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母の昇天  作者: 小島 剛
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遺族としての私

2017年の1月12日に母が死にました。

私は遺族です。

遺族心理と私が受けた「ケア」について書こうと思います。




 母は、自殺や交通事故のように突然死んだわけではありません。

しかし、死因は進行性すい臓ガンで早かったです。

何しろ2016年の10月1日には孫の運動会だというので元気に運動していたのですから。

それが、10月中頃に「腹が変だ」ということになり、11月上旬には「余命1~3か月」という告知を受けていました。



 そんなわけで私は遺族であります。

私の精神状況をたどっていく前に、私がそもそも、ストレス性疾患になりやすい障害をもっていることを話さねばなりません。

私は発達障害、アスペルガー症候群で、ストレスに過敏です。

だから頻繁にうつ病になるという状況がここ20年近く続いています。

10年以上前に博士号をとって、博士論文を出版もしたのですが、仕事もしていないのはそこに理由があります。

母が告知を受けた11月の時点でも私は軽症のうつ状態下にありました。

このうつ状態は2016年の3月ごろから続いているものでして、医者には通っているもののその医者もさじを投げているような感じでした。




 10月の中旬に「腹が変だ」と母が言った時点では父も私も「まあ大したことではあるまい」と思っていました。

当時母が通っていた町医者が「便が腹に詰まっているのだろう」と誤診していたからです。

しかしすい臓ガンでありますから、これでなおるわけがありません。

近所の中核病院に行ってCTをとって膵臓に大きな腫瘍があることが分かったのですが、当然病院は大騒ぎになり、母は即入院、父がすぐに呼ばれていきました。




 もちろん母が死病にかかっているということは、にわかには信じがたいことでした。

10月中旬まで健康体のように生きていたからです。

はじめ、その中核病院に入院していた母に私はあまり見舞いに行きませんでした。

うつ状態で運動機能に障害が起きており、それでいて抗うつ剤で食欲はあったものですから私は太っていて、それが嫌だった母は、私に「10kg減量するまで来るな」などと言っていたからです。

しかし、この中核病院を一度出てごく短期間ですが、一番近いところにある大学病院に検査入院するということになると、私もうつ状態をおして動かなければならなりませんでした。

病院まで父と下見に行き、母を病院まで連れていきます。

母は、町医者のまずい医療・検査で体は弱っていたのですが口は達者で、病院の駐車場がなかなか見つからないことを、父と私に向かってぐじぐじとののしっていました。

母はもう危機にあるのでのだから逆らえません。

いうことを聞くしかないので、ストレスになりました。




大学病院で、最先端の検査を受けられ、検査入院は3日ほどで終わりました。

その間毎日見舞いに行き、母の様子を見ていたのですが、私には、過飲水という2次障害があります。

水が飲みたくてしょうがないので、トイレに行ってばかりいるのです。

これは向精神薬を飲みすぎることによって生じる副作用だそうで、大学病院は家からちょっと離れています。

トイレを我慢するのが大変であったことを覚えています。




 大学病院では、「奥様の膵臓には腫瘍ができています。

まだガンとは言い切れませんが、抗ガン剤治療を始めることになると思います」と言われました。

父も私も思い切り「ガンじゃねーか!!」と思ったのですが、口には出しません。

すい臓ガンが治りにくいものだということは聞いていましたし、4cmの腫瘍と言ったらでかい。

「こりゃあ、治療は無理だろう、覚悟せねばならんな」と思っていました。

この時点では、私は事態を冷静に受け入れていたと思います。

ただ、父はあまり精神的余裕がありませんでした。

父は生来胃が弱く、そのせいで、いくら歯を磨いても口臭がします。

大学病院に行くころにはかなり父の口は臭かった。

「こりゃ、相当ストレスを感じているな」と私は思っていました。




 近所の中核病院に戻ると、ついに医者から告知がありました。

「余命3~6か月」というものです。

母はショックを受けていたのですが、口をついて出た言葉は「まだそんなにあるんですか」というものでした。

病室が大部屋で入院環境が悪かったからです。

しかも、これから抗ガン剤治療を始めるといいます。

副作用が心配でした。




 母が死を宣告されるというショッキングな事態に至っても私はそれを深く実感していなかったように思います。

ショックはショックだったのですが、「こういう時こそ冷静さが必要だ、取り乱してもしょうがない」という平静さがまだありました。

ただ、考えることといえば、母のことばかりになるので、気が滅入ります。

私は毎日3時間、近所のインターネットカフェに行き、家から離れて、母のことを考えることから逃避し、家にいるときは、パソコンのゲームをして、気を紛らわすということをしていました。




 私がこうして割と平静さを維持できたのには、父が、病院の手続きなどの作業を一手に引き受けてくれたという点が大きいのです。

その分父には重圧があったと思います。

母が告知を受けた時も地域の教会の牧師さんに母を慰め、励ましてもらっていたのですが、間髪入れずに牧師さんを父が呼ぼうとするので、私が、止めようとしても聞く耳を持ちません。

強迫的に自分の思い通りにしようとするのです。

要するに、やることはやれるのですが、精神的には父はかなり追い詰められていたのです。



 牧師さんの勧めもあって、近所の良いホスピスに母が移ってから、父は落ち着き始めたように思います。

それでも初めのほうはまだ口臭がひどかった。

そのころ、牧師さんの紹介してくれた葬儀屋と葬儀の相談などしていたのですが、その時も父は口臭かったのを覚えています。




逆に母がホスピスに入るころから、私のほうがだんだん大変になってきました。

時に触れて泣き出すようになったのもこのころからです。

ダイエットもかねて、家からホスピスまで毎朝歩いて通っていたのですが、国道べりの歩道をとぼとぼと歩いていきます。

すぐ横を大型トラックなどが冷淡な高速で過ぎ去って行きます。

いろいろ、母のことが思い出され、涙が出ました。

時に退行した病人のように「かあちゃーん!!」などと叫びながら歩くのです。

大体、障害でうつ病だらけでありましたから、仕事もここ数年していないし、結婚もない。

精神的にどうしても、親に依存しがちになります。

そこで、上った梯子を突然外されるように母が去っていくのです。

やはりショックなのです。




 不思議とうつは悪化していくことはなく、低空飛行が続くのですが、12月の中旬から、私は頻繁に吐き戻すようになりました。

後でわかったところではこれは逆流性食道炎だということでした。

この病気は治りづらく、この文章を手直ししている2018年9月の時点でも治っていません。




 12月下旬ぐらいになると、母も弱り始め、私も精神的にきつくなってきました。

インターネットカフェに行くのも、家にいると母を思い出してしまうのを避けるから。

ゲームをやるのも楽しむためというよりも、やめたとたんに母のことを思い出してしまうから。

楽しいというより、強迫的にやるのです。

こうしていわば私は母の死から精神的に逃避していました。

こうして初めて精神的平衡を何とかして保っていたのです。




 こうして母が昇天する1月12日が来ます。

前日からお医者さんからは、もう症状がひどいので、「医療用麻薬を増量します。

これからは眠っているような状態になると思います」と聞かされていました。

そのとき、私は「これからどのくらい母が生きるのかはわからないけど、キツくなるなあ」と思っていました。

だから、言い方は悪いのですが、12日に母が昇天したのは、まだしも良かったとも言えます。

ただこんこんと眠るだけの余命にもあまり意味があるようには思えません。




 高名なガン研究者の垣添忠男先生は、奥様をなくされたとき、精神が麻痺したようになり、何も考えられなくなったといいます。

死生学者のアルフォンス・デーケンは遺族の心理の変遷を、家族の死の時点から12の段階に分け、その第一段階を精神的麻痺状態と位置付けています。

しかし、私も父もこの点は違いました。

母が死んでも平静であり、むしろ、来るべき葬儀に向けて、やる気を出すといった風でありました。

12日に母が昇天、その日のうちに葬儀屋と最終調整、翌々日しか斎場が開いていないことが分かると、翌日の前夜式(通夜)、翌々日の葬儀に向けてあいさつなど考える、という弾丸日程で、本当に悲しむ暇はありませんでした。

私はさすがに葬儀が終わったとたんに、折からあったうつ状態が一時的に悪化し(「荷下ろしうつ」とおもわれます)、完全に脱力していました。

ところが父は、葬儀が終わるとすぐに、母の死後の手続きを始めていたのです。

父は母の死後は平静であり、諸手続きを淡々と進めていました。




 そのあと私は何をしていたかというと、これまた強迫的に読書をしていました。

とにかくずっとずっと、読み続けるのです。

暇になるというのが嫌でした。

故人を偲ぶなどというのはとんでもないことです。

母のことを考えるだけで押しつぶされそうになるので、活字に逃避するのです。

こういう生活をしばらく続けてくると落ち着いてきます。

だんだん落ち着いて、2月に入ってから、突然「あっ、来たな」という感じで、うつ病になりました。

折からうつ状態ではあったものの、そう悪くはなかったのが明確に悪くなったのです。

ホスピスのチャプレンさんに連絡してみると、「そうなんや、後から来るんよ」おっしゃいます。

私の場合典型的にそうでして、これを書いている、2017年4月22日の時点で緩解してきたので、自分の経験をまとめているのです。




 ここで重要なのは、私が、「ホスピスというものは、遺族ケア、グリーフケアというものをするのも仕事であって、なにがしかのケアを行うものだということ」を知っていたということ、すでに、精神疾患があったので、精神科に受診していたということです。




 だからホスピスの先生に、自分が精神に障害が持っていることを話し、母が死んだら自分は精神疾患になる可能性が高いことは話していました。

すると先生は、「そういうことは、医者よりも、あなたの場合、教会の牧師さんのほうが頼りになると思いますよ」というのみで、医療的なケアはないのです。




 行っていた精神科に、「母がガン告知を受けまして、強いストレスを感じることになると思います。

抗不安薬や、精神安定剤などの処方はしていただけませんでしょうか」というと、医者は、私を見下したように「それじゃあ、うつなんかになってる場合じゃないじゃない。

アンた、薬に頼りに頼りすぎ。

自分で何とかする。

悲しんでるところとか、お母さんに見せちゃだめだよ」というのみでこれも何の手当もなく、診察も10分ほどで終わってしまうのです。

ネットで「ガン 遺族ケア」などと検索すると、グリーフケアやら腫瘍精神科の設置などの記事が出ますが、現実に遺族が受ける医療ケアというのは、実際にはこのような有様なのです。

だから、私は母の死の前から「おれ、うつになるな」と思っていました。

だから、2月に入って、本当にうつになった時も、「予定通り。

なるべくしてなった」の感が強かったのです。




 母に対するケアには全く文句はありません。

というより、手厚すぎて大変ということさえありました。

というのも、毎日、医師が複数人診に来てくれ、看護師が挨拶に来ます、リハビリの時間を知らせに来ます、食事の上げ下げをしに来ます、ボランティアの人がコップの消毒をしますと言って来ます、チャプレンさんがお祈りに来ます、というわけで、来客過多なわけです。

だから、私はチャプレンさんに、「ちょっと来る人が多くて母がそのたびに挨拶してるんで大変なんですけど」と言っていたほどです。

要するに、手が行き届いた良いホスピスなのですが、「ちょっとなあ」ともおもうわけです。




 では、障害もちでストレス過敏な私はどうかというと、別に何もありません。

本当に何もないのでして、こちらから、「私障害者なんですけど」といっても、精神科に受診しても、医者は「自分で何とかしろ」なのです。




 私が今、「遺族ケアって大事なんじゃないか」というのは、こういう経験によります。

ガン死の遺族が一定数精神疾患になっているというのは、エビデンスもあって、もうわかっていることなのですが、医療というのは、遺族に対して妙に無力なのです。

遺族の満足度研究というのはもう既にあって、総じてホスピスに対する満足度が高いことはわかっています。

だが、それは、死を迎えた当人の医療に限っての話なのであって、遺族ケアに関しては、到底満足とは言えない状況にあると言わざるを得ないと思います。




 そんなわけで、母が行っていたホスピスでも、遺族会のようなものがこれからできるようですが、「ヘタレで、キズモノな私の経験」というものは、ぜひ話さねばならないと思っています。

私自身、これからホスピスについて研究してみたいと思っていますが、単に傍観者的にホスピスを観察するということは致しません。

積極的に観察対象のホスピスに介入して、悩む遺族の方がいたら、何らかの力になるようにやりたいと思っているのです。



 2018年元旦、母の昇天以来を思い出してぞ詠める

 涙無き 新天新地の 母思い イエスにぞ祈る 黙示成れよと

 エレミヤの 悲嘆満ちたる 哀歌読み 思い出したる ひととせの涙


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