PHASE.1 花待ち女子会デート
改装されたJR日暮里駅の改札を出て、狭い階段を住宅地に向かって進む。角は確か、出張ビジネスマン用の小さな民宿だった気がする。あった。まるでぎゅっと道が縮められたような坂を登りきると、急に大きな広い道に出る。
ここから先が、かの有名な谷中霊園だ。
わたしは那智先輩や九王沢さんみたいに、歴史に詳しくもないから、それ以上は何とも言えないんだけど、翻訳者の上田敏や徳川慶喜のお墓がこの中にあるらしい。どこへ行っても小ぢんまりしている谷根千のイメージに反して、探すのもうんざりしそうな広い墓地だ。
「ああ、まだ桜は咲いてないねえ」
わたしは当たり前のことを話しかける。開花のシーズンになったら、こんなにのんびりと歩けたりしない。通りの両側には、年経た桜が太い幹を思い思いにめぐらせているのだから。
「桜の季節が楽しみですね☆その頃また、文芸部の皆さんと来たいです!あ、もう蕾がついてますよ!?」
無邪気にはしゃぐ後姿を、わたしは目で追っている。どこか現実離れしたこの子の足取りはいつも、雲の上を歩いていくみたいだ。
春の陽に映えてきらめく癖のない真っ直ぐな髪の光沢に、乳白色に煙ってつやめくお肌。春物のスプリングコートの下の、着やせするブラウスからしっかり主張している形のいい胸に、純白のスカートからのぞく、適度な円みを帯びたすらりと長い足。ああ悔しいけど絵になる。同性のわたしでも見惚れてしまう。はあ、世の中は不条理だ。こんな子が、まさか那智先輩の恋人になるなんて。
お昼前の授業が偶然、臨時休校になったのだ。せっかく発表の準備をしていたのに、台無しだ。教授が出張先で急用が出来たんだそうな。お蔭で今日は五限まで、授業がない。そこで九王沢さんとわたしでたまにはデートしよう、と言うことになったのだ。
いつもは那智先輩の横について離れない感がある九王沢さんだけど、わたしたちは、結構普通に女友達だ。那智先輩がとってないけど一緒と言う授業はあるし、本だけじゃなくて服や水着も買いに行った。そして何より、へたれの那智先輩より先にお泊りを実現したのは、何を隠そうわたしなのだ。
ごく単純にわたしたちは馬が合うと思う。一緒にいて疲れない間柄なのだ。九王沢さんが一般人のわたしと違って、ちょっと想像もつかないほどお嬢さまなのは分かるし、変わってる子だとも思う。けど、二人でいる分には、あんまり気を遣わなくていい間柄だ。実はわたしと同じで案外、一人上手なところとかもよく似ている。
上野の手前の日暮里で降りた。今日は美術館めぐりだ。上野で降りても良かったのだが、せっかく二人きりだし、あまり人混みに紛れず、ゆっくりと歩いていきたかったのだ。この辺りも九王沢さんとわたしは意見が合った。
アメ横と駅ビルでにぎわう上野駅界隈を表玄関とするなら、日暮里から谷中は、江戸下町への勝手口のようなものだ。基本的には徳川慶喜にゆかりがある寛永寺の寺領なのだが、他にも由緒あるお寺が点在している。この谷中霊園も、ありようは都立谷中墓地なのだが寛永寺墓地ほか、天王寺墓地などお寺ごとに入り組んでいたりする。桁違いに広い墓地だ。
「上田敏さんのお墓があるんですか?へえ、横山大観も!」
日本の文学と歴史が大好きな九王沢さんはそれだけで、大喜びだ。墓碑の案内看板を求めて花の匂いを追いかける蝶々のように、どこかへ飛んで行ってしまう。困ったなあ。しばらく戻って来なさそうだ。大通りを通り抜けるはずが、九王沢さんは、この迷路みたいな墓地に入り浸ってしまいそうな喜びぶりだった。
(でもまあ、いいか)
お昼までは大分間があるし、今日は一日、のんびりしに来たのだ。わたしも浮世の予定は忘れて、ぼさっとしよう。そう言えばバイトもないんだった。
にしてもよく晴れた日だ。それでも昨日は冷たい雨が降ったせいか、墓地はしっとりとした湿り気を帯びている。ここ数日は、いわゆる寒の戻りで、今日みたいな晴れた日も肌寒いくらいだが、それもどこか清潔な寒さだ。
わたしたちの他には、誰もいない。けど、不吉な感じは全然しない。むしろ、静かで落ち着く。
そう言えばここ、一度文芸部のお花見で先輩に連れて行ってもらったのだ。このときに生まれて初めて飲んだチューハイで酔ったせいか、わたしは友達と徳川慶喜のお墓を捜しに入って迷い、あろうことか那智先輩に助けられてしまったのだ。
「大丈夫?ここ、迷路みたいになってるから気をつけなよ」
「は、はい。ありがとう、ございます…」
若くてうぶだったかつてのわたし。はあ。その後、那智先輩に連れられて谷中墓地を文学散歩したりなんかして、ちょっと頼もしい先輩だな、なんて思ってしまったのがこの腐れ縁の始まりだったか。
あ、そうだそうだ、九王沢さんだった。しっかりしてるように見えてあの子も、割りと向こう見ずだから、今頃やっと道が分からなくなったことに気づいて、まごついているかも知れない。
九王沢さんは、径にぽつんと、たたずんでいた。やっぱりなあ、そう思ってわたしが近づいたときだ。
かすかにギターを爪弾く音が、聴こえてきたのは。クラシックギターだろうか。運指はやたらと繊細で瞬く間、メロディが展開していく。ひどくスムーズなそのメロディの流れは一度聴くと不思議に馴染んでしまって、運指が追う音階の先を、追わずにはいられなくなる。惹きこまれる演奏と言うのは、こう言う演奏だ。
一分咲の桜の木の根元に男の子が一人、アコースティックギターを持って座っていたのだ。
その細長い指が、ハチドリが飛行しながら餌を啄むように、ネック上をせわしなく動いている。そしてフレット上の六弦を爪弾く指には、貝殻のアクセサリーのような変わった形のピックが握られていた。
こんな複雑で速いメロディを追うには当然、指弾きかと思ったが、彼はそれをその変わったピック一枚で弾ききったのだった。そのギターを弾く姿をみてわたしは、息を呑んだ。近くにある東京芸大の学生さんか何かなのか。九王沢さんが足を停めるだけあって、彼はどこか浮世離れしていた。
何しろこんな春の明るい日に、黒づくめだ。幅の狭いソフト帽に、コート。全身、真っ黒だった。その黒はどちらかと言えば不吉な感じで、何とも異様だったのだ。
わたしと九王沢さんに気づいたのか、彼はギターを弾く手を停めてこちらを見た。意外に若い。と言うか、思わず目を見張るほど綺麗な顔立ちをしていた。
美少年、と言うか男の娘寄りかも知れない。肌理の細かい肌は透けるように白くて、ぽつんと唇だけが赤いのだ。アーモンド形の大きな瞳はあどけないと言うほどつぶらに潤んでいて、女のわたしが見ても、唖然とするほど艶めかしい風貌だった。
「えっ…あのっ」
彼は九王沢さんとわたしを見ると、せわしなくギターを抱え込んだ。観られているのを意識してあんな超絶技巧を見せていたのだと思ったのだが、本人は全く気づいてなかったらしい。声も女の子みたいに、澄んで高かった。
「ごめんなさい、とても素晴らしい演奏だったので」
巧まず、九王沢さんが言った。こう言う時、この子みたいに率直だと、間が保って助かる。その瞬間、彼は、はっとしたような顔で九王沢さんを視た。
「あなたが創った曲ですか?とても素敵でした。初めて聴いたのに、どこか懐かしいと言うか、身体に馴染む感じがしました。なぜかどんどん、メロディの先を追いたくなってしまう…そんなような」
彼は今度は、はっきりと息を呑んだ。ごくり、と咽喉の肉が動いたのが、わたしの方からでも見て取れた。まるでご飯を見つけた野良犬だ。しかも、話しかけてるのにここまで無言。うん、変質者だ。
「ねえもう行こ、九王沢さん」
わたしは強引に割って入って、九王沢さんの腕を掴んだ。危ない危ない。生き馬の目を抜くこの東京でこの子、警戒心が常時ゼロなのだ。自分みたいな女の子に素敵ですねと声をかけられて、勘違いしない男などいない、と言うことが分かってない。だがわたしの警告は遅きに失した。
その男がざっと、地を蹴って立ち上がったのは、そのときだった。立ち去ろうとするわたしたちに全力で走って追いすがって来そうな、そんな勢いだ。ったく、上等じゃないか。
「ちょっ、ちょっと待って…待って下さい!」
「はッ!何なんですか!?」
わたしは、思いっきりつっけんどんに目を剥いてやった。するとそいつは、夕立に打たれたしおたれカラスみたいにしゅんとした。
「いや、あの、あなたじゃなくて…その…そちらの方に」
だがそれでも、彼は未練がましく九王沢さんを見た。なぜ、もじもじしている。うわっ、いらっとくる。
「て言うか何か用!?だったらわたしが話すから!何かの押し売りとかだったら、要らないからねッ!?」
「いえー!!ぼっ、ぼくはそんなッ!…そんな」
涙ぐんでいた。何かわたしが悪いみたいじゃないか。こうゆうの、人によっては母性本能くすぐるタイプなんだろうけど、騙されるもんか。そもそも九王沢さんに狙いを定めている時点で、あざといんだよ。
「あの、依田さん、ここは穏便にお願いします。…最初に話しかけたのは、そもそもわたしなんですから」
世間ずれしてない九王沢さんは、もう同情している。アート系のこう言う、草食系もどき実は肉食ですタイプが一番厄介だと言う世間の常識を、この子は知らない。
「…ぼっ、僕、こう言うものです!あのっ、怪しい人とかじゃ全然なくて!」
彼は薄汚れた黒コートの中をごそごそやっていたが、いや、まずそれが怪しいから。やがて出てきたのは角が折れた名刺だった。何やらインディーズレーベルの会社の名前が書いてある。
「水原遠也さん…?」
九王沢さんは名刺の文字と本人を見比べた。彼はがくがくと頷くと、
「A Past Day Singsと言うバンド、やってます。ご存知ありませんか?」
「ああ」
わたしの方が、思わず声を上げてしまった。聞いたことがある。確か、男女ダブルボーカルの四人組バンドだ。主に大学生のバンドやってる女の子たちなんかに人気があるらしく、わたしの軽音サークルの友達にも沢山ファンがいる。そう言えば新しくすごいメンバーが入ったらしく、トーヤくん、の愛称で人気になっていた。えっ、ばっちりこいつじゃないか。
「不思議なお名前ですね。A song for a past day…過ぎた日を歌う…ではなくて?」
英語のネイティヴである九王沢さんは、まずバンドのタイトルに引っかかったらしい。
「『在りし日のことが、いつか僕たちに歌い出す』。そう言う意味で、詩歩さんがつけたんです。雪村詩歩…あの、バンドのメインボーカルなんですけど…」
「『在りし日の歌』…」
ぽつんと九王沢さんはそう言うと、彼の姿を視た。
「そう言えば、水原さん、中原中也さんみたいですね。…黒いコートに、ソフト帽」
すると水原遠也は、はっとして九王沢さんを見つめ直した。いつの間にか、あどけない瞳が濡れて光っていた。あれっ…泣いてない?
「そうですッ!ああそうなんです!」
ぐっと両手で、彼が九王沢さんの両肩を掴んだのはそのときだった。いやもう、抱きつかんばかりの勢いだ。
「ちょっ、ちょっとあんた何やってんの!?」
「詩歩さんと一緒だ!あなたも詩歩さんのような方なんですねっ!」
「は、はあ…」
九王沢さんは、きょとんとしていた。訳が分からなすぎる。やっぱ、新手のナンパか。わたしが何とか九王沢さんからそいつを引き離そうとしていると、とんでもないことを言った。
「あなたが好きです。僕、あなたを一生愛します。だから、どうか僕と結婚してください!」
「このお!いい加減にしろおッ!」
そこでついに、わたしは手を挙げた。