の入り口の軒下でじっと動かず横になっていた。
何十年と着古したようなしみだらけの黒いコートの中に体を包み込み、ぼさぼさで白髪混じりの髪の毛だけを出してそのおじさんは丸くなって寝ていた。
ぴくりとも動かない。
僕は涙が出そうになった。
なぜかは自分でも説明できないけれど、かわいそう。
僕は母さんの手をそっと握った。
突然のどの奥がムズムズしだしてそれに耐えきれずに僕は咳をした。
ごほんごほんと何度も咳が出た。
しまいには、うつぶせになって体全体をゆすぶって。
母さんは背中をさすって僕の白いマフラーをかけ直してくれた。
この夜僕は母さんと一緒に病院に来たのだった。
咳がやみ僕が頭を上げるのと同時にコートに包まれたおじさんの体が微妙に動いたかと思うと顔だけむくっと出して僕のほうに向けてきた。
顔中に深いしわのできたその顔にはまるで茶色のクレヨンで塗りたくったような汚れが目立った。
目をしばたたかせ不思議そうに僕の顔を見ると、おじさんは不釣り合いな白い歯をみせて笑った。
僕の顔は、鼻水でくしゃくしゃだった。
おじさんは白と赤の点々が入った紙袋をさも大事そうに自分の横に置くと、それに今度は手を乗せて上半身だけをもたれかけるようにしてまた眠り始めた。
その時母が僕の手をひっぱって病院に向かって歩き出した。
おじさんはちょうど僕らの進路をふさぐ様な格好で横になっていたので、
母は「あのすみませんが」とおじさんに声をかけ「少々どいてくれませんか」と言葉を続けた。
だけどおじさんは動く気配を全く見せなかった。
僕は母さんの後ろに隠れて目だけでおじさんの様子をうかがった。
学校で使っている雑巾のような靴を履いておじさんはじっと横たわっていた。
「あの通らしてほしいんですけれど」
いい終わらないうちにおじさんは体をごく自然に僕らのことなんか関係ないよといったような感じで上半身だけを動かして道をあけてくれた。
と、その時もたれていたおじさんの紙袋が倒れて中から一個のボールが飛び出した。
黄色のきれいなボールは母さんの前ではねたかと思うと、たちまち歩道に飛び出していった。
おじさんは慌ててボールをつかもうと手を伸ばしたが、ボールはすでにおじさんの手が届かないところまで転がっていた。
反射的に母さんの手を振りほどくと、ボールを追って僕は駆け出していた。
ボールは僕の目の前を転がり続け歩道のくぼみのところでやっと止まった。
僕はかがんでそのボールをつかむと、両手でおじさんのところまで持っていった。
そして、おそるおそるおじさんの顔の前に差し出した。
おじさんは真顔で僕の顔をじっと見つめながら両手で僕の手からボールを受け取った。
僕はその時初めておじさんに首をかしげてニコッと笑った。
おじさんも目のあたりにたくさんのしわを寄せ僕の目をのぞき込んで笑った。
おじさんの目には黄色いボールがうつっていた。
なぜか僕はもうこのおじさんのことをかわいそうだとは、思わなくなっていた。
母さんは僕の手を後ろからつかんだかと思うとそそくさと病院の中に入っていった。
おじさんは横になりながら顔だけ僕の方に向けていつまでも見送ってくれた。
病院から出るときには、もうそこにおじさんの姿はなかった。
たげど空にはボールのような黄色い月が僕らを照らすようにして空に輝いていた。