(2) 追々々想放記
息継ぎをしようとして、立ちくらみ。
視界が上下左右に振れ、立っているのもやっとだった。
いくつもの足音が慌ただしく遠ざかっていく。おいてけぼりにされたくなくて、追いかけようとしたけど、体は崩れるようにして横たわり、ただひたすら卵のように丸まろうと、縮こまろうとしていたことは覚えていて、両腕で膝を抱え、お腹に向かってぎゅうぎゅうと全身を押し込んで、小さく小さく、目に見えないほど小さくなって、できればそのまま消えてしまいたかったけど、激しい腹痛にずっとつなぎ止められていた。
痛みがひどくて、どれだけ時間が経過したのか考える余裕もない。一瞬の気絶のようにも、数年に及ぶ昏睡から目覚めたようにも感じられた。全身は隈なく汗をかいていた。服が肌にびったりと張りついて、脱皮できない虫みたいだった。
起き上がろうとしても力が入らない。倒れたときに砂が入ったのか口のなかがざらざらした。吐き出そうとしたけど、うまくできなくて、粘着質な唾液が口角から頬へと垂れていった。指や足の先は壊死したかのように感覚がない。眠ろうにも腹痛でそれも叶わない。自分がどこにいるのか、思い出そうとしたが、痛みが邪魔をしてなかなか思い出せない。
思い出せないのは、それだけじゃなくて、あー、えっと、自分はどこから来たのかとか、あー、これからどこへ行くのかとか、あー、そもそも本当にいるのかとか、そういったことも思い出せなくて、血が冷えていって、とても寒い。
でも寒いって感覚を覚えているってことは、まだ体温があるってことだから、まだ生きていられる。生きていられる? ああ、そっか、ぼくってまだ生きていたいんだ。
なんだかとても可笑しくて、それを吐息に乗せて吐き出した。唇の前にあるカーペットの毛が笑い声に合わせてぶるぶると揺れる。それを見て、自分がちゃんとここに、ここにいることが分かった。分かって、起き上がるために身体に力を込めた。今度はすんなりと上体を起こすことができた。あれだけ痛かったお腹も死んだみたいにおとなしい。
外は暗い。うす暗い。夕焼けは雲の周りだけ内出血のような紫色で、あとはすべて赤く透き通っている。あっ、もうこいつは死ぬんだって思う。
折れた枝や木の根につまずいた。緑地を歩いていた。体が重かった。すぐに息が切れたけど、足はちゃんと前に出ていた。それが嬉しかった。境界のフェンスが木々のあいだから見え隠れする。それを乗り越える、乗り越えた。
道ですれ違う人々は何を見ている、景色を見ている、別に何も見てないで、自分の記憶を眺めているのか。いずれにしたって、彼らの記憶にはすれ違ったひとの姿なんて一切残ってない。そう思いながら、彼らとは逆方向へ、彼らがいたところへと向かって歩く。
入り組んだ住宅地を抜けて大通りに出る。片側二車線の車道を自動車が目まぐるしく行き交っている。歩道には学生や会社員がいる。自転車の前かごにスーパーのレジ袋を入れた主婦がいる。ゴミ袋をついばむカラスがいる。郵便受けに夕刊を詰め込む配達員がいる。道の真ん中で談笑するおばさんたちがいる。少し先の横断歩道の信号機が点滅している。あと二、三回光れば赤に変わる。ここから走れば渡りきれるだろうか。半端なところで変わってしまうだろうか。そうなるくらいなら速度を落として次の青まで待った方がいいか。
赤に変わる。ためらいもせず横断歩道に踏み入る。信号待ちで停止していた車が何台も周囲をかすめていく。でも、ちっとも慌てずに車のあいだを通り抜けて、対岸の歩道に難なく到着する。
道の端まで広がって歩く女子中学生たちがいる。うつむいた青年がいる。背後から追い抜いてく自転車がいる。道沿いの建造物は徐々に背丈を伸ばしていく。その合間から大きな駅ビルが出現する。
空腹を思い出し、駅近くの歓楽街に立ち寄って何か食べようと赴いたところまでは良かったのだけど、歓楽街は記憶にあるものとは様変わりしている。
行こうと思っていた老夫婦の経営する蕎麦屋がパチンコ店に代わり、かつての閑散とした様子が嘘のような活気と喧騒に変わっていた。
しばらく店の前に立っていると、自動ドアが開き、あふれ出してきた冷気と騒音の、その渦中から笑顔の老夫婦が出てきて、こちらを見て眉をしかめて去って行った。
その斜向かいにある本屋はガールズバーになっていた。先ほどから準備中の掛札がぶら下がっている扉を女子大生風の女性が幾度となく出入りしていた。もうかつてのように店主の目を盗んで成人雑誌を読み耽ることはできない。その代わりに女子大生とアルコールを飲みながら楽しくお話しできるようになったのだ。
人通りが増えはじめ、押されるようにしてそこから歩き出す。まるで知らない街にいるかのように、見ている街並みと記憶はちぐはぐで、事あるごとにきょろきょろと見回してしまう。カラオケ店の青い看板も居酒屋の客引きも、マクドナルドの脇にある階段を上った先にあるネットカフェ、周りを歩いている人々にも、すべてどこかに違和感があって、それがなんだか分からなくて、記憶から見放されたかのようで、戸惑いを覚えて、混乱して、急に息苦しくなって、心臓が不規則に膨縮して、堪えきれず道の真ん中でたたずんでいると、正面から部活帰りと思しき中学生の一団がやって来る。
土埃をつけた濃紺のジャージをはおり、その着こなしが流行っているのか片足の裾だけ膝までまくり上げている。全員短髪で見分けをつけるのは困難だ。でもその顔のひとつには見覚えがある。
細まった目、溌溂とした笑顔、笑ったときにのぞく白い歯。まるでこちらなんて眼中にないようで、話に夢中になっている。
そんな彼とのすれ違いざま、
「能天気に笑っていられるのも今のうちだ。これから襲いかかる数々の苦難で、きみはぼろぼろになるんだ。今は楽しい部活動も、顧問の変更にともなって方針が変わる。
練習のために休日を返上せよ、長期休みとは合宿のことだ、都大会に出るのがお前たちに求める最低ラインだ、そこにもたどり着けないやつは練習量が足りていないから部活後も自主練に励め。辞めたいやつは辞めればいい。ただし、俺が納得できる理由を面と向かって言ってこい。
厳しい練習に耐えきれなくなったきみは、部活をサボるようになる。
ほんの些細な腹痛を言い訳にして一度休んでからは、もうなし崩しに出なくなる。休み時間に部員に声をかけられても、家の都合が、習い事が、とありもしないことを口にして嘘を重ねる。もう辞めればいいのに、あの恐ろしい顧問に言い出すことができなくて、結局幽霊部員として卒業まで籍を置く。
そして卒業当日、感動的な式のあとで浮かれていたきみは、最後にあいさつくらいしようと部室をのぞきに行くけど、入部当初は自分よりも成績の悪かった部員が部長として、後輩たちに別れの言葉を述べている様子を目撃する。
はじめてみる後輩たちは、部長に尊敬のまなざしを向け、なかには涙を堪え切れずにうつむいているものもいた。きみが部活動をサボっているあいだに、彼は人知れず努力を積み重ねていたんだ。それが確かに実を結んだことがきみの目の前で証明されている。感謝の言葉で隙間もない寄せ書きと、抱えきれないほどの花束を受け取る彼の姿を見ていられなくなったきみは、そそくさとその場を離れる。
きみはしばらく校舎をうろつくが、声をかけてくるものなんて一人もいない。それはそうだ。この三年間できみがなしたことなんて、他の生徒の頑張りに比べれば、ないに等しいのだから。
路地のなかへと駆け込み、薄い胸板を壊そうとして暴れている心臓に手を添えて落ち着かせる。
死ぬほど息が苦しかったけど、死ぬほど気分がよかった。自分のなかから嫌なものをぜんぶ吐き出せたみたいな感じ。言葉を浴びせかけられているときの凍りついたような彼の顔を思い返して、にやにやしてしまう。
真上にある飾りみたいな外灯がちかちか瞬いていた。路地の地面にはりついたビニール袋や壁際に密生する雑草、ゆらゆらと揺らめいている影を照らしている。落ち着くからずっとここにいたかったけど、歓楽街の喧騒が迫ってきたから、路地の奥へと移動する。
外灯の間隔が少しずつ開いてく。明るいところにいるよりも暗いところにいる時間が長くなる。息をしているときよりも止めているときの方が多くなる。皮膚がぴりぴりと痺れてから、急にとけたみたいに何も感じなくなる。風の温度も、においも、もうなんにも
路地を抜けて
少し歩いたところにあるコンビニ
入る
目がチカチカする
棚の奥にあるゴミみたいなパン
レジに持っていく
差し出されたものを胡散臭そうに店員が受け取る
バーコードを読み取る
何か言った
財布がなかった
やっぱいいですと言った
店を出た
いつのまにか
夜は鮮やかで
騒がしくて
そのどこにも
ずっと
居場所を見出せなかったから
もういいやって思った。
もういいやって思って、隣にある焼肉屋の裏口に回って、ドブ臭いゴミ捨て場を横切る。薬局の前にあるオレンジ色のゾウの横に立ち、向かいにある雑居ビルの一階の学習塾に入っていく子どもたちを眺め、外階段から降りてきた数人の会社員に紛れて、居酒屋の近くまで歩く。その途中の切れかけの外灯の下で別れて、すぐそばの自動販売機と隣り合う電信柱の陰に屈みこんで、帰宅する人たちをぼんやりと見つめる。
小走りのサラリーマン、歩きスマホのお姉さん、飼い犬に先導されている女の子の後ろから、手をつないだ高校生の男女が、ひどくゆっくりとした足取りで通過していく。五本と五本の指を絡め、呼吸を合わせたかのように足並みを揃え、物静かな公園にたどり着く。青白い外灯に照らされた公園内には砂場と小さなブランコ、その脇のベンチに座り、親密に肩を触れ合わせながら互いにしか聞こえない声で囁くように会話をする。耳を近づけても何も聞こえない。ふたりには互いのことしか見えていない。
それをしばらく眺めてから、男子学生の横まで回り込み、耳元に口を近づける。
彼女まで作っていい気なもんだな。でも、それも最初だけだぞ。お前は他人を信用しないたちだからな。
その女とのデートでまず手を繋げなくなる。何か事故が起きたとき手なんて繋いでいたら邪魔で仕方がないからだ。映画館の暗闇は何をされるか分かったものじゃいから安心できない。上映が終わり、顔面蒼白なお前を気づかって買って来てくれた紙コップのウーロン茶も飲めない。こんなもの何を入れられているか分からない。相変わらず手を繋がないまま時間の浪費ともいえる女の買い物につき合い、ファミレスで軽食を取った後に公園のベンチではじめての接吻をする段になって、女がさっき食べていた苺パフェにこれでもかと乗せられた生クリームを思い出して吐き気が込み上げてくる。それでも何とか我慢したが、顔面同士が接近したその瞬間、女の前歯に挟まっていた苺の種で堪え切れなくなって嘔吐する。
まだ消化し切れていないフライドポテトの欠片と、それにつけたケチャップでやや赤みを帯びたゲロを浴びて顔をゆがめ、怒りをあらわにするその表情はますます女を醜くした。お前はこの女のどこが好きなのか考え、それを言葉にして伝えてどうにか怒りを静めてもらおうと思う。しかし、何一つとして思い浮かぶことはなく、公園から去っていく女の後ろ姿を最後まで見届ける。
ひとり取り残されたお前は、先ほどからの光景を不思議そうに見ていたハトの群れを追い払い、本当にひとりになるために、とにかく静かで暗い場所を目指す。
あてもなく歩き
つまずき
かがみこんで
うずくまり
もぐりこんだ夜の影は、死にかけの生きもののようになまあたたかく、その温度からいくら安らぎを感じとろうとしても、さだまることのない体温では、いつまでたっても死にきれない。
死ねないのならやはり生きるしかないのか。口からでた自問にこたえるものはなく、空虚にうかぶ問いは回答にいたれないかぎり形をなすことも消えさることもできず、ちりくずのように空気をただよう。それを呼吸とともに体内に取りこみ、肺にみたしてため息として吐きちらす。大気はかすんでいく。徐々に視界が悪くなる。すぐに暗闇に包まれる。そこでも繰り返し繰り返し回答のえられない問いかけを繰り返す。声は空洞のように反響する。まるで自分のものではないみたい。
自分のものって?
自分のもって?
自分のって?
自分って?
だれだ?
暗闇の密閉で、やまびこは、無回答に反響して、増幅して、累積して、どれがどれだか分からなくなって、忘れてしまう、なにもかも、だれのことかも、忘れてしまい、ふと思い出したのはだれのこと?
だれでもないだれかのことを思い出し、そのだれかになりかわることもできずに、いつまでも自分なんてものを信じて、ありもしない自意識のなかでばたばたもがく、いつまでも抜け出せない暗闇で、ばたばたあがく、ばたばた、ばたばた、これはだれの、これはだれの、耳鳴り、木の葉ざわめき、葉擦れ、仲間はずれた虫が飛び立つ、夜空はくらい、どのくらい、星も見えないくらい暗い、息を止めたい、息を止めて、底のない静寂で、何もなく、なにもなくなりたいのに、きこえてくる、足音? 遠くから、近づいて、やがて止まり、若い男女のこえ、さわがしく、やってくる。
光が荒れた暗闇を裂きながら徐々に近づいてくる。きャあきャあと笑い声とも悲鳴ともつかない声をあげる女の子たち。それを笑う男の子たち。
「すげー真っ暗!」
ともだちもだいぶふえたな
「マジでゆうれい出そう!」
さーくるにでもはいったのか
「やだぁこわーい」
おまえは
「いやここ、マジで出るんだって」
まわりにあわせるのが
「それほんと?」
とくいだからな
「うん、子どもの頃に
でもすぐに
友だちと来たことあるけど
いやけがさして
なぜかぼくだけ
また
ゆうれいを見たんだ」
なげだしてしまうんだろ?
「なら期待できるじゃん」
きにすんなよ
「だな! お、あっちになんかある」
どうせこいつらも
「行ってみようぜ」
おまえのことなんて
「えー、やめようよ」
きにもとめてないだろうし
「ならお前だけそこで待ってろよ」
いなくなっても
「おれらは行くから」
これっぽちも
「女の子おいてくなんてひどーい」
おぼえてないだろ
「もう女の子って歳じゃねぇだろ」
おまえもすぐに
「うわー、さいあく。そんなんだからモテないんだよ」
わすれてしまう
「うっせ! ブス!」
わすれたこともわすれてしまえば
「あー、ブスって言ったやつがブスなんだよー」
わすれたことにはならないから
「ブスブスブスブス」
な、そうだろ?
「え?」
えっ?
「どうしたの?」
あ、いや
「さっきからぼーっとして」
はっとして、
われに返る。
まぶしい。
顔に向けられた明かりを手で防ぎ、
「いや、なんでもない」
そういって顔の前から手をどかすと、女性が心配げな表情でこちらを見つめていた。
「だいじょうぶ? のみすぎた?」
ときかれたから
「だいじょうぶ」
と返したけど、ぜんぜん、だいじょうぶじゃなかった。
居酒屋を出てから軽い吐き気がずっと続いているし、視界はたえまなく揺れ動いていて、少しだけ頭が痛い。ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、そんな記憶も曖昧で、いま話しかけている彼女のことも、頭のなかを引っかき回してようやく思い出せたほどだ。
「大丈夫」
もう一度、自分に言い聞かせるようにそう口にして、深く空気を吸いこんで肺にため、それをいっぺんに吐き出す。
口から抜けていく酒くさい吐息。こうやって息を吐き出すことで自分からアルコールが抜けていくことをイメージする。自己暗示にすぎないけど、それでも倒れかけていた意識が体勢をなおすには十分で、ここがどこで、どうしてここにいるのか、それをちゃんと思い出す。
ぼくが調子を取り戻したのを見取った彼女は、
「あいつら、騒ぎすぎだよね」
スマホのライトをあっちこっちに向けながら歩き回る友人たちを見て言う。
「こんなうるさいと、通報されちゃうんじゃない?」
「いや、平気だよ」
「でも心配だよ」
そう言うやいなや彼女は、
「ちょっとあんたらうるさい! もう少し静かにして!」
騒ぎ立てるアキタカたちに注意した。
「なんだよ、つまんねぇ。何しにここに来てんだよ」
「きもだめしー」
「おらっ、幽霊でてこいや」
「ちょっとやめてよ、本当に出て来たらどうするの」
「そのときは俺が捕まえてやるよ」
「捕まえてどうすんのー?」
「警察に突き出してやる、幽霊が廃屋に潜んでましたってな」
「あはは」
「あははは」
「あはははは」
笑いながらスマホで写真を撮って回るが、いつまで経っても何も起きないことに不平不満を漏らしはじめたので帰ることになった。
みんな酔いで気が強くなっていて、真っ暗な森林のなかを躊躇なく進んでいく。苔むした石ころや倒木を踏んで何度も転びかけ、それを互いに笑いながら緑地との境のフェンスをよじ登り、ガシャガシャ音を立てながら越えていく。お調子者のアキタカはエガちゃんみたいなふざけた格好で越えて、着地に失敗して尻もちをつく。それをみんなで散々バカにしてから、このあとの相談をした。アキタカたちは駅前の店で飲みなおすようだったが、まだ気分が優れないぼくは辞退して彼らと別れた。
友人たちが去ってひとりになると、夜の静けさがはっきりと感じられた。
道の先から吹いてきた夜風が、ほてったぼくを夜から切り抜く。自動車のエンジン、クラクション、パトカーのサイレン、虫の声、風の音もすべて遠くで鳴っていている。その発生源で起きている物事にぼくは一切関係がなくて、昼間だったらまったく気にしないけど、まるで自分が世界から省かれているかのようで、なんだか少しだけ寂しくなる。
それを紛らわそうと辺りを見渡しても、深夜の住宅地に人影はなくて、明かりの点いている住宅もない。夜の海に放り出されたらこんな気持ちになるだろうか。夜の海に放り出されたことがないから分からないけど、ますます寂しさがつのってきて、さっさと帰宅しようとその場から歩き出した。
電信柱にぶら下がった外灯が夜道を点々と照らす。その下を通るときだけ、ぼくの姿が現れて、照らし出された手や足を見てなぜか安心する。
それも数秒で終わる。外灯と外灯のあいだの夜闇にとけて、とろけて、自分を見失いかけたところで、ふたたびぼくが現れる。そしてまた消える、いる、消える、いる、繰り返しながらアパートに着く。シャワーを浴びることなく布団に倒れこんで、目を閉じるとすぐに朝で、目が覚める。
一瞬間、自分のいる場所や状況を喪失して、すぐに把握してスマホで時間を確認した。
完全に寝坊だった。
布団から跳ね起き、顔も洗わず歯も磨かず、着替えだけはして家を飛び出した。
学生ぶりの全速力。駅まで全力で駆け、改札口を通り抜け、プラットホームに到着する。
時刻を確認すると、身支度を省略して走った甲斐もあり、いつもより一つ後の電車に乗るだけですみそうだった。
これなら遅刻はしないだろう。呼吸を整えながら電車を待っていると、対面のホームにいる男性と目が合う。普段なら気まずくてすぐに目をそらすけど、相手の顔に見覚えがあるような気がして、なかなか視線を外せなかった。相手も相手で同じ思いを抱いているのか、こちらに目を向けたままだった。
しばらく記憶のなかから彼を探していたが、どうやっても思い出せない。勘違いだと思って、目をそらそうとしたところで、彼の唇がわずかに動いていて、ずっと何事かを囁いていることに気がついた。
その内容は周囲の騒音で聞き取れない。読唇術の類も心得がないので何を口走っているのかまったく分からないのだが、彼の両目はしっかりとこちらを見据えていて、その言葉は間違いなくぼくに向けられている。この距離からだと細かい表情を読み取れない。彼がどんな感情でぼくに言葉を投げかけているのか分からないので、うす気味悪さばかりが積み重なっていく。思いっきりにらんで怒鳴りつける度胸があれば、人目をはばからずそうしたかもしれない。小心者なぼくは当然そんなことできず、口をきつく結んで不愉快さを滲ませる程度の反抗しかできなかった。
二、三分はそうしていた。ぼくにはもっと長く感じられたけど、実際はもっと短かったかもしれない。これ以上はもう限界だ、場所を移ろうと決めたとき、折良く電車が滑り込んで来て、男の姿が遮られる。
開いたドアに入り込むと、ドア越しのホームにはまだあの男が立っていて、視線は変わらずぼくに定められ、口は何かを吐き出し続けていた。
すぐに電車が動き出し、その姿は見えなくなった。
始業の五分前には出社でき、ほっと安堵の息を吐き出して自席に着く。しかし、始業の時間になっても隣席の先輩はやって来なかった。今日は朝からこの先輩と営業先を回る予定だったので、どうしたものかと思っているとスマホにメールが届く。先輩は人身事故の所為で二十分ほど遅れて来るそうだ。
それならちょうどいいと思い、先輩が来るまでまだ整理できていないデスク周りを片づけることにした。机の上に積まれていた書籍を本立てに並べ、クリップで止めたままになっていた書類を分類してクリアファイルにまとめ引き出しのなかにしまっていると、一番下の段から覚えのない鍵が出てきた。
自分のものではないことは確かだ。誰かが席を間違えてしまったのだろうか、訊ねようと思ったがみな始業したばかりで忙しそうだった。入社して数日の身ではなかなか声をかけづらい。先輩が来たら聞こうと思いポケットに入れた。
それから三〇分ほど経ってから、口をへの字に曲げ、見るからに不機嫌そうな顔で先輩が出勤した。
「おはようございます」とあいさつをして、相手の顔に疲労の色がうかがえたので「お疲れさまです」とつけ足す。
先輩はぶっきら棒に「おお」とだけ返事をして、隣の席に鞄を放り出してため息を吐いた。
「ほんとまぁ、何と言うか、平日の朝っぱらから飛び込むやつって、まともじゃねぇよな」
ですね、と相槌を打つ。
先輩は横目でこちらを一瞥し、
「お前は大丈夫だったのかよ」
「あ、はい。ちょうどぼくが乗ったあとに事故が起きたみたいで」
「ちっ、お前も道づれになればよかったのに」
遅刻のなのか、飛び込みのなのか、どちらとも取れる不穏な言葉を吐いてから、
「ま、気を取り直して、行くか」
入社してからまだ顔合わせをしていない営業先に向かうため、社用車を停めている駐車場に向かった。
運転席には先輩が座り、ぼくは助手席に着く。
「ぼけっと座ってないで道順おぼえとけよ。そのうちお前ひとりで行ってもらうんだからな」
そう言いながらキーを回してエンジンをかけ、アクセルを踏み込んで発車する。人身事故もあってか道路は普段よりもやや混んでいたが、気になるほどではなかった。気になるのは先輩の機嫌の方で、まだ戻ってないのかずっと無言だった。変に刺激したくなかったのでフロントガラスの先を注視して、道順を覚えることに専念した。
一〇〇メートル直進、三つ目の信号、ローソンで右折、しばらく直進。
カーナビの音声案内と景色を照らし合わせながら記憶していると、路面にあった小石でも轢いたのか車体が振動する。そのときに軽い金属音が耳につき、ぼくはポケットに手を入れ、机で見つけた鍵を取り出した。
「あの、これ、ぼくの机の引き出しのなかにあったんですけど」
鍵を指でつまんで運転する先輩の視界に入るように見せる。
「あ? 鍵?」
「これってたぶん、家のですよね」
「あー、落としもんつって事務にでも渡しとけ」
「事務の方ってどなたでしたっけ?」
「お前の正面、昨日教えただろ」
右折してその先に目的地が見えたので会話はそこで止まった。
「こいつ、新しいやつです」
微笑みを絶やさない壮年の男性に紹介され、ぼくは名刺を手渡す。相手は受け取り、ぼくの顔を不思議そうに眺めていたが「そう、よろしく」と言ってふたたび顔に笑みを広げた。
「前のやつよりは、断然使えるんで」
笑いながらそう言った先輩の言葉で、今まで気にしていなかった前任者のことをはじめて意識した。
「ぼくの前にいたのって、どんな方だったんですか?」
次の営業先に向かう車内で先輩に訊ねた。ようやく機嫌が戻ったのか、先ほどからよく分からない鼻唄を口ずさんでいた先輩はそれを止め、
「あー、どんなんだっけ? 覚えてねぇ」
それだけ言って鼻唄を再開した。
本当に覚えてないのか、言いたくないのか、そのどちらとも取れる反応だった。また機嫌が崩れても嫌だったので、それ以上は踏み込まないことにした。
その対応がよかったのか、先輩の鼻唄は次第に盛り上がっていく。しかし相乗するようにして車の速度も増していき、車窓の景色は突風のように過ぎていく。口出しして機嫌を損ねるか、事故を起こさないことを祈って目を閉じるか、二択の狭間をさ迷った末、ぼくはシートベルトの固定を確かめ、ぐっと足を踏んばって祈ることにした。
幸い事故を起こすこともなくすべての営業先を回り、夕方前に会社に戻ってから来週の打ち合わせ、提出する書類の添削をしてもらい、その日の仕事は終わった。
金曜日の仕事終わりとなると、どうしても浮き足立ってしまう。それはぼくだけでなく、街全体も祭りのような賑わいを見せている。
駅前に集う背広のおじさんたち、活気ある呼び込みの声、居酒屋の前で揉めている赤ら顔の若者、グラスがぶつかり合う音、早くも千鳥足の男性が大声で笑っている。
その陽気さに唆され、帰り道にあるコンビニで缶ビールと柿ピーを買う。おばさんの店員に会計してもらいながら、不意に前任者のことを思い出した。覚えてもらえない彼は、一体どんな人物だったのだろう。あれこれ想像を巡らすには、あまりにも情報が少なかった。
また別の機会に先輩に訊いてみようか、そんなことを考えながら夜道を歩き、妻に何も買っていないことに気がついて足を止めた。
前にも同じようなことをして、「私は育児でほとんど外に出られないってゆーのに、そんな私を労うこともなく、自分が欲しいものだけを買うのね」と耳を塞ぎたくなるほど小言を言われたのだ。
慌てて別のコンビニに入り、何がいいのか分からなかったので偶々目に入ったプッチンプリンを買った。
家の玄関戸を開けると、一歳になったばかりの息子の声が響いてきた。それを聞いて夜泣きに悩まされた日々のことを思い出した。噂よりもしんどくて、寝不足が続いていたことを思えば今はだいぶ楽になった。なんてそんなことをもし口にすると、妻の神経を逆なでしてしまうに決まっているので絶対に言わないよう心に刻みつつリビングに行くと、机でつかまり立ちをしている息子に妻が真剣な顔でスマホのカメラを向けていた。
SNSに投稿する写真でも撮っているのだろう。そう思いながらコンビニの袋を机に置き、「ただいま」と言うと、息子に向けていたスマホをこちらに向け、「おかえり」と返して撮影を止めた。
「明日はよろしくね」
「え? あ、あー分かった」
「ぜったい、忘れてたでしょ」
「半分くらい」
「なにそれ」
そう言って妻は息子に向き直り、
「パパはすごいね、半分だけ忘れることができるんだってね、器用だね」
と遠回しに嫌味を言ってきた。
明日、妻は久しぶりに大学時代の友人に会うようで、一週間も前から張り切っていた。大学の頃といえばぼくの知り合いである可能性もあり、試しに名前を訊いてみたが聞き覚えはなかった。
食卓に足を向けたぼくを見て、妻が立ち上がりかけたので、「いいよ、いいよ。自分でやる」と炊飯器から白米をよそい、みそ汁を温めなおす。
待っているあいだに大皿に盛られたトンカツの切れ端をつまむ。息子は妻から手渡されたプラスチック製のおもちゃをしげしげと眺め、部屋の角にぶん投げて笑っていた。妻はそれを拾ってまた息子に渡した。息子はぶん投げて笑った。妻は渡した、投げた、拾った、渡した。リピートされる母子の光景を見ながら夕食を食べ終える。
食器を重ねて流し台に運び、洗い残しを怒られた一昨日のことを反省して、これでもかと洗剤をつけ泡まみれにして洗っていると、どこから見ていたのか「洗剤! 多い!」と一喝される。結婚前はこんなに細かくなかったのになぁ、と一年ほど前の彼女を思い起こしながら皿洗いを終え、机に置いたコンビニの袋からビールと柿ピーを取り出す。
その音を耳聡く聞き取った妻が、すばやくこちらを向いたので、袋のなかからプリンを取り出し、それを見せると無言でうなずき、れいぞうこ、と何故か発声せず口だけを動かした。
ぼくは言われた通り冷蔵庫にしまい、スマホでニュースを読みつつビールに口をつける。
学生の頃は一口も飲めなかったビールだったが、今では毎晩のように飲んでいる。よく味わってみればたいして美味しいとも思えないのに、冷たさと一緒に口のなかに広がる苦味を知らないうちに許容できるようになり、美味いと錯覚できるようになっていた。それが良いことなのか悪いことなのか、判断は未来の自分に任せることにして缶をあおった。
日付が変わったところで寝室に向かう。先に寝ている妻と息子を起こさないように足を忍ばせ、自分の布団に入って目を閉じた。
「それじゃ、よろしくね」
いつもよりも目鼻立ちがくっきりとした妻はそう言い、ぼくの胸に大人しく抱かれている息子の頬をちょんちょんとつつく。
「行ってくるね、そうちゃん。良い子にしてるんだぞー」
息子と二人きりになるのははじめてだなぁと思いながらリビングに戻り、もぞもぞと窮屈そうにしている息子を床に下ろす。息子はそばにある机までまっさきに這い進み、机の脚をよじ登ってつかまり立ちの姿勢になる。どうやら上にあるティッシュ箱を狙っているようで、それを取ろうと懸命に手を伸ばした。しかし、なかなか触れられないで、「あー、あー」と不満げな声を出していた。
取って渡してやると、ティッシュを何枚も抜き出して遊びはじめたのですぐに取り上げる。するとその顔がみるみる曇っていき、泣き出しそうになる。代わりのおもちゃを渡してやると簡単に表情を和らげる。
しばらくそれを投げては拾い、放り投げては拾いに行って遊んでいたが、やがて疲れたのだろう、胡坐をかいて眺めていたぼくのもとまでやって来て、組んだ脚のなかにすっぽり収まって目をつむった。まるでロボット掃除機が一仕事終えて充電器に戻ってくるかのようだと可笑しくなる。
起きるまでスマホで時間をつぶそうと思ったが手元になかった。捜しにいって息子を起こしてしまうのも可哀想なので、そのままの体勢を維持して、何気なく窓の外を見る。
画布一面に水色の絵の具を塗りたくったかのような晴天だった。
それ以外の色はなく、単調で味気ないが、童心が甦ってくる色合いだった。時も忘れて、ただ静かに、それを眺め、胸のなかいっぱいまで懐かしさが満ちたところで、息子の寝息が聞こえてきたので視線を下ろす。
生え揃ってきた柔らかい髪の毛、赤みを帯びたほお、どことなく妻に似ている眉の形、そのあいだにうっすらと寄せられたシワ。どこか不安げな寝顔を見ていると、何かを忘れているかのような気持ちなった。でもその何かはまったく思い出せなかった。
考えているうちに眠気を感じ、うつらうつらする。
呼吸とともに沈んでいくような
心地良い微睡みのなかで
あー、あー、と声が聞こえていた
何か思い出せそうだった
あー、あー、
おぼろげに浮かんできた輪郭を
形作ろうとすると
あー、あー、
煙のように消えてしまった
あーあー、
思い出せない感覚だけが残って
あーあー
それは自分も知らない自分のようで
ああー
気持ち悪くて
あー
思い出せないまま
あー、ぼくはこれを、
あ、ずっと抱えていくのだろうか、
あ、あー、あー、