蒼迷宮(そうめいきゅう)
蒼迷宮
一九一〇年(明治四十三年)夏。
木賊色の匂いが鼻を突く。
古びた看板は確かに湯ヶ島へ抜けると書いてあったが、曲がりくねった細い道を上り続けるばかり。
旅人は幾度も引き返そうと迷いながら、足は知らず前へ前へ進んで行く。
川の瀬音が聞こえ、杉の木立をしなしなと湿った川風がぬって、首筋を撫でる。
ヒヨドリが何か言いたげに、一声鳴いて飛び立った。
豊かに育ったシダの葉は、艶やかに水気を帯びて風に揺れ、げっ歯類の微かな営みの音が、腐り切らない枯葉を滑るように移動して行く。
(野鼠か、栗鼠か)
旅人は少し笑って、両側から突き上げる並木の梢に、細長い大蛇と化した空を見上げた。
旅人は、雪村長光という画家であった。
手に素描帳と絵筆と固形絵具を持ち、リュックには野宿も厭わぬ品々が詰まっていた。米と干し肉、干し魚、乾燥果物。風月堂のビスケットとハッカ飴。僅かな着替えにロウソクとテント、石鹸。括られた毛布、左右に吊り下げられたカンテラと水筒が歩く度にぶれた。
空色の蛇がはや山吹色に変わりつつある。
先を急がねばなるまい。
半時も歩いた頃、蛇の彼方に幾条もの白煙が茜色と混じり合っていた。
遠雷が鳴っている。
(村?)
長光の顔に安堵の色が浮かび、足はいよいよ早まった。
急ぎ足で辿り着いた村の入り口に、石の鳥居がのっそり立つ。その先に簡素な橋があり、川がこちらとあちらを隔てている。
橋を渡ってほどなく、足は止まった。
家々のかまどから立ち上る煙はあるのに、人の気配がまったくしない。空気の壁が長光の体を押しやるように重いのだ。
歩道を中央に、右に水田、左に畑を挟んだ民家がぼそぼそ点在する。
川は、水田の下方にとうとうと水を湛え、流れていた。
低空の山を崩した傾斜に、竹林が風になびいている。
民家の庭先に掲げられた『高張提灯』には『庚申待』と書いてあった。
(江戸時代か)
≪人間は生まれた時、三匹の虫を体の中に飼っていると言う。大きさは二寸ほどで、胎児のような姿で描かれていたりするが、想像上の生き物だ。上尸は頭の中で首から上の病を引き起こし、中尸は腹の中で臓器の病を、下尸は足にいて腰から下の病を引き起こす。虫は六〇日ごとに巡る『庚申』の深夜、寝ている間に体を抜け出し、宿り主の悪行を天帝に報告するのである。天帝は悪行の内容いかんで命を奪うか、寿命を削ってしまう。では善人なら良いかというと、虫共は人間の体にいるのが苦しく、宿り主が早く死ぬよう偽りの悪行を申し立てるのである。人をねたみ、仕事を怠け、嘘ばかりつき、弱い者に暴言を吐く、などとでたらめを言うのだ。嘘で命を削られては堪らぬと、古の人々は虫を天帝の元へ行かせぬため『庚申の夜は眠らず居住まいを正して祈りを捧げる』ことにした。これを七回繰り返せば体の虫は抹殺されるのである。仙人を目指した中国道教起源の伝承だが、時は流れて平安時代になり、庚申は『一晩中起きて遊んでいる日』となり、やがて中期には廃れて行った≫
所詮人間は怠けるようにできている。元はどうあれ、一晩中飲み食いをして遊ぶ祭りだ。
長光は苦笑した。
時代遅れの提灯ばかり生々(なまなま)しい。
江戸時代はおとぎ話ほど遠い昔である。明治五年の新橋横浜間の鉄道が、二十八年には神戸まで敷かれ、街は洋風の建物で溢れている。変わり身の早さに、江戸と明治がポンと出刃で切られたようだ。
(時に忘れられたか)
日輪は山の向こうへ落ち、今夜はどうしてもこの村に滞在せねばなるまいが、戸を叩く気にはなれなかった。
人家を過ぎると、丸太を三本渡した粗末な橋があり、赴くままに渡った。
途端に人界は切れ、緑に飲み込まれる。鬱蒼とした山林を登ると突然、開墾を放棄したなだらかな平地が開けた。
「わあぁぁ」
眼前に広がる幽玄の景色に、感嘆の声を上げた。夕暮れの薄闇に、どこまでも続く蛍草の群生。花の一つ一つは虫を誘う袋状に俯き、取り込まれれば二度と現世に戻れぬ気がする。湿った空気に花の表面が濡れて冷ややかだ。細かな濃紫の斑点は見る者に毒を連想させ、夏の彩に陰鬱の美を与える。
(なんて、素晴らしい)
長光はその場にリュックを置き、素描帳を開いた。
手はひたすら紙の上を動き続けた。
青大将がのっそりらせんを描いて杉を登って行く。全長三尺あまり(約一メートル)。杉の頂きに、今宵のねぐらがあるのか。
素早く素描の中に描き入れて頭を上げた時、『彼』は木の傘に没していた。
(おやすみ、青大将)
長光は笑いを浮かべ、画帳を閉じた。
眼下の木立の合間から川面がはっきり見える。
(人に見咎められることはなかろう)
野営をここに決める。周囲の木を利用しながら張ったテントは、これでなかなか住み心地が良い。余計な石を取り除き、毛布を地面に敷いてカンテラを吊るす。
(疲れた)
横たわると、地面から伸びた魔の手に引きずり込まれ、意識は遠のいた。
『君には画力がある。君に描きたい画題が見つかれば道は開けるさ』
雪彦が言った。彼は既に大きな賞を受賞して、順風満帆の画家人生を歩んでいる。
今も美術学校時代と変わらぬ親交を深めているが、高い評価を受ける雪彦と自分の何が違うのか分からない。
『僕は狡いんだ。本当に描きたい物は別にあるが、優等生ぶってしまう。期待を裏切るとか、周囲をがっかりさせることが、怖い』
雪彦は、今回も入選止まりで落胆する長光に言った。
『入選だって立派な功績だ。君の絵を高く評価している人達を、僕の味方につけたいくらいだ。あるいは、時代が君に嵌っていないということだ』
長光の作品が評価されないのは、国の体制に異論を唱える文芸家の受けが良いからではないか、と雪彦は分析していた。
『君の、アカデミックな日本画と違う自由奔放な画題、構図、色使いは、保守的な人々を恐れさせる。逆に自由主義の人々は賞賛する』
雪彦は文芸人の名を二・三名挙げたが、覚えていない。
『僕は主義によって描いているんではない』
長光はぶっきら棒に答えた。
『わかっている』
他の国々の要人に日本の文化を見せつけ、高く売りたい。それには、骨の髄まで日本的な美しい絵画や工芸品が必要なのだ、と雪彦は言った。
『当面は仕方ない。この国には金と国際的な地位がないからね』
時代におもねるか、己が道を行くか。
意に沿わぬ絵など描いても空しいだけだ。妥協して国の求めに応じれば飯は食えようが、至高の中で描いてこそ、絵も画家も本物ではないのか。
長光の絵画への思いは、若くして名声を得た雪彦を羨みながら曲げられない。
『至高の中に、居たいだけだ』
長光は声を絞って雪彦に言った。
『君は不器用だな。そこがいい』
雪彦は頷いていた。
バシャンッ!という水音にはっと目を覚ます。
(夢か)
迷い込んだ蛍がテントの中で、右往左往しながら光の軌道を作っている。
首筋が汗ばみ、夢の印象が臓器に少し刺さっている。
長光はテントを這い出た。
(何だ)
人か大魚か。
むらむら好奇心が頭をもたげる。蛍草の花々は発光して、水音に忍び寄る画家の足元を照らした。
一歩踏み出す度、蛍が舞い上がる。
美しいが、これでは忍び足も無駄と言うものだ。
きらり。
月明かりにそれは光った。夜風に煽られてきらりきらり光る。
近寄ってみれば、枝にかけられた女物の小袖。白地に青を斜めにぼかし、紫陽花を手描きで染め上げている。光っていたのは、紫陽花の輪郭を縁取る金糸であった。
(上等な着物だ。するとあの水音は)
腰を屈め、じっと着物の主に目を凝らす。
紛れもなく人影が、夜の川を泳いでいた。
(は。まるで羽衣伝説だ。こんな時間にたった一人で泳ぐなんて)
女と疑わなかった画家は、月明かりに浮かんだ人影にうっ、と息を飲んだ。
少年、だった。
彼は水から上がると、裸のまま暫く月光を浴びている。
柔らかな肉と細い骨格。夜目にも光が白々(しらじら)と人型に滲む。
翼を畳んだ如くゆるりとした肩甲骨の陰影、長い膝下はすいっと大地を踏んでいる。
蛍が慕って彼の周りを回る。
少年は天に両腕を上げて背伸びをすると、濡れた体を拭いもせず裸身に小袖をまとい、歩き出した。夜を、滑るように。
長光は少年の後を連けた。
月光を浴びた伸びやかな肢体。まとわりつく蛍。女物のきらびやかな小袖。
少年は足取りも軽く登って行く。
後をつける画家に、気付く気配もない。
少年はひたひたと歩き、夜目にも神社とわかる社の中へすうぅっと消えた。
(まさか)
見てはならないものを見てしまったのではないか。
(馬鹿な。彼は人間だ)
暫く思案した後、彼は好奇心に負けて社の縁に登り、そっと中を覗いた。
細い月明かりに、さきほどの小袖が見える。
少年は居た。
彼は飯を頬張り、汁をすすっていた。
長光の足元で縁の床がぎしっと鳴った。
(しまった)
心臓が縮む。
少年は食べるのを止め、じっとこちらを窺っている。長光は息を殺した。
のっそり足元を超えるもの。
ね〜うぅ鳴きながら、細く開いた社の扉を潜る。
少年の太ももに前足を掛け、彼の食べているご馳走をな〜おぉとねだった。
ね〜うの頭が上下に動くと、彼はその場へごろりとなった。
少年は空腹を満たし、馴染の猫の訪問で気分が良いのか、寝ころびながら猫の首を撫でている。
(えっ)
長光は耳を疑った。
♪Es war als hatt' der Himmel Die Erde still gekusst, Dass sie im Blutenschimmer
Von ihm nur traumen musst. Die Luft ging durch die Felder Die Ahren wogten sacht, Es rauschten leis die Walder, So sternklar war die Nacht. Und meine Seele spannte
Weit ihre Flugel aus, Flog durch die stillen Lande, Als floge sie nach Haus.〜
突然、ドイツ語の歌が流れてきたのだ。
(歌っている、あの少年が)
辺境の地で、女物の小袖を着た少年が、ドイツ語の歌を歌う。
ほの暗い社で、少年のぞろりと白い足が自らの歌に拍子を取って揺れる。
(間違いない、これはシューマンの『月夜』だ)
なまめく月の照射。
露を抱いた蛍草の、ほの白いにじみ。
川の清しい音が、太陽の燃え粕を払う。
湿った夜気に、声はじんっと染みた。
「あんた誰」
長光は、少年の前に座っていた。
我に返って狼狽する。
「わ、私の名は長光。雪村長光、画家だ」
呂律が回らない。
少年は恐れていなかった。
「待って、明かりを点けるから」
と、行燈の火を入れに立つ。
衣桁に、一番気に入っているらしい着物が掛けられ、部屋の隅に小袖が畳んで積み重なっていた。経机、紅の箱、何冊かの草紙本と欠けた茶碗が灯した光にさらされた。
「お客さん、どっから来たの。村の連中とは様子が違うね」
そう言って戻った少年を見て、あっと絶句した。
(青い!)
いくら室内が薄暗くとも、行燈の前に座った少年の目を見誤るわけがない。
(青い…。サファイアのように、青い瞳だ!)
全身総毛立つ。
「あたしと遊ぶんなら、そこへ食べ物を置いてよ。布団を敷くからさ」
少年は素早く藁布団を敷き、枕を並べ、着物の帯を解き始める。
「待って、待ってくれ。そうじゃない、そうじゃないんだ」
「なんだ、連中に聞いて来たんじゃないの。だったら帰ってよ。丁度体を洗ったばかりさ」
「分かった、帰る。そうだ、名前。君の名前を教えてくれ。名前を」
君、と呼ばれて少年の眼がざわめく。
「あたし?ジルってんだよ。あ、ちょーこーさん煙草無い?」
ジルは、花車で徒っぽい仕草をして、画家の差し出したスイランサを一本抜いた。
「ジル、さっき君の歌っていた歌は、シューマンの『月夜』だね?」
言われた通り帰りかけた長光は、戸口に立って振り向き、青い瞳を見つめて問うた。
ふーっと、煙草の煙が水平にたなびく。
「…そうね。あんたが言うなら」
長光はふらふら社を出た。
青。
ただ青。
彼はその夜、おぉぉぉ、と言う声や、ほぉいほぉいぃ、と言う奇妙な声を聞いた。
ジルの歌声も、うつつと混じって夢の中で、青く青く繰り返していた。
冷たい川の流れに両手を浸し、長光は顔を洗った。
(夢ではなかったのか、夕べのあれは)
朝は人を冷静にさせる。それぞれの上にどんな夜が展開しても、朝は素知らぬ顔で『もう一人の自分』になりすます。
青の印象が網膜に蘇ると、長光の胸が鋭く抉られた。
(あの辺りだ、彼が着物を掛けていた枝は)
顔を拭いながら、夕べの光景を辿った。
女のように細かった項、無造作に切り散らした髪、波打つ仕草、青い瞳。
現身は空腹を満たすために川面に釣り竿を垂らしているが、ジルの顔ばかりちらつく。
普段の旅であれば、即席のかまどと火の準備に暇がない。
長光は河原に腰をおろし、無防備に川面を見つめていた。
魚がかかって糸を引いても、彼はびくとも動かなかった。
「引いてる」
声を掛ける者があった。
長光が振り向くと、日に焼けた旅姿の男が立って見ている。
「引いてる」
「え、ああ」
男の催促で魔法の解けた長光は、慌てて竿を手繰り寄せた。針の先に美しい鮎が食いついている。
男は背負っていた大きな黒い箱を置いた。
「わしは薬売りですじゃ。あんたどっから来なさりました、若い人」
「東京です」
長光が警戒なく答えると、合点がいったように男は頷いた。
「煙草も売ってますで、どうじゃね」
「え、ええ」
こんな所で商売を始める気なのかと半ば呆れ、黒い箱の中が見たくて堪らぬ好奇心も湧いた。男が箱の細工を軽く捻ると、成程漢方の匂いが鼻を突き、様々な薬が顔を覗かせた。確かに煙草も並んでいる。
天狗煙草、ヒーロー、太閤、武徳、ゴールド・コイン、カメオ、スイランサ…。
「じゃ、スイランサを」
長光の注文に男はにっと笑い、スイランサを十ばかり差し出した。
木の影に二人の様子を窺い、聞き耳を立てている者があった。手に鎌を持ち、血走った眼の奥には、獣のような警戒心がちらちら瞬いていた。侵入者には人気の無い村も、侵入された方はいち早く嗅ぎ付ける。
長光と薬売りは、凡庸な村の空気をひとえに掻き乱しているとは、思っていない。
「貴方良くこの村で商いをするんですか」
「年に一、二度、この辺りにお邪魔をしますで。たまなので、それなりに」
早速火を点け、朝の空気と共に味わう。
「と言うことは、この村に詳しい部外者なのですね」
「ほれ、また糸が」
男は糸の方が気になる様子。
今度も鮎である。
「この村に商いに入ってかれこれ二十年になりますじゃ。いろんなことをわしの耳は聞きよりました、ははっ」
村にとって、彼のような薬売りがどれほど頼りになるか。外の話もこのような商人から面白おかしく聞くのだ。
「一体、あそこの神社は何ですか?子供が一人住んでいました。貴方ご存知ですか」
さり気なく視線を少年の神社に泳がせ、薬売りの男を促した。知っていることを教え給え、と。
日焼けした男の顔が微かに歪み、垢染みた服の袖を捲って腰を下ろす。
彼は孤独な商い旅に、人と話す機会を得たくて仕方ないのだ。
「あれは十年前のことじゃった。秋口に大雨が降りましてな、洪水で折角実った米も作物も全滅しましたのじゃ。村に入る折に見ましたろ、石の鳥居を。元々ここは神社の杜でしてな、昔村が洪水で破壊されて、生き残った連中が神社の杜を開いて、急ごしらえで住み着きましたのじゃ。わしは大雨が止んで間もなくこの村に足を運びましたのじゃ。案の定、村は貧困と病気に満ちとりました。村の娘、十二頃から十七頃の娘等がそん時、奉公に出されたり、借金の形に取られましたな。それから三年経って、あの神社に母子が住み着く様になりましたな」
「あの神社は何を祭っているんですか」
「水神じゃ。さっきも言った通り、ここは直ぐ洪水を起こしよりますでな、村人にとって水神様は一番大事な神様じゃ。そこに人が住み着いたと言うんで、蜂の巣ぅ突いた騒ぎになりましたな。じゃが、秀守ちゅう信心深いじいさんがおりましてなぁ、なんでも日清戦争(明治二十七年〜二十八年)に行って片足を失くしてから、信心が一層強くなったと聞いとりますが『昔から水神は母子神と言う。もしやあの親子が人間に姿を変えてこの村に降りた母子神とすれば何としよう。邪険に扱って村を追い出し、今までにない大洪水になったら大変じゃ。ここは一つ様子を見るつもりで、お迎えしよう』言うて、皆を説いたのですじゃ。村の長でもあるじいさんのことを笑う気持ちが無くもないが、ひとまず顔を立てて食い物を持って神社を訪ねたと」
「それで?」
長光は男の話に、彼が話の途中で点けた煙草さえ吸う暇を与えたくなかった。
「女は色白で、波打つ黒髪の、それはたいそうな美人じゃ。その女が秀守じいに『私の名前はタキ、この子はジルと申します。訳あってこの村まで流れて参りましたが、決して怪しい者では御座いません。どうか私共を暫くここへおいてくださいまし』と、今まで聞いたこともない美しい声と、上品な物腰で言ったそうじゃ。が、母親の傍らにつくねんと座る子を見て秀守じいはびっくり仰天、その子の目が水のように青かったからじゃ。真っ青な目ぇ見て一目散に神社を駆け降り、「あれは水神様の化身じゃ」と話したそうでありますな。年寄連中はすっかり親子を畏怖して、供え物を惜しまず提供したと言うとりました。が、洪水で娘を売ったせいに、残っているのは子を何人も産じてくたびれた中年女と年寄ばかり。さりとて貧しい村に嫁の来てなどありはしませんじゃ。神社の女がかように美人と聞けば、若い男は疼きますわな。辛抱していたのは、秀守じいが生きていたからですじゃ。三年の間、不思議なことに雨は、村人が欲しい時に降り、要らん時に止み、風よ吹けと思えば吹いたそうじゃ。作物は良く実って、わしの薬代の借りも滞りなく返して貰いましたな。ところが四年前のことですじゃ。秀守じいがぽっくり死によりました。若い衆を縛っていた因習が無くなったも同然で、天候のことなど思いよりません。耐えていた欲の力も、豊作の浮いた気分と重なって爆発しよったのです。わしが煙草をふかして休んでいた夜、手に手に提灯を持って神社を駆け登る三人の若い衆を目撃しましたじゃ。わしは急いで後を連けました。その折女が死に、慌てた若い衆は親父共を呼んで、遺体をどこかへ運んで行きよりました。勿論このわしが見ていたとは知りやしない。わしが若くて威勢が良きゃ助けられたかもしれんが、いかんせん腰を抜かしとりました。秀守じいの禁を破り、神社を汚したその年、女の怨念か、村は洪水に見舞われ、不作になったと聞いとります。あろうことか、連中はあの神社の霊験は無くなったと言うて、新しい水天宮を滝のあたりに作りよりました。ここをずっと上がって行くと、小さい滝がありますのじゃ。なに、石を積んだだけの貧しい祠です。以来子供は生きるために身を売って、細々暮らしておるですじゃ。わしはあの子に時々煙草や草紙、菓子をやって、わしの守り神にしとります」
淡々とした口調が一層悲惨に聞こえる。人殺しではないかと言いかける長光に、薬売りは人差し指を唇に当てた。茫洋としていた目が鋭く光り、黙っていろ、と暗に諭す。
長光は息を飲んだ。
「犯人達の顔を見たんですか」
「まぁ、夜陰に紛れてはおりましたが、はっきりと。あれは…」
薬売りは言いかけて、ぶるっと肩をすくめた。
「さて、薬売りが、油を売ってしまいました」
薬売りは大きな箱を担いだ。
「そうじゃ、この蛍草、摘まん方が良いです。雨を降らす花だと言って、村人は刈りもせんのです。摘んだ所を見られたら、何をされるかわかりませんですじゃ。社の子供が摘むと、必ず雨になると連中は言うとります。自由自在に雨を操ると」
「待ってください。どうして秀守じいさんは、水神だと思ったんでしょう。ただ神社に住み着いて、美人で、青い目の子供を連れていたからと言って、普通の人間に変わりないじゃありませんか」
長光が言うと、薬売りは思案気に天を見た。
「匂いがしたのじゃと。女から、山を下る水の匂いが。ほんで、聞いたこともない言葉で子供と話していたと言います」
(ドイツ語だ!)
「わしはこれで。くれぐれも、蛍草を摘みなさるな。蛙も殺しなさるな」
薬売りは満足して、去って行った。
様子を窺っていた男は即座に、薬売りの後を連けて行く。
薬売りは恐ろしい話をでっち上げ、からかったのかもしれない。
(は!この村は迷信で成り立っている)
釣り糸を垂れたまま、長光は男の物語をゆっくり消化する。
女は、外国との貿易で栄える横浜辺りの裕福な商家の娘だったのだろう。
外国人と恋に落ち、子供が生まれ、男の帰国で捨てられて、親や親せきに疎まれた。女は金になる着物を持ち出し、子供と落ちて来た…。
(村人の迷信も手伝って、彼女は暫く腰を落ち着けることにしたのか)
都会と、外国人との交流経験もある長光には、親子の背景がくっきり見えた。
ジルの歌がドイツ語だったところを考えれば、父親はドイツ人。
想像でしかないが、ぼやけた輪郭が少し鮮明になった。
(ジルは夢じゃない、実体だ。ああぁ、あの子を描きたい)
旅に出た目的はこれだ。世界にはないこの国だけの八百万の神。自由に描ける神々は創作意欲を掻き立て、構想にふさわしい絶景とモデルを求め歩いて来た。
既に伊邪那美命、伊邪那岐命、天照大御神、月読命、須佐之男命、綿津見大神を、人間の感情と重ね合わせ、様々描いた。評価は散々(さんざん)だが、止められない。
水神が母子神とは、初めて知った。
(水神…。透明感のある白い肌に、青い瞳、きりりと結ばれた唇。神の具現素材をすべて持っている。あの、物怖じしない口調ときたら)
笑みがこらえきれない。
訪問の名目にしばし釣りに勤しみ、素描帳を手に意気揚々(いきようよう)神社を目指した。
山の稜線の端で、遠雷が鳴っている。
静寂の川上から、鬼灯をかたどった白い紙風船が、ふわふわ流れ下って逝った。
神社は、スギやヒノキ林をうねうねと曲がりながら、人の手で作られた安易な段差を登って行く。夕べは夢中で気づかなかったが、かなりの高さだ。
「ジル、ジル」
長光は勇気を出して声を掛けた。
返事はない。
「ジル、魚を持って来た」
辛抱強く言う。本当に彼が居るのか怪しい静けさである。諦めかけた時、漸くジルの返答があった。
「おあがんな」
許しを得た長光は、何故か辺りを見回し、中へ入った。
夜とは違い、室内が良く分かる。床板はピカピカと黒光りし、清潔だ。彼が掃除をしているのだろう。そう思うと唇が緩んだ。
ジルは気怠げに草紙をめくっていた。
「昼間は初めてなんだ」
と言った。
「ジル」
長光を見返す顔は、牡丹の花が少し雨に濡れ、紫に煙る夕暮れの冷気に明鏡な花弁を伸ばすが如く、輪郭がほの白く輝いている。
体内の一部が少年の裡へと流れ込んで行き、生まれてから現在に至る、彼の吸った空気、感情、暮らしを夢想する。
水田に群生した藻が、無風の暑い夏の日に燃えて青臭さを漂わせ、午睡から目覚めたジルが気怠く伸びをした、牧神さながらに。
「遊ぶの遊ばないの」
ジルは床に潜り込んで言った。
「違うんだ」
彼はゆるりと起き上がり、少し崩れた着物の袷を直した。煙草に火を点ける。煙をすいぃっと口から吐いた。青い瞳が、紫煙の流れをゆっくり追う。
「君を描きたいんだ」
画家の黒い瞳に緑の疾風が沸き、真っ直ぐに吹いてくる。
不器用だが嘘偽りのない波が、ジルの肌を撫で上げた。
何食わぬ顔で入りかけた猫が、足を止める。
画家は、きらきらとした眼差しを一時も逸らさず、力強い男の声でまた、
「君を、描かせてくれ」
と言った。
封印された水底から、懐かしい響きを呼び覚ます。
ジルは瞬きもせず長光の心地良い『求愛』を聞いていた。
頬がバラ色に染まり始めた刹那、立ち上がって奥の引き戸を開け、大きな瓶から干し柿を取り出した。
彼はそれを草紙に乗せ、長光の方へ押しやる。
「悪いけど、今夜雨になるんだ」
「え」
出鼻をくじかれた長光は、ジルの横顔を見つめた。彼は顎をしゃくって蛍草を示す。
「迷信だよ。私も子供の頃やったが効き目はなかった」
「念じ方が足りないのさ。雨は降る」
「雨が降ると何か良いことが?」
「お客だよ。雨に紛れて来るのさ。誰も外に出ないから、来やすいんだよ」
「濡れるじゃないか」
「朝には上がる。その頃には着物も乾くさ」
「まさか」
「あたしが摘んだからね。ふふふ」
ジルは蠱惑的に笑った。
「それ食べたらお帰り。『立石柿』の干し柿だ。美味しいよ」
「ありがとう。しかし…」
「明日来れば、長光さん。今はちぃっとばっかひもじいから、米を持って来るお客がいいのさ」
長光は安堵した。
「あんた、どこに宿取ってるの。村の連中のとこ?」
「いや、川の近くでテントを張ってる」
「そう」
長光は、持って来た魚を置き、ジルの干し柿をポケットに入れて退出した。少年のように、心臓が高鳴っていた。
夜になると、本当に雨が降った。村人の恐れる花を敢えて摘み、雨を呼んで男を招くとは。
テントの中で静かな雨音を聞いていると、追憶が弥増す。
素描帳を取り出し、ジルの面影を描く。
輪郭、髪、眼差し。こうだった、いや、ああだったと、映像の再生を試みる。僅かな時間も目は素描していた。彼を配置した構図が次々溢れた。
干し柿をかじる。
「うまい」
声に出して言う。東京では感じなかった食物の味が舌一杯に広がっていき、しがない画家の生命維持に貢献する。彼等のもくろんだ子孫繁栄を掠め取り、初冬の太陽に叩かれて、甘美に干からびた柿のミイラがとろけていく。最上級のもてなしをしてくれたのだ、と初めて分かった。惜しげもなくぽんと草紙に乗せたジルのしなやかな指が網膜に焼き付いて離れない。
「無造作な美」
長光はまた声に出して言った。
もっと、言いたかった。言葉を尽くしたかったが、言葉にならなかった。ジルは悟ってくれたのだ、自分の心を。通りすがりのよそ者に乞われて、ジルは照れていたのでは?
勝手に都合よく想像すると、
「いや、いや、いや」
声に出ていた。
同じ物を何度も描き、頭の引き出しにしまう。ジルの周囲に配置したい植物は思うに任せて描きたい。蛍草とひとたび思えば、記憶から鮮明に取り出して、自由自在に画布に植え込みたい。
批評家は思想を求める。芸術家の表現するよりどころを分析し、専門誌や新聞の欄を埋めて飯を食う。幾らの値がつくか彼等のさじ加減で決まる。それはそれで良い。少し前まで評価に意気消沈、意気軒昂していた自分を捨て、思う様に描くことこそ主義というなら、長光はそれでありたいのだ。
頭の中に流れ出したヘンデルのオンブラ・マイ・フに乗り、未来の構図に没頭した。
腐っていた長光を日比谷に誘い、西洋の音楽の楽しさを教えたのは雪彦だ。
『どう、音楽を聴くと心が洗われるだろ。わだかまっていたものがさっぱりと流れる。西洋の音楽は耳に易しいんだ。新しい色が頭の中で炸裂する。こんな文明を生んだ国へ行ってみたい』
と、彼は西洋への憧れを語った。
美術学校に上がって間もなく、長光と雪彦は外国人の集まる夏の軽井沢を訪れた。西洋の文化は西洋人に聞け、という訳だ。アダムスという名の美術商と知り合い、二人が画家だと分かると、彼は喜んで似顔絵を描かせた。お礼に小さな音楽会に招待され、初めてシューマンを聴いた。
男性の弾くピアノに合わせ、白人の女性が「月夜」を歌ったのだ。ガラス球のような色の違う瞳と、光沢のあるドレス、贅を尽くしたシャンデリアの下の彼等は、おとぎ話の住人だった。
初めは分からなかった言葉が、次第に何となく分かるようになる。結局人間の感性は大して変わらないのだと知った。
日本で購入した美術品が確かなモノかどうか、長光と雪彦の眼が重宝された。代わりに好きなだけ調度品や花々、美しいドレスの女性達をスケッチできた。
長光は、アダムスの家に訪れるエリザベスという十七歳の女性に淡い恋心を抱いた。異国人との恋など成就する筈もないが、『シューマン、ムーン・ナイト。ドゥ・ユウ・ノゥ?』などと訳の分からない英語で語りかけると、彼女は『オゥ!』と言って、恥かしそうに旋律をハミングしてくれた。外国にまでやって来る人々の高い教養に脱帽する。
『君、彼女のことが好きなのかい』
雪彦に問われると、長光は顔を真っ赤にして否定したが、今日は来るか来ないか期待している自分が居た。
『分かり易いな』
雪彦は屈託なく笑った。
恋は儚くても、音楽は浴びるように聴いた。彼等は音楽が無ければ生きていけない生き物だった。晩餐の度に、小さな楽団が音楽を奏でる。
『音楽を聴きながら絵を描くことができたら、もっと素晴らしい作品を作れるだろう。そんな時代が来たら良いな。音楽と絵画、密接な関係にあると思わないかい』
『ああ。西洋の音楽を聴くと、油絵が納得できる』
長光が答えると、なんだそれ、と言いながら、いや分かる分かると雪彦は笑っていた。
憧れと精進と、毎日が冒険の日々だった。
雪彦は、長光にとって未知の文化だった。
『神の世界を描いてみたい。自分の想像する神の姿を、思い通りに塗りこめたい』
雪彦は頷いた。彼は、一度も長光を否定したことがない。新作を見たがり、見ると感嘆の声を上げた。
『ああ織姫と彦星だね。一粒の雨も描かずとも、二人の表情で表題の『催涙雨』が分かるよ。君の、自己への正直さは賞賛に値する。ロマンチストだ』
紙用の四曲の屏風絵は久々の大作だった。右に織姫左に彦星を配し、二人の間に天の川が架かる。織姫は扇で顔を隠し、彦星は天を仰ぎ、会えない悲しみが伝わる。屏風の妙で、正面から鑑賞すれば二人の姿は見えるものの、描かれている二人はお互いを見ることが出来ない。二人の間には、山折りになった天の川が厳然と立ちはだかるからだ。天の川はいわば、長光の感じている評論家達の言か。
『君の描く人物画には西洋画的なリアリティを感じる。よし、僕はこれを買うよ』
『同情かい?』
『僕は君の絵が好きだ。色を使いすぎるだの、埋めすぎるだの、世間の評価が何だ。節穴だ。僕は君の求める世界が好きだ。自由奔放さが好きだ。描いたらすべて買うよ。時代が君の存在を認めた時、もっと高値で売らせて貰うさ、ははは。もっとも僕だって負けないけれどね』
と笑い、懐から金を差し出した。自信を持って、長光に対峙している。
雪彦の個展に赴くと、会場は人でごった返していた。
一張羅の着物を着て人々に囲まれ、穏やかに笑う雪彦が長光に気付く。作品を見て来る、と唇を動かすと、彼は頷いた。
正直、眩しかった。
渾身の屏風は、川辺に戯れるシラサギの夫婦。白い羽の一枚一枚に、息を殺して描く雪彦の姿が浮かんだ。法則に従って流れる川辺の無機質は、二羽のシラサギによって命の連鎖を吹き込む。動植物を描かせたら右に出る者はいない。
所在無げにばらばらと配置された数匹の子猫。母猫の存在が画布の外にある。地面に散らばる小さな光の円が水玉模様に見えて、愛らしさが倍増する。女性客の足を立ち止まらせるに十分だ。雪彦は演出家だ、自然口元が緩んだ。
一幅の赤い罌粟は見事だった。たった一本の花を、すっくと描いて他は何もない。画面に流れる静寂と言い、構図と言い、描写と言い、絶妙だった。何ゆえ罌粟に生まれ、風を感じ、揺らめくのか。清楚な姿は人を狂わす毒を含み、礼賛する危険を孕んでいた。一本、野辺にあれば毒の夢は目覚めない。「放っておいてくれ」雪彦の胸の内が長光に忍び込んで来た。本当に描きたいものがあるならこっそり描けばいい。地獄の業火に焼かれる女でも構わないじゃないか。長光は絵の先に居る雪彦に、告げた。既に旅に出るとはがきを投函してある。差しで話す時間は到底なさそうだ。ひとしきり観た長光は、ひっそりギャラリーを後にした。
長光が『世間』と切れた瞬間だった。
数週間前の出来事が遠い昔のように思い出され、心がさまよう。
意味深長なジルの笑いが耳を犯し、迷信だと払う一方で、大雨を危ぶむ村人とは同調できない信頼が、この雨にはあった。
(ジルが降らせたと、本気で信じているのか?)
長光は己の矛盾に苦笑した。
(今頃ジルは、村の男と遊んでいるんだろうか)
思いは、胸の痛くなる西洋の音楽に似ていた。雪彦と聴いたバッハの重々しいパッサカリアが、テントを叩く雨音と重なる。
雨を降らせる蛍草。青い蝶が、ゆらゆら陽炎めいて漂う。
そぼ降る雨の闇に、テントに点るカンテラのぼやけた光は弱々しい。
三人の男達は濡れそぼったまま黙って、いつまでもテントを眺めて居た。
「あんた、一体何者だ」
朝になると、ジルの言った通り雨は上がっていた。
眠い目をこすり、長光は朝日の作る男のシルエットを眺める。
テントを這い出ると、野良着姿の男が鎌を手に長光を見下ろしている。
「ここにテントを張ってはいけなかったのですか?」
「何者だと聞いてるら」
白目を黄色く濁らせ、血走った目でテントの中を盗み見、水滴をしたたらせた鎌の先で長光を指す。濁声が腹に響いた。
「私は雪村長光という画家です」
「がか?」
「絵を描くんです」
男は、経験にない高尚さを感じると、更に獣も通わぬ沼地のような目を向けた。
「そんな偉い先生が、こんな所で何をしてる」
「(偉くはない、偉くは)これと言って別に」
「嘘つくな。あんた、あいつの所へ行っただろう」
「あいつ?あいつって」
「社の鬼だ」
男はジルへの敵愾心を隠さない。
「あいつは人間の魂を数珠にして、舐めているそうだ」
「馬鹿な」
長光は首を振った。知らない内に自分は村人の関心事になっており、挙動を監視されていた。
「ある若い男があいつの所へ夜這いに行った。かかあの着物着て、紅差して、若い男を骨抜きにしたんだ。毎晩あいつの所へ通い詰め、帰って来ない夜もあった。ある晩、若い男はあいつの所へ行ったきり二度と帰らなかった。それから長いこと雨が降り続いて、田んぼは水浸しだ。村じゃあいつの仕業と噂したよ。あいつが両腕一杯蛍草を抱えていたのを見た者がいたのさ。俺は雨が上がってから神社へ行ってみたんだ。するとあいつが地面を掘っているじゃないか。あんたもあそこの蛍草を見ただろう。ここよりずっと威勢がいい。きっとあの下には若い男の死体が埋まっているんだ。あいつは女みたいにどんどん綺麗になってくが、実は若い男の魂をしゃぶっているからだと専らの噂だ」
「だったら巡邏を呼べば良いじゃないですか」
巡邏と聞いて男はかっと殺気立った。
「本当に死体が埋まっているかどうか、掘り起こしてみれば…」
「その前にあいつがこの村を大洪水で流しちまう。あいつは雨を自由自在に操る!」
(出て行けと。不都合なよそ者か)
長光は男から顔を背けた。正視に耐えられなかった。画家と言う職業柄、裏に潜む人の心情をすぐさま受け取ってしまう。
男はちっと舌打ちし、ぷいっと立ち去った。
男の濁声が耳に残り、不快な気分が腹に溜まった。
辺りに視線を巡らせる。今も村人の眼が注がれているのか。
川で顔を洗い、一服点けた。
(だとしても、私の気持ちに変わりはない)
腹に感じている男への不快は消えないが、今日こそジルが描けるという喜びの前に、久しぶりの高揚感が足元から立ち上った。
テントの中で出かける支度をしていると、軽い足音が近づく。
やれやれ今朝は訪問者が多いな、と身構える。覗き込んだのは、まだ幼さの残る少年だった。
目が合うと、少年は少し戸惑ってはにかむ。先ほどの男とは雲泥の差だ。
「おはよう」
挨拶すると、少年はおはようと返した。
「これ、何?」
テントを指して少年は言った。
「テントというんだ。野宿をするのには必需品なんだよ。君名前は?」
君、という言葉をかけられて、少年は仰天して顔を赤らめた。
「秀信」
恥かしそうに答える。少年は、野良着を着せて四六時中畑仕事をさせるには惜しい、聡明な目をしていた。
「私は雪村長光と言うんだ。画家をしている」
長光は好感の持てる秀信に名乗った。
「村中で噂になってるよ。よそもんが住み着いたって」
「住み着いたわけじゃない。素描旅行だ。素描と言うのは、ものを紙に描き写すことなんだ」
秀信少年は、ちょっと首を傾げて長光の説明を想像しているようだった。
「草紙に描かれているのが絵だよ。言葉より絵の方が分かり易いだろう」
少年は頷いた。
「ジルの所に行ったんだってね」
そんなことまで知っているのか。長光は話題の乏しい村社会をしみじみ感じた。
「描かせて欲しいとお願いしていてね。とても素敵な少年だから」
秀信は、長光がジルを誉めていると知り、にっこりと笑った。
「ジルは友達なんだ。不思議な話をたくさん知ってて、面白いことをして遊ぶんだ。俺の家族はジルが好きなんだよ。力仕事は頼まないけど、家の中の仕事を時々手伝ってくれる。梅や大根、柿を干したり、きのこを探したり。友達なのは俺だけじゃないけど」
長光は、ジルが村から完全に排除されているのではないと知り、安堵した。似た年頃の少年達は、大人にない感性でジルを許容していた。
容認する者と蔑む者。世の常だ。
「ジルが絵になるのか。ずっとあのまんまのジルが残るんだ、いいね」
純朴な少年の言葉から、ジルへの敬愛と親交が伝わった。
「そうだね。いつかジルをモデルにした掛け軸を、社に進呈しよう」
少年は微笑んだ。
「ジルの悪口をいう人達には、関わらない方がいいよ。気持ちは分かるんだけど、別にジルが悪い訳じゃないから」
秀信少年の心配は、長光が悪口に耳を貸し、ジルを貶めることだったらしい。
「彼は良い子だよ」
長光が言うと、秀信は安心したようだ。
じゃあね、と笑って立ち去る後姿を見送り、勿体ないとつくづく思った。
彼のような聡明な若者が日本中にいくらでも居るのに、貧困のせいで埋もれていく。代々からの地位に胡坐をかいた、無能な人種に地位も財も流れていくのだ。
(私は幸せ者だ)
家業を継ぐ必要も無く、好きな勉強をさせて貰う財力が少なくともある。だからこそ、恥じない仕事をせねばと思うのだ。
朝方長光に話しかけた男は、土間に敷いた藁の上に胡坐をかいて、ぼんやり鎌の刃先を見ていた。奴は危ない、と頭は仕切りに繰り返す。あの画家が薬売りの話を鵜呑みにするかは問題ではない。漸く村人が忘れ去った今、蒸し返されないと誰が保証できるだろう。
(巡邏だと?冗談じゃねぇ)
腸が熱く燃えた。
夕べ家へ入るなり「おめぇ、なんかやってきたんじゃねぇのか!」と父親に言われ、無言で殴り倒した。どうせ奥歯はもう無い。ちっと舌打ちをして、野兎を二羽ほうった。
父親のせいで、見開いた薬売りの眼が追って来る。
土に汚れた鎌を研ぎ始めると、村からいなくなった草吉の母親よねがやって来た。
「峰雄、親父さんはいるかい」
呼び捨てが気に食わなくて、手を止めた。
父親に愚痴をこぼしにやって来るのだ。必ず食事時に。
(手ぶらで来やがって)
いるかどうか、一目見れば分かる。息子に勝てなくなった父親は、夕刻ともなれば背を丸めてどぶろくを舐めている。
「草吉がいなくなったせいで、力仕事が大変だ。年を取るごとにそれを感じる」
「三年になるかい」
父親が同じ問いを繰り返す。聞いていればうんざりだ。
「四年だよ!社の小鬼め。きっと尻尾を掴んでやるんだ。草吉は殺された」
尻尾とはなんだ。あんな子供が草吉を殺せるわけがない。大人の男を埋められる訳がない。峰雄は腹の中で笑った。本人だって、草吉が町へ出て行ってしまったと十分承知しているのだ。草吉は妹を可愛がっていたが、不甲斐ない親父のせいで奉公に出した時、お前さえいればいいんだ、と言い放った母親に幻滅した。草吉は二度と帰っては来ないだろう。
都合の悪いことは全てジルのせい。
「おばさん、俺がきっと仇を取ってやるよ。八洲雄のおばさんも怒っている。熊蔵と勇次も同じ考えだ。あいつはいつも蛍草を摘んでご神体に祭り、自由自在に雨を降らせている。俺等の一喜一憂を楽しんでいるのさ。相変わらず世話を焼く連中も居るが、大事な息子を盗られた悔しさは忘れちゃなんねぇ。他のおばさん達に良く言っておくといい。俺が事実を吐かせてやるってな」
よねは憎々しげに社のある方角に目をやった。
帰らせるために、父親の作ったふきのとうの佃煮を一つまみ落とした粥を出してやる。
ふん、と峰雄は蔑む。
(タダ飯を食いやがってくそばばぁ。兎なんぞ食わせてやるもんか。ジルを葬ったら、俺はこんな村捨ててやる。てめぇの利用価値は吹聴と妄想だけだ)
『親父も同じ穴だからな』
よねが帰ると、峰雄は朝っぱらからどぶろくを舐める父親に暗黙の視線を投げた。
『わかってら』
峰雄同様に白目を黄色く濁らせた父親は、口をへの字に曲げて俯いた。
研ぎ澄まされ、鈍く輝く刃を見つめる。
ジルの顔が浮かんだ。
一日に何度も、ジルのことを思う。
夜にこっそり訪ねる客の後を追って木陰に潜み、客を迎えに出るジルの艶やかさは、払っても払っても蘇る。
年の近い秀信達が、一点の曇りも無くジルに触れるのを見ると、腹の中にとぐろを巻いた得体のしれない生き物が、熱を発して蠢くのだ。
鬱憤の溜まった肉体が見せる夢に現れる女の顔は、決まってジルの顔。
黎明に家を飛び出し、目覚め始めた大気の中で放出する時、失われていく甘美な夢と共に、己のかぶっている肉のみすぼらしさに身悶える。
(俺が盗み見ていることがあいつにばれたら…)
峰雄は鎌を置き、兎の首を落とした鉈を研ぎ始めた。
ジルの細い項に鉈を振り下ろす映像が、頭の芯を痺れさせた。
血しぶきを上げて崩れるジルの体を受け止める。
最高の場所に、墓を用意してやろう。滝が望め、一年中花の絶えない場所に。
(俺だけが、ジルの埋まっている場所を知っている、という訳さ)
峰雄の足には子供の頃父親に負わされた傷が、すね毛の中にぐっさり埋没していた。
目を上げると、頭は禿げ上がり、背を丸めてどぶろくをちまちま舐める醜い男が居た。立場は逆転したが、この男と同様の年月をなぞって老いるだけの未来が見える。
(親父、かあちゃんを殺っただろ。殴り殺しただろ。俺はガキの頃、ちゃんと見てたんだからな。村の連中も、知らん顔で葬式だ)
ぶぷっ…込み上げてくる笑いに耐え切れず、峰雄は立てた膝に顔を埋めた。無抵抗に父親に殴られる母親は無様で吐き気がした。夢遊病者の様に飯炊きをする女だった。
ジルの母親を殺っちまったぜ、と親父に告げた時、峰雄はにやにや笑っていた。人の子の親並みに、驚愕の表情を浮かべ狼狽える父親はただ滑稽だった。我に返って父親の威厳を示す一発をお見舞いするつもりが、あっさり返り討ちにしてやった。
熊蔵、勇次の父親達と共に女の死体を闇に葬ったのは、紛れもなくお前なんだ、と峰雄は洞となった眼を上げた。
長光がビスケットと素描帳を抱えジルを訪ねると、昨日置いて出た鮎の骨が境内に散らばっていた。
無性に嬉しい。恋する少女へ宛てた、手紙の返事を貰ったように。
「ジル、私だ」
耳をそばだてる。
微かな音がする。
「あんた、本当に来たんだね」
彼は戸を開け、眠そうな顔を上げた。
なんと艶やかな着物だろう。
えんじと緑をぼかした地に橘。青い細帯には紫の葡萄が縫い取られている。
「待って、そのまま」
ジルが社の戸から縁へ乗り出したしどけない姿を夢中で描きとめた。
「なによう、こんな所を描くなんてさぁ」
口では不平を言っても、ジルは大人しく静止する。
筆は思った以上に乗った。描いて貰うことが、ジルは嬉しいのだ。
素描帳を十枚捲って漸くジルを解放してやった。
「おあがんな」
素描を終えた長光は、他より育っているという蛍草の様子を凝視した。
「ふふふ。村の連中に、おかしなことを吹き込まれたね」
「えっ」
狼狽する。
「大方その下に死体が埋まってて、あたしが呪っているだの、若い男が居なくなったの、村を洪水にするだの言ったんだろう」
ジルは鼻で笑った。
「夕べはお客は来たかい?」
「ああ」
「本当に雨が降ったんで驚いた。お陰で良く眠れたが」
「迷信よ。馬鹿ね」
少し冷たい態度に、長光は戸惑った。酷く辛いのである。
「村人が嫌いかい?」
「ここへ来る連中以外はあたしが嫌いさ。こんな目をしているから」
ジルは、火鉢に鉄瓶をかけた。
薬売りの話が本当なら、目の前で母親が村の男達の餌食にされ、母親の死後も一人で村人の悪意を受け止めている、のだ。
感傷だと笑われても、長光は年若いジルに加担せずにはおれなかった。
「ねえ、それ見せて」
素描帳を指差す。
「ああ、いいよ」
素描帳を渡すと、ジルは初めて子供らしい笑みを浮かべた。
中には花や鳥、子供、女、風景などが描かれている。ジルは楽しげにページを捲り、自分の箇所へ来て笑った。
「これあたし?なんかくすぐったい」
ジルの感情が動く度、社に青い風が吹く。
普段目にする花や鳥が紙の中に掴まる不思議。
流し入れ、飛散する色が、光と影を弾き出す。花ならともかく、枝から枝へ移りゆく鳥を、どうしてここへ呼び寄せることができたのか、ジルには理解できなかった。
「ねえ、ここに見えなくても描ける?」
「ああ」
「じゃあ、何か描いてよ」
ジルは描くものを探したが、辺りに見当たらない。
「あ、そうだ」
困った彼は、着物の袷をはだけて、白い胸を差し出した。
「ここに?」
「うん。鳥を描いて」
ジルの突拍子もない要求に、筆を持つ手が震える。こんなキャンバスは初めてだ。彼の息を額に感じた。
(何を描こう)
昔、雪彦とスケッチに行って描いたオオルリがふっと脳裏に蘇る。
白い肌に筆を下ろすと、墨はたちまち染み込んで行った。純粋な日本人の肌質とは明らかに違う。
目に映るのは、幻の青い鳥。耳に聞こえるのは、生命の息づく森の音。
初めはくすぐったがってくすくす笑っていたが、やがて静かになった。
心は遥かに野を行き、木の匂いを嗅ぐ。肉体を脱出した魂は、天の浄化に晒される。
絵は祈りだった。
己を離れ、ただ霊感の声を聞く。幻覚であろうと現実であろうと、魂が対象に寄り添う時、全開になった精神に、清らかな風が雪崩れ込むのだ。
六歳で初めて真剣に野の花をスケッチした。茎から伸びる葉の反り、花の芯に至る形容、筋の一つ一つに目を凝らす。腹の底から伸びた魂が真っ直ぐ花の中に注がれ、花の中に自分が居る。花の側から己を見つめる。絵を描くとはこういうことだ、と悟った。
至福、至高、至上である。
一度味わうと、忘れることが出来ない媚薬だ。
数時間後、長光はジルの上に、今にも飛び立ちそうなオオルリを出現させた。
「できた」
至高の麻薬が切れ、現実の世界に戻った長光は、突然顔を赤く染めた。
絵に熱中するあまり、彼はジルが大きく開いた足の間に座っていたのだ。着物は捲れ、ジルの白い大腿が露わである。目許は疲れにやや潤み、絶え絶えに息を漏らしていた。
ジルの体に何が起きていたか。長光の没頭する顔が幾度も接近し、彼の頭脳の作り出す青い幻想が、ジルを共鳴させてしまったのだ。
表現方法を持たない彼は、自分の肉体に写し取った。
長光は『それ』をみだらと思わなかった。
陶酔する彼の、美の至極。
香しき到達。
長光は静かにジルから身を退いた。
この美が失われる前に、超人的速さで数枚の素描を描き取った。
奔放な女流画家と肌を合わせ、彼女が到達した時、天を仰ぎ、人の世界を映さない半開きの眼差しを、心底美しいと思った。肌に絵を描くだけで感じるジルの感性に、長光は痺れた。薄闇に青く零れる光が、長光の下でたゆたうのだ。ハヤク、ハヤク…。長光は、しぼんでゆく神の花を、冷静を保ちながら、何ページも括った。
「もう、すんだの?絵」
ジルはかすれた声で言った。
「ああ」
ジルは、己の体に起きた『現象』を恥ずかしがりもせず、反転して鏡を覗いた。
白い肌に青い鳥がくっきり住み着いている。
なよなよとした午後の陽が社を包む。
ジルの姿はぼやけて暗く、陽を受ける格子はさらに白く滲んでいた。
言葉の死んだ、瞬きだった。
溜め息。
肌に触れる。
また溜め息。
ジルは、うっとり青い鳥を眺めた。
「凄いよ…長光。あんたは天才だ」
「並みだよ」
「あたしにとって、あんたが天才だってことさ。感じさせてくれたもの」
と、ジルは言った。
「暫くこのまま止まらせておきたい。どうすればもつの」
「そうだな」
長光は、ジルの屈託ない喜びを光栄に思いながら、辺りを見回した。
「ロウを塗ろう。水が弾けるから」
「そうか。頭いいね」
ジルは笑って、社の引き戸を開ける。何でも蓄えている彼の生活が、冬籠りする栗鼠に似ている。
「見ても?」
「いいよ」
側へ寄って、長光は干し柿の瓶を見、並んでいる他の瓶も開けてみた。
(梅干し、らっきょう、魚の酢漬け)
中はひんやりしている。氷室の役を十分果たしているらしい。
ジルはロウソクを差し出した。
長光が土産に持って来たビスケットを出すと、カリカリ音を立てて食べた。
(何てしっかりした生活だろう)
ジルの方が生きることに数倍知恵を巡らせている。
ロウを塗ると、オオルリを捕らえて満足気だ。
ふと、挿していた蛍草の一つが微かな音を立てて落ちた。
「あ、誰か死んだ」
「うん?」
奔放な少年は急いで外へ駆け降り、するする欅に登って行く。
長光が彼の後を追って見上げると、望遠鏡を覗くジルが居た。
(は、洒落た物を持ってる)
ジルはしきりに、村人の様子を観察していた。
「何が見える?」
「村の連中が集まっている。やっぱり誰か死んだんだ」
「君は人の死も分かるのかい?」
「ああ」
絵の感動も束の間である。
絵描きの高慢だ。絵描きは、人がいつまでも自分の絵に感心していて欲しいと思っている。
「様子を探って来ようか?今朝会った少年が居るから、その子にでも聞いて」
「別にいいよ。今夜通夜で、明日が葬式だ。あ、誰かが出かけて行く。隣村の坊主を迎えに行ったんだ。松五郎が泣いている。死んだのは松五郎の父親だ。伝次郎だ」
ジルは木を降りた。
「君にとって、村人の死は大切かい」
「明日良いもの見せてやるよ。今夜はここに泊まるね?」
何気ない誘いだったが、飛び跳ねたかった。
(ひょっとして、彼の出生やここに来た物語を聞き出せるかもしれない)
長光は頷いた。
日は真上をとうに過ぎている。夕食の支度に取り掛かる時刻だ。
社の裏手には三個の七輪が置かれ、夕刻に長光が釣った魚を焼き、古びていたが良く使い込んだ鍋で山菜を味噌で煮、米を炊いた。
二人で食べる夕食は美味だった。厳密に言うと、猫もいた。
客など気にせず、ジルは食べたいように食べる。
魚は手掴みでほうばる。それがちっとも気にならない。適度に食べて、残りを猫にやる。
寂しい生活だと勝手に思うのは簡単だが、ジルの顔には己の境遇を悲観する色は無かった。
「びわを採って来る」
社を飛び出した五分後に、ジルはたわわに実ったびわの枝を持って帰った。
「あたしが見付けた秘密の場所があるんだ。そこは村人も近づかない。食べなよ、熟れて甘い」
「ああ」
「種は取っておく。撒くんだよ。食べたら撒く」
成程。
「ジル、一つ聞きたいんだが、いいかな」
「何だい」
「この神社は、何を祭っているんだ」
「ハヤアキツヒノミコトだよ」
「ハヤア…キ…?」
「ハヤアキツヒノミコト」
長光は素描帳に神の名の覚書をする。
「薬売りが教えてくれたが、ここは効力が無くなったと言って新しい神社を建てたとか」
「そう。ミツハノメノカミ」
「その神社にご利益はあるの?」
「さあ。ここは水門の神で、新しい神は水天宮だよ。どんな違いがあるのか、あたしはね。あるいはそこに…」
と言ったジルの目が、妙に青く煙った。
蛍が輝き出した頃、長光の懐中時計は七時をとうに過ぎていた。
彼はせっせと蚊帳を吊り、行燈に火を入れている。
室内がほの明るくなると、ジルの美しさに凄味が増した。
襟元の青い鳥がきららかな光を放ち、初めて彼と会った日に周囲から立ちこめていた霧の漂いを、今夜もまた見せている。
紅も差さない唇が、赤く赤く揺らいだ。
(気のせいだ。全て夜の…行燈のせいだ。闇は人を美しくする。彼はただの人間だ)
長光は、飲み込まれる意識を正常に保とうと抗った。
ジルの織り成す世界へ埋没しそうだ。
彼は蚊帳の中で、見えない鳥を追うように両腕を掲げ、ふわりふわりと揺れていた。唇から零れる旋律はワルツに違いない。行燈の光に照らされて、彼の細い十本の爪から光の筋が流れ出る。ハヤキツヒノミコトは今宵、ジルの踊りをご覧になっているだろうか。微笑みながら、両肘をついて。
「長光」
「え!」
「驚いた。そんな大きな声で」
「ああ。私も驚いた」
人間の口をきくジルに驚嘆して、幻想が弾ける。
「寝ようよ。床の中で話をしない?」
ジルの肩が長光に向く。
「そ、そうしようか」
雨の日に訪れる男達と、同じ役目を期待しているのか。
ジルは構わず着物を脱ぎ棄て、裸のまま床へ入った。
「おいでよ」
「う?うん」
確かにこの服では寝られない。長光はやや臭くなりかけた服を脱ぎ、下着になった。
(クン!なんだかやっぱり臭い)
「どうしたのよぉ」
ジルは苛立った声で長光を促した。
「臭いんだ、体が。服もだけれど」
「気になるの?」
「ああ」
「しょうがないなぁ。水浴びに行く」
願ってもない。
ジルは素早く起き上がって着物を羽織り、提灯の用意を整えた。
長光は彼の後に従って社を出ると、肌の戸惑いを感じた。
(おや、外は湿っぽい。社の中は乾燥して涼しかったのに)
歩いていると、次第に汗ばむ体。
これなら水浴びしても寒くはあるまい。
「テントへ寄って、石鹸と着替えを取って来る」
長光は、一日空けたテントが荒らされていないか見るついでに、石鹸で衣服を洗っておこうと思い立った。
東京でなら家人がやってくれる。
ジルはうきうきと連いて来る。
テントは何の異常もなく、石鹸を掴むとジルに渡した。彼は鼻を近づけ、匂いを確かめた。
「これ、良い匂いがする。マルセイユ石鹸ね?」
「そう」
質問に答えた後、長光はおや?っと首を傾げた。謎の答えは一つである。
(私の推測は当たっているんだ。彼は良家のお坊ちゃんだったのかもしれない。マルセイユとはね。ふふふっ)
長い荒んだ暮らしで行儀は悪いが、思い返してみると、ジルの使う言葉は豊富であり、隠しきれない品がある。
しなやかな指と花車な肉体。どこから見ても中流階級以上の落とし種だ。
彼の持っている着物の見事さからも、十分察しが付く。
(出生など今更役に立つか)
前を照らして歩くジルは、既にこの風景と同化して、精霊のように在る。
「この辺りにしよう。あんたのテントに近いから」
嬉しそうに着物を脱ぎ、川の中へ進んだ。長光もそれに倣う。
真似てみて、自分の心が隅々まで解放されるのが分かった。
つまらぬ世間、見栄や卑下が、川に流される。
「はははっ」
屈託のない少年の笑い声が響いた。
泳いでいる。
長光は石鹸で体を泡だらけにし、ジルを洗った。鳥の絵だけは消さないように。
「わぁう!嫌だようぉ」
「大人しくしなさい」
「目に染みるよぉ」
ジルは、長光の巧みな洗髪を気に入ったらしく、やがて静かになった。
下着と服も洗う。
蛍が吹雪のように二人を取りまいた。
やるべきことが終わると、後は子供に還り、泳いだり、水のかけっこをしたりして、暫く遊んだ。
濡れた髪も、夜風が程よく乾かす。
社に戻って一服つけると、ジルの手が横から伸びてそれを奪った。
「あたしも」
「仕様がないな」
「うふふっ」
二人で床に潜ったのは、夜も更けてからだ。
「ねえ」
ジルは、長光の体にすり寄って呼ぶ。
「何だい?」
「面白い話、してあげようか」
「何か知っているのかい」
「ああ」
ジルは、益々(ますます)長光に体を擦り付けると、美しい声で語り出した。
「これは、源三に聞いた話なんだけれども、源三は土肥村で温泉宿をやっている某家が次男、翔太の生まれ変わりなんだ。翔太だった時、三歳で死んで棺桶に入っていたら、白ひげの爺さんが現れて、棺桶から翔太の魂を連れ出したんだって****
『その爺さんと薄暗い穴にじっとして、外を眺めて居ると、いろんな人が通るんだ。その度じいさんは、「あいつは好きか?」と聞く。俺はまだ母ちゃんと父ちゃんを覚えていたから、「嫌だ」って答えた。また誰か通ると、「あいつは?」って聞く。俺もまた「嫌だ」って言う。そんなことが随分長く続いたと思う。向こうから二人の男女がやって来た。男は優しげに女を振り返って笑う。遠くからでも、ああこの二人はお互いを頼りにし合っているな、と思ったよ。じいさんが、「あの二人はどうだ?」と聞いた。俺は良いと思い、「うん」と答えたんだ。そしたら爺さんが俺の手を引き、穴から出ると、目の前に生えている桃の木を指して「桃の実が三つ落ちるまで待っていろ」と言うなり消えてしまった。それから桃の実がトーン…トーン…トーン…。静かに落ちて、途端に意識が無くなったのさ。今考えると『俺』が死に『源三』へ生まれ代わるまで、三年経っている。あの三つの桃の実は、三年という年月を表していたんじゃないかと思う。夫婦の子に生まれて五年、俺はこのことを兄の源治に話した。彼は不思議がって親に告げたが、二人は子供のたわごととしか思わなかったんだ。初めは信じなかった両親だけど、俺が『翔太』の家に行きたい、土肥へ行きたいとせがむんで、とうとう俺を土肥に連れて行ってくれた。俺は「家に差し掛かるまでに八本の松があり、それから黒い瓦屋根の家が見えてくる筈だ。今なら屋根に野カンゾウが咲いている」と説明した。果たしてその通りの道、家、屋根が現れた。俺は宿に働く者の名を言い、両親の名を言った。父ちゃんの大切な煙管を隠したのはこの俺で、蔵の朱塗りの箱の中にある、と教えたんだ。調べてみると煙管は言った通りの場所にあった。だから、俺は本当に温泉宿の子供だったんだ。『翔太』だった時の両親は俺に抱きついて泣いた。それから二十年経った。宿の家には長男がいないので、近々婿に行くことになっている。そこの娘と夫婦になるんだ』*****
源三はあたしを可愛がってくれたから好きさ。出発する前の晩、源三が蚊帳をくれた。どうだい、長光。あんたは生まれ変わりを信じるかい?」
ジルの話は、科学を尊ぶ都会の風潮に、忘れられつつある神秘を思い出させた。
「三つの桃と言うのがいいね。仙人の食べ物だと言うよ。私も誰かの生まれ変わりだろうかって、思ったよ。親族に絵を描く人間がいなかったからね。私だけだ」
長光の声は、闇に吸い込まれてゆく。
じっと息を殺して見つめるジルの、青い目を痛い程感じる。
異国の人間と出会ったジルの母親は、前世で約束でもしていたのだろうか。
長光の体は温まり、疲労と興奮に満たされているのに、ジルの体は今も冷たい。
冷たくて、さらさらとした肌である。
(魂をしゃぶる…)
長光の脳裏に、男の言葉が蘇った。
友人である雪彦が描いた作品を見た時、凄まじい絶望が走った。十六歳の出会い、十年前の悲劇だ。
「君は雪村、僕は雪彦。面白いね」
笑って勉学に励んでいたのも束の間、持っている才能の差は、無残に長光を打ちのめした。
(結局、現実から逃げて来た。なのに私の心に在った野心も羨望も、ジルを前に霧散して行く。彼が幽鬼の人だとしても、私は魅かれていた。このさらりと冷たい皮膚は、龍の子を連想させる)
長光の顔がふっとほころんだ。確かに魂をしゃぶられ、憂さが晴れた。
社を訪れる男達は皆、自分と同じ気持ちを味わうのだろう。
(独創性に富んではいない)
長光は、いつの間にか寝入っている青き龍に時計を合わせた。
閉じた目の奥に、青い花の散り敷く風情が見える。
胸に描いた青い鳥が、チチチッ、と闇にさえずった。
「長光、おいでよ」
翌朝、ジルは紅葉を赤と朱でぼかした黒い着物をまとい、長光を導いた。
「どこへ行くんだい」
「しいぃ!連中が着かない内に早く」
ジルの足は鳥のように軽く山道を登って行く。旅慣れている筈の画家は、三歩も四歩も遅れを取ってしまう。
ジルは長光を待ってはくれなかった。
暫く行くと、突然目の前が開けた。
ジルはこくりこくりと火の番をする村人の眼を盗んで、するするクスノキを登って行く。長光も従った。
「ここから下は見えるけど、連中には見えないよ」
漸く追いついた長光に、ジルは言った。
慣れている。ジルは座るのに丁度良い枝に腰かけ(おそらく定位置)、長光にも枝を見繕って、ここへ、と示した。
「一体何を見ようと言うんだい」
「あたしは好きなんだ。あんたも見なよ」
子供が、気に入った大人に自分の好きなモノを見せて共感を得たがるのに似ていた。
「あ、来た」
ジルの視線を追い下方を見ると、伝次郎の家族がやって来る。
『伝次郎』の遺体は既に夕べから窯に入れられ、焼かれているのだ。
長光は、厳粛な死の儀式を上から観察する趣味の悪さを気不味く思ったが、今さら降りられもしない。ジルは平然と眺めている。
後から参列の村人達もやって来て、思い思いに酒を飲み、香物などをつまんでいた。
村にはちゃんと、人が住んでいたのだ。秀信少年や、印象の悪かったあの男もいる。
頃合に黒い袈裟の坊主が進み出て、伝次郎の為に経を唱え始める。
「死んでいくものは清らかだ。特に年寄りはね」
ジルは声を落として言った。
懐から干し柿を取り出し、長光に差し出す。彼は食べながら、干し柿から出る種をふっと吹いた。
(あっ)
下の連中に見つかるのじゃないかと長光は思ったが、気付く者はいない。
一昼夜をかけて、伝次郎は焼き上がった。
坊主の声が止み、村人は、わらわら伝次郎の骨を拾う作業にかかった。
「これが喉仏じゃ」
年のいった者が教えている。人々は、手伝いの女達が並べた白い皿に、伝次郎の骨を乗せていった。
皿に盛られた骨を前に、人々が次々座った。
「それでは皆さん」
坊主が指示し、再び経を唱える中、人々は骨を食べ始めたのである。
(えっ)
皆、伝次郎の骨を噛8か)み砕いている。
「ジル」
長光が驚嘆の目を向けた時、彼はうっとり村人を見下ろしていた。
「マミーが死んだ時、どこかに運ばれてしまった。場所さえわからないのさ」
何と奇妙な風習の残る村か。人の骨を食うとは。
坊主の経はまだ続いている。
人々は唇を袖で拭きながら、一人また一人去って行く。
「どう?この村で一番良いのは葬式だと思うよ」
社へ戻る道すがら、無口な長光にジルは言った。
彼は感動している。
「洪水が起きれば、墓もなくなる。だから腹の中に納めるのさ。ここだけの、秘密の葬り方なんだ」
長光は目を瞬いた。
蛍草が揺れている。
死者の魂を導く故か、人めいてゆらりと道を開ける。
「口に出来ない者もいる?」
「全員が口にしてくれたら、本当に幸せな人だ」
ジルの対象にある風景が、長光の胸を掴む。耳の奥がぼぉぉっと鳴っていた。
村の少年達は退屈しのぎに社を訪れた。
知らない世界の話を、ジルが面白おかしく聞かせてくれるからだ。
中でも秀信(秀守の孫、十五歳)とは一晩中双六や花札に興じ、お喋りをする。
秀信は、祖父の秀守同様、ジルを密かに神の子、と崇めていた。
青い目に見つめられると、崇高な気持ちが湧いてくるのだ。
透き通る肌や、紅が無くても赤い唇、薄桃色の頬、科やかな動き、立ち上る仄かな白檀の香り。
あの親子をないがしろにすれば、必ず禍がある。秀信の祖父が常日頃口にしていた。
白檀は、別名センダンという。昔、首を斬られた人々の頭を、この樹の下に並べたと秀守じいから聞いた。罪人に対する供養なのだろうか。その樹の匂いがするのだから、ジルは人間ではないのかもしれない。
「時々思うんだ。どうしても言葉にできないことがあるって。だって今日目が覚めたら、天気が良いんだ」
とジルは言った。
「今日?風は少し強かったよ。薄日が差すだけで、雨になりそうだった」
秀信は首を傾げる。
「空から降ってくる空気が耳や気持ちにしっくり落ちるんだ。見慣れた景色が知らない国のどこかみたいに新しく映って、愛しくなるんだよ。それが良い天気の日なんだ」
秀信は、毎日の野良仕事に思いを巡らせた。
水田に、皆で協力して苗を植える日はお祭り騒ぎだ。たとえ収穫された米がほんの一握りしか残らないとしても、生命の原点を感じる。柔らかな日差しの中で、青空を映す水田に向かう時、空の中を歩いているのだと想像する。
主義主張は違っても、この日ばかりは一致団結して田植えを遂行し、終われば宴会が待っている。頬を掠める風は心地良く、人の声は歌になる。ずっと毎日こうであればと願う程、一日は美しい。
「良い日が見えた?秀信」
「うん」
「そういう日はね、神様が来ているんだってマミーが言ってた」
「神様」
「うん。神様はしょっちゅう来てるんだけど、はっきり分かる日があるんだよ。自分だけに分かるんだよ。見慣れた風景が、胸をかきむしりたくなるほど迫って来て懐かしいんだ。もどかしくて、泣けるんだ」
ジルはうっとり夢見るように、始まりに戻った。
「いつも、そういう風景を満身に感じていたい。ずっとさ」
(俺は、ジルが恋しい。毎日だって、会いたい)
と、秀信はジルの傍らでこっそり思う。
彼だけではない。今年十七になる治も同様だった。
彼は、ジルが聴かせてくれる都会の寝物語が好きだった。
ジルの話は、都会への空想を膨らませ、一人前の大人になりかかった少年の胸をたぎらせた。
ジルは、七歳まで過ごした街の様子をはっきり記憶している。治を相手に話していると、彼自身が忘れた風景を、鮮明に思い出すことができた。
「ひな壇みたいな棚があってね、洋服を着た貴婦人や紳士が沢山、ごったがえすみたいに買い物をしていた。丸窓の上に、いろんな国の国旗が飾ってあって、その向こうに海が見えた。棚にはさ、綺麗な形や色の壺やらランプやらがずらりと並んでいて、窓に花模様の布がかかっていた。カーテンと言うんだよ。それに、牛肉や、あんパンなんかも食べた。饅頭みたいなんだけど違うんだ。小麦粉と砂糖、塩、バターとイースト菌で膨らませた生地に、あんを入れて焼いたものなんだ。黄色い髪や茶色の髪、銀髪…鼻の高い『西洋人』があちこち歩き回って、四頭立て馬車や人力車が走っている。うんとお金持ちや西洋人が乗るんだよ。夜は昼みたいに明るい。外がだよ。ガス灯のお陰だ。道の所々(ところどころ)に点いていて、街を照らす。通りには店が軒を連ねていてね、洋服の仕立て屋、化粧品、宝石屋、子供の玩具屋、靴、食堂…があった。貧乏な家の子供はガラス戸に張り付いて、金持ちの食べる綺麗な料理を眺めて居たよ。あたしもパンにジャムっていうイチゴの佃煮を塗って食べたことがある。西洋の果物を保存する方法さ。凄く甘いのさ」
夢のような話を聞いていれば、誰だって一度は食べてみたくなる。治の想像を超える世界だ。
「ダンスホールっていうのも在った。極楽が本当にあるなら、きっとあんな音楽が流れているんだろう。そりゃあ美しいんだ。音楽に合わせて西洋人や貴族が、男女で体をくっつけて踊っているんだ。見せるものじゃなく、二人で楽しむ踊りなんだよ。踊りながら二人で秘密の言葉を交わし、笑ったり、抱き合ったりするんだ。紳士が、一人で居る貴婦人を誘うやり方も、こう、こうだよ」
ジルは布団の上に立ち、胸に左手を当てて腰を屈め、もう一方を静かに振りおろし、挨拶の真似をした。
「変な格好だ。女になんて別に挨拶しなくてもいいのに」
治は言った。
「駄目さ。西洋ではご婦人は大切にされている。紳士がいくらそうやって誘っても、ご婦人が気に入らなければ断れるんだよ。でも反対にご婦人の誘いを紳士は断れないんだ。長い脚のグラス茶碗に、透き通った赤や白や桃色のお酒を飲んで遊ぶ。日本人だって負けていない。洋服を着た日本の紳士はカンカン帽、ご婦人はパラソルを差して歩いている。着物の人だって、帽子をかぶったり、お金持ちのお嬢様は、袴に靴を履いていた。髪を垂らして大きなリボンを付けるんだ。そうして、舗装された道をしゃれた足取りで行き交うのさ」
どんな音楽だろうか。男と女が身体を密着させて踊る『ダンス』とはどんなものだろう。
「ボォーボォー汽笛を鳴らし、港を出て行く外国船は大きくて力強い。街を抜けて静かな広場に出るとさ、十字の形をした外国人の墓地があったよ。緑の中に白い十字が沢山、沢山。知らない国へ来て、死んだ人達さ」
横浜と言う街の名は、遠い空の果てにあるバラ色の光に包まれた異国だった。
社から戻れば、夢を見ているようにぼおぉっとしている。
「魂を抜かれちまったみたいだ。野良仕事に精を出さない、返事もしない。挙句は飯を残すんだよ」
治の母まつは、草吉の母よねや、八州雄の母きくにこぼした。
息子は次第に無口になり、思いつめた目になる。親達が咎めても、息子等は社通いを止めない。
女達の中には、ジルへの苦々(にがにが)しい思いが渦を巻いていた。
「社へ行ってから、せがれが変わってしまった。みんな社の小鬼のせいだよ」
まつは唇を噛む。
「知っているかい?この間大雨が降ってやきもきしたろう。ジルが降らせたんだと。本当は社の境内に、息子が埋められているかもしれないよ。峰雄が、境内を掘ってるジルを見たって」
よねは山を見つめて言った。
「埋められてるって、死んだってこと?」
きくは肩を震わせ、泣き出した。
蛍草の咲き出す頃、村人は敏感になる。
雨だ。
雨の到来が、村の運命を握る。
新しく祭ったミツハノメノカミに、村人はせっせとキュウリや南瓜を供える。
「蛍草を摘んではいけない、蛙を殺してはいけない」
子供の時から父母に言い聞かされた掟は、陰惨な匂いがした。
やってはいけないと言われればやってみたくなる。子供等は誰しも身に覚えがあった。もっとも蛍草を摘んだところで、雨が降ったためしは無い。
ジルだけだ。ジルだけが本当に雨を降らせる。
秀信も心当たりがあった。
「念じ方が足りないのさ。あたしが雨を降らせる。どんな雨がいい?」
「篠つく雨」を頼むと、秀信の目の前で蛍草を摘んで見せ、知らない言葉を唱える。
翌朝本当に篠つく雨が降り、野良仕事を休むことができた。
「いつ、ジルを殺るか」
峰雄が言うと、熊蔵、勇次は俯いた。
長光のテントを見張り、動向を観察していた面々は、峰雄の家の納屋でひそひそ話し合う。
ジル親子を探しに来た者でも、巡邏の回し者でもなさそうだったが、危険な者には違いない。ジルがあのよそ者に母親のことを話したら、ただではすまない。
「秀守じいさんの言いつけを無視してよ、血気にはやって女を死なせたが、ジルが見ていたかと思うと俺は…」
勇次が口ごもる。
「人殺しだぞ」
熊蔵が言った。
「だから、きっかけを作りゃいいのさ」
峰雄が皆の顔を見渡す。
「どんな」
勇次はおどおど尋ねる。
「実際、村の大事な社に住み着いて汚したのはあの親子なんだ。あの女が美しくなきゃ俺等は惑わされたりしなかった。だから悪いのは俺等じゃねぇ。ジルに責任を取らせるんだ」
「どうやって」
「俺等がジルを捕まえて滝壺へ連れて行く。そこで村から消えた連中のことをジルに問いただすってことにする。ジルは責任を逃れるために滝壺へどぼーんって寸法よ。親子が逃げて来て随分経つが、誰も追ってこねぇし、探す奴がいないってことだ。俺等だけの秘密にできる」
物騒な計画を、目をぎらつかせて語る峰雄は、最初にジルの母親を犯した。
秀守じいさんが死んだ時、鬱憤の溜まっていた彼等は限界に来ていた。余所へ出かけて女と遊ぶ金はない。村に適齢の娘もいない。子供が居ても良い年だというのに、このまま朽ち果てるのかと思うと遣り切れなかった。
「秀守じいが死んだんだから、もういいら」
澱んだ月の、湿った夜に、峰雄が熊蔵を誘った。熊蔵は少し躊躇い、勇次を仲間に引き込んだ。夜陰に紛れ、三人は社を目指した。
戸を開けた時、はっとした女は夜露のように美しく香しかった。一瞬息を飲んだ。
そこで引き返していたら、と何度も思う。
澱んだ月のせいだ。
湿った夜のせいだ。
女が叫び声を上げたせいだ。
峰雄は咄嗟に女の口を塞ぎ、無言のまま目的を果たした。峰雄に促され、熊蔵、勇次が後に続いた。
暴虐な光景が、悄然とするどころかかえって欲望に火を放ち、貪った。
三人は欲に蠢く、地獄の巨大な芋虫だった。
体中汗にまみれ、荒い息で肩を震わせた男達が床にだらしなく足を投げ出した時、
「おい、おいっ!息をしていない。女が死んでる!」
峰雄の声に、熊蔵と勇次はひーっと叫んで後退った。
「子供が!」
熊蔵がジルを指した。
社の作る暗闇にじっと佇んで惨状を見ていた、青い目の子供。
「誰かに告げ口したら、てめぇのおっかあと同じ目に遭うぞ。黙っていろ!」
峰雄はジルの首を軽く締め、失神させた。
「どうする?おい!どうする?」
熊蔵はおたおたとするばかり。勇次は腰を抜かしている。
「俺が親父達を呼んで来る。いいな。子供を引き戸の中にほうりこんでおけ」
恐怖に見開いたまま死んだ女の目、女の顔に残る赤黒い手の痕。全てを目撃し、峰雄を見つめていたジルの目。
(あいつは覚えている。俺を呪い殺しそうな青い目だ。あいつの心は、あの眼のように凍っている。あいつはきっと俺等を罰っしにやって来る。ちくしょう!その前に殺ってやる)
朧月の夜、峰雄は決まって悪夢にうなされた。おや、あれは?と思っていると、目を見開き、無念の表情を浮かべた女の顔が遠くからほとほとと近づき、来るな!と逃げ回るのだが、女は音も無く距離を縮めている。死んだ女の、白く濁った眼が峰雄の瞳を覗き込むと、視界は真っ白になった。毎回、汗びっしょりになって飛び起きる。
それでいて、欲望を求める夢には、ジルが女の姿で現れ峰雄を昇華させるのだ。
どうせ既に女を殺している。
「自殺に見せかけるのか」
勇次は震える声で言った。
「やるしかねーら」
熊蔵はぼそりと、同意した。
「そろそろ雨が降る頃だ。大雨になったら滝壺にジルを沈めるんだ。絶対死体はあがんねぇ。村のもんも、俺等を疑いはしねぇ」
峰雄の顔は醜く歪んでいた。
(俺がやったんじゃない、勝手に飛び込んだんだ)
よそ者のテントを探っていた時だ。よそ者との会話で薬売りがすべてを見ていたと知り、ほおっておくことはできなかった。体は自然、川の流れにそって山道を行く薬売りの後を追った。
峰雄に気付いた薬売りは鎌を見て恐怖にかられ、走り出した。
(あの眼はやばい)
薬売りは己の本能に従っていた。
「その先は滝壺だ!行き止まりだぞ!」
峰雄の声がこだまする。
走るでもなく、怒声を浴びせるでもない峰雄の静かな歩みは、勝利を確信した肉食獣そのものだった。
逃げれば逃げるほど、獲物は絶望に支配される。
峰雄が投げる狩りの生体反応は満ち足りて、死角を与えない。
薬売りは肩で息をして、滝壺の際で止まった。
さっと下を覗くと、滝と川の流れの距離は高くないようだった。
峰雄はゆっくり近付いて来る。
「だ、誰にも言わない!」
薬売りは叫んだ。
「よそもんにしゃべった」
峰雄は悠然と返した。
「やっぱりお前だったんだな」
「ああそうさ」
薬売りは峰雄に薬箱を投げ、ひらりと宙を舞った。
峰雄が覗き込むと、滝壺の意外な深さを見誤り、沈みながら苦悶の表情を浮かべてもがく男の顔があった。かっと目を見開き、魚のように口をぱくぱくさせて峰雄を見ている。
心臓は耳の中で雄叫びを上げ、頭の芯が霞む。毛穴と言う毛穴からぶわと吹き出す汗に、全身がびっしょりと濡れた。
女が死んだと分かった瞬間感じた、どす黒い沼に落ちる絶望ではない。
やってやった。秘密を知るものを葬ってやった。俺は浄化されている。
両袖からぼしゃぼしゃ滴り落ちる汗が心地良い。
滝壺の起こす朝の風が峰雄の頬を叩く。いつもと変わらぬ鳥たちの声が漸く耳に戻ると、胸の奥がぎしぎし鳴り、握り拳大の熱い汁が臓腑に落ちて満腹になった。
だが俺は、奴に触れてもいない。指の一本も!
辺りには、子供に配る薬売りの紙風船が地面に散らばっていた。
一つ一つ息を吹き込んで膨らませ、滝に落とす。
峰雄は知った。
新しい罪が、最初の罪を遠のかせるのだ。その証拠に女の夢にうなされなくなった。
峰雄は我に返り、熊蔵と勇次をねめつけた。
(ジルを葬れば、女に縊られる夢を見なくなるだろうか)
と、熊蔵は密かに思う。
二人は、ずぶぬれに汗を?き、近頃めっきり落ち窪んだ目の奥で瞳をぎらつかせる峰雄に、縋るしかなかった。
村人の葬式を見た日から二日ほどして、長光のテントが軽く叩かれた。
「誰」
探るように声を出すと、
「あたし」
と、ジルが言った。
「なんだ」
ほっとしてテントを這い出し、ジルを見上げる。彼は白地に朱や紫に染め出した瑞雲、その雲に見え隠れする菊、牡丹、藤を描いた夏らしい着物を着て、艶っぽく立っていた。
二日見ないでいると、ジルの美しさが一入感じられる。
彼をモデルにした絵の構図を、二日間ずっと描いていた。
「怒っているのかと思った。そうだよね、あんたには奇妙な葬式だよね。都会じゃあんなことしっこないもの」
ほうぅ、この子も悩むのか。
「気にしていないよ。驚いたが、各地の習慣を侮辱する気はないんだ。行ってもいいかい」
「ああ」
長光は素描帳を持った。
社の中は綺麗に掃除されている。
「ジル、君は一体どこから来たの。君の父親は?」
「父親?どうでもいいや」
ジルは笑った。
既に長光は、ジルを描き始めていた。
「だって、今更どうするの。あたしが変わるわけじゃない。あたしのことを大切と思う人がいたら、きっと探しに来てるよ」
「君はお母さんのことをどうしてマミーと言うんだい?裕福な家の子供でも言わない」
「マミーが自分のことをマミーと言ったんだ」
長光の素描は早い。
「指を天を仰ぐように差し上げて」、「抱えきれない花束を抱くように」、「中指を折り曲げて、その他の指は反らせて」と矢継ぎ早に注文した。
これが始まると、満足するまで止まないことは学んだ。
画家と言う人種がジルに衝撃を与え、敬意を与えていることを長光は知らなかった。
(そういえば)
あの青い鳥はどうなったんだろう、とジルを盗み見ると、まだしっかり住み着いている。
「あたしが覚えているのは、横浜って街のことだよ」
(やはり)
外国人が彼の母親と恋に落ちる情景が目に浮かぶ。
ジルの美しさは他国と混じった血の成せる技なのか。
「もう少し顔を上げて、そう」
彼のまとう着物の模様も克明に写し取る。
「見せてくれる?」
他の着物を望むと、ジルは広げて見せてくれた。高価なものばかりだ。ジルの母親を取り巻く環境が偏見に満ちていなければ、今頃おぼっちゃん暮らしだったろう。
(どうでもいい。村の不思議な葬式を見てから、ジルのやり方が分かって来た。多くを考えないこと、気にしないことだ)
夢中で描く、大事なのはそれだけだった。
漸くだ。
漸く描きたいモノに出会えた。ジルは発想をくれる。霊感をくれる。
魂が燃える。
熱中していると、長光は無口になった。
ジルは長光の求めるポーズを一度も拒まなかった。
画家とモデルの間に生じる無言のやり取りは、絵の完成度に直結する。
(ジルは、描いて欲しいのだ。最高の自分を余すところなく描き写し、怒涛の時間に鋲を打ちたいのだ)
長光の筆は見えない波に乗って、永遠の海を漂うごとく走り続ける。
(こんなことは生まれて初めてだ。今までのモデルは何だったんだ。ジルが私に描かせている。主導権はジルにある)
甘美な秘密の会話は、きっと絵の中に封じられる。
彼がいつか見た風景を、長光は耳目に浮かべた。
春の雲居に、悠然と旋回する鳶の飛行。じっとしておいで、と地上の鳥達が黙っている。
蝉時雨の降る利休鼠の川面に、丸い水の塊がぽとぽと音を立てて下り、翡翠が愛の為に魚を狙う。
紅掛花色の、山の稜線に茂る木々のシルエットが木枯らしに震え、墓場鳥が縮こまって潜むねぐらに、さぞ今宵は心細かろうと心配する。
小さな火鉢に冷たい指先をかざし、干した芋の焼ける甘い匂いに微笑み、それをくれた者の安否を思う。
長光は、ジルの投げて寄越す音楽のような心を映像にして、ことごとく受け取った。
二人の作る濃厚な時間に猫が割って入り、ねよぉねよぉと甘えた。
漸く疲労に気付く。
「ふう。何十年も生きた気がする」
とジルは言って布団を敷き、炒り大豆を抱えさっさと潜り込むと、長光を手招いた。
良く天日に干された藁布団は、懐かしい太陽の匂いがした。
暫く床の中で腹這いになり、炒り大豆を食べる。
「皮ごと食べなよ、お腹が膨れるからさ」
皮をむいているとジルに注意され、苦笑した。
「ああ。東京にはこんな伸びやかな生活はない。どんな傑作を描いたか、腕が落ちたの、誰に影響を受けてるだのと、きりきりしている。寝食忘れて描いた作品が一度審査員や同業者の目に晒されると、遠慮ない批評が浴びせられる。批評家の意見に一喜一憂して、どうして大事な人生を磨滅させねばならないのか。絵を描くとはどういうことか、考えてしまう。雪彦は…雪彦というのは私の友人であり、人気の画家なんだが、今を巧みに泳いでいる。彼の絵画と審査委員の評価が上手く噛みあっているんだろう。本心は違っていたとしても、彼は富と地位を得た。生きることが明日の死を含んで存在する現実が、人間の誠なんだと私は思う。私は絵を描く対象に、惚れて惚れて惚れ抜いて、描きたいんだ」
長光は興奮し、ジルを相手に捲し立てた。
「長光」
「え」
「寝なよ。あんたは時々、切れるね」
「え?」
戸惑う長光を見て、ジルは大人っぽく笑った。
「その『雪彦』って人がどんな絵を描くか知らないけど、あんたはあんただ」
ジルがロウソクを吹き消す。長光の肩から力が一気に抜け落ちた。
「ふふふっ。で、あたしに惚れたの?ふふふっ」
「・・・」
耳が熱い。
頭に血が上る。
惚れた?
少年の美しい時間が過ぎて、彼はこの先どうなるだろう。社の守り人として、ただ施しを受ける異形な人間に成るのだろうか。耕す畑も稲を植える水田も持たず、僅かなシンパだけで生きていけるだろうか。
離したくない。
長光は、唐突な衝動に射たれた。
「ジル、私と大陸へ行かないか」
自分でも思いがけない言葉を発していた。
「ここでずっと今の暮らしを続けていくことはできない。私と一緒に行こう」
ジルは、薄暗い床の中でじっと長光を見つめ、微笑んだ。
「大陸ってどこ」
と、ジルは静かに尋ねた。声は微妙な興奮を含んでいた。
「新橋駅から敦賀、敦賀からウラジオストックへ船で渡り、シベリア鉄道に乗ってパリ、それからロンドンを目指す。君は私の弟になって、洋服を着てロンドンの街を歩くんだ。私は絵と言葉を学ぶ。君も学校へ行って、友人を作れ。午後のお茶の時間に友達を呼んで、ロンドンの劇場で見た芝居や音楽の話をしよう。ロンドンを拠点に、ドイツにも行こう。スペインや北欧を訪ね歩こう。沢山の紀行スケッチを描いて日本に送れば、生活の足しになる。皆外国の情報に飢えているからね」
長光は、夢の翼が大きく広がっていくのを感じた。実現不可能なことではない。
素描を終えたらジルを置いて村を出る?
いやだ。
ほうってなどできない。
「君は美しい青年になって、恋をして、結婚して、父親になって、ロマンスグレーの紳士になるんだ。そうしよう」
ジルはふふふと笑った。
「うん、いいよ」
「約束だ。私と一緒に、村を出よう」
「うん。ろんどんへ行くんでしょ」
「そうだ。あ、でもロンドンは大陸じゃない、島国だった」
「あ、島なんだ」
長光は、軽く付き合うジルが切なかった。いくらでも耳元で囁かれた男達の、戯言の一つに過ぎないのだろう。
(私は本気だ)
テントの着替えがジルの背丈に合うだろうか、と思いを巡らせた。
「白いシャツはきっと君に似合う。村を出たら、町で君にぴったりの靴を買おう。実家に戻り、家族に説明して兄弟の届を役所に出す。絵を描き上げ、雪彦に見て貰って金銭を用立てて貰う。それから旅券を手配し、大陸を目指す」
まだ見ぬ異国の風景に、洋服を着て笑うジルの顔。薄曇りのロンドンの空の下、皆の注目を浴びるのだ。
「ふーん。…ふふふっ」
ジルは長光を斜めに見上げ、乾いた笑い声を立てた。
現実が欲しくて、長光は思わず彼の唇を自分の唇で塞いだ。自分でも思いがけなかった。
ジルの唇は水のようにひやりとしたが、内部は火のように燃えていた。
ジルは素早く反応し、長光を引き入れた。
青い焔が体内に忍び込み、ジルの魂の欠片を飲み込んだ。僅かな拒絶も無い、海の様な寛大さで長光を鎮めて行った。
ジルは蛍草の一つ一つに捕えた蛍を入れて提灯を作った。
夏の夜風に蛍の花提灯は雅に揺れた。
濡れ縁に座り、長光の残した煙草を吸っていると柿の味がする。
(長光はテントで何してんだろう。あたしを思い出して、また描いているね)
彼は、明日はシャツを持って来る、と言ってテントに戻った。
(ろんどんにも雨は降るだろうか)
朝ごはんをねだりに来た猫の頭を撫で、微笑んだ。
(今夜は誰が来るかな)
蛍草の提灯にちらりと目をやって、雨の訪問客を待つ。
雨は、夕暮れを過ぎて降り出し、強くなった。蛍草の蛍を放してやる。今夜中に恋人を探し、一生を終えねばならない。
「ジル、俺だよ、ジル」
蚊帳の中に横たわってうとうとしていたジルを、今夜の客が呼んだ。
「治」
治はジルを見ると、堪らなくなって駆け寄り、口づけの嵐を浴びせた。
「っ、どうしたんだい、治」
治はジルの軽い戸惑いに身を離し、俯いた。
「ジル、俺は決心したんだ。俺はこの村を出て行く。ここじゃどんなに働いても貧乏から抜け出せない。街へ行って一旗揚げるよ」
二人は暫く沈黙し、見つめ合った。
「マミーとダディはこのことを知っているの?」
ジルの物言いに、治は眼を瞬かせた。醜くくたびれきった親が、妙に愛おしい存在に思えて来る。
「知らない。話せば決心が揺らぐ」
「気持ちは変わらないんだね」
「ああ」
治の声が、前途の不安と大それた計画で興奮し、震えていた。
「今夜絶好の雨だ。誰にも見つからない」
治の荒れた手が、ジルの手を愛おしそうに握る。
「行く前に、あたしを抱いて行ってね」
とジルは言った。
今生の別れだ。
「もし俺が金持ちになったら、きっとお前を迎えに戻るよ。俺の弟ってことにすりゃ、どこでだって暮らせる」
皆同じ約束をする。
ジルは老人のように、若者の言葉を聞いていた。華やかな街を見れば、村のことなど忘れてしまう。
美しい街、美しい家、美しい娘が若者の心を虜にするだろう。それでいい。
ジルは、逞しい腕に抱かれながら、ひたすら治の前途に幸あれと祈った。
「さらば」
治は言った。
見送れば、去ってゆく者の運命を見抜いてしまう。
「ごきげんよう」
ジルは床の中で別れを告げた。
治は、篠つく夜の雨の中に消えた。まだ床の中にぬくもりが残っている。
今どのあたりを治は歩いているだろうか。濡れる草に足元をとられはしまいか。
ジルはぬくもりを摩りながら、治に降り注ぐ未来を思った。
(草吉、八洲雄…)
自分を愛してくれ、治と同じように街へ出て行った若者達の名を唱える。
社の屋根を叩きつける雨は、ジルを郷愁で包んだ。
治の出奔は、村に思いもよらぬ波紋を広げた。
彼は、大事な跡取り息子だったのだ。十歳の娘を奉公に出したばかりの上に、息子が消えてしまったのだから、母親のまつは半狂乱になった。
「あんた!あんた!治がいない!」
父親の留蔵が調べると、身の回りの品が僅かに無くなっている。村を出て行ったのだ。
「落ち着け、治は街へ出て行ったんだ」
夫の冷静な言葉が彼女を逆上させた。
「ちがう!ちがぁーう!社の鬼に食われたんじゃ!」
叫びながら外へ飛び出し、わあわあ大声で泣き喚いた。
「どうしてあんたは平気でいられるんだよ!治は夕べジルんとこへ行ったんだ、ジルんとこへ!」
「ばか、止めろ!」
「何だい!みねを売っぱらったくせに、治までぇ!」
他の村人達がどうしたどうしたと集まり始め、まつの狂乱に茫然としている。
秀守一派は家の戸口に立ち、遠巻きに様子を探る。秀信、定夫、松五郎、茂太は視線を交わし合った。
「そうじゃ!そうじゃ!八洲雄も社の鬼に食われたんじゃ!」
まつの悲痛な叫びを聞いた八洲雄の母親きくに、狂乱が染った。
「草吉もそうだった。ジルんとこへ行った後いなくなった。うちの草吉を返せ!」
よねも加わり、三人の女は大声で泣き始めた。
峰雄は熊蔵と勇次に目配せした。
「村の不幸はジルが元凶だ。あいつを何とかしないといけない」
いの一番に峰雄が言った。
「そうだ。あいつは災いの元だ」
「あいつのせいで、村の働き手が消える」
熊蔵、勇次が続く。
「あいつは、村のもんが洪水を恐れて蛍草を摘まないのをわざと摘んで、雨を思うがまま降らせる。俺等が狼狽えるのを高みで笑ってるのさ。あいつの所へ行って頭を狂わせられたもんが、今までどんだけいたか」
峰雄の口からすらすら言葉が出る。
「峰雄、あいつを何とかして。治を返して貰って!」
まつが叫んだ。
「ジルのせいで草吉がいなくなったんだ。あんたは口惜しくないのか!」
よねは、嘆きもしない夫を責めた。
「あたしを置いて八洲雄が居なくなる筈ない。悪い知恵を吹き込まれたんだ!」
きくも負けじと喚いた。
腹では村を出て行っただけだと思っていても、口に出す者はいない。
稼いで帰ってくれば良いものを、音沙汰無しでは母は狂う。
女達は、一層声を張り上げて泣いた。
「長雨のせいで川が切れて、尋常じゃ無い数の死人が出た。あん時ジルが蛍草を両腕一杯に抱えていた。おらぁそれまで迷信だと思っていたが、あいつがやると本当に雨が降る。それまでの土地を失って、新しいここで土地を耕すのにどんだけ苦労したか」
いつの話だ、と口を開きかけた定夫を、秀信が押し止めた。
峰雄がこちらを睨んでいる。
秀信は、唇を噛んだ。
呆けた年寄りの昔話をまともに聴く者などいないが、秀守亡き後もジルの世話を焼く自分等一派が気に食わないのだ。
「まつさん、よねさん、きくさん。今日は仕事を休んで話を聞くよ。さあ」
他の女達が肩を抱き、家に誘う。
「干し芋を焼いてやるよ」
「わらびの漬物を持って行ってやるよ。丁度塩を抜いたとこだから」
「葛餅を作ってやろうかね」
と食べ物で気を引き、三人を促す。
「おばさんたち、ジルのことは俺に任せろ。他の皆は自分等の仕事だ。さあさあ!」
峰雄は村長ぶって、解散させた。
熊蔵と勇次がのっそり峰雄に寄り添う。良い流れが来ていた。
長光は急に嵩の増した川に釣り糸を垂れ、干し肉をかじりながらのんびり朝を過ごしていた。
魚を釣ったら、ジルを描きに行くつもりである。服も一式用意した。
素描はだいぶ溜まったが、満足していない。
もっと、もっと、もっと…。
絵の構図が、長光の頭の中で騒いでいる。
(社も描いておこう)
彼は針にかかった魚の呼吸をすかさず捕え、竿を思い切り引いた。
大きな鮎であった。
五匹ばかり釣れると、長光の顔に満面の笑顔が広がる。ジルの喜ぶ顔が浮かんだ。
社に続く道を若者のように登ると、ジルは庭で小さな穴を掘っていた。
「何をしているんだい」
『庭に死体を埋めている』という村人の言葉が過った。
ジルは答えなかった。
黙って立ち尽くすジルの足元を覗くと、蛍草だ。
「花、埋めたのかい」
ジルは頷いた。
「毎回埋めるの?」
「ふう」
ジルの目が漸く長光を捉える。
(ああ、この青だ。私はこの青に会いたいんだ、いつも)
長光は微笑み、服と魚を差し出す。
「夕べのお客が油揚げをたくさん置いて行った。一緒に焼いて食べよう。それに、今夜良い物が見られるよ」
画家は生来好奇心が強い。取り分け長光は自分でも思うほど、珍しい物、未知の物に弱かった。
「あんた好きそう。画家だから」
ジルは普段の口調に戻って言った。
長光は頷き、素描帳を取り出した。社に目を向ける。
画家の時間が流れ始めると、ジルは魚を持ってぴょんぴょん社の裏手へ回った。
今日は建物や風景を描くらしいと分かったからだ。自分を描きたいなら呼ぶだろう。
ジルは『月夜』を歌いながら魚と油揚げを焼いた。
遠雷が聞こえる。
治のことはもう頭に浮かばない。蛍草の埋葬がジルの忘れ方だ。
(村人の『死体が埋まっている』は、まじないに使った蛍草のことじゃないか)
長光は、社を描きながら安堵していた。
シジュウカラの声が響く。同じ鳴き方でも悠長なのがヤマガラだろうか。律儀な本能に従う小さな生き物が、辺り一杯に溢れている。
世界の祝福を感じながら絵を描くひと時が、長光を神の次元へ誘う。
村人達の住むあたりから、青々とした風が社を登って、長光の背を滑った。
自分が自分であることの喜びが、風を介して知らされる。
二人で魚を食べていると、猫が現れてジルに分け前をねだった。
食べかけを猫に与える。縁側に子猫の頭が二つ、覗いていた。
「ぱり、ろんどん」
ジルは子猫を指して言い、笑い転げた。
長光も笑った。
心は木々の梢から自分を見下ろし、風と共に走って行った。
夕闇迫る低空に、でろりと赤い月が浮かぶ。
待宵草の淡い黄が侘しく揺れた。
土間で農機具の手入れをしていた定夫がひょいと外を見ると、除虫菊の煙のむこうに、二つの提灯がぼつぼつと移動して行く。
(熊蔵と親父さんか?集会なんか聞いてねぇら)
集まりなら誰かが呼びに来る筈だが、提灯はそのまま去って行った。
定夫はそっと後を着けた。あんな騒ぎのあった後だ。提灯は初夏の澱んだ空気を禍々(まがまが)しく裂き、峰雄の家で消えた。続いて現れる者はいない。戸の吹き間を覗くと、熊蔵、勇次と、二人の父親達が集まっていた。
「あいつにはどうせ探している者もいねぇ。滝壺に沈める」
峰雄が言った。
「あいつは、あの夜のことを覚えている。少し前、川で奴を見かけた時、俺の顔をじっと眺めていた。寒気がして二晩も寝込んださ」
勇次が続いて言った。野良仕事に明け暮れる彼等の声は、いくら潜めても良く響き渡る。
「お前らが馬鹿なことすっから」
峰雄の父親は声を落として吐き出す。二人の父親はただ悄然としている。
「親父達が死体を片付けたんじゃねぇか。今更なんだ、共犯だぞ」
峰雄は口を尖らせて父親達を責めた。
「あん時ジルもやっておけば良かったんだ。仏心を出すから」
「何言ってんだお前!子供に手を掛けるなんて、人間のすることじゃねぇ。お前は…」
「じゃぁ、親父は俺等が捕まっても良いってのか?そうしたくなかったから女を片付けたんじゃないのか。まさか親父もジルが神の子だとでも思ってんじゃねぇだろうなぁ。あいつは成長してんだぞ。子供じゃなくなるんだぞ!」
峰雄の父親は黙った。無念の表情で固まった女の死体を、熊蔵と勇次の父親とで片付けた。女の固い感触、死の匂いが今も離れない。何も知らぬ他の村人に「母親がジルを捨てて村を出て行った、峰雄が見ていた」と嘘を吐いた。埋めた場所が夢に出てうなされ、一年後、内緒で白骨化した骨を壺に納め、滝壺の近くへ水天宮と称して祠を建ててやった。すまない、すまない、と言いながら、自分のできる精一杯の供養だった。峰雄は、近頃意味も無くわめいては暴力をふるう。水天宮でジルを見かけた時、肝が冷えた。青く澄んだ目で自分を真っ直ぐ見つめていた。母親の着物を着てただじっと。
祠に幾ばくかの芋や果物を供えると、暫くして無くなっている。ジルが持って行ってくれたのなら、せめてもの慰めだ。
ジルがいなくなれば息子の暴力は止むのか。
(俺はやる相手を間違ってやしねぇか…)
恐ろしい思いがふと過った。
「もうやめろ。峰雄の言う通りだ。今更遅い」
熊蔵の父親が苦しげに言った。
「遺体が外に流れ着いたらどうする」
「なぁに、ここは水に浸かるんで有名だら。溺死体なんぞ流れて来たって、驚きゃしねぇ。それに、滝壺は深い。浮かんじゃ来ねぇ」
勇次の父親に、峰雄は明確に答えた。現に、薬売りは流れ着いて来なかった。
「ジルをやるには一つ問題がある。あの画家とか言う奴だ。奴のテントを壊して警告を与えたが、もしまだ村に居たら画家もやる」
峰雄は唇をなめて言った。
「あのよそ者が村の空気を?き回したんだ。お情けで見逃してやるって警告を無視すんなら、仕方ない。旅の途中で死ぬ奴なんて珍しくない。俺はジルを、熊蔵と勇次は画家をやれ。逃せば巡邏を呼んで来るぞ、あいつは」
名指しされて、熊蔵と勇次は大きく頷いた。こんな村に旅人が埋められても探せやしない。
「で、いつやる」
熊蔵が喉を涸らして言った。
「もう少し暗くなったら、決行だ」
(ひっ!)
聞き耳を立てていた定夫は己の口を塞ぎ、そっと峰雄の家を後にした。
風は重い湿気を含んでいた。蛙の鳴き声もない。
(あいつらがやったんだ。ジルのかあちゃんをこ、殺した!)
否、誰も言わなかったが、ジルの母親が姿を消したと聞いた時、死んだのではと疑っていた。
こけつまろびつ、定夫は走った。
「秀信、大変だ」
火の無い囲炉裏端で、冷えた粥を食べていた頭が一斉に定夫に向いた。
「み、峰雄達が、ジルを滝壺にし、沈める相談をしている」
定夫は唇の色を失い、がくがくと震えていた。
人間に雨を降らせる力などない。蛍草を摘んだくらいで雨など降る筈がない。馬鹿げた迷信だ。ジルが他の人と違うのは、目が青いということだけ。
狂っている。
村を包む狂気を、傍観している猶予はなかった。
「父ちゃん、母ちゃん、社へ急げ。きっと峰雄等はジルだけじゃない、俺等も捕まえるぞ」
秀信は弾かれたように言った。
「まさか、いい大人が峰雄達に踊らされるなんて」
秀信の父親は、長年知る村人を悪く思うことができなかった。
「今すぐ?」
母親は怪訝な顔で、貧しい食卓を見回した。
「峰雄を分かっているだろ。用心するに越したことはない。早く!」
秀信は定夫に、茂太、松五郎の元へ走らせた。
社で集合し、山を越えて村を出る。行くあてなどないが、皆が居ればなんとかなる。秀信はそれだけ考えて皆を急かした。
村のことなど知る由も無いジルは、三方に油揚げを積み、ご神体へ供えた。
長光は黙って彼のすることを眺めている。
何かが訪ねてみえるらしい。
ローソクの火を二本残した後、他の灯りはすべて消し去って、戸を開けたままにする。
「おいでよ、長光」
ジルは床に腹這いになり、長光を呼んだ。
「描くものを持ってた方がいいよ。きっと描きたくなるだろうから」
「分かった」
長光は素直に従い、ジルの隣に腹這いになった。
「もうすぐ雨になる。こういう時、必ず雨になるんだ。あたしのせいじゃないけどね、村の連中はあたしがやっていると思ってんのさ」
と、青い目を輝かせて言った。
僅かな明かりでも、ジルの青い目をはっきり捉えるようになっていた長光は、大きな期待に筆を握りしめた。
草の匂いと共に、湿った重い夏の夜気が漂う。
「来た」
驚くべきは少年の耳の速さである。
長光の耳にも明らかになったそれは、動物のものであった。
ふとふとふとと、足音は社目指して向かって来た。
一つや二つではない。整然と真っ直ぐこちらへやって来る。
ひょいっ!
薄暗い社の中に、動物の鼻先が覗いた。
(あっ!)
長光が驚くより早く、動物は全身を現した。
見事な黄金色の毛並みを輝かせた狐である。
『彼』は社の中に入ると、躊躇いもせず三方に積まれた一枚の油揚げをくわえ、しなやかに反転した。
出て行くと、新たな狐が社に入り、油揚げをくわえて先の狐に倣う。
後から後から、同じ動作を繰り返して五匹の狐が、ジルの供えた油揚げをくわえて行く。
狐の尾はうっすら光っていた。
長光は彼等の行動が開始された直後から夢中で筆を走らせた。
終いには涙が浮かんだ。
誰も余計に油揚げを持って行かない。一匹が出ると、次の狐が入る。どの狐の尾も薄闇に燃え、黄金の体をあますところなく晒す。
最後の狐が去った後、ジルは社から静かに追って出、狐の提灯が一列に並んで山へ消えるのを、いつまでも見送っていた。
「ね、いいだろう」
ジルは、横に立つ長光に言った。
「ああ」
山の道が蛇行すれば、狐火も蛇行する。
同じ速度、同じ感覚で狐達は登って行く。風に煽られて揺らぐ木々の間に、狐達の火が見え隠れした。
乱れぬ行進の見事さ。
何故途中で止まらないのだろう。油揚げをくわえてどこへ帰るのだろう。
狐達の足元を濡らす蛍草の抱いた露を思い、咲き始めた竜胆の青を思う。
何者も彼等の行く手を阻まぬよう、彼等の足を傷つけることのないよう、長光は祈った。
古の人々は、周囲の生き物と通い合っていた。
神の居る、暮らしだ。
恐ろしい密談が終わって、峰雄の家を出た熊蔵が山を指した。
「何だあれは!」
ぽつぽつと仄かな光が山肌を登っている。
じっと息を殺して眺める。
人の作り出すものにしては、乏しい光だ。
「火か?」
「いや、火ならもっと明るいし、上に移動している」
「強盗団とか?」
騒ぎを聞きつけた近隣の村人達が家々から出て、熊蔵の指す方向を見る。
「山に登って行く」
「本当だ、次々と」
「もしや、あれが伝えに聞く『狐火』じゃぁないか」
「ええ?」
女達は気味悪がって肩を寄せあう。
「ジルだ。あの鬼が操っているんだ」
よねが呟いた。
よねは、ジルが人や獣の魂を操ることが出来ると信じているのだ。
「ジルは霊魂となって、夜な夜な俺らの村を覗き見ているんだ。青い目はそのせいだ」
峰雄がほくそ笑んで言った。
「聞いたことがある。『狐火』は大勢の人間が死ぬ予兆だって」
勇次は峰雄に負けまいと言い募る。無論、でまかせだ。
「あれは大雨を降らせるジルの呪いだ」
峰雄が断言した。
機会を逃しては駄目だ、と頭の中で声が響く。大勢を巻きこめば、何があっても責められはしない。
真っ黒な球体が腹から口へ登り、どすどす叩く心臓は耳から溢れそうだ。
神社を信仰する村人から食べ物を貰うジルが、どうして村人を呪うというのか。
矛盾を正す者がいない。
雷鳴が次第に近付いて来る。
「ジルの呪いは本当だ!祈祷をしていたに違いない」
まつが空を見上げ、金切り声を上げた。
「ジルの呪いだ!」
「ジルを捕まえろ!」
峰雄、勇次、熊蔵は力を込めて叫ぶ。
「火だ!火を用意しろ!ジルを捕まえれば呪いは消える!」
戦のごとき雄叫びが辺りに響く。
「皆を叩き起こせ!」
「村の総意だ!ジルを捕まえる!草吉等をどこへやったか白状させるんだ!」
村人は恐怖に駆られ、叫んでいた。
灯りの点っていない一角を見とがめた熊蔵は、中を覗いて唖然とした。つい先ほどまで粥を食べていた器が無造作に散らかり、置き去りにされて廃墟を開始した闇がどろりと振り向いた。
両頬がぞわっと泡立つ。
「逃げたあぁぁ」
頭に血が上った熊蔵が叫ぶと、無知蒙昧な善人達が一斉にざわめいた。
「茂太、定夫、松五郎の家も、もぬけの空だ!」
「秀守一派が逃げた」
「裏切り者めが」
「ジルをどこかへ逃がす気だ」
「ジルに加担するなら同罪だ!」
村人達の眼は既に血走っていた。
じっとり重い、夏の夜だ。
大気が空に蓋をして、やぶ蚊は耳にまといつく。
いつも蛙が大合唱をしている水田から、今宵はひと鳴きもないと誰が気づこうか。
「ジルを逃がすな!」
「裏切り者達に制裁を!」
「ジルの呪いから村を救うんだ!」
峰雄、熊蔵、勇次は代わる代わる叫んで鼓舞する。
松明の用意に手間取るも、村人の行進が始まった。
「草吉、八洲雄、治を思い出せ。社の鬼に操られて行方知れずだ。ジルを捕まえろ!」
(ふははははっ。村の連中が俺の言いなりになっている。皆共犯だ。馬鹿な連中だ!)
峰雄は、ひたすら込み上げる笑いを、必死に封じていた。
ジルは、狐が見えなくなると、空を仰いだ。
「長光、もうすぐ雨になる。あんたのテントが沈むよ」
と預言者のように言った。
「今すぐ荷物を取りに戻って、あたしの所へ雨宿りに来ればいい」
「構わないのかい?お客が来るんじゃないのかい」
「今夜は来ない。急いで」
ジルの言う通りになるだろう。
「じゃ、行ってくる」
長光が戻ってみると、荷物は盗られていなかったが、テントはびりびりに引き裂かれていた。
(どういうことだ、これは)
村人と頻繁に接触していたのならともかく、こんなことをされる覚えはない。怒りながら裂かれたテントを畳み、荷物をまとめた。
感動の後に思わぬ落とし穴だ。自分の存在が気に入らぬ村人が居る証だった。
「今夜の雨はちょっと危ないかもしれない」
ジルは、テントを裂かれたと怒っている長光に言うと、社の扉が乱暴に開いた。
「ジル!」
秀信と秀守一派の家族が青い顔をして立っていた。
どやどやと社へ上がり、ジルを囲う。
「大変だ。峰雄が、村の大人等がジルを捕まえに来るんだ。ジルを滝壺に沈めるつもりなんだよ」
長光は目を剥いた。
「早く逃げてジル。でないと本当に殺される、あんたも!」
峰雄達の話を聞いていた定夫が、涙声で長光を見た。
「ここへ来る。本当だよ。早く逃げなっ」
秀信は懇願した。
ジルは怯えも慌てもしなかった。
聞き耳を立て、空を見つめている。
「長光、秀信、皆で社に籠っていて。今夜は決して外に出ちゃいけない」
と言うと、社を飛び出した。
「どこへ。逃げようジル。私と一緒に!」
長光が叫んだ時、ジルは両手に何十本もの蛍草を抱え、境内の中ほどに立っていた。
「早く、社の中へ戻れ」
絶大な青石が一条の光を放ち、天を貫く。
眩しい。
「ジルの言うことを聞いて」
長光は秀信に強く腕を引かれた。
「理由があるんだ、ジルがああ言うからには!」
だからではないか。殺気立つ連中を相手に何ができる。
後を追おうとした長光は、ごおぉぉぉぅという地響きと共に、湿気を含んだ重い突風に押し倒された。
(なんだ、突然)
木々は狂っていた。各々前後左右に頭を振り、千の手で辺り構わず殴り合う。
松明の火は直角に流れ、峰雄の顔を直撃した。
「わあぁぁ」
峰雄は松明を放り投げ、女達はもんどりうって倒れる。
「ジルだ!」
誰かが金切り声を上げた。
ジルは、地獄から這い上がる亡者を遇するように仁王立ちになり、見下ろしていた。
「あ、あいつの腕を見ろ!蛍草だ!俺等を、呪い殺すつもりだぁ!」
峰雄はかろうじて叫んだ。が、体が動かない。
青い目が愚者を射抜く。
流れに押される希薄な者は、本能で己の分を知る。
「村の愚か者共。我が名は速秋津日命であるぞ!」
ジルは大音声で呼ばわった。
ハヤアキツヒノミコト―。
長光は、ジルの背中にぱっと白い閃光が走るのを見た。
稲妻がカッ!と闇を裂き、真昼のように明るくなった瞬間、耳をつんざく雷鳴が轟いた。
雨だ。
数えきれない竜の群れが、咆哮を上げて地上に激突するような、雨だ。
ひーっと逃げ出す女達に、腑抜けどもが雪崩を打って続く。
稲光の中でジルの体がひらりと舞い、長光の視界から消えた。
「ジル!」
境内に叩きつける雨は真っ白に煙り、外界を封じる。
秀信達が長光の体を社の中へ引き入れた。
「ジルは大丈夫だろうか。峰雄達を追って行ったんだろうか」
秀信の声が震えていた。
「誰も来ない」
茂太が大声で言った。隣に立つ者の声さえ雨音に掻き消される。
『我が名は速秋津日命…』
長光の耳に、ジルの声が幾度も響いていた。
「水神だ。やっぱりジルは水神だったんだ。じいちゃんは正しかった。俺は水神と遊んだんだ…」
秀信が呟く。
雨は益々激しく、社の屋根さえ壊してしまうかと思われた。
ただの雨ではない。神を殺そうとして起きた雨だ。許されるはずがなかった。
松五郎が行燈に火を灯すと、どれも沈鬱な顔が浮かび上がる。
寒いと言う者には、長光がジルの着物を掛けてやった。
「ジルは怒ったりしないよ」
長光は、ジルへの畏怖で遠慮する村人に言った。
かかかかかっ…かかかかっ…と、社が音を立て始めた。
次第に大きくなる。足元に、突き上げる震動。
「なに」
全員が息を殺し、耳をそばだてる。
震動は徐々に大きく、近づいて来る。
「なに」
額にじわり汗がにじんだ。
社全体が上下に大きく揺さぶられた。
どどどどっっ…どどどどどどっっっ…ごごごごごごぉぉぅごぉうおぉぉ…。
「鉄砲水だ!」
秀信の父親が叫んだ。
ひゃっと、身近な者同士が抱き合う。
秀信と長光は、薄く開けた社の戸に張り付いて目を凝らした。
真っ白に煙る豪雨の中、どす黒い塊がとぐろを巻き、うねっている。
「まるで、下って行く竜だ」
秀信が言った。
大きな石が赤子のように転がって行く。薙ぎ倒された木々が跳ねあがり、破壊に手を貸している。
天は狂喜していた。壊し尽くしたい、流し尽くしたい、と快哉を叫んでいた。
社の床がみしみしと呻き、水が打ち壊す大地の嘆きが伝わった。
この世の終わりはあっけない。目前に迫る死を、人はなす術もなく待つのか。
(天に勝てる者などいない)
長光がふと見ると、社の暗い隅に、眠る猫の親子が映った。
「死ぬのか…」
と誰かが言う。
「大丈夫だ」
長光は言った。
猫は悠然として眠っている。
最も確かなことだった。
「大丈夫だ」
長光は繰り返した。
「ジルっちが社に住み着いた時、石段の両脇に「竜のひげ(植物)」が生えだしたんだ。じいちゃんは水神の証拠だと言っていた。この雨は俺等への罰なんだ。稲妻が光った時、ジルが白い竜に見えた。馬鹿だ。ジルを殺そうとなんか、するから…」
秀信は唇を噛んだ。
異を唱える者はいなかった。
長光の懐中時計が朝の四時を過ぎて雨が弱まり、人々は漸く微睡んだ。
暗い山道を登るジルの着物が木立に見え隠れし、松明が後を追う。夜目にもジルの足は白く映える。松明は村人共だな、と思う。
『今日は十二日』
と声がした。
豪雨の中に万の蛍が渦のように飛び、村人を襲う。叫びを上げながら松明が転がり落ちていく。
何も思わない。
怒涛の濁流が押し寄せ、蛍の群れが天空へ駈け上った。
次々と視界に迫る樹木を巧みに交わす。
飛んでいるのだ。上昇気流に乗って村を見下ろすと、天に向けて筆を走らせる『雪彦』が見えた。
見つけたよ、自分だけの描きたいものを。伝えようとして声にならない。
狐が四方八方へ飛び散った。
長光は、どんっと足を蹴り上げ、目を覚ました。
雨の音は止んでいる。
(夢)
うっすらとかいた喉元の汗をぬぐう。
秀信が社の戸を開けると、白光が射し込んだ。社は持ちこたえたのだ。
周囲のカシやクヌギが社を守り、避難所の役目を果たした。
上から押さえつけられるような湿気と暑さ。
長光は境内に飛び降りた。
「ジルは」
「峰雄達はどうしただろう。他の連中は」
秀信や定夫、松五郎、茂太も、長光の後に続いて空を仰いだ。
鳥の声はない。地上の惨事を分かっているのだ。
百年眠り続けた微生物の死臭が酸素と太陽に晒され、腐敗の匂いがした。
逆らわずに流された木々は折り重なって、死体のようだ。
「道が土砂に埋まっている。ここからじゃ降りられない」
秀信が言った。
「遠回りだけど、上へ行くしかない。とにかく村の様子を確かめに行かないと」
若者四人は動き出していた。
社に避難した家族達もぞろぞろ這い出て見下ろし、これは駄目だと呻く。
「秀信達の報告を待とう」
賢明な判断だ。
(どこへ行った?ジル。君はハヤアキツヒノミコトじゃないか。神じゃないか)
ジルに可愛がられていた猫の親子がいつの間にか姿を消していた。
夢の余韻が足に絡み付いて、長光は均衡を失った。
(君がいないなんて、嫌だ)
手は氷のように冷たかった。
村の様子を見て戻った秀信達は、村の全滅を伝えた。
「何もかもなくなっていた。家も畑も、山津波で埋もれちまったんだ。他の連中は見当たらなかった」
「多分、もう…」
「俺等だけで捜索は無理だ」
松五郎と茂太の親達は泣き崩れた。緑の葉を水面に映し、夏風に揺れていた美しい水田が跡形も無くなった。
「隣村へ行くしかない」
秀信達はひとまず隣村へ行くことに決め、長光を促した。
「行かない。ジルが、帰って来るかもしれない」
駄々っ子のように言う。
「皆を隣村に送り届けたら、戻って来るから」
と、秀信が言い置いて行く。
独りになった長光は、村人の焼き場を訪ねた。
人を焼く窯は泥土に潰れ、足の踏み場もなく小枝が散乱し、ただ漠としていた。
二人で登ったクスノキを見上げる。
「ジル!かくれんぼは終わりだよ」
返事は、ない。
破壊された山道を、そぞろに歩く。
「ジル、出ておいで」
怒涛の水は、今は新しい流れに沿って静かに下っている。
紋白蝶がふわふわと頼りなく長光の目の前を行く。
『蝶は仏様の現身なんだって秀信が言ってた。残された家族が心配で、様子を見に来るんだって』
ジルは、社の庭に迷う蝶をぼんやり眺めながら言った。
『そうやって、小動物を守るんだよ。子供が無闇に採らないように』
『迷信にも理があるってことだね』
『ああ』
片膝を立て、腕を乗せて笑う顔が恋しい。灯火にちらちら青く光る眼差しが、声が、欲しい。
小さな傷に落ち込んでいた会話が、一足ごとに湧き出る。
「私の名前を呼んでくれ」
耳に両手をかざし、山肌を渡る風に紛れて聞こえるかもしれない。
「私を置いて行くつもりか?」
スケッチ一杯に描いた彼の姿は、長光の思い描く構図の中で衰えを知らず息づく。
社には、主をなくした着物が無造作に積まれ、お気に入りが衣桁に掛かっている。
世界が輪郭を失い、ぼやけた。膨張した水泡は、ついに飽和状態を保てず、ぽろぽろと零れ落ちた。
子供の頃から感じていた、会いたい人に会えない切なさ。
今一番愛していると思う人の顔を見ても、慟哭に似た胸の痛みは消えなかった。
違うんだ、この人ではないんだ、と庭の日向を眺めては、理由も無く泣いていた。
本当に会いたい人は誰なんだ。
性別も年齢も関係ない。時空を超えて呼び会うのは誰?
(君に会いたい)
月が夜を照らし、風に流れる雲が去っても、長光は独りだった。
(君の居る場所へ、連れて行ってくれ)
体の奥深く魂は二つに割れ、引き千切れた魂の欠片が口からゆっくり、空中へ漂い出る。
長光の魂は、青い光を帯びてゆらゆらと、回転していた。
地上は災害を忘れ、緑の侵略を開始している。
『山の神は一年に十二人の子を産んで、十二の日に山の木を十本ずつからげて数える女神なんだ。だからその日に山に入ってはいけない。人間も木だと思ってからげるんだ、巻き込まれて死ぬんだよ』
『死ぬのかい?』
『助かる方法はある。それはね…』
ジルは悪戯っぽい目をして、長光の耳元に囁いた。
答えを聞いて、神とはいえやはり女神だと笑い転げた。
長光は彼の着物を手に取り、顔を埋めた。
(明日。また明日、会えると安心していた、のに)
山の黒い峰、木々の梢、間断なく渡り行く風の方向から耳を澄ませる。
初めてジルと出会った日に、彼が歌っていたシューマンの『月夜』だ。
歌声は、金の滴のように降り注いでいた。
(ジル、君は人間だったのか?)
長光の体に激痛が走った。
山は素知らぬ顔で営みを淡々と続ける。破壊を喝采し、生命を息吹く。
ガラスの球に僅かな水がほちゃほちゃと鳴る男の魂は、涙を注いでも一杯にならない。
長光は吠えた。身悶えながら、獣の声を上げた。
(どうして私は男なのか)
青を。
蒼を。
藍を!
身の裡に宿すことはできない。
画布に屈み、筆を握ったまま静止する。
秀信に伴われ東京へ戻って以来、画室に閉じ籠る彼を咎める者はいない。
長光は、眼前に浮かび上がる蛍草の群生を見ていた。
薄靄が漂い、木立は墨絵然として濃淡に綾なす。
僅かに季節が移ろい、蛍草の群生に露草の新しい青が混じっていた。
薄靄は白い粒子を一定の速度で周囲に流し、破壊されることを微塵も疑わない。
白いベールに包まれた蛍草の群生を、さくさく踏む者が在った。
「ジル」
長光は靄に向かって呼ぶ。
『ふふふっ』
男を扇情する笑い声が響き、霞んだ木立から美しい足がひらひらと舞う。
黒い着物が靄に煙り、顔を覗かせたジルの眼は、風にさざめいて蛍草を科らせた。
猛然と筆を握り直し、長光は六曲一双の屏風に向かう。
『あたしが好き?長光』
「うん」
ジルは忍び笑った。
「ああ、オオルリをそのまま指先に留まらせていてくれ。そうして、私を嘲笑うように見つめていてくれ」
ピールリィ、とオオルリは鳴き、ジルはそっと唇を寄せる。
『しぃぃ。長光の邪魔をしちゃ駄目だ』
と言って見返す。
長光はひたすら、シアン、サファイア、ラピスラズリを塗り込む。
「そうやって、遊んでいればいい」
声のない笑いが、長光の耳に触れた。
青の下地に、蛍草の群生が奥の奥まで続く。
日本画の余白、無駄の排除、間、を一切無視して繚乱。
花の頭は、左から右へ渡る風の軌道を示していた。
一、二扇に、オオルリを指先に捉えて立つジルを描く。嘲笑を含む青い眼差しが、観る者を虜にする。
黒地の着物には、色とりどりの熨斗文様に戯れる猫を描いた。
五、六扇には、笹竹模様に雀をあしらった着物でしどけなく座り、安らぎに似た眼差しで我々を見つめる。いずれも性別を超越し、青い瞳にうっすら木々の緑が映っていた。
豪華絢爛な六曲一双の屏風が完成する。
既に四曲一双の屏風が二隻仕上がっている。
桐をあしらった着物で川の浅瀬に浸り、蛍を従えて舞うジルの図。
社の縁側で煙草を手に頬杖をつき、もう一方の手で猫をからかう図。着物は鮮やかな蘇芳に桜を散らす。
『ねぇ、長光。あたしは初夏が好き。見て』
ジルがふうぅっと右袖を振ると蛍草の群生が消え、辺り一面白い山百合が出現した。藍から濡葉色に変わる。
白銅色の生地に苔色の霞を流し、白い二輪草を配した着物に薄紫の帯を締め、ジルは乱暴に山百合の中でうつ伏せになった。ひょいと腰を浮かして誘うように長光を見返す。
一点の潤んだ青い瞳。
むせかえる山百合の芳香に身を任せ、生き生きとした痛みに少し眉を寄せて期待し、柔らかな白い花弁と交わる。脳髄まで痺れた青い瞳は、新しい扉に向けて天を仰ぎ、顰めた眉を明るく開く。
深く吸い込まれた空気が、ジルの中で浄化して長く吐き出される。
何度も、何度も。
後ろめたく忌避していたことが、ジルには至高の営みだ。綻ろんだ唇はすべてを肯定して寛容。
生まれて初めて聴いたショパンの旋律に似ている。
華やいだ抑圧の静けさの中で、女の着物の帯を解くかのごとく、音符の波に酔う豪奢。
ハヤアキツヒノミコトは、足を伸ばして山百合の歓声に答えた。
血の如き山百合の斑点は妖しく、花弁の白は清しく深い緑に溶ける。
長光の手から、乾いた音を立てて筆が落ちた。
『みて長光。あたしが一番好きな着物よ』
ジルは着物をまとい、くるりと回る。
黒地に、緑から薄紅に染まる桜が舞っていた。
ふうぅぅっと、長光は長い息を吐いた。
『長光、帰ろう』
完成をじっと待っていたジルが、社の方角を指差した。
『帰ろう、長光。桜の群生を見せたいんだ』
「ああ。行こう」
いつ、春になったのだろう。
満開をわずかに過ぎた桜の群生が二人を迎える。
足元から吹きあがった風に花びらは一斉に放たれた。
ジルは両手を掲げ、くるくる回りながら花吹雪を受け止めようとしている。
『あたし達はずっと、一緒だね』
「ああ」
『もう描かなくていいの?』
「ああ」
桜並木の奥に、蒼々(あおあお)とした夏の迷宮が扉を開けていた。
長光はふいに若返り、笑いながらジルと、桜の散るなだらかな坂を駈け上って行った。
終