原始仏教の思想原理 大乗仏教との異質性 冷静なる求道者としてのブッダ。 じつは、ブッダは「仏教」なんか始めていなかったのです。再訂大増補改訂版
☆はじめに
原始仏教とはブッダ在世当時に説かれた、本来の、、真説のブッダの教えのことです。
仏陀死後、やがて、、本来のブッダの教えは
悪く言えばゆがめられて
400年後には
大乗仏教なんていう明らかにブッダが言ってもいないような
全く異質な
異次元の
カルトな?異端派仏教に変質してしまうわけですが、、、
まあ大乗仏教くらいで驚いていてはいけませんけどね。
だってその後の「密教」なんて
もうなんというのか、
もしもブッダが生き返って密教を見たら
「なんじゃ。これ?」
って絶句したと思うくらい原始仏教とは異質かつ異次元ですよ。
とくに 「左道密教」「タントラ密教」なんて
ブッダも仰天するくらいこれが仏教か?
というくらい異質かつ違和感です。
明治になるまで日本人はこうした「原始仏教」についてほとんど知らなかったので
インドの原始仏教原典がヨーロッパ経由で入ってきて
「え?これがシャカ仏教?」って驚いたそうですね。
それまでは
親鸞や道元・日蓮・空海の「祖師仏教」がほんとの仏教だと思ってたんですからね。
そもそも
ブッダが言ったことだけが本当の仏教だとするならば、、
それとは異質な
、親鸞や道元・日蓮・空海の「祖師仏教」などは「非仏教」「新宗教」にすぎないからです。
というわけで明治の日本人僧侶の中には
「大乗仏教非仏論」を唱える人も現れたくらいです。
私はそこまでは言いませんが
「大乗仏教とは仏教の異端派」?です、、くらいは言っておきたいと思いますけどね。
キリスト教だってカトリックやプロテスタント以外の異端派がいっぱいありますよね。
そういう異端派だってキリスト教であることは間違いありませんよね。
わたしてきには、、大乗仏教もそんな仏教の異端派です、、、ということでしょうね?
そうです、大乗仏教だって仏教であることには間違いないのです。
というか、、、むしろ今となってみれば、、、、
大乗仏教こそが主流派なのです。
さて、、
以下では基本のブッダ本人が言ったと思われる
いわゆる「原始仏教」について梗概(概観)してみたいと思います。
原始仏教の思想について
その梗概を与えようとする試み(試論)です。
したがってここでは私は原始仏教に批判的態度は、なるべく取らないようにしたいと思ってはいますが、、実際どうなるかわかりませんが、、。。
なおブッダの言説の引用は
「スッタニパータ」「ダンマパダ」「阿含経」「法句経」などからになりますがいちいち出典は示しません。
というのも、、実は釈迦の肉声?は伝わっていません。
シャカは自分で語録や自伝を書いたりしていないからです。
だからこういう弟子が伝え聞いてまとめたいわゆる「原始仏教経典」で釈迦の言説を偲ぶしかないのです。
この辺はイエスの言ったことを弟子が書き留めてまとめた「福音書」と似てますよね?
イエス自身は自分で語録やら自伝を書いてはいないからです。
イエスにしても
釈迦にしても
だから実際のところ、、本当はどういうことをいってたのか?
、、は不明ですよね?
もしかしたら今に伝わる彼らの言説は弟子の曲解かもしれないのですから。
かんぐれば?釈迦やイエスの言っていたことはこんなことじゃなかったという可能性すらあるということです。
まあ、、
それはさておいて、、、、とりあえずはこうした原始仏教経典から釈迦の言説を偲ぶしかないというのも事実です、だってほかには釈迦の言行録はないのですから。
キリスト教が福音書によるしかないのと同様です。それしかないのですから。
☆原始仏教梗概概説その思想原理と立脚点
〇大前提
そもそも、、、
原始仏教とは?
実在した聖人であるブッダという覚者を崇めてその悟りの境地にまで到達したいという弟子たちが
集まって僧団を作り、仏陀死後は、生前のブッダ(釈迦)の言行を口伝で伝えて初期の教団を形成して始まったのです。つまり生前の釈迦は「私が仏教 (ブッディズム)の開祖だ。私が死んだら仏教を広めなさい」などとは一言も言ってないという事実ですね。、
弟子たちが釈迦を偲んで教団を作り、教え(サトリ)を口伝で伝えて僧団を作り
ここにいわゆる仏教なるものの原初形態が始まったのです。
この初期仏教教団の目指すところは?
あの偉大な覚者である、、聖人である、、人徳厚い、、人生の悟りに達した
ブッダのようになる、、ということが共通目標である。
それはまさに
聖人への真摯な個人的な求道の道であり、、
各個人の戒律と自省の修行の道なのである。
だからというか、原始仏教には変な?カルト性はありませんのでその点は
安心ですよね?
というわけで、、、、、以下縷々述べるように初期仏教には、、、、、
「衆生救済」だとか
「菩薩行」だとか
「悪人正機」だとか
「易行道」だとか
「久遠仏」エターナルブッダだとか
「一念三千」だとか
「華厳荘厳世界海」だとか
「阿弥陀浄土」だとか
「観音信仰」だとか
「大日如来」だとか
「一乗真実」だとか
「煩悩即菩提」だとか
「曼荼羅」だとか
「加持祈祷」だとか
「即身成仏」だとか
只管打坐だとか
専修念仏だとか、、、、
大悪即大善だとか、、、、
一天四海皆帰妙法だとか、、、、、
大白蓮華仏国土、、、、だとか、、、
そういう大乗仏教・密教のような神がかった?ことは一切、皆無なのです。
原始仏教とはあくまでも
「各個人の自己修行による自己救済」なのであり
各個人が戒律を守り、、修練して、、四聖諦を自得して
八正道を実践して、、、俗人を離れ、、俗塵を離れて、、僧院に籠り、、難解なアビダルマ哲学を研鑽して、、あの偉大な聖人であるブッダのような清らかな悟りに至る、、
そういうことが最終(最高)目標なのです。
原始仏教,、釈迦の教説には、そこにはいわゆる宗教特有の神がかりや
狂信性や、熱狂や、陶酔や、排斥性や、独善性やカルトや異端攻撃などは一切ありません。
あくまでも清澄なる修行による悟りと澄み切った涅槃寂静があるばかりなのです。
さあそれでは
もう少し
具体的に原始仏教の思想を読み解いてゆきましょう。
1、論争の超越
ブッダは、いう。
「私はこれこれを主張する、、ということがない。これこれを説くということはそれに執着することであり煩悩のもとであるから私は固執することなく批判することなく涅槃寂静を求める。」
つまり形而上学的な果てしのない「戯論」に時を費やしていてはニルバーナには至れない、、という見解である。
そして実践的態度としては
「極端を避けよ」というのがブッダの教えだった。
過激すぎる
偏りすぎる
それを避けて中道を行きなさい
それがブッダの教えだった。
ブッダの当時のインドの思想家たち(六師外道)は
無益な形而上学的な論争に明け暮れて無駄の時をつぶしていた、
こういう神学論争、、形而上学論争は
所詮いくら論争しても同意点や結論は出っこないのです。
なぜなら、お互いに決して譲らないからです。
ブッダはこういう無益な論争のための論争を停止して
ニルバーナを直ちに求めなさいという。
初期仏教はこういう
論争の超越
無立場の立場に立って
ひたすら涅槃を求めたのである。
ただこの仏教の立場というのは見方を変えれば
「私はすべての論争を超えた高い立場にいるんだよ」
ということでもあり、
「そんなあなた方のような雑論は相手にしないよ」、
という今風に言えば「高ビー目線」?でもあるわけです。
当時の論争家に論争を挑まれると
ブッダはこういって相手にしなかった
「文字というもので真理は表わせない。だからあなたが文字で論争しようとしても私は相手にしない」
ということで仏陀は当時の論壇で
新しい哲学説を打ち出したわけでもなく
新しい形而上学を構築したわけでもないのである。
つまりブッダはあくまでも「受動的」「受け身」なのです。
そしてその中心思想は
今の言葉でいえば「不可知論」です。
現代風に言えば
「語りえないことについては沈黙しなければならない」ビットゲンシュタイン
、、、、ということです。
こういうブッダの態度って、これって宗教ですかね?
原始仏教っていわゆる宗教じゃないですよね?
神の啓示もない
神との契約もない
神秘な託宣もない
神との交流・幻視もない
これって、、原始仏教って宗教じゃないでしょ?
なんというのか
しいて言えば
自己啓発?
ニューエイジ?
ニューソート?
メディテーション?
みたいなスピリチュアルな自己啓発?
でしょうか?
そうなのです
釈迦の言説にはいわゆる神がかった?宗教色のカケラもないのです。
2、ダルマ(法)にしたがって看見せよ
仏陀はその実践において
「法に依るべし」という。
法に依るならばバラモン教でもその他の宗教でもなんでも結構だ。
おいおい。それって?仏教はどこにいっちゃったんだよ、
ってハナシですよね。
そうなんです、仏陀は自分が新宗教を始めようなんてこれっぽっちも思ってなかったのです。
法とは
「真実の道のり」、、とでも言いましょうか。
もっと簡単に言うと「真実の法」です。
世の中の真実
人間の真実
そういうものに従って歩みなさい、
そうであれば当時のどんな宗教に属していても構わない。
これがブッダの主張です。
これって、ますますブッダが仏教という新宗教を始める気なんかまったくなかった証拠ですよね。
実は、、イエスもキリスト教なんか始めていません。キリスト教を始めたのはパウロです。
死んだイエスを神の子として称揚してパウロがキリスト教として布教して始めたのです。
そういう意味ではキリスト教の開祖はパウロなのです。
そして、ブッダもまた「仏教」なんか始めてなかったという事実なのです。
目指すのは究極の「サトリ」、、ニルバーナです。
そのためには
無立場
無主張
無論争
既成宗教でもOK
であり
あらゆる宗教を超えた高い立場にたっているという自負?
そしてまたあらゆる宗教に通有性を認める
こういうブッダの教えを実践するならば
別に、バラモン教でもジャイナ教でも構わない、、
それがブッダの教えなのです。
目的は悟りであり
苦の人生からの脱却だ、
それへの方便としての仏説である。
ブッダはあくまでも冷静である、
神がかったようなお告げだとか、啓示だとか、霊感だとか、幻視だとか
「私に、、いま、、何それの神様からのお告げが降りた、、、」
などというどっかの新興宗教の教祖様の様な神がかり的なことなど
そういうことは一切言ってません。
サトリへの道筋を仏陀は筏に例える。
「河を渡るために諸君は苦労して筏を作る、そして河を渡るだろう、
だが河を渡った後も諸君はずっとその筏を頭にのせてゆくだろうか?」
ブッダの教えはその筏のようなモノ、
悟ったなら捨て去るべきものでしかないのだ。
ブッダはこのように決して哲学体系や教義や神の啓示を説いたりせず
ましてやお告げなどのような神秘体験を説いたりはしていないのである。
のちの法華経のように
「観音様を信じれば刀で切られたって傷つかない」
「観音様を信じれば海に落ちても溺れない」
なんてある意味、カルトなことなど言わないのである。
説いているのは
正しい道のりによる人生苦の消滅、
つまりは
涅槃への道であり
正しいダルマ(法)だけなのである。
このように原始仏教とはいわゆる一般的な意味での「宗教」ではないのである。
なぜなら釈迦の教えには一切「神がかった」ところがないからである。
3、サトリへの道程
冷静なる観察者としてのブッダが見た人生の真実とは何だろう?
それは人生とは『苦』であるということだ、
「生ある限り苦がいつもある」
それがブッダが見た人生の真実だ。、
生老病死の四苦
さらには愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八苦もある。
正にこの世は四苦八苦だ。
ではこの苦の世界の原因は何だろうか?
ブッダはその原因は「執着」「欲望」であるという。
妄想と言い換えてもよいでしょう。
ありもしない妄想に突き動かされて欲望のとりことなる
それが苦の原因だというのだ。
その妄想のことを
仏教用語では「煩悩」という。
ではそのような煩悩はどこから起こるのか?
煩悩の原因は何なんだろうか?
ブッダは言う
煩悩の原因は自己(自身)である。
「我執」こそが苦の原因である
我執を捨てなさい。
ここから仏教の無我論や
無常説が導き出されるのです。
自己に執着してはいけない
自己を捨てなさいという、、。
ほんとに私のものなんてないんだよ
死ねば私のものも、もはや、私のもの、ではなくなるんだよ、
こういう無常観
そして本当に自分のモノなんてないのだという真実
『無我論」が唱えられるんですね。
このようにブッダの教えとは
世の中の
人生の
道理を明らかにするものだったのです。
その道理を仏教では
ダルマ(法)というのです。
正にブッダの教えとは
法を明らかにするものだったのです。
シャカはあくまでも冷静なのである。
そこにはいわゆる
「神への心酔」もなければ
「信仰の恩寵」もなければ
「神の降臨」もないのである
これが?つまりシャカの教えが果たして?いわゆる
宗教でしょうか??
私は釈迦の教えはいわゆる「宗教」ではないと思います。
4無我論
ブッダの主張の中心点をなすものに
「諸法無我」という思想がある。
過去現在未来に渡って我はないという思想である。
「ちょっと待って?
私はここにちゃんと存在してるけど、、」
というそこのあなた。
実はそのわれという存在は
縁によって仮に生起した、、まあ、、カゲロウみたいなものにすぎないのです。
五蘊が尽きれば「われ」も消え去るのです。
これを現代風に言うと
ホログラムみたいなものです
そういう虚仮なる我に執着するところから
煩悩や
我執や
四苦八苦が生じるのである
したがって無我を透徹することで人は
苦の根源を絶てるのである
5、輪廻転生を超えて
ブッダ在世当時の古代インドでは輪廻思想が強く信じられれていた。、
人は死ぬとまた再び生まれ変わりこれを永劫に繰り返すという
「輪廻思想」は古代インド人にとってまさに恐れの対象でしかなかった。
この苦しい人生を永劫に繰り返すのです。これが恐怖でなくてなんでしょうか。
しかも生前のカルマに応じて生まれかわる場所も違うという。
ブッダの教えはそもそも人生苦を超越してニルバーナに至る
現生において「覚者」を目指すものだったが
こういうインド伝来の輪廻思想に応じて
やがて悟った覚者は二度と生まれかわることがない境涯に達する、
という教えに集約してきます。
ですが、、
本来ブッダは死後については一切語っていません。
形而上学的論争には「沈黙」というブッダの側面がよく表れているのですね。
6、ニルバーナの世界
涅槃とは八正道を極めて覚者となった状態で
苦しみを超えているということです。
でも?覚者でも転べばケガして痛いだろうし
病気にもなるだろうし?
とお思いのそこのあなた、
確かに肉体的苦痛は悟っても消えませんが
心理的苦痛は感じないということです・
なぜなら苦しみとは
縁と
因と
によって
五蘊が寄り集まって起こると
覚者は悟っているから
心理的苦痛は感じないのである。
ニルバーナとはあくまでも現生での寂静であり
今では涅槃というと「死後」と思われるが
ブッダはあくまでも現生で生きてる状態での四苦八苦から解放された安楽をニルバーナだといってるのです。
解脱という言葉もありますが
これも涅槃とほぼ同様の意味だと解してよいでしょう。
これも解脱というと「死後」という風に現代では思われますが現生での
欲望の消滅状態を解脱というのです。
では?
死を仏陀はどうとらえていたのだろうか?
ブッダは死について、、死後の世界については一切語ってはいません。
原始仏教にはこうした覚者、、ニルバーナを悟った人が死後
どうなるか、、については一切語っていません。
ただし弟子の時代の原始仏教では
こんなことが語られています
「修行完成者は一切から自由で、何物にもとらわれない、
だから修行完成者が死後に存在するか
存在しないかなどということに囚われることはない」
7、慈悲と利他
原始仏教では「慈悲」について多く説いています。
慈悲とは生きとし生けるものへの無償の愛です。
この境涯は聖者の境地です。
この慈悲ですが
これは世間的な愛憎を超えたものです。
「聖者は愛しもしないし憎みもしない。あたかも蓮の葉の上の清らかな水のようである」
と原始仏典には言われています。
さらにこんな教えもあります。
「恨みに対して恨みで返せば恨みは尽きることがない、
恨みを捨てて慈悲で返してこそ恨みは止む」
さてところでこれらの慈悲と利他を
後の、大乗仏教の唱えるような「菩薩行」と同一視してはなりません。
原始仏教の慈悲と利他とはあくまでも聖者の道としての
覚者の道としての慈悲です。大所・高所からの愛他。慈悲です。
のちの、大乗仏教のような
「ミミズのような小さな生命を救うことができるなら僕なんかは死んだってかまわない」
というような究極の「捨身行」などではないからです。
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
以上のような思想が原始仏教、、つまりブッダが説いた教えとされています。
さてではこれらの教えは果たしていわゆる「宗教」と言えるのだろうか??
ここからは不肖わたくしの原始仏教への素朴な?疑問の展開となります。
☆原始仏教の教えとは実はいわゆる「宗教」ではないのかもしれない。
西暦前400年位に、インドに実在した仏陀、ゴータマのサトリとは、おしえとは、
あくまでも、世界を、人生を、宇宙を、人間を、冷静に客観的に分析し、
瞑想して
観想して
その結果得られた知識、、というか「知恵の原理」、ですよね。
仏陀はそれを、ダルマ、(法)と名付けていますが、
その宇宙法則、、というか
世界の実相というのか
世界の奥義というのか、
それを仏陀は、
諸行無常
諸法無我
縁覚転生
自灯明法灯明
と、言い表していますね。
この世のすべては実体は無いものであり、
それゆえ常に移り変わる、
そのよって生起するのは相互依存性であり、
物自体はあり得ない。
以上をサトレバ苦しみも悩みも消える。
実践方法も、四聖諦であり、八正道です。
そういうサトリ、、というか「知恵」ダルマにしたがって生きなさい。
それが「ブッダの教え」(あえて宗教とは言いません)だったのです。
そこには呪文も、祈祷も、念仏も、護摩も、霊符も、神がかりも、ありません、
正しく見なさい、
正しく考えなさい、
正しく行いなさい、
ダルマ(世界の理法)にしたがいなさい。
そこには、宗教的な陶酔も、神人合一の陶酔も皆無です。
あくまでも神がかった?ところなどは皆無です。
神からの「お告げ」もありません。
それが仏陀のサトリの本性です。
というかこれって?宗教というよりも、むしろ哲学でしょう?
或いは倫理学?でしょう?
どう見ても宗教ではないですよね?
仏陀はあくまでも冷静な分析者ではあっても、そこにはいわゆる
一般に宗教の特徴とされるような
宗教的な神のお告げとか神の啓示とか神との約束とか神の降臨とか
「お前を神の仲介者に任命しよう」とか
「なに神様が降りてきてお告げを給わった?」
神(絶対者)との融合とか陶酔感とか
そういう非合理性・神秘性は全くありません。
ブッダは
あくまでも合理的?であり
客観的であり
冷静です。
宗教的な陶酔感も皆無、
神の啓示も皆無。
あくまでも冷静で分析的、
はたしてこれが宗教と言えるのでしょうか?
大いに疑問ですよね。
というか仏陀の教えは、私はいわゆる、宗教ではないと思うのです。
禁欲を説き、
自省を説き
節制を説き
出家を説き
観想生活を説き
世界の理法 (ダルマ)を説き
これは、、なんというか、、禁欲出家?思想でしかないですよね?
世間を捨てて草庵にこもり、晴耕雨読、襤褸をまとい、
高雅に脱俗でいきる。
これではただの隠者、、隠遁生活の勧めでしかないでしょう?
これがはたして、、宗教と言えるのか?
ただの隠者倫理学、、清貧の勧め。
或いは隠遁生活のおすすめ?
こんなもの宗教じゃない、でしょ?
私は、かつて、大学の哲学科で、原始仏教を研鑽した時、痛烈にそう思いましたものね
仏教なんて、、ただ 隠者生活のおすすめ?を言ってるだけじゃないか、
世間を捨てなさい、
執着心を捨てなさい。
すべては無常であり、無我です。
かたよってはいけません。
中道を歩むのです。
清貧に
隠遁して
禁欲して、、、
そんなこと、俺は知りたいんじゃないよ、
俺が知りたいのは、、
なぜおれはこうしてここにかく存在するのか?
俺の人生ってホントはどうあるべきなのか?
宇宙と合一するにはどうしたらいいんだろ?
世界は、、人生は、、生命に満ち溢れている、生命ってなんだろ?
なぜ私は生かされてるんだろ?
だが、、原始仏教はそういう質問には全く答えませんね。
禁欲とか出家なんか望んでないよ。
生命の海に浮かぶこの生命体たる俺が生命賛歌を謳歌するにはどうしたらいいんだろ?
禁欲?
出家?
清貧?
そんなの虚妄でしかないじゃないか?
草木も
昆虫も
動物たちも
みんな与えられたつかの間の生命を最大限に謳歌してるじゃないか。
それが人生だろ?それが生命だろ?
そのためにおれたちは生まれてきたんだろ?
それなのに、、
ブッダは
禁欲しなさい。
出家しなさい。
こだわってはいけません。
中道です。
ふざけるなよ。
こだわるからこそ人生って面白いんだろ?
極端な、行けるところまで行くから人生って意味があるんだろ?
それをもう最初っから敗北主義者みたいに
あきらめなさい。
節制です。
この世は四苦八苦です
八正道です。
4聖諦です。
もうこれは宗教じゃないでしょ。
原始仏教は宗教じゃない。
ただの、「敗北主義の聖典」?でしかない。
あるいは隠者のお勧め、隠遁生活万歳でしかない。
私はもう原始仏教にはほとほと幻滅し、
失望しはてたのです。
そういうわけで私はその後、大乗仏教に出会うまでは
仏教(原始仏教)って、
生命よりも死を目指すもの、
活動よりも、無活動。
動よりも静。
何も求めない。
敗北主義
隠遁万歳??
禁欲万歳??
という失望感しかなかったのです。
これではいったい何のためにわざわざ生命を授かってこの世に生まれてきたのでしょうか?
生きるよりも死んだほうが良い?って教えでしょ?
それって生命に対する侮辱でしょう。
生き生きと生き切ることこそ生命の実相でしょう。
生命の光を燃やして、輝かせることこそが
生命の本質でしょう。
それを、何もするな
執着するな。
節制だ。
無為
無行動
禁欲
隠遁
なにかに夢中になりそれをするから面白いんでしょう。人生って、、。
こだわって執着するからこそ人生って面白いんですよね。
恋することだってそれは悪ですか?
肉体を嫌悪して
欲望をすべて捨てて
笑うこともなく
怒ることもなく
恋することもなく
泰然自若??
無為
無行動
生きてんだか
死んでるんだか
分からないような無活動・隠遁・禁欲、、、
それが釈迦の説く、「正しい人生」なんですか??
恋も
笑いも
こだわりも
活動も
生命讃歌も
それらを全部するなって
これじゃあ、仏陀ははっきり言って大ばか者ですよね?
こんなの宗教じゃない。
ただの後ろ向きの敗北主義でしかない。
人生からただ逃げてるだけじゃないか。
かくして、、不肖、わたくしは
原始仏教にはほとほと、失望しはてたのでした。
そんなある日、のことです。
私は大乗仏教 マハーヤーナ・ブッディズム に出会ったのです。
そして大乗仏教こそほんものの宗教だと思いましたね。
そこにはあの、原始仏教の
敗北主義も
禁欲主義も
何もするな、無活動も、笑うな 怒るな、恋もダメ。
そういう敗北主義?がすべて払拭されていたからです。
たとえば、、大乗仏教(法華経)では
堅苦しいサトリはどうでもいいから、菩薩行を優先しなさい。
宇宙は壮大なドラマであり、交響曲です。あなたはその宇宙とつながっているのです。
生命は讃えるためにあるのです。だから生命賛歌するのです。
あなたの中に、法身佛、久遠佛、エターナル・ブッダがあるのです。
それに目覚めなさい、そうすればあなたは宇宙原理と同化できるのです。
あなたは無限の超神力を宿しているのです。ただ、あなたはそんなものはないと
思い込んでいる。
今すぐ宇宙エネルギーとコンタクトしてその無限のそのパワーを充電しなさい。
あなたは無現宇宙エネルギーの化身なのですから。
(法華経より)
そして密教ではもっと大胆に生命讃歌が荘厳されるのです
あなたは絶対者です。あなたが大日如来(宇宙神)スペース・ゴッドそのものなのです。
あなたとは宇宙の広大な生命の海に漂う、一層の船なのです。
宇宙を荘厳しなさい
生命を荘厳するのです。
あなたのその肉体そのものが実は大日如来そのものなのです。
肉体を嫌悪するなんてありえないのです
あなたはにくたいそのままで即身成仏できるのです
その肉体のままで、涅槃に至れるのです。
そうです、肉体は清浄なのです。肉体を散華しなさい、。
そして
大いに怒りなさい
大いに笑いなさい
大いに絢爛豪華な衣装に身を包むのです。
宇宙は絢爛な光り輝く曼荼羅世界そのものです。
そこであなたという(個我)ミクロコスモスは宇宙生命( マクロコスモス)とコンタクトして大生命讃歌するのです。
死と、絶望と、あきらめと、苦悩と、禁欲と、引きこもりの、シャカ仏教から
生命と、笑いと、希望と、大歓喜の、密教の曼荼羅世界へ
(以上密教の神髄)
注意、、ここでなぜ密教が(秘密仏教)シークレット・ブッディズム、とされるのか?を解説しておきたい、
先ほどの密教の教えをそこらのバカ者に教えるとどうなるか?
「へ―、そうなんだ、何してもOKなのね。じゃあ俺はやりたい放題やるよ」
、、ってなるので秘密とされたのです。
密教の生命讃歌とはあくまでも、三昧耶乗智、金剛乗智 (ヴァジラヤーナ)に基づく上での
生命讃歌です、
密教について詳しくは私の論考試論「極私的仏教考察」を参照くださいませ、
金剛乗 ヴァジラヤーナとは → https://ncode.syosetu.com/n5143cs/
宇宙無辺の佛光智無き、、肉体讃歌は、、それはただの「獣欲主義」ビーストにすぎないからです。
ここでも大いなる「般若の知恵」が基準だということなのです。
さてかくして、、、、
私はここで初めて「本当の仏教」に出会ったのです。
もし原始仏教だけで、、その後大乗仏教が巻き起こらなかったら、
仏教ってこれほどまでに中国や日本にまでも伝播しなかったでしょうね?
大乗仏教といういわば
コペルニクス的な「大宗教改革」がおこったからこそ、
それは宗教的にまるでさなぎが脱皮して美しいがアゲハチョウに進化したように、
原始仏教の、息が詰まるようなガチガチの堅苦しいモラル、禁欲、隠遁的な倫理学から飛躍して
本当の「大生命の宗教」にまで進化しえた。
それが大乗仏教の本質なのでしょう。
誤解を恐れずに断言すれば
原始仏教とは、ただの狭隘な禁欲のための禁欲「道徳律」にすぎませんね。
これはいわゆる宗教ではないのです。
釈迦の教えた、、「隠者道徳」、、でしかないのです。
大乗仏教こそが
真の宗教であり、
もしその後、
大乗仏教が巻き起こらなかったら
仏教はインドで2世紀には、終わってた?と断言できます。
当時インドでは、バラモン教から進化したヒンドウー教がめきめき
全インドにいきわたり信者を獲得して一大勢力になっていたのです。
堅苦しいだけの原始仏教は当時、全く不人気で、落ち目で
衰退しかかっていたのですね。
それを大乗仏教が大改革して、生命の仏教に大転換した。
というのが大乗仏教の本質でしょう。
こうしてやっと?仏教も、宗教らしくなって?
世界に伝播する機縁ができたということでしょうね。
原始仏教のままだったら?
既に、文明国である中国人の
誰も見向きもしませんよね。
そんな原始仏教のような?教えとして
孔子や、孟子、、、老荘思想の教えがすでに古代中国にはあったのですからね。
自尊心の強い中国人(中華思想)は
似たような原始仏教の隠者道徳律など見向きもしなかったでしょうから。
大乗の宇宙的な発想というものは中国になかったからこそ中国人は魅了されたのです?
法華経の神の子である生命賛歌、壮大な宇宙ドラマ。
華厳経の永遠の宇宙的のサトリ三千大世界
達磨大師の伝えた「郭然無聖」のゼン・ブッディズム
などなど、、、
そういう中国になかったものがあったからこそ自国の文化の絶対の自信がある中国人も、
魅了されたのでしょう?
こうして大乗仏教は文明国、中国にまで広まった。
それに対して、、原始仏教は、当時は非文明国だった
セイロンや東南アジアにしか広まらなかった。
原始仏教の素朴性や狭隘性、ガチガチの隠者道徳律も、こうした非文明国には
素晴らしい?モノに見えたんでしょうね。
さて大乗仏教によって飛躍的に宗教性を向上させたものの、
その後インドでは、ヒンドウー教の大発展には太刀打ちできず、
仏教は、結局は衰退する一方でした。
やはりインド人にとってはヒンドウー教はぴったりというか
民族性に適合してたのです。
仏教はそんな印度人にとっては大乗仏教であってすら、
違和感?というかそぐわない?というか
あまり魅力がなかったのでしょうね?
で、最後の仏教の、大変身が、密教です。
密教とは仏教のインド教化です。
仏教にインドの民間信仰やらを大胆に取り入れて
印度人の民衆に受けるように?
したのです。まあそれはそれで最初は良かった?のですが、、
次第に、軒を貸して母屋を取られる?というか
仏教がヒンドウー教に飲み込まれてしまう結果になってしまったのでした。
特に最末期の、 左道密教では、もう、仏教とは言えませんね。
ここまでも、きてしまうと、もう仏教とは言えないような奇怪な?
邪宗?としか言えないようなものに堕落したとしか言えませんよね?
最末期の密教では
性宗教、シャクティー、タントラ教そのものでしかありませんね。
明らかに行き過ぎです。というか仏教の堕落?です。
かくして、末期仏教(タントラ密教)はやがてヒンドウー教に取り込まれて
埋没して
仏教はインドでは12世紀に
インドからは完全に絶滅してしまうのです。
12世紀からはインドはほぼ、ヒンドウー教一色に塗り替えられるのです。
(しばしばイスラム教徒が進入しているのでイスラム教も若干浸透していますが)
まあこれも自業自得?ってことでしょうか。
余りにも、他宗におもねってはダメですよね?
そんなことしたら、仏教の本質を消失して
自滅するのは火を見るよりもあきららかですからね。
いくら当時仏教がインドで不人気で落ち目でも
シャクティやら
タントラやらの衣装をまとわせてはいけません。
性宗教やらの取り込みでは
それではもはや仏教とは言えないからです。
仏教がインドで復活するのは、なんと、、
1850年代に当時のセイロンからの再布教まで待たねばならないのです。
セイロンですから当然、小乗仏教です。
その後近代インド仏教の祖といわれるアンベードガルの提唱した仏教も、当然小乗仏教です。
今現在、インドの仏教徒はおおよそ800万人といわれています。
インド全人口12億人の800万人です。
今現在、インドでは圧倒的にヒンドウ教です。
今現在、仏教(釈迦)とはインドでどういう位置づけだと思いますか?
シャカはヴィシュヌ神の化身でありヒンドウ教の一神だという位置づけです。
「ヒンドゥー教における釈迦はときにヴィシュヌのアヴァターラ(化身)と見られる。プラーナ文献『バーガヴァタ・プラーナ』では彼は25のうち24番目のアヴァターラであり、カルキ(最後の化身)の到来が予告されている。 」カッコ内はウイキペデャヤより
☆結論として
以上縷々述べてきたように
原始仏教とは
隠者的な人生論?みたいな
隠遁生活処世訓?のようなものですね?
そこには一切神秘的な宗教気分なんてありません。
一般に宗教の本質である
神との信仰のアンビバランス
啓示とか神秘体験
信じる者は救われる、、みたいな信仰性
あなたは神の子です
などというようなお告げとか
神の降臨とか
そういう要素のかけらもない
それが原始仏教の本性なのです。
原始仏教とは
1、瞑想による現実の分析
2、現実の苦の本性の透徹
3、苦からの現実人生においての脱却(涅槃)
4、八正道の実践
5、出家主義 脱俗主義
6、覚者のエリート性 エリート主義
7、窮境としての人生の受動性
8、死後の救いの否定 死後は不可知である。
9、現世主義、仏陀は死後について語らなかった。
10、禁欲主義 戒律厳守
などの特徴で言い表されるものであろう。
原始仏教とはごく一部の理解力のあるような選ばれた知的エリートのための現実の苦からの
脱俗でありその生活態度は個人主義・出家主義である。
簡単に言うと「自分だけ悟って僧院で静かに、涅槃で暮らせばいいや」という世界である。
ある種「ストア派」の道徳哲学とも通有性があるような、、
つまり原始仏教って、、宗教じゃあないんですよ。
そもそも、
宗教とは、、帰依であり、祈りであり、恩寵であり、救済です。
そういう要素は一切原始仏教にはないからです。
大乗仏教のような
「みんな幸福にならないなら私の幸福もない」
「愚者や悪人も救われるべきである」
「みんなが救われるためなら僕の体なんてトラに食われても構わない」
「もし小さな命が私が死ぬことで救われるなら私は死んだってかまわない」
「衆生の中にわれもまた一緒になって歩もう」
なんていう「菩薩行思想」は全くないのである。
あくまでも自分の悟りだけが追求されているのが原始仏教である。
これを大乗仏教側から見れば「菩薩」の世界の一段下の段階の「独覚」の世界である。
原始仏教とは
これは知的エリート主義であり選ばれたごく一部の知力・体力のある人しか救われない、
という選民主義の世界のなのである・、
「選民による自己救済」
それが原始仏教なのです。
ところで、
一体素朴な疑問として
原始仏教ってそもそも「宗教」でしょうか?
ごく一部の頭の良い人しか救えない。
そして選ばれた一部のエリートだけが救われるだけでいいんでしょうか?
そういうエリートが山にこもって出家してひたすらアビダルマ難解哲学を研鑽して涅槃を求める
それって民衆救済の宗教じゃないでしょ
おろかな民衆は救えないのでしょうか?
愚か者は地獄に落ちるしかないのでしょうか??
こういう疑問を持ったのは私だけでなくて
2世紀ころのインドにもいたようで、
そういう人々が
こういう原始仏教に物足りなさを感じて
原始仏教の改革運動をおこします。
それが「大乗仏教」なのです。
大乗仏教についてはこちらをどうぞ
https://ncode.syosetu.com/n3191ct/
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