(1) 追々々想放記
ただ一線の表裏に
ぼくは
ぼくに
たりうるか
流々と進むさまは
流れ星
たりうるか
いや、
ただ地をはう虫けらの
冴えないわずかな形跡だ
地平に立つきみには
ふたつを同時に見られない
きみが夜空を仰ぐとき
星は鮮やかな尾を引いて
きみの記憶に残るだろう
しかしそのとき
虫もまた地をはい
きみの足下に
うすく跡を残している
決してそれを
忘れるな
2019.03.16
出社と同時にクビになる。
「あー、はい」と無感情な返事をする。
職を失ったという実感がわかないまま退職の手続きは午前中にとんとん拍子で終わる。冗談みたいにすんなりといくものだから冗談なんじゃないかと思って「冗談ですか?」と訊いたが無視される。
自分のデスクを片づけていると急に名残り惜しくなる。少しでも長くこの職場に居座ろうとじっくり入念に行うが、一〇分ほど経過したところで隣席の上司が小さく舌打ちをし、「後任の人、もう来るから」と冷たく言い放つので、打って変わって目にも止まらぬ速さで荷物をまとめ、もごもごもごもご、お礼を述べて、ぎこちなく一礼、逃げるように会社をあとにする。
正午を前にした街路には早めに仕事を切り上げた会社員たちがちらほら目につく。仲の良い同僚と並び歩きながら冗談を言い交わす彼らは、午後の業務に備えてこれから高カロリーな昼食でも食べるのだろう。車道を渡った先にあるガストでミックスグリルか、その二件隣にあるトンカツの美味しい定食屋、いや、あのはしゃぎぶりはマクドナルド、あの無邪気な笑顔はダブルチーズバーガー、絶対にそうだ。
オレンジ色の包み紙を破り捨てる下品な様子が目に浮かぶ。酸味づいたケチャップと玉ねぎの甘い香りが濃密に絡み合いながら鼻を抜け、刺激された胃袋はぶるりと痙攣するだろう。二枚のビーフパティからはみ出した黄色いチーズのだらしなさ、満ちる満ちる口内に唾液、緩んだ唇からこぼれ出て、慌てて紙ナプキンをあてがうが、一緒に理性も拭い取り、あとに残るは食欲の忠実なしもべに成り果てたひとりの男、いやおれは、おれは一匹の飢えた獣だと言わんばかりに大口を開け、一心不乱にむしゃぶりつく。蒸気でしけったバンズの歯ざわりは軽い。腑抜けのようなその食感に覆いかぶさりながら舌上に染み出してきたのは濃厚な肉汁、口の端についたケチャップも拭わず、無我夢中で頬張っていき、あっという間に平らげる。
食べ終えてしまうとしばらく茫然とする。頭のなかの空白では今しがたの食体験が執拗に反芻されている。繰り返し繰り返し喰らい、かっ喰らい、そしてまたその記憶のなかでも喰らい続ける。リンゴを食べ進む虫のように少しずつ、少しずつ中心に向かって穿孔して、芯にたどり着いてもなお続け、果てしない沈黙のさらにその先から差し込んだまばゆい光に包まれ、ようやく意識を取り戻す。
店内の喧騒が一気に押し寄せる。体の底がカッと発熱する。正面の席にいる同僚に目の焦点を合わせ、はにかんだ笑みを浮かべながらトレイの端にあるマックシェイクを手に取る。冷えたシェイクをずりずりと吸い出して体の熱を冷ましながら、仕事のできない部下の愚痴、つまらない冗談ばかり言う上司、先月の健康診断の結果を言い合って小学生のようにはしゃぐ。周囲を気にしない騒ぎぶりだが、それもすべて午後の仕事に向けた一時的な弛緩に過ぎないので大目に見よう。午後の始業を迎えれば、彼らは嫌でも気を引きしめる。それまでは好きなようにさせて上げよう。この時間だけが一日のなかで唯一、子どもに戻れるのだから。
満面の笑みで歩いて来る彼らに道を譲り、出来るかぎり邪魔にならないよう端を歩く。低層中層と高さを変えるビルに合わせて凹凸する路面の影を越え、建物の切れ間から流れてくる日差しの川を飛び越える。信号の変わり際で横断歩道をすばやく駆け、ガストの軒下に到達する。ちょうど店内から出てきた主婦の一団に怪訝そうに見られる。とっさに植木の影へと飛び移り、そのまま隣接するオープンカフェのテラスに走り込んで、パラソルの下をこそこそと移動している最中、くぅんくぅん、腹が子犬のように鳴ったので帰宅する前に満たしておこうと思い、ファミリーマートに入店したまではいいものの、目まぐるしく陳列された商品に目移りし、何を買おうか決め切れない状態で店内をさ迷う。
数々の具を孕んだおにぎりを右から左へと眺め、隣の冷ケースにあるサンドウィッチも同様に確認していったがどれも食欲をそそらない。背面にあるパンコーナーに身体の向きを変え、焼きそばパン、ピザパン、ウインナーパン、その他諸々の惣菜を挟んだり内に秘めたりしているパンを順々に見ていくが、これだというものは一向に見つからない。
もう何も買わずに店を出ようと思ったところで、レジカウンターに立っているおばさんの店員と視線が合い、とっさに目を伏せる。その反応がまた不自然なように感じ、さらにこのまま何も買わずに出ていくのはどう考えたって不審で、もし仮に店を出れば彼女がすぐさま追い掛けてきて「ほら、盗ったもの出しなさい! ほらっ、ほらっ」と万引きを前提とした物言いで責め立ててくるに違いない。そのあまりにも苛烈な追及に覚えのない罪を認めてしまうかもしれないので、なかなか退店に踏み切れず、しかし商品を選ぶこともできないまま菓子コーナーの通路に移動して、商品棚にある品物を手にとっては、表面に印字された品名やキャッチコピー、裏面の成分表示と注意書きを漏れなく読んで元に戻し、その隣を手に取っては、と入念に品定めをしているふりをして時間の経過を無意味に待つ。
菓子コーナーの商品をすべて見終え、その達成感に包まれたのも束の間のこと、自分は何をしているのだというやる瀬なさ、あふれ出る嫌悪感がすぐに襲ってきて、いや、どうせ暇なんだから、そう、どうせ暇なんだから、と自己弁護を必死に繰り返すも腋から流れ出る汗はやけに冷たくあばらを垂れて、横腹ばかりをびっしょりと濡らしていく。
折り悪く通路に人が入ってきたので、びしょ濡れの側面を隠すようにしながら店の奥へと退避する。なるべくすばやく動くことで乾かそうとするが、焦れば焦るほど汗は量を増やし、腋が濡れてまた焦り、その悪循環に途方に暮れながら通過を抜ける、
抜けた、
すると、
アルコールの冷ケースが瞳に飛び込んでくる。
電灯の光を反射して輝くガラス張りの扉のその先、そのなか、そこにある銀色の列を見て、これだ! これに違いない! と思う。
思うが早いか小走りで向かい、ガラス扉を力一杯、目一杯開け、銀色の缶のひとつを奪い取るようにして引っつかむ。手のひらの感覚を失わせるほど良く冷えている。
「ひゅう!」
と思わず声が出る。
ようやく目当てのものを見つけられた喜びを噛みしめながらレジに赴き、おばさんの店員に会計をしてもらう。
そのまま手渡されそうになったのでビニール袋に入れてくださいと言ったが、「え?」と訊き返される。しばらく口ごもり、「ふくろ」小声で呟く。
そんなにも聞き取りにくい声だったろうか、いや、そんなことはない。声の通りが悪いことはちゃんと自覚しているから、下腹に力を込め、しっかり届くように声を張った。悪いのは仕事中だというのにお客さまの言葉に耳を傾けていないおばさん、あなただ、あなたが悪い。
会計を済ませ、小走りで店を出る。速度を上げれば上げるほどおばさんへの怒りが払われて爽快になっていく。この気勢を維持したまま駅に向かい、まるでゴールテープを切るかの如く晴々しく自動改札機を通り抜けよう。それはさぞかし気分が良いものだろうと心躍らせていたのだが、ポケットにしまってあるはずの定期券がなくて寸前で立ち止まる。
何度もポケットを探っても見つからない。鞄のなかを隅々まであさり、ひっくり返してバタバタと振っても見当たらない。どこで落としたのだろう、さっきのコンビニか、オープンカフェのテラスに走り込んだときか、まさか、職場に忘れてきたなんてことは、あるか、いや、あったとしても、果たしてどんな顔で取りに戻ればいい。いつも通り真顔が無難だろう。忘れものをしたことを無表情で淡々と伝え、ささっと見つけて去っていこう。それとも雄叫びを上げながら駆け込んでやろうか。気狂いじみた陽気さで駆け込んで、「アテンションプリーズ! アテンションプリーズ! このなかにオイラの忘れもんを知ってる方はおられませんかー!」と大声で触れ回ってのどかな昼休みをピリッとさせてやろうか。いや、それとも、あ、あー、いや待て、あれはもういらないのか。この駅を利用するのは今日で最後なのだから、わざわざ取りに行く必要などないのだ。そう、ないのだ。
券売機の前に立つと、はじめて利用した小学生のときのことを思い出す。たしか、仲の良かった友人たちと隣の市まで虫取りに行ったのだ。あのときは不慣れで手間取った。複雑な網目のような路線図、お金はどこに入れればいいのか相談し合い、やっと発見した縦長の穴に小銭を投入したが、整然と居並ぶボタンの一体どれを押せばいいのだと頭を抱えた。何とか買ったはいいものの電車に乗るまで問題は次々と現れる。改札機への切符の入れ方、人通りの多い駅構内、はぐれる友人、三番線のホームはどこだ、出発前にトイレに行きたいと騒ぎ出す。しかしその何もかも新鮮だった。見るものすべてが目新しく輝いており、これから進む先もこの光の延長線上にあると疑わなかった。あの頃に疑っていれば現状は何か変わっただろうか、そんなことを思いながら切符を買って改札を通り、電光掲示板を見上げる。
慌てて走ると向かい側から来ていた清掃員とぶつかりそうになり、身をひねって衝突を回避、軽く頭を下げてホームへの階段を一段飛ばしで降りていき、発車のベルが鳴り終わる間際で車両に乗り込む。
乗客はまばらだった。老夫婦がこちらを見て何やら小声を交わして笑い合っている。彼らからなるべく離れたシートに着き、そこでようやくひと息つく。
吹き出された息の隙間を埋めるかのように厖大な血液がまとめて頭に流れ込み、胸の内で鳴る鼓動に遅れてこめかみがぴくぴく跳ねる。頭が決壊したかのように思考が鈍り、視界に靄がかかる。夢を見ているかのような浮遊感、まるで映画を観ているかのようで、そこで巻き起こるすべてが自分と無関係のようで、何もかもどうでもいいかのようで、ものすごい速度で窓外を流れていく景色、姿かたちを判断できない速度で流れていく物事の、その色だけをどうにか瞳にとらえる。
電車が揺れて、ベルが鳴って、アナウンスが駅名を怒鳴っている。
太ももに異物感を覚える。ビニール袋に入れられた缶ビールが太ももに触れている。買ったことを思い出し、袋から取り出す。手に取ってみると、はじめて触ったときの感動も冷たさも一切残っていない。プルタブはもう開いており、缶のふちに口をつける。甘噛みするような炭酸の刺激、舌に残る苦い後味。不味いものは不味くて、何よりもいつの間にか増えていた乗客の視線が気まずくて、両手のひらで覆うようにして缶を隠して、トイレの大便器にざぶざぶ流しながら、どうしてこんな不味いものを買ってしまったのだろうかと疑問に思う。不味いことなんて分かっていたはずなのに。本当にばかみたいだ。ばかなのか。ばかなんだ。密閉された個室のなかで次々にわき出してくる後悔、そのすべてを不健康な小便色に変じた便器の水ともども流して消して見えなくした。透明な水が便器の底を満たしたが、身体のなかには濁った泡が残ったままで、どれほど身を乗り出してのぞき込んでも底は見えない。口のなかがまだ苦くて、それが無性に嫌で、口内を何度もすすぐ。
ホームは閑散としている。郵便局のバイクが走り抜けていく音と、それによって早起きしてしまった一匹のセミが目立つチャンスだと孤独に、でも晴れやかに鳴いているその声だけが耳につく。
自動販売機の横のベンチに座る。時刻を確認する。電車の到着まであと五分ほどある。
ホームの下、線路の周りに敷き詰められた大粒の砂利の数を数える。二〇個あたりでビールのことを思い出して後悔とともに数が分からなくなる。もう一度はじめから数えて結局空腹のままであることを思い出して数が分からなくなる。三度数えようとしたところで轟音、いくつもの車輪が、あり得ないほどの速度で目の前を通過していって数が分からなくなる。
その電車が通過してしばらく経ってから、自分が下車していたことに気づく。そんなことにも気づけないばかな人間はもう死んでしまったほうがいいのでは? と思う。走り抜けていく特急電車に細かく細かく切り刻んでもらい、跡形もなく切ってもらって、大気に散らばって、静かに夢でも見ていたかったが、次にやって来た電車は、緩やかに速度を落として停まり、扉が開いたので乗り込んで、自宅のアパートに到着する。
ん?
ごっそりと抜け落ちた過程に戸惑いはあったが、近道をしたようなものだと考えればむしろ得をしているのではないだろうか。そう思うことにして玄関戸を開けようと鍵を探すが、どこにも見当たらない。鞄の底から定期券は見つかったが、肝心の鍵は鞄にもポケットにも入っていない。
職場に忘れてきたのだろうか、今度は定期券と違って取りに戻らない訳にはいかない。ああ、やだな、またあの職場、もう辞めてしまったから元職場か、あそこに行って、へこへこ頭を下げ「あの、自宅の鍵を、へへ、忘れてしまったみたいで、へへへ」と、へらへら笑いながら元上司の冷たい視線をやり過ごし、「いいんですよ。大切なものですもんね」と優しく言ってくれるはずの後任者の好意に甘え、「あれぇ、ないなぁ」とすっとぼけた独り言を呟きながら、遠巻きにこちらを見ている元同僚の女たちが視界に入らないように腰を低く屈め、引き出しをあさり回ることになるのだろうか。そして、床に落ちていた鍵を先に元上司が見つけ、無言で手渡されるそれを受け取り、「よかったですね! 見つかって!」と言ってくれるはずの後任者の肩越しから届いてくる元上司の軽蔑まじりの視線と、遠くから聞こえてくる忍び笑いをどうにか無視して、元職場をあとにするのだろうか。
考えただけでも気が滅入ってくる。はぁ、とため息を吐いて何気なく扉のノブに触れてみると、そこに反発の手ごたえはなく、いとも簡単に開く。
あーまた閉め忘れてた。と、他人事のように思えたのは、施錠を忘れるのは当たり前になっているからで、最初にやらかしたときは、もう絶対に忘れないぞ、と気を引きしめたのだけど、その結び目は翌日になるとほどけていて、その次の日も、次の次の日も、次の次の次の日も忘れるので諦めた。
そもそも泥棒が入ったところで価値のあるようなものなんて取り立ててないし、盗られたことを知らなければ盗られたことにはならないから、鍵なんて閉めようが開けようが関係ないと開き直っている。それにしても最近はとにかく物忘れがひどくて、扉や窓の閉め忘れは当然、冷蔵庫の閉め忘れもよくあるし、ガスの元栓も時々ある。スマホなんてしょっちゅう家か職場に置き忘れていて、今も手元にないからどこかに忘れていると思う。その他にも、忘れたことを忘れていることが、きっといっぱいあって、会社をクビになったのも、おそらく、この物忘れが原因で、遅刻はたぶん一度もしなかったけど、タイムカードの押し忘れは頻繁にあって、頼まれていたコピー機のトナー交換とかの雑用や、重要な書類の提出日とかも忘れて、挙句の果てに取引先との約束をすっぽかして、そしてなんと驚くことに一日なにをしていたか覚えてないこともあって、日誌を書こうとした手が止まったときは、我ながら自身の記憶力のなさにゾッとするのだけど、あまりにも清々しい忘れっぷりに笑いが込み上げてきて、堪え切れずに笑っているとだいたい上司に気味悪がられた。たまには笑えよとかいってくる癖に。まぁもう関係ないのだからどうでもいいか。
扉を開けて家に入る。二十四のときに親元を離れてからずっと暮らしているワンルームのアパート。最寄り駅から徒歩一〇分、実家からもそう遠くない。でも両親には、ここに住んでいることは伝えていない。別に仲が悪いってことはないけど、知りたそうでもなかったから、なんとなくそうなっている。
狭い玄関で靴を脱ぎ、小さなキッチンの脇を通って居室に向かう。自分でも思うけど、あらゆる配置に統一性がない。あらゆる嗜好が混同していて、ありとあらゆる中途が戸惑いとともに散乱している、そんな室内。時間はありあまっているので、いっちょ掃除でもしようとそこら中に散乱したひとつひとつを手に取って形を整える。どれほどきれいに並べ立てても、一向に合わない記憶の辻褄のようにぴたりと揃わない。
買った覚えのない雑誌の山、うず高く積まれたティッシュ箱、空っぽのダンボール、虫かご、埃の膜がうすく張った電気ストーブ、錆びたカミソリと新聞の切り抜き。いつこれを、何を思ってこれらを手に入れたのか覚えていない。わずかに漂う記憶の欠片も、眉間の上に浮かんでいるだけで、思い出そうとして伸ばした手指をするすると抜け、とらえどころのないまま、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れながら、セロファンのような翅にいくつもの空を映して、透かして、飛んでいく、どこまでも、飛んでいくそれを、虫取り網で捕まえる。
苦労して捕らえたあれは、どうしたんだっけ? あーそっか。母親に捨てられたのだ。捨てられて、布団のなかで泣いているうちに寝入ってしまって、翌日は朝早くに起こされて、目も覚めずぼんやりとしたまま、あれよあれよと大きな建物に連れて行かれた。そこには同じように落ち着きのない子どもたちがいて、辺りをきょろきょろと見回すくせに、別の誰かと目が合うとさっと顔を伏せて、それが同じ保育園に通っている友達だったりすると、嬉しくなって笑って手を振って。その様子をいまだに寝ぼけて状況をのみ込めないまま眺めていると、目前の壇上に見知らぬおじさんが現れる。たしか名前はタケダトシロウ、声高らかに何かを喋っているその言葉の意味を理解する気もおきなくて、ただ彼の禿頭にふんわりと添えられた数少ない毛髪のわびしさが面白くて、はははははと声を上げて笑っていた。
こんな面白いものが毎日見られるのなら小学校とは何と楽しいものだろうか。
しかしそうはならず、三十六人の生徒の一人として教室に収められ、ヒステリックな声で自己紹介をしたヤマモトサキコの授業を受けなければならなかったのだ。
他のクラスメイトたちが黒板に向かいながら五十音を綴っているなか、最前列の席だというのに、恐竜のキャラクターをかたどった消しゴムを闘わせることに専念していた。青色のプテラノドンとオレンジ色のティラノサウルスを激闘させていると、それを見つけたヤマモトサキコが二匹の恐竜を手から奪い取り、黒板の横にあるゴミ箱の底に叩きつけるようにして捨てた。
唐突に崩された世界に唖然とするばかりの顔を、ヤマモトサキコは平手打ちで現実に連れ戻し、乱暴に鉛筆を握らせる。そこで鉛筆をへし折るような反抗的な態度でも取れたのなら、少しは違う人生を歩めただろうか。涙ぐみながら握りしめ、あいうえおを反復させることしかできなかったから、こんなふうになってしまったのか。
その放課後、捨てられた消しゴムを取り戻しにゴミ箱をのぞき込んだが、いくら探しても見つからなかった。ヤマモトサキコが回収したのだろうか、あるのは紙くずと丸まったティッシュ、いびつに折れた鉛筆とその破片。
今更のように悔しくなる。じんわりと涙のにじんだ目で教室を見渡す。夕暮れ、もうみんな帰ってしまってひとりきり。
教室の後ろに向かうにつれて列を乱していく机、背面の壁には五年生の習字で書いた「成長」「成長」「成長」の文字、碁盤の目のように区切られたロッカーのなかには教科書、鍵盤ハーモニカ、折り畳み傘、リコーダー、持ち帰り忘れた給食袋、ロッカーの上に本棚、六年間まったく読まなかった学級文庫がしまわれたそのなかに、分厚い一冊の、あれ、こんなもの、あっただろうか。
記憶にはないと訝りながら手に取って表紙をめくると、クラスメイトの笑顔の写真が並ぶ。ああ、これは卒業アルバムだ。
顔写真を見てかすんでいたクラスメイトたちの顔が形を取り戻していく。アキヒロ、マサタカ、テル、カオル、ソウタ。当時はあれほど仲良しだったのに、今では連絡先も消息すらも知らない。
そんな赤の他人になる子どもたちのなかに、いた。
幼い頃はこんな顔立ちをしていたのか。思わず顔に触れ、そこにあるかたい頬や歪んだ唇を指先でなぞり、アルバム上にいる少年と比べる。記憶ではもっと陰気で臆病な顔立ちをしているのに。それこそ記憶違いで、他者の目を通すとこういうふうに見えたのかも知れない。緩やかに目を細め、両頬を大きく持ち上げ、血色の良い唇の奥から白く健康的な歯をのぞかせて、溌溂とした笑みをたたえる少年だったのかもしれない。
それなら少しは救われるような気がして、ページをめくる手が軽くなる。忘れていたものを思い出し、記憶と異なるものを修正する。そこまで髪は薄くなかったタケダトシロウ、間違って名前を覚えていたヤマザキサキヨ。
クラスメイトや教員を紹介する顔写真が終わると、三十五人ぶんの将来の夢を書いた文集があとに続く。サッカー選手、歌手、アイドル、総理大臣、宇宙飛行士、ケーキ屋さん。みんなすごいな、これを叶えられた子はいるのかな、もしいるのなら自分のことではないけど、とても嬉しい。なんにもなりたくないと、ただそれだけで原稿用紙を埋めてしまったから。
文集のあとには、入学式や運動会といった行事や、修学旅行先の日光で撮った写真、各自で持ち寄った思い出のスナップ写真がページを埋める。六年分ともなるとすごい量で、同じ子でも次のページでは身長が伸びていたり、体格が変わっていたり、女の子は顔の輪郭が丸みを帯びたり。当時はまったく気にならなかったけど、こうして見ると年々変化していく様子がよく分かる。みんなちゃんと成長していたんだ。ああ、この写真は、友人たちと緑地にある廃屋に忍び込んだときに撮ったやつだ。これをアルバムに収録する写真に持ち寄ったら、その場所が立入禁止の廃屋であることがバレて大目玉を食らったのだ。あの廃屋は今でもあるのだろうか。鬱蒼と茂る植物、塗装の剥げた外壁、絡まる蔓、錆びたトタン板。その室内には、えっと、山積みの雑誌の山、買った覚えのないティッシュ箱、空っぽのダンボール、電気ストーブ、錆びたカミソリと新聞の切り抜き、じゃなくて、えっと、何だっけ? えーと、あ! あー、何だっけ? あともう少しで思い出せそうなのに、部屋にあるものが目について気が散って、なかなか思い出せない。それが自分じゃないものが自分にいるみたいで心地悪くて、思い出してすっきりしたかった。
物が散乱したところにいるからいけないのだと思って家を出る。アパートの正面を通る道は下校する小学生たちが大勢いて、こちらに気づくと通りやすいようにさっと道を開けてくれた。さっきまで小学校のアルバムを見ていた所為で親近感がわいてくる。思わず話しかけそうになったけど、そんなことをしたら友達から不審者に早変わりしてしまう。軽く頭を下げて子どもたちのなかを早足で抜けていく。
それにしても暑い。いま何月だ?
自販機で飲み物を買おうとしたが財布を家に忘れてきていた。肩を落としていると、通りの先から四、五人の小学生の集団がこちらを見ていた。その中心にいる子が、こちらを指さして何かを大声で叫び、周りの子が一斉に笑う。手を振ってきたので振り返す。笑顔、笑顔。また笑い声を上げ、通りの奥に歩いていった。
そのやり取りが、なんだかとても不思議だった。
ずっと忘れていたものを突然思い出したかのような、そしてそれを忘れてしまったかのような。
そんな気分にさせられて、先ほど彼らのいた場所まで向かった。別の道に行ったのか近くに彼らの姿はなかった。耳を澄ませるとランドセルの金具がぶつかる音、鈴のように笑う声がにぎやかに届いてきた。その音を耳で拾いながら角から顔をのぞかせた。
十数メートル先のところに彼らの姿を見つけた。道いっぱいまで広がって歩いていく彼らは、お互いにちょっかいを出し合っては、突発的な叫び声を上げてよく笑っていた。さっき指をさしてきた少年はその中心にいて、彼の周囲は常に別の少年が取り巻き、彼が何かを言うとわっと大きな笑い声が上がった。話題の中心には必ず彼がいて、はたからでもグループの中心人物であることがうかがい知れた。
その少年が立ち止り、通りの左側、人通りのない脇道を指差した。そこに何か興味を引くものでもあったのだろうか。彼らは集まって熱心に話し合い、やがてそちらへと進路を変えた。
徐々に狭くなっていく道幅に合わせ、少年たちは縦一列になって進んだ。前後の並びでは話しづらいらしく、はじめのうちは交わされていた会話も奥へいくほど減っていった。
ついに言葉が途切れてしまうと、それまで裏に潜んでいた他の音が現れた。ジャッジャッ、靴裏を擦りつける足音、ズッ、鼻をすする音、ヒッヒッ、しゃっくりのような癖のある呼吸、ジャグシャ、地面に張りついた新聞紙を踏みつける、カコンッ、塀沿いに並べられた植木鉢を蹴飛ばす、ハッハッ、呼吸、ハハハ、呼吸、ハァ、深呼吸して顔を上げると横断する電線から青空、カササ、風に吹かれたビニール袋がひとつ、ヒュゥ、飛んでいった。
肩が擦れるほど狭い小道から抜け出ると、景色は灰色の塀から緑に変わった。
そこは緑地のそばにある小さな休憩所。切り株を模した椅子が三つあるだけの質素な場所で、緑地との境に張られた侵入防止用のフェンスが景観に馴染む緑色で国境を守っていた。
少年たちはその休憩所までくると途端に落ち着きを失くした。道路に面して植えられた樹木に身を隠し、そこから通りへと顔をのぞかせて辺りを見回した。市松模様のシルバーカートを押す老婆が休憩所の出入口の近くにいたので通過するまで見送り、その姿が遠退いてから、また道路に人影を探した。
右を見て、左を見て、どこにも人の気配がないことを確かめた彼らは、忍者さながらの身のこなしで次々にフェンスを乗り越えた。
全員が緑地側に到達すると、胸に押し固めていた熱い息を丁寧に吐き出して互いの顔を見交わす。同じ罪を共有したことを確認するようにして頷き合い、緑のなかへと分け入っていく。
荒々しく群生する植物が視界を埋めつくす。そこに道らしき道はない。身長の何倍もある木々が頭上に被さり、無数に重なり合う木の葉を抜けた木洩れ日が地面に光のまだら模様を落とす。木陰は吹き抜ける風に合わせてうごめき、堆積した落葉のブヨブヨとした感触も相まって巨大な生き物の腹上を歩いているかのようだ。
音。小さなせせらぎの音。遠くに小川があるのかもしれない。生温かい露を滴らせた薮草が腕をかすめる。鳥肌が立つ。耳のそばを虫が通過する。身構える。行く手を横切る倒木を乗り越える。汗で背中にはりついたTシャツがはがれる。緩やかな妨害が不快感を着実に蓄積させる。咽喉を突き上げるため息を噛み砕くようにして細かく吐き出す。蒸し上がった空気をいくら吸っても息は一向に整わない。前髪の生え際にパチンコ玉ほどの汗が浮き出し、額を滑って眉毛に染み込む。それを拭った手の甲を見ると知らないうちに蚊に刺されている。見つけてしまうと痒くなり、爪を往復させる。それに気を取られ、ぬかるみに片足をはめてしまう。気づかず先に行ってしまうアキヒロたちを呼び止め、手を借りて抜け出したけど、靴のなかは泥まみれ、くそっと悪態をつくとマサタカが笑い、家から無断で持ち出して来たデジカメをこちらに向けシャッターを切った。おい撮るなよ。そう言いながらドロドロになった靴をしょうがなく履いた。歩きづらいし、ひんやりとして気持ち悪かった。すると今度は、マサタカが泥に足を取られ、みんなで大笑い。ばかにしたバチが当たったな、とマサタカを笑いながら助けてやる。わりぃわりぃと笑い返すマサタカとがっしり肩を組み、もう絶対にはまらないと慎重に先へ進んでいく。先? そうだ、この先に進むと廃屋がある。
昔は緑地の管理者用の建物として使われていたが、今は別の新しいものが建ち、不要となったそこは取り壊されることもなく忘れ去られ、数年の時を経て緑地に忍び込んだ誰かに見つかり、それ以降は肝試しスポットになっている。
平屋建てのこぢんまりとした外観。鉄門に撒きつけられた鎖は錆びつき、頑丈な錠前は年老いた番犬のように草陰に転がっている。建てつけの悪くなった磨りガラスの引戸を三人がかりでこじ開け、舞い上がる土ぼこりにむせ込みながら、恐る恐る室内をのぞき込む。
直線状に差し込んだ日が暗い内部を不気味に照らす。玄関の先に短い廊下があり、その奥に部屋が見えるが薄暗くて全貌は把握できない。目顔で示しあいながら誰が先頭で乗り込むか押しつけ合う。こういう場合は決まって言い出しっぺが最初に行くことになる。
玄関で靴を脱ごうか迷ったが、落ち葉や土で汚れた床を見てそのまま上がる。床板に足を乗せると、ギギ、と軋む音。さらにたわむ足元に怯みながらも、友人たちの手前引き返すのも情けないので、おっかなびっくり入っていく。今が昼間であることを疑ってしまうほど暗い。心細くなり、振り返って後ろに友人たちがついてきていることを確認する。みんな緊張からか押し黙っている。廊下の壁に手を添えてすり足で奥へ進み、陥没してできた穴をまたいで越える。
部屋に入る前で立ち止まり、天井の穴から漏れ入る日光を頼りにして部屋のなかに目を凝らす。
広さは四畳半ほど、床には灰色のカーペットが敷かれ、ところどころに黒い汚れが目につく。左手の壁際に剥き出しのベッドフレーム、そのすぐ近くに割れたブラウン管テレビが空っぽの本棚の上に乗っている。窓はあるが外側に茂る草木によって十分な明かりを採り込めていない。
全員が揃い、注意して足を運んで室内に入る。友人たちはここに来ようと決めたときの興奮ぶりを忘れてしまったみたいに一言も喋らない。沈黙、沈黙。窒息してしまうようなこの緊張をどうにかしたくて、怖がりなテルの背後にそっと回り込み、小さく震える肩を叩く。テルは驚いて飛び上がり「ケーッ!」と早朝のニワトリのような叫び声を上げる。それがあまりにもそっくりだったから、わき上がって来た笑い声をみんな一斉に吐き出す。あはは、あははは、あはははは。不自然な笑い声だったが、それでも笑い声には違いなく、他の友人が笑い自分も笑うことで、自分たちは日常となんら変わりない場所にいることを互いに教え合う。
あは、はあはは、はあはは、はは。笑いに笑ってようやく緊張が和らぐと、写真とろうぜ、そうマサタカが言い、みんな賛同の声を上げる。セルフタイマーに設定したカメラを窓枠に置き、横一列になって思い思いのポーズをとる。アキヒロのカッコつけたピース。苦笑いのテル。渾身の変顔をするマサタカを見て、また笑い出すカオル。
そして、それが起きるのは、シャッターが切れたのとほぼ同時のことだった。
パシャ、ドン。
室内のどこかから低い、しかしとても重いものが落下する音が響いた。
反響するその余韻に縛りつけられたかのように、撮影が終わっても誰も口を開こうとしない。誰かが物を落とした様子はない。床にも何も転がってない。視線を動かしていくと、ベッドとは反対側の壁、蔦草が血管のように絡みついたそこに扉があった。
「あそこ、あのなかに行ってみよう」
たしか、そう言った。
「おっ、いいぜ」
「ええ、やだよ」
「うんうん」
「なんだおまえらこわいのかよ。だっせぇな」
乗り気なアキヒロ、嫌がるカオルとテル、それを茶化すマサタカ、反応は様々だったが、さっきの音の原因を見つけて、それが他愛ないことだったと安心したい気持ちは同じに違いなかったから、用心深く歩を進める。
部屋へと近づくほど想像が膨らんで、密室のなかで息を潜めている何者かの姿を、いやでも想い描いてしまう。
目を閉じ、膝を抱え、死人のような息づかい。暗闇、密閉された暗闇にひと筋の光が伸びる。蝶番を軋ませながら開いていく古びた扉、光の筋が太くなり、扉の隙間から少年の強張った顔がのぞき込む。鼻腔が一瞬でカビ臭さに満たされて顔がゆがむ。ゆっくりと片足を踏み入れる。いちだんと蒸し暑い。パキッと小枝か何かを踏み折り、体に緊張がはしる。部屋の中程まで来たところで、そのこわばりが毒みたいに全身に回り、硬直して動けなくなる。
瞳だけは動かせる。
視界の端、部屋の隅で黒い影が、音もなく立ち上がり、声を漏らさず、へらへら笑い、近づいて、逃げられないように、両肩を掴んで、大きく息を吸い込んで、こう言う。
「きみは自分の将来が明るいものだと思っているよね。でもそれは違うよ。ぜんっぜん違う。きみの人生は今日から、いや、今この瞬間を境にして一変するんだよ。
はじまりは記憶の行き違い。今日、きみが見たものと、きみの友達が見たものがわずかに違っている。
緑地に行った?
そうとも行ったとも。
廃屋に入った?
もちろん入ったさ。
でもそこで、何か見た?
きみは自分こそが正しいと主張するけど、きみ以外の全員の意見は一致している。そうなると間違っているのはどっちか。
もちろんきみだよね。それを早々に認めて、友達とのあいだにできた亀裂をすぐに埋めて仲直りすればよかったんだけど、きみは自分を信じて疑わない。自分以外のすべてが間違っているとそう思った。
そんな強情なきみのもとから友達は少しずつ去って行く。体育で二人組をつくれない。休み時間になっても誰も席にやって来ない。うつむいて食べる給食。孤立したきみは、あれだけ楽しかった昼休みも教室に閉じこもり、校庭で楽しそうに遊んでいるかつての友人たちを眺めることになる。
自分が自分を信じなければ、あのなかで一緒に遊んでいるはずなのだ。そう思ったきみは、頑なに信じていた自分にはじめて疑念を抱く。自分の記憶とは一体どこまで信頼できるものなのだろうか。もしかしたら、自分が覚えているものすべてが間違っていて、彼らの方が正しいのではないだろうか?
真実の置き場所を求めるきみは、まるで水たまりに浮いた虫けらだよ。水面に映る空が本当の空だと思っていたけど、真実はずっと別のところにあることに気づいてしまったあわれな虫けらだ。
ようやくあやまちに気づいて水面から飛び立っても、濡れてしまった翅では飛び方もぎこちなく、惨めで、無様で、何よりも不確かだ。ずっと偽ものの空を飛んでいた虫けらは、もうどこを飛んでもそこが本来の空ではないような気がしてしまうから、」