第八十六話 四日目 迷子の、迷子の、サクヤさん
2月11日。
朝日が射し、俺の意識を覚醒させた。眩しい、起きたくないという衝動を無理やり無視して、浴室に向かった。
今日はサクヤと会う日だ。待ち合わせは午後二時にしておいた。昼食前か迷ったんだが、店に詳しくないからやめた。サクヤもそれに了承してくれたので同じ思いだったのかも。
寝起きだからか緊張感は薄い。
目覚めは最悪だった。モヒカンのせいだ。
シャワーを浴びて汗を流すと、最低限の身なりを整え準備完了。
服装はハーフトレンチとジーパン。青を基調としたコーディネートだ。
良し悪しはわからないが、大丈夫だろう。
まだ待ち合わせまで時間がある。先に昼食を採ってから早めに出るか……。
気は進まないが、周辺を見回って、立地を確認しておいた方がいいかもしれない。
間違いなく浮足立っているが、別にそんなことないと自分に言い訳しながら部屋を出た。
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食堂で昼食を終え、俺は一階まで降りていた。
この半年間、ここに来たことはない。その必要がなかったからだ。
思えば、強制的にエニグマに連れてこられてから色々あったな。玄関で、学生にバカにされたことを思い出す。
エレベーターから廊下を進む。しばらくすると関係者用の簡易的な通用口が幾つも見えた。駅の改札に似ている形状だ。
確か、キャッシュカードがキーカードにもなっているはず。色々な用途が複合されているカードということだな。読み取れば身分証明にもなるらしい。
俺は通用口横のID読み取り部分にカードをかざす。すると腰下のバーが折れ曲がり通れるようになった。
そのまま道なりに行くと、待合室を幾つか素通りし、玄関ホールに到着した。
喧噪が大きい。社員、取引先のビジネスマン、私服姿のプレイヤーらしき人物、そして企業見学の学生がいた。いつもいるなこいつら。
エニグマは今や全世界で最も有名な企業といっても過言ではない。注目するもの無理からぬことなのだろう。
しかし、この人が行き交う中を通るのは勇気がいる。最初の情景が頭に浮かび、どうしても足が動かない。
ここでまごまごしても意味はない。それはわかっているのだが。
立ち止まっていると何人か俺を訝しげに見る通行人がいた。その視線から逃れるように思わず一歩進むと、そのまま玄関に向かってしまう。
「は、はなせっ!」
太った男が黒服に腕を掴まれ、奥へと連れて行かれる様子が目に入った。
初日の俺を連想させる。俺もあんな風になっていたんだろうか。
「きゃはは、デブが連れて行かれてるぞ! 逮捕だ!」
「なんか更生させられるんだってさぁ、キモッ!」
「へぇ、エニグマってそんなこともしてるんだ」
学生たちは嘲笑し、指をさし、蔑む視線を男に送っていた。中学、高校の集団が一塊になっていた。その中の一部のグループが積極的に罵倒しているらしい。
男は学生達をちらっと見て、情けない表情を浮かべて俯くと、黒服達に従い始めた。
救済プログラムの実態は一般に流布されていない。社会不適合者が更生させられている程度の認識なのだろう。エニグマに関わらず、更生施設の実情はあまり明るみに出ない。例え露出してもそれが実際の環境なのかは視聴者にはわからない。
俺は複雑な心境で男を見送った。
俺はふと学生の方に視線を移してしまう。
すると一人の女生徒と目が合った。さっきの男をキモいと言っていた子だ。
こちらに矛先が向いてはたまらない。俺はさっさとその場から立ち去ることにした。
しかしやはり気になるもので、横目で確認すると女生徒は友人らしき女生徒とひそひそ話している。
何、見てんの、キモいんだけど、とか言われてるんだろうな。と自虐的な思考に陥ったが、無視しようと歩を進める。
しかし先ほどのように大声でバカにする発言はなかった。
不思議に思い、振り向くと、また目が合う。すぐに女生徒は慌てて顔をそむけた。そしてまたひそひそ話している。ほんのり頬が赤く染まっているような。
気にはなるが、まさか自分から何を話しているのか聞きに行くわけにもいかず、俺は漫然と玄関へ向かい自動ドアをくぐった。
外に出たのは久しぶりだ。ほんの少しだけ爽快な気分だった。
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人ごみの中、歩くにはストレスを伴う。空気はどんよりして妙に疲れる。
けど、人が多い分、視線にあまり困らないことは助かった。
待ち合わせ場所は新宿駅東南口。階段を下りれば開けた場所に出るし、わかりやすいだろうと思ってのことだった。ネットで調べただけで、実際に来たのは始めてなんだが。
俺は街路樹の近くで待つことにした。CVモバイルを見ると、午後一時四十分。あと二十分ある。サクヤはまだ来てないみたいだ。
ヤバい。緊張して来た。
ネットで周辺の店を調べたりしてみたが多すぎてどこかいいのやらわからない。散策しても同じだった。
もう、考えても変わらないし、話し合って決めよう。それでいいのかどうかもわからないが。サクヤとならそれでいいと思う。
デートじゃない。デートじゃないんだ。
そわそわしつつ待っていたが、午後二時になってもサクヤは現れなかった。
まさかドタキャン、か? サクヤに限ってそれはないと思うんだけど。
突然、CVモバイルのコール音が鳴った。俺は慌てて腕を上げて、通話ボタンを押す。
『リ、リハツか!?』
サクヤだ。顔しか見えないが少し化粧をしているような。いつもはアップにしている髪を下ろしている。それだけで随分印象が違った。
ドクンと心臓が一鳴りする。頻繁にパーティーを組んでいたが、今日は別人のように見えたからだ。
「あ、ああ。どうした?」
『す、すまん。早めに家を出たんだが、構内で迷った! くっ、こんなこともあろうかと早起きしたのだが……な、なんとかそっちに行く。もう少し待っていてくれ』
「だ、大丈夫だ。焦らずにゆっくり来てくれれば」
『そうはいかん! すぐに行くからな! では!』
おもむろに通話は遮断された。
新宿駅は入り組んでるからな。慣れていないと迷うのも仕方ないだろう。俺はきちんと調べてきたけどね!
会話をしたおかげで、少しだけ緊張が和らいだ。また直接会うと緊張するだろうけど。
しかしサクヤは中々現れない。
十分経過すると『すぐ行く!』というメールが届いた。ゆっくりでいいと返信した。
二十分経過すると『東口に出たぞ』というメールが届いたので、そこからの道順を記載して返信しておいた。
三十分経過すると『ここはどこだ。新宿駅は迷宮だ……』というメールが届いたので、案内映像を確認して貰って、また道順を教えた。
――一時間経過して気づいた。この娘、方向音痴だ、と。
いつも誰かいたからわからなかったが、一人でいるとダメなのかもしれない。
仕方ないので、サクヤにその場から動かないように指示して、俺から迎えに行くことにした。『新宿の目』前って、なんで南東口なのに西口行っちゃうの?
その後、メールが帰って来た。
『ごめん』
と一言だけ書かれていた。
待たされた身だが、肩透かしを食ったのはむしろ良かったかもしれない。