第三十六話 モラトリアムな現実
「っ!? もごっ!」
ログアウトした俺の視界は萌黄色で染まっている。液体に埋もれていると気づいた瞬間、反射的に俺はもがいてしまう。
身体を揺すり、助けを請う声を出しても水泡が出るだけだ。
「ばぶげべっ! ばっ……んぶ?」
呼吸が出来ている、ということに気づいた俺は、少しずつ平静を取り戻した。
そしてログアウトしたという経緯を思い出し、更に頭が冷えていく。
ここはクレイドルの中だ。この液体はエレメントジェル。そうして一つ一つと確認していると、やがて視界に光が射す。
クレイドルの蓋が開けられ、俺を見下ろしている人間が二人いた。その二つの影に腕を掴まれ、引き上げられる。
「げほっ、んぐっ」
「はい、落ち着いて下さいね。ジェルは吐き出しても飲んでも大丈夫ですからね」
肺に詰まった異物を吐き出す。嘔吐というよりは、自然に外部へと流れ出る感覚だった。
咳き込みながら空気を吸うと、肺が膨らむ感覚がする。
俺は下着一枚の姿だ。しかしよくよく見ればボディスーツのように身体に密着しており、俺の所持していたものではなかった。強制的にログインさせられた時には気づかなかった。それだけ、前後不覚になっていたということだろう。
改めて周囲を確認してみると、部屋はかなり広い。数百近くのクレイドルが密集している。床に並べているだけでなく、段々になっており、隙間がほとんどない。作りのしっかりした四段ベッドが部屋に敷き詰められている感じだろうか。
「聞こえますか?」
上半身を起こしている俺に、声をかけてきたのは若い男性だった。看護師だろうか、白衣を着ていた。
「き、聞こえ……んんっ、聞こえます」
喉の調子がおかしい。身体も重いし気怠い。SWでは体重をほとんど感じなかった分、落差があるのだろうか。
「君の名前は言えるかい?」
看護師の横にいた女医らしき女性が言った。
あまり手入れがされていないような髪質で、短めに切り揃えられている。面倒くさそうな感じの目を俺に向けていた。美人の部類に入るだろうが、姿勢や表情、髪型、服装が台無しにしてしまっている。
「と、戸塚リハツ」
「じゃあここはどこかわかるかい?」
「えと、エニグマ・コーポレーション」
「では、君がさっきまでいた場所は?」
「……SWのファンタジーサーバーです」
「問題はなさそうだ」
女医は看護師を見て頷いた。
「立てますか?」
俺は看護師の言葉に首肯すると、ぐっと身体を曲げて立ち上がる。
しかし、少しふらついてしまう。身体を上手く動かせない。
まるで病人だ。風邪をひいた時に近い。けれど別段、苦しかったりするわけではない。単純に、身体が思い通りに動かせないだけだ。
「君はSWに丸々一か月いたからね、現実酔いをしている状態だ。しばらくすれば慣れるから、それまではゆっくり慣らすといい。身体的には弱っているわけではないから」
「は、はい」
看護師に手伝って貰い、クレイドルから出ると、部屋の隅にある扉へ向かう。
そこから外に出ると、廊下が左右に伸びており、また扉が幾つもあった。
看護師に連れられ、一つの扉を通る。そこはなんとなく見覚えがあった。
部屋と言っても、あるのは壁だけ。周囲に無数の穴が空いている。
「洗浄が完了したら、正面の扉を通って着替えてください。その後、診断に入りますので」
看護師はさらっと述べると、さっさと外へと出て行ってしまう。
そしてすぐにガチャっと施錠した音が聞こえた。
と、周囲の穴から水が飛び出てくる。俺はその場に立ち尽くして、されるがままになっていた。
しばらくすると噴射がなくなり、ビーッとブザー音が鳴った。
『洗浄を完了しました。正面の扉を進んでください』
アナウンス通りに扉を通ると、ロッカールームに出た。ずらっと並んだロッカーがあるだけで、どうすればいいのかまではわからない。
「着替えろとか言ってたけど……」
俺のロッカーがあるのだろうか。だとしたら、どれ?
きょろきょろと見回すと、一つのロッカーの上部が赤く点滅している。どうやらあれらしい、と近づき開く。
中には患者衣が入っていた。薄手だが適温だから寒くも暑くもない。
着替えて正面にある扉を出ると、また廊下が左右に伸びている。これはあれか、クレイドルの部屋を中心として、ビルの外側に向かっているのか。クレイドルの部屋は円状だった。
「こちらです」
扉の横で待機してらしい看護師に声をかけられ、びくっとしてしまう。
いるなら気配を出せ、気配を。
スタスタと進む看護師の後ろについていく。
しばし歩き、一つの扉の前で止まると、中へ入るように促された。
俺は僅かに逡巡し、意を決して中に入る。
「待っていたよ」
先ほどの女医が椅子に座っている。医務室のような内観だ。ベッドと仕切り、薬品や書類が入っている棚、医療器具。それらが見受けられた。
しかし窓がない。ビルの端に位置しているわけではなさそうだ。
「座りたまえ」
「は、はい」
人見知りとコミュ障を発症した俺は、どもりながら丸椅子に座る。診察さながら、俺の正面には女医が向かい合って座っている。
「まずは自己紹介だな。私は三森シオリだ。ここの勤務医をしている。そして君の担当医でもある。これからよろしく」
「は、はぁ、担当、ですか」
「そうだ、聞いて……いないようだな」
「ログイン前に話をされていたのなら、覚えてません」
「そうか、なるほど。そういう症状の患者は多い。気にする必要はないだろう。私から改めて説明しよう」
「お、お願いします」
「まず、プレイヤーは一か月に一回、診断を受ける。これはアクティブ時間に関わらず行われる。仮想現実と現実では肉体の感覚が著しく違うため、先ほど言った現実酔いの症状が顕著だ。人によっては、しばらく日常生活が行えないというケースもある。一応、プレイ前に健康診断と簡単な検査を行ってはいるが、それでも人間の身体というのは予想だにしない現象を起こすことがあるのでね。ここまでで質問は?」
「あ、あの、気になってたんですけど、持病があったり、なにか病気を持っている場合はどうなるんでしょう?」
「基本的にはプレイを断ることになる。クレイドルで健康をある程度提供は出来るが、あくまで管理であり、治療とは別だ。風邪程度の病気でも、罹っている場合はプレイを中断させる。しかし、条件によっては多少の問題があってもプレイ許可が出る場合もあるがね。いわばケースバイケースだ」
「そう、ですか」
「ちなみに、プレイ登録希望者は通院履歴から犯罪遍歴まで調べられるから、秘匿は不可能だ。さて、問題がなければ診断を始めたいのだが、いいかね?」
「あ、お願いします」
そうして診断が始まった。
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それから四時間余り。夜半時まで健康診断は行われた。最早人間ドッグの域だ。
時刻十時を回ろうとした時、ようやく全てを終えて、俺は待合室の長椅子に座っている。
「疲れた……」
問診から、献血、レントゲンや、MRI検査など一連の検査を受けた。
待合室にはそれなりに人がいた。まさかエニグマの社内に医療施設があるとは。多分、ログイン前に通ったんだろうけど覚えていない。
受付の看護師は忙しそうにしている。
「戸塚さん、戸塚リハツさん」
看護師に呼ばれ、受付へと向かった。
案内された診察室へ向かうと中へ入る。
「やあ、待たせたね」
「い、いえ」
別の部屋なのに、最初の診察室と同じような配置になった。俺は丸椅子に座り、三森先生の言葉を待った。
「問題はないようだね。健康そのもの、というか健康になって来ている。最初の診断では血糖値と脂質、血圧が高かったが適正値に向けて減少している。BMI、肥満度も同様だな」
「痩せているってことですか?」
「そうだね。君の体重は89キロだったが、一か月で80キロまで落ちている。お腹もへこんでいるだろう?」
言われて、自分の身体を見下ろす。
確かに、大分膨らみが小さくなっていた。
「適度な栄養、運動に加え、間食などの無駄な摂取はない。必然的に体型も適正に寄る、というわけだ」
そう言えば、リリィもダイエット効果があるとか言っていたな。聞き流していたが、本当に効果があるようだ。
なんか呼吸もちょっとしやすくなっているような。SWに一か月いたせいで、現実の自分がどんな感じだったのかよく覚えていない。
「では最後に質問を幾つかする。はい、いいえで出来るだけ即答してくれ」
「わ、わかりました」
三森先生はカルテらしきものを見ながら、俺に質問した。
「この一か月で自分は成長したと思うかい?」
「……はい」
「一か月前に戻りたいと思うかい?」
「……いいえ」
「SWで得たものはあるかい?」
「はい」
「今すぐSWに戻りたいと思うかい?」
「はい」
「現実にいたいと思うかい」
「……いいえ」
「君は引きこもりだったが、その時の自分は好きかい?」
「……いいえ」
「私の質問に応えるのは億劫かい?」
「いいえ」
「借金を返すのがイヤかい?」
「……はい」
「現実でやりたいことはあるかい?」
「いいえ」
「人と話すのが怖いかい?」
「……は、はい」
「君は目立ちたいと思う性格かい?」
「いいえ」
「君の存在を誰かに認めて貰いたいと思うかい?」
「……はい」
「永遠に一人で居続けることと、永遠に誰かと居続けることならば、誰かと居続ける方を選ぶかい?」
「…………いいえ」
「異性を好きになったことはあるかい?」
「……いいえ」
「友人が出来たことはあるかい?」
「……はい」
「誰かを信じることと、誰かに裏切られることを経験したことはあるかい?」
「……はい」
「誰かを陥れて自分が楽をすることと、自分が責任を負い誰かを救うことならば、誰かを救うことを選ぶかい?」
「…………」
「質問を繰り返そう。誰かを陥れて自分が責任を逃れることと、自分が責任を負い誰かを救うことならば、誰かを救うことを選ぶかい?」
「………………いいえ」
「では、最後の質問だ。最近、楽しいと思えることはあったかい?」
「はい」
「なるほど」
三森先生はサラサラとカルテになにかを書き込む。
このご時世、紙製の書類というのはそう多くはない。こだわりがあるんだろうか。
「ん? ああ、これか。私はどうもデータを信用していなくてね。やはり紙が一番だ」
「そ、そうですか」
「擬似的なものは好かないからな。さて、これで問診は終了だ。結果を簡単に説明しよう」
「結果ですか? その、さっき診断結果を聞きましたけど」
「それは肉体的なものだ。精神的なものではないからね。今日一日の君の行動や言動、姿勢を見て、一か月前との違いを説明する」
さっきの質問も俺の心を診るためのものだったらしい。医者相手とはいえ、あまり気分のいいものではなかった。
「救済プログラムの患者は精神に問題をかかえている。これはどうしても必要なものだ。不快かもしれないが受け入れて欲しい。一応、約款にも書いているがね」
俺を見ながら、三森先生は淀みなく言う。どうやら表情に出ていたらしい。
「わ、わかりました」
「では結果を話そう。君はこの一か月でかなり快調に向かっていると思われる。言動も整合性があるし、会話も問題なく行える。吃音が多少あるが、コミュニケーション障害と言えるほどではないだろう。当初は自分の意見を言葉にするのも難しかったとあるが、今の君は十分意思の疎通も出来る。自分の意思もあるし、問題ないだろう。はっきり言えば、驚くべき程に快調の兆しがあるね」
快調に向かっているという言葉に、自分でも驚くほどに喜んでいた。他人に言葉で言われると違うものだ。
自覚はあった、けれど自信はなかった。
「そ、そうですか」
「……なにかきっかけがあったのかい?」
「どう、でしょう……わかりません」
「そうか。自覚がない場合もあるだろうからな。すまない、君は今まで通り気にせずにプレイに専念してくれ」
「は、はい」
「問診結果は以上だが、君の最初の問診だ。二日はこちらで過ごしてもらう。多少経過を見たいのでね。問題はないと思うが決まりなんだ」
「二日、ですか」
「すまないな。明後日の午前九時まではこちらにいてくれ。それまではログイン出来ないように設定あるからね。それと明日、局長からも話があるだろう」
内藤局長だったか、俺を強制的にログインさせた男だ。
嫌いなわけではないが、少し苦手だ。
「もう夜も遅い。夕食もまだだしな。部下に部屋まで案内させよう。空腹なら、食堂で食事も出来る。宿泊費や食事代など必要な費用はプレイ料金に入っているから部屋で過ごしてもらって構わない」
「……こっちでずっと過ごしてもいいんですか?」
「ああ、構わない。手狭だが、それぞれ個人に部屋をあてがわれているからな。プレイ期間である三年間は無償だ。実際は払っているんだがね」
三年間で五百万円と考えると高い気もするが、プレイ料金を考えると安い気もする。どちらにしても、現実にいる気はないが。
「ご苦労だったな。外に部下が待機しているので、部屋に向かってくれ」
「わかりました」
俺は三森先生に一礼すると部屋を出た。
▼
食堂で簡単に食事をした後、俺は自室に戻った。
エニグマビル八十三階。83101号室。そこが俺の部屋だ。
興味があり、ビルの構造を調べてみたが、一階は受付、待合室、会議室などがあり、二階から十五階までは社員用のフロアーだ。
それ以上の階層はすべてプレイヤーのためのフロアーだ。十六階から七十階までクレイドルとプレイに関わる施設があり、七十一階から百三十三階までは宿泊区画と食堂などがある。
ビル一棟だけでプレイヤーの数は一万五千人近くいる。新宿支社は六棟あり、プレイヤーだけで九万人が収容されているわけだ。
……地面にめり込まないんだろうか。さすがにそれはないか。
宿泊部屋はホテルと同じ構造をしているが、やや狭い。
中に入ると右側に浴室があり、少し進むとベッドとクリスタルビジョン、棚とテーブル、クローゼットがある。それだけだ。
クローゼットの中を見てみると、俺の着替えが数着入っている。自前のものだ。母が持って来たのだろうか。
……考えないようにしよう。
今、俺は既に患者衣から私服に着替えている。黒服の男に案内された後、着替えて食事に行き、戻ってきたところだ。
俺はベッドに寝転がり天井を見上げた。
現実に戻って五時間余り、かなり精神的に疲弊している。
久々に身体を動かしたせいだろう。思いの外、身体は元気なままだった。健康を保つ、というクレイドルの効果が出ているのだろう。
もう寝よう。明日も話があるみたいだし。
俺はうとうととしながら、ゆっくりと意識を沈めていった。