#47 夢魔の世界・終章
(承前)
香織は、暗い空間の中にいた。
ここが現実なのか夢なのかは分からないが、周囲を見渡しても誰もいない。
周りに仲間が誰もいないという状況は、この快活な少女の心を曇らせるのに十分なものだった。
香織は不安を打ち消すように歩き始めた。しばらく歩くと、地面(といっても真っ暗で何も見えないが)の上に扉が現れた。
こんな何もない空間に扉?と疑問に思ったものの、彼女は引き寄せられるようにその扉の中に入った。
扉の上部には「音楽室」と書かれていた。
香織が扉を開けると、見知った部員たちが彼女の視界に飛び込んできた。瑠衣も、桃華も、そして哲太もいる。彼女たちの後ろを見ると、当たり前のように管楽器や打楽器が置かれていた。
いや、それだけではない。自分の体を見ると、あの奏南高校の制服に変わっている。
―――まさか、元の世界に戻ったとでも言うの?
事態を飲み込めずにいた香織に、女子部員たちが「久しぶり香織」「遅かったじゃない」などと声を掛けて来た。
「みんな、君を待ってたんだよ」
狐につままれたような表情をする香織を諭すように、瑠衣が言った。
「須賀・・・ここって、本当にあの音楽室なの?」
まだ、状況を飲み込めていないような顔で聞く香織に、哲太は不思議そうに答えた。
「当たり前だろ・・・?ほら、もうすぐ合奏練習が始まるぞ」
哲太にそう言われて周りを見てみると、確かに皆あちこちでチューニングをしたり譜面を広げたりしている。
「須賀・・・私どうしたらいいの?」
「本当、今日はヘンだぞお前。お前の楽器はあそこにあるだろ」
哲太の指差した方を見ると、机の上に毎日使っていたあの楽器が置かれていた。
その手触りも、少し鼻に付くオイルの匂いもまさしくあのトランペットのものだった。
「夢じゃ・・・ないんだよね?」
「は?何言ってんだお前?」
もしかしたら、あの世界は夢だったのだろうか。そんな事を考えながら、香織は椅子に着いた。
やがて、合奏練習前特有の緊張感の中、顧問の藤森広香が姿を現した。
香織は譜面を広げた。どうやら、今からやる曲はコンクールの自由曲らしかった。
聞いたことのない曲名だが、とにかく難しそうな曲だ。特に、中盤のトランペットの高音が続く部分は、今の自分の実力では無理なのではないかと思えるほどだった。
「それじゃあ、自由曲の〇〇〇〇、最初からいくぞ」
広香が声を掛けると、曲が始まった。曲は冒頭部分を過ぎ、やがて問題のトランペットの部分に差しかかった。
香織は意を決してトランペットを吹くと、見事にあの部分を吹きこなした。彼女の後ろで桃華が感嘆の目を向けた。
香織は思った。やっぱりこれが現実なわけはない。練習もしないであの部分があんなに綺麗に吹けるはずはないし、第一今年の自由曲はあんな曲ではなかったはず。
あれ?と香織は思った。そう言えば、今年の本当の自由曲ってどんなのだったっけ・・・?
まるで、この世界を心の底で望んでいたかのように現実の香織の記憶は少しずつ薄れて行っていたのだった。
「止まれ」
さらに曲が進んだ所で広香が演奏を止めた。
「須賀、そこのシンバルが遅い。もっとトランペットに合わせろ」
「ウス」
「じゃあ、3小節目からもう一回」
広香の言葉で、再び演奏が始まる。
先ほど問題になった個所を、哲太は事もなげにクリアしていった。
「そこ、シンバルはもっと音を押さえて」
「そこはフォルテで」
その後も広香は哲太に指示を飛ばすが、その度に、哲太は的確にそれに応えていく。
「じゃあ、15分休憩するぞ」
広香が言うと、部員たちが香織の前に集まってきた。
「さっきの高音、凄かったね」
「皆でコンクール行こうね」
香織は水を飲んで一息付いた哲太に言った。
「須賀も凄かったじゃない。いつの間にあんなに上達したの?」
「は?前からあれくらい出来てただろ」
香織は少し疑問を持ったが、特にそれ以上追及することはなかった。
いつの間にか難しい曲も吹きこなせるようになっている自分。
コンクールに向けて一丸となる部員たち。
そして、確実にコンクール出場のオーディションを勝ち取れるほど上手くなった哲太。
どれも、現実には叶えられないかもしれない物だ。
やはり―――これは夢なのかもしれない。でも、仮にそうだったとしてもいい。
この、皆で一丸となってコンクールに取り組む状況は彼女自身が心の中で夢描いていたものだった。
そして―――高校卒業とともに音楽を辞めようとしてる彼女にとって、それはあと一度しか味わえないはずのものだった。
彼女は、心の中で中学時代の記憶を思い出していた。そう。また、あの時のように一人になるのは―――
少しくらい、夢を見させてもらってもいいでしょ。
そう思う香織が、この状況に抗えるはずは無かった。
香織は休憩の時間も惜しむようにトランペットを持って練習を始めた。
「進藤先輩、ここの所少し聞きたいんですけど・・・」
同じパートの後輩の山村弘美の見せて来た楽譜を読むために香織が立ち上がると、彼女の机の中から何かが転げ落ちた。
―――机に座った時に入れた魔法の筒だった。
「何だ?この汚いリコーダー」
「え・・・っ?これの事覚えてないの?須賀」
何かの間違いだと香織は思った。苦しいこともたくさんあったけど、哲太との旅の思い出が詰まった大事なアイテムのはず。
そして何より、この魔法の筒には哲太と二人で演奏した思い出があるはず―――
「だから、何なんだよ、それ」
「これは・・・」
言おうとして、香織はハッと気付いた。
もしかして、この哲太は忘れたのではなく、最初から知らない・・・?
一度は蓋をした、ここは仮初めの世界なのではないかという疑問が再び湧き出す。しかし、もしそれを確かめたらこの幼馴染みといる時間は失われてしまうのかもしれない。それは、香織には恐ろしいことだった。
「あーあ、何か白けちまったな」
そう言って、哲太は音楽室を出て行った。さっきまで暗い空間だったはずの外には、いつの間にか元の学校のような廊下が広がっていた。
「皆の足並みを乱すようなことしちゃダメよ」
3年でトランペットのパートリーダーである桂川忍が香織に言った。
「・・・ご免なさい」
香織は席に着いた。
そう、これでいいんだよ。
みんながひとつになっておんがくにとりくむのは、きみがのぞんでいたことじゃないか。
そんな声が、香織の頭の中に聞こえてきた気がした。
香織は練習に打ち込んだ。しかし、それでもさっきの哲太の言葉が頭から離れなかった。それは、あの世界に飛ばされる前に練習していた時は無かった感覚だった。
いつの間にか、彼女の中に「コンクールで勝つ」だけではなく、「『哲太と』一緒に演奏する」という欲が生まれていた。それは、もしかしたら現実にはどちらか一つしか叶えられないのかもしれない。でも―――
香織は、あの一軒家の夜に、哲太と二人きりで魔法の筒と鉄の棒で演奏したことを思い出した。
そう、確かにあの時哲太は元の世界に戻って自分と音楽をする事を「約束する」と言った。
やはり、自分は哲太に会って、彼の本心を聞かなければならない。あの夜の思い出は、紛れもなく本物だったのだから―――
「あと5分したらまた合奏を再開するぞー」という広香の声が聞こえて来た。
「先生、まだ須賀君が帰ってこないです」と女子部員が彼女に告げた。
もし元の世界に戻ったら、コンクールで賞が取れないかもしれないよ?
コンクールで勝つより、たった一人との思い出を取るの?
それらの心の声を打ち消すように、香織は軽く頬を叩いた。
「すみません。私が須賀を探しに行ってきます」
香織は音楽室を出た。哲太はよく、部で何かあると音楽室のある階の渡り廊下に出ていた。今度もそこに行けば・・・
思ったとおり、哲太はそこにいた。
「須賀・・・さっきのリコーダーの事、本当に覚えてないの・・・?」
「しつけえな。そんな事より、今はコンクールの事考えようぜ」
その言葉で、香織は全てを悟った。
やっぱり、これを言うのは怖いな・・・と香織は思った。でも、自分はあの世界に戻らなければならない。なぜなら、それが哲太との「約束」だから。
「やっぱり、あんたは本物の須賀じゃないんだね・・・。私、戻るよ。あの、本物の須賀との思い出のある世界に」
そう言って振り返ろうとした香織を哲太は引き止めた。
「おい、待てよ進藤。俺と一緒にコンクールに行けなくてもいいのか?お前あんなに出たがってたじゃねえかよ」
これから自分の言う事がただのエゴに過ぎないことは香織にも分かっていた。それでも、彼女は言葉を止められなかった。
「馬鹿にしないで。コンクール?そんなの本物の須賀と一緒に行ってやるわよ。例えその気持ちが何回、何十回裏切られようと、私はあいつを引き戻してやるんだから。だから・・・もう消えてなくなれ。私の逃げ込んだ世界」
その言葉が引き金となったのか、周りの景色と哲太の体が少しずつ崩れ出して行った。
「悪かったよ。もう・・・汚いリコーダーなんて・・・言ったり・・・しねえ・・・。だから・・・」
最後のあがきとでも言うように、哲太・・・の偽物は香織に泣きながらすがってきた。
ああ良かった。やっぱり、こいつは偽物だと香織は思った。
だって、本物の哲太なら、自分に泣き顔を見せそうになる時はもっと不格好に、強がってみせるはず。
「下手クソ」
必死に哲太を演じる何かに冷たくそう言い放つと、香織は崩れつつある廊下を走って行った。
微かに「藤・・・、進藤・・・!」という声が聞こえて来た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「進藤・・・おい進藤・・・!」
俺は呼びかけ続けていた。
目が覚めると、俺たち六人はあの屋敷の地下室らしき場所に連れ込まれていた(多分・・・あの悪魔の餌にでもされるのだろう・・・)。
他の皆も目を覚ましていた。たった一人・・・進藤を除いては。
「どうしましょうエスランさん・・・進藤が目を覚まさないですよ」
「辛いだろうが・・・魔力で眠らされているのだから、どれだけ声を掛けても無駄だろう。・・・彼女の精神力に賭けるしかない」
「そんな・・・」
進藤は、まだ俺が見せられていたような夢の世界にいるのだろうか。精神力なんて、それこそ俺なんかよりずっと強いはずなのに・・・
「なあ・・・進藤、目を覚ませよ・・・」
たまらず俺は、進藤に掴みかかろうとした。
その時だった。
「・・・起きてるよ」
進藤は、ゆっくりと眼を開けながら言った。
「進藤・・・!・・・良がったあ・・・」
「何・・・須賀、もしかして泣いてるの?」
「バッ・・・別に泣いてなんか無えよ」
とは言ったが、実際は・・・進藤の言う通りで、喜びと安堵感で俺の目には少し涙がにじんでいた。しかし、そんな格好悪い所をこの幼馴染みに見られるのは勘弁願いたかった。
そんな俺を見て、進藤は少し安堵の表情を浮かべたようだった。
しかし、すぐに引き締まった表情に変わって言った。
「あんまり喜んでる場合じゃないか。ここからが本番だよね」
「ああ。悪魔に見付からないうちに、早くここを出ないとな」
こんな地下室に連れ込んで放置するくらいだから、あいつは俺たちの事を見くびっているはず。そこを突けば、きっとチャンスはあるはずだと思った。
とりあえず、エスランさんを先頭に地下室から上に出る階段を上る。重々しい石の扉(というよりも、蓋に近いが)を開けて、エスランさんが様子を見てみたが、近くに誰かの気配は感じられないようだ。
悪魔に気配を察知されないようにゆっくりと進んで行くが、特に誰かが来る様子は無い。やがて、廊下の端に窓を見付けた。俺たち六人、ギリギリ通れるような大きさだ。
俺は気になってエスランさんに聞いた。
「何か、妙にアッサリし過ぎじゃないですか?悪魔って、もっと俺たちの「気」を察知して追いかけてくるようなイメージがあったんですけど。まるで、誰かが俺たちを逃がしてくれてるみたいな・・・」
「まさか・・・。悪魔に対抗できるほどの力を持った人間などごく僅かだ。少なくとも、それがたまたまここに現れる可能性なんて万に一つもないさ」
「そうっスよねえ・・・」
そう言ったものの、心の引っかかりは取り切れなかった。
もしも、たまたまじゃなかったとしたら・・・?
いや、やっぱ考え過ぎか。
俺は自分に言い聞かせるようにして、窓を通り抜けていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
時は哲太たちが脱出する少し前に遡る・・・
悪魔グルデモットは、地下室に向けて歩みを進めていた。
彼は、他の者が心の底で求めている物を漠然とながら読みとることが出来た。
例えば、ガドナスなら「名声」、哲太なら「平穏」、椿なら「恋の成就」・・・のように。
後は、魔力で眠らせれば、それぞれの心が勝手にそれを最も満たす空間を作り出してくれる。そして、心が完全に夢に浸かりきった所で魂を抜き取る・・・
そのようにして、彼はずっと魂を喰らってきたのだった。
さて、そろそろ出来上がった頃か・・・
そう思いながら歩いていると、屋敷の扉を叩く音を感じとった。
やれやれ、自らノコノコここにやって来るとは馬鹿な奴め・・・。まあ、地下室の連中の方はそう慌てることもあるまい。
「この雨の日にここを訪れるとは。こんな森の中でどうなすったかね?」
老人の姿で扉を開けると、グルデモットは立っていた男の心を読み取ろうとした―――
見えない。その心の中は何も無いかのように真っ暗だった。
何も心の中で望んでないとでも言うのか。数百年もの時を生き、数え切れないほどの者の魂を糧としてきた彼も、このような心を見るのは初めてだった。
いや。よく見ると、この男の心の奥底にほんの小さな願望があった。それは、退屈な世界を壊す快楽のような、秩序の中に現れる心地よい混沌のような―――
見付けたぞ・・・
そう思ったところで、グルデモットは光の輪に体を封じられた。
それは、彼にとって懐かしく、そして忌々しい力だった。
「この魔術を使うとは・・・。貴様、一体何者だ?この力は、アゼ・・・」
老人を演じる事も忘れて問いかけるグルデモットを、光の輪はさらに締め上げた。
「手前なんぞに、名乗る名前は無えよ」
耳飾りをして、顎鬚を生やした男は答えた。
ガルナレアの町から哲太たちを追ってきた、鑑定屋アクルムだった。
「安心しな、殺しはしねえよ。手前みたいなカス悪魔でも、生きていれば少しは退屈凌ぎになるだろうからな。ただ、少しの間大人しくしてもらうぜ」
そのままアクルムは、哲太たちが逃げ出したのを見届けた。
―――よし。あの坊主どもは逃げ出せたようだな。そのまま、アイツの所までたどり着いてみせろ。その時こそ、オレが・・・
(つづく)
【おまけ】他の三人の見た夢・・・のさわり。
【瑠衣】
瑠衣は暗い空間を歩いていた。
この空間に入ってから、何か体に違和感を感じる。全体的に、力強さが増しているような感じだ。
手などは、缶―――アルミではなくスチールの―――さえも握り潰せそうなほど力が漲っているのを感じた。
右腕を触ってみると、さっきまでとは比べ物にならぬほど逞しく鍛えられていた。
しばらく歩くと、さっきまで屋敷の中にいたはずなのにどういう訳か高い木が現れた。
他の男の子たちと同じように木に登って遊ぶなど、自分には無縁なことだと思っていたが、今なら出来そうな気がする。
瑠衣は、その逞しい手足を使って木の頂点に登った。
木の上から下を見下ろすのはこんなにも気持ちのいいものだったのか―――そう瑠衣は思った。
【桃華】
桃華は、暗い中を歩いていた。
心細い。こんな時、あの人がいてくれたらと思う。
やがて、前方に人影を見つけた。それは、まさにその人だった。
「進藤先輩・・・」
「大丈夫だった?早坂さん。心細かったよね」
軽く頷いた桃華を、香織は包み込むように抱いた。
「普段は他の後輩もいるからあまり目をかけてあげられないけど、今日は二人きりだから何でも言っていいよ?」
「先輩・・・。私、先輩がいない所で一人でやって行けるか不安なんです。先輩だって、いつかは部をやめてしまうじゃないですか。それに・・・」
先輩には、須賀先輩がいるじゃないですか、と言おうとして、桃華は口ごもった。
「そうね。じゃあ、ずっと一緒にいてあげる。ここでは、いつも一緒だよ」
「本当ですか!?」
桃華の顔に、希望の色が差し込んだ。
【エスラン】
暗い闇の中で、エスランは魔物と戦っていた。
鍛え上げられた彼女の剣技を持ってしても、この魔物を倒すのは容易ではなかった。
勝てないかもしれない―――その思いが頭をよぎった時、何かが魔物の体を薙ぎ払った。
エスランが後ろを振り返ると、大剣を携えた戦士が立っていた。父とゴンドを除けば、自分より強い男など、彼女は数えるほどしか出会っていなかった。
「・・・すまない。感謝する」
エスランは戦士の顔を見た。堂々たる体躯でありながら、その目は限りなく優しい。
「・・・止せ。今まで数限りないほどの魔物を斃してきた私だ。人並みの恋などもう・・・」
「そんな悲しい事を言うな。君は、こんなにも美しいのだから・・・」
戦士はエスランの兜を取った。彼女の、凛々しくも美しい顔が露わになる。
そのまま、戦士はエスランの腰に手を回した。
「止せ・・・重いぞ!い、いや、私ではない、鎧がだ!」
「せめて、今だけでも、戦いを忘れてはくれないか・・・?」
「・・・・・・ッ」
生まれて初めての男に抱きかかえられる感覚に、彼女は顔を赤らめた。
※「あの一軒家の夜に」→39話「合宿に行こう!(青春編)」参照。
P.S.グルデモットの夢の世界は、「絶対無敵ライジンオー」最終回のジャークドリームとか「プラネット・ウィズ」ネビュラウェポンの幻影とか「笑ゥせぇるすまん」喪黒服造のアレとか(どれも田中公平氏だな…)、いろんな物が自分の中で混ざり合ってます。