昇天ーー聖書を読み、新しい天、新しい地へ
私は、京都大学にいたころ、当時法学研究科に奉職していた位田隆一先生の研究会に出席しながら、幹細胞の取り扱いに関する法律・行政指針・学界等指針などを研究していました。
ゲノム、生殖補助医療、クローン・キメラ・ハイブリッド、優生思想、遺伝、医事関連法など、ほかにもいろいろな分野を視野に入れていたのですが、死についてはなかなか手が出なかったのです。
フィールドが思いつきませんし、ホスピスを取材するにしても、高度の倫理基準を遵守する必要などがありそうですから、しり込みしていたのです。
そんなことがあっての母の死ですから、この機会を無駄にすまい、死にゆく人が何を考えるのかをよく見ておこう、などと考えておりました。
そういったわけで、母がホスピスに入ってから、亡くなる日まで、ほぼ毎日ホスピスに通っていたのです。
結論から言うと母の死までの道のりは、私の想像を裏切るものでした。
アメリカではじめてホスピスを始めたエリザベス・キュブラー・ロスは、人が死ぬまでに5つの過程(これについては問題があるようですがここでは割愛)否認→怒り→取引→抑圧→受容を踏むと言っています。
しかし、うちの母はこれに全く当てはまらない死への過程を踏んでいきました。
このことはホスピスのチャプレンさんにも話したのですが、「そうなんだよ、みんな違うんだ」とのこと。
それにしても母は異様で、告知を受けた後、二日ほどは沈鬱だったのですが、それ以降は落ち着いていて、否認も怒りも取引も抑圧もせずに死を受容した後、普段はやらないことを一生懸命やりだし、かえってガッツを見せるといった風でありました。
そもそも、精神的に強靭なところがあり、人を愛する精神が人一倍強いのではないかと思うのです。
先に受洗のことを書きましたが、洗礼を受けると、「証し文」というのを書かないといけません。
要するに自分が今までどう生きてきて、どのような過程を経てキリスト教信仰に目覚めていったのかを書いて提出するのです。
洗礼の時点で母にはまだ余力がありました。
ホスピス内で行われた洗礼式には、幾人かの教会の信徒の方が来てくれ、まことに感謝なのですが、その中の一人の方は「小島さんのお母さんは元気そうに見えた、どこが悪いんかなと思いましたよ」と言っていたほどです。
しかし、余命幾ばくも無い患者に作文させるわけにはいきませんから、私は、母に「おい、お母さん、洗礼の証し文を書いてくれだってさ、大体どう思ってるか言ってよ、足りなかったら、俺が適当に書いとくから」と言いました。
すると母は、自分の来歴から、キリストであるイエスのありがたい行い、永遠の命に魅力を感じていること、教会の牧師さんやチャプレンさんへの感謝などを述べました。
ここに全文を書くことは致しませんが、私が特に異様、と思ったのは、
「今は、洗礼を受け、肉体が朽ちたのち、イエス様にお会いできるということが、楽しみでなりません。
いつになったら、自分の家族や、知己と会えるのかはわかりませんが、天国に行っても決して楽をしよう、いい思いだけをしようとは思いません。
自分が天国に行っても、苦しんでいる人や悩んでいる人の声を聴いてあげて、天国からこういった人たちを励ましてあげたいと思います。
」
と言う一節なのです。
聖書のローマ人への手紙には使徒パウロが、ユダヤ人同胞が救われるためなら、自分は神から見放されたものとなってもかまわない、というような一節があるのですが、それを彷彿をさせるようなことを言うのです。
だいたい、キリスト教徒が洗礼を受けるのを喜びとしたり、洗礼を受けた人に「おめでとう」などと言ったりするのは、死後に永遠の安息が待っているからであって、私の母のように肉親や知己を愛するがゆえにそれはいらないというのは並大抵のことではない。
そもそも、キリスト教というのは信仰である以上に愛であります。
「コリント人への手紙第一 13章13節」に以下のようにあります。
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。
その中で一番すぐれているのは愛です」。
自分の来し方を考えますに、母は、いかに私たち家族や友人を愛してくれていたでしょうか。
私が中学生のころ結構遅くまで自転車で塾に通っていたのですが、どんなに寒い夜でも、家の前で待っていてくれ、笑顔とともに「おー、よく帰ってきた」と出迎えてくれたものです。
塾で教わったことなどはたいてい忘れているのですが、家のまえで私を出迎える母の姿は、今でもありありと思い浮かべることができるのです。
また、私は大学院生時代、研究員時代を通じて頻繁にうつ病にかかりました。
すると、ものすごい不安が襲ってきて、いてもたってもいられません。
精神疾患が高じているとなかなか正常な判断ができず、「おい、お母さん、すぐ来てくれすぐ」などと、京都から埼玉まで電話を掛けたりするのです。
今考えても「オレもたいがい無理を言ったなあ」と思われてならないのですが、大体数日すると、母が来てくれる。
いろいろ世話を焼いてくれるわけです。
私にとって論文を書くとか博士号をとるというのはそんなにたいしたことではないのです。
そんなことは、時間をかけたり、運次第で何とでもなります。
ですが病気はそうはいかない。
母は、私を助け、あんまり一生懸命助けるあまり母のほうが参ってしまって、一緒にうつ病になってしまったようなこともありました。
私自身、甘ったれた息子だなと思うのですが、この甘ったれた息子に母はなんと大きな愛を注いでくれたことでしょうか。
母は、教会に行ったことがありませんでしたし、聖書もあまり知らない、お祈りもできない、賛美歌も知りません。
しかし、すでに書きました通り、ヤブな町医者を赦したり、家族などに大いなる愛を示すという点で、まさに偉大なるキリスト者であったことを私は疑わないのであります。
草野心平の詩の一節にこのようなものがあります。
少しわかりやすくしますが「平凡であるということは偉大であり、偉大であるということは平凡である、とおれはおもう」。
母が亡くなったからと言って、記念館がたつわけでも、銅像ができるわけでもありません。
しかし、かような凡人が死の間際に見せた偉大さは、キリスト教を求道していく私にとって、究極的な目標であるといってもいいほどに、屹立し、そびえたつものなのです。
こんな風でありますから、ホスピスの病室でも、食欲があり、病院食に加え、大好きなかりんとうなどをボリボリと食べ、うちの庭で取れたミカンを持っていくとこれも食べたりして、ホスピスに入ってから、体重が増加するほどでありました。
「おいおい、ホスピスで太ってどうすんだよ」とふざけていうと、「だって動かないんだもん、しょうがないじゃん」などと言っておりました。
調子が良くなってきたので、主治医の先生も、「この調子だと、家に帰ってもいいですし、一時帰宅してもいい」と言ってくれました。
ただ、ずっとうちにいると、家事のできない父と私が何かにつけて世話を焼かなければいけなかったり、病状が急変したら怖いですので、一時帰宅ということにしました。
一時帰宅をし、家についてまず何をするかというと、食べる。
病院食はおいしいのですが、消化が良い薄味のものばかりになりますので、濃い味付けのものをたまに食べたくなります。
近所のスーパーで買ってきた天丼を食べたりして、昼寝。
翌日になると近所のホームセンターに行ったり、ショッピングモールにいきます。
何を買うのかといえば、花の苗や球根、食材などです。
帰ってくると、花や球根を植える。
母は花が好きであり、ガーデニングの名手でありました。
うちは厳冬期を除けば花がいつも咲いており、近所でもよく知られておりました。
ただ、花や球根を植える母を見て、私は複雑でもありました。
口には出さないのですが、「おい、お母さん、植えるのはいいけど、これが咲くのは春だ。
そこまで生きていられるかどうか……」。
しかし、それでも母は、せっせと花を植えているのです。
この文章を書いている2017年3月31日の今、花は咲いていますが、母はこの世にはいません。
新しい天・新しい地から眺めていることでしょう。
こういう風にやる気を出しているわけですが、2016年の12月の中頃になって、「母ちゃん、聖書を読む」と言い始めた時には、かなり驚きました。
ホスピスのチャプレンさんから『新改訳新約聖書・詩編付き』をもらっていたのですが、それだって分厚いですし、それまでも聖書の重要と思われる部分を私が読んで聞かせていたからです。
「おいおい、無理しないほうがいいんじゃないか、俺が読んでやるから、それでいいじゃないか」といったのですが聞きません。
結局、マタイによる福音書の最初のほうを読んだだけで、終わってしまいましたが、死に定められたるものが、最後の力を尽くして読んだ部分でありますから、まことに尊い読みであろうと思うのです。
このように書いてきましたが、さすがにだんだんと体力はよわっていきます。
それでも最後まで母は、何かをやろうとすることをやめようとはしませんでした。
今年の正月には「鍋をやってみんなで食べよう」と言い出し、おおむね母が鍋を作って家族で食べました。
母が昇天する約10日前です。
今もって、母の死というのが、よく私には理解できないでいるのです。
医師の腕が非常に良かったことに疑いはありません。
疼痛緩和にしても、医療用麻薬を使っておりましたが、多すぎますと眠りきりになってしまいますし、少なすぎれば効きません。
絶妙の丁度よさを調整していただいていたことと思います。
しかし、それだけで説明がつくのでしょうか?キリスト教徒としては「主のお恵みが……」などと言いたくなるのですが、もちろんこれもありこそすれ、これだけでも説明がつかないように思われます。
母は、苦痛に強い体質で、精神的にも強靭でありましたが、それにしても、自らの死を前にして、人間がこれほど平常の自己を保っていられる、ということは、大変うれしいことである反面、今まで私が読んできたもののどれでも解釈のできない過程でありました。
ホスピスのチャプレンさんに聞くと、「みんなバラバラだよ」とおっしゃる。
結局、死というのは、その在り方を類型化もできませんし、法則性を把握するということも非常にしづらい、科学の対象にしにくい、あるいはそれが不可能に近い事象であるように思われるのです。
ですからよくわかっていないと終末期医療もできない。
「死の臨床研究会」の研究発表プログラムなどを見てみますと、あまり部会などを作らず、非常にたくさんの事例報告を並べている感がありますが、これは、類型化・法則化に合わない死という事象を取り扱う工夫なのかもしれません。
結局母は今年に入って一週間ほどすると、急激に体調を悪化させ、嘔吐を繰り返すようになりました。
そのおう吐物も食事や胃液ではなく、私が見たことのない白い塊をはいているのです。
「あれは…?」と聞くと、お医者さんはもう胃の中には何もないから、胃壁のはがれたのとかそういうのではないかということでした。
不思議なほどその嘔吐物は強い臭気を放ち、病室はその臭気で一杯になりました。
1月7日ごろになりますと、日に日にその臭気が増していくのです。
最後、1月10日の見舞になると、母は2語しか発しませんでした。
「ああ、来たのか」、「じゃあね」。
この2語の間に2時間が経過していました。
私も無言、母も無言。
何もしゃべらないのです。
もっとも私にはわかっていました。
母が私の存在には気づいていることに。
単純に母は私の反対側を向いて横に寝ていたので、2時間の間ずっと私は母の背中だけを見て過ごしていました。
まことに妙なものです。
私は母と多くの言葉を交わして生きてきましたが、その時のやや猫背になった母の背中が、完全なる沈黙の中、雄弁に何かを訴えかけて来ていたように思われるのです。
至言は言を去る、という事でしょうか。
結局、1月11日の夕刻、父が聞いた言葉が母の最期の言葉となりました。
それは、
「お父さん、運転気を付けるんだよ」
というものでした。
最後まで自分のことを措いて、父を気遣い、母は昇天したのでした。




