別れ
その日は特に暑かった。
少し外にいれば汗が滴るほどに。
だが彼は歩いていた。
いや、正確には目の前の相手を追いかけていた。
スタスタと前を歩く女性に、彼は置いてかれまいと早足でついて行く。
「どこへ行くんだ、マリア⁉︎」
マリアと呼ばれた女性は振り向きもせず、ただひたすらに前進していた。
「おい!」
彼の声にはどこかイラ立ちを隠せずにいた。
「待てって!」
「貴方には関係ないわ」
軽くウェーブの掛かった髪をなびかせ、彼女は冷たく言い放つ。
どこかで見たような聖母と見紛うほどの整った顔。
金髪碧眼の透き通った瞳。
その視線の先には何もない。
ただ一点だけを見据えていた。
「ついてこないでくれる?」
「なっ⁉︎ …関係なくないだろ⁉︎」
マリアの言葉に、更に声を荒げる。
「何で俺に何の相談もないんだ⁉︎ いきなりすぎるだろ⁉︎」
「何故って…貴方にそんな権利はないからよ」
「だからって…!」
彼は唇を噛み締めた。
こんな理不尽な事ってない。
マリアはいつも側にいてくれた。
いつも話をしてくれた。
どんな話でもしてくれた。
なのに、急に人が変わったかのように彼に対して冷たくなった。
嫌われたのか?
彼女に何か嫌な態度でも取ったか?
思い当たる節は彼には全くなかった。
それでも彼女と一緒にいたかった。
手放したくなかった。
「俺も一緒に…」
「駄目よ」
マリアはきっぱりと断った。
「貴方は来ないで」
「だから何で…っ⁉︎」
諦めきれなかった。
歩みは止まらない。
この先に出口なんてないのに。
「俺はマリアと一緒にいるって決めたんだ!マリアだって俺といてくれるって言ってたよな?」
ーー女々しい。
そんな事は分かってる。
こんな事で彼女を止められない事も。
でも、抑えられなかった。
「あれはーー」
「お別れよ」
ふと、彼女は立ち止まった。
この先は崖だ。何もない。
彼も続いて止まる。
急に止まったせいか、汗が噴き出てきた。
だがそんなのを気にしてる暇はない。
今は何としてもーー
「何を急に…?」
自分の顔が引きつってるのが分かる。
段々と険しくなってきてる事も。
「別れって…」
「言ったはずよ。いつかは別れの時が来ると」
同時に絶望の色が顔に浮かぶ。
「これはもう、決まっていた事なの」
「マリア…」
「楽しかったわ。でも私の気持ちは変わらない」
マリアは振り向かない。
「なら一つだけ」
彼は意を決して言葉を紡いだ。
「この先は、どこへ…?」
「知りたい?」
そう言うと、初めて振り向いた。
まっすぐと彼を見つめ、不気味なほどの笑顔を見せた。
刹那。
「下界よーー」
気付くとそこに彼女はいなかった。
飛び降りたのだ。
この崖から。何の躊躇もなく。
彼はまだその場から動けずにいた。
だがすぐに腰にあった短剣に手を掛けると、
「…誤算だったよ。まさかここでとはね」
彼もまた、何の躊躇いもなく、その手にあるものを自身の胸へと突き刺した。
「俺も楽しかったよ…マリア…」
静かに倒れ込む彼の意識は少しずつ、だが確実にこの世から消えていく。
「二度もこれに手を掛けることになるとはな…マリアも、誤算だったんだろう…?」
視界がなくなる。
それは混沌の闇へと引きずり込まれる証明でもあった。
「お別れだ…永遠に、な…」
ゴフッ、と大量の血を吐くと、次の瞬間には既に息はなかった。
暑い陽射しだけが、ただひたすらに、彼を燦々と照らし続けていた。