第九十三話 赤澤レンカの失態
――サーバーメンテから数日が経った。
私はエニグマビル渋谷支部にある自室で自堕落に暮らしていた。外に出る理由もないし、食事は出前でもいいし問題ない。
しかしこの生活がいつまで続くんだろうか。
神山清一、という遠縁のオジさんに頼まれてSWをプレイし始めた。それから三年近く経っているけど進展はほぼない。
もう十代ギリギリなんだよなぁ、とふと思う。そしてすぐ忘れた。
本当にエニグマが裏であくどいことをしているんだろうか。漫画じゃあるまいし、そんな陰謀めいたことが横行しているとは未だに思ってはいない。
ただオジさんが真剣だったのと、単純にゲームに興味があったから承諾しただけだ。
ベッドから起きて洗面所に行く。
鏡には覇気のない自分の顔が映っていた。寝癖もそのまま、化粧なんてする気もない。
顔を洗うと少しだけ意識が明瞭になる。
タオルで拭いて再びベッドへ。顔を洗った意味? 特にない。そういう気分になっただけ。思い立って行動してすぐにベッドに戻るということを繰り返している。外には出ないけど。
ぼーっと天井を見上げているとかなり旧式の携帯電話からコール音が聞こえた。
オジさんだ。
私は気怠い身体を起こす気にもならず、寝転がりながら繋いだ。
『レンカちゃん? すまん、寝てたか?』
「んーん、起きてるわよぉ」
『……RPはSWの中だけでいいんだぞ?』
「はいはい、どうせ私は口が悪いっつーの。で、なに? なんか用があったんじゃねぇの?」
『あ、ああ、実は……戸塚リハツくんに会った』
「は? は!? はあああ!? 何してんだよ!?」
『い、いや、不可抗力というか。戸塚くんはレンカちゃんから聞いていた通り、好青年だったぞ、うん』
確かに何度か彼のことを話した。褒めるような内容もあったかもしれないけど、まさか現実で直接会うとは。
「な、なんでそんなことになってんだよ」
『実は――』
オジさんから事情を聞いた。
どうやら彼は内情に踏み込み過ぎた、というか踏み込むように仕向けられたようだ。
今まで半信半疑だったけど、これで真実味が増してしまった。エニグマが本当に暗躍していたということに。
『とにかく、協力関係を結びたいとは申し出ておいた。もう彼も巻き込まれてしまっているからな……受けてくれるといいんだがな』
「どう、かな。だ、だけど通り魔なんて、そんなに危ない目に会うって知らなかったぞ!?」
『すまない、強硬手段に出るとは思っていなかった。リハツくんを襲った理由はわからないが、危険なことには変わりがない。レンカちゃんはプレイを中断してくれ。今なら、大丈夫なはずだ』
「本当かよ……」
三年もSW内で起こったことを警察に報告していたのだ。
身元がバレているかもしれない。はっきり言って、オジさんの言葉を聞いても安心は出来ない。
しかし私がしていたことと言えばゲームの話をしていただけ。それとなく失踪者に関しての情報を集めたりはしていたけど、大した情報はなかった。いきなりログインしなくなる人なんて幾らでもいるからだ。
もちろん多額のプレイ料金が必要なためその数は少ない。しかし現実の事情もあり、失踪したかどうかまでは定かではなかった。オジさんに話して調べて貰っても、結局は問題ないことばかりだった。今思えばエニグマが裏工作をしていたのかもしれない。
一応ネットやメディア関連の書き込み、情報を伝えることは禁止されているが、口コミ程度の内容ならば問題はないはずだ。
だったら私はお咎めなしなのでは、という甘い考えもあった。
『それと、この連絡先も一応消しておいてくれ。すまない。それじゃ』
「あ、ちょ、ちょっと!」
引きとめようとしたけど、通話を切られてしまった。
急いでいるみたいだったけど何かあったんだろうか
しかし参った。彼のことをオジさんに話していたおかげで接触してしまった。それが良い事なのか悪い事なのか今はわからない。
戸塚リハツという人間のことを考えると、胸が痛んだ。彼はどうやら救済プログラムとやらを強制的に受けさせられ、借金を背負っているらしい。それは過去のオジさんとの会話でそれとなく感じ取っていた。
だけど実際目の当たりにすると、そのようには見えなかった。他人のために奔走するお人好し。それが彼に対する印象だ。そしてそんな彼に対して私は好印象を抱いている。少し、優柔不断で自分に自信がないけれど、怖がりながらも手を差し伸べるような人だ。
そんな彼が巻き込まれてしまった。
一体なぜ? エニグマは何をしようとしているのか。
私はこのまま一人で抜けぬけと離脱し安穏と暮らしていいんだろうか。
元々、怠惰で他人に対して関心が薄い。けれど、彼に対しては少しだけ親近感を抱いている。少し、なのだろうか。自分でもよくわからない。
今すぐ答えを出さずともいいだろう。どうせ私を狙う理由などないのだから。
そう思い、思考を放棄すると眠りについた。
▼
メンテが開けてから数日が経った。
辞めるか続けるか。二択が頭に浮かんでは消える。
危機感がないのだと思う。どうしても通り魔という存在に実感がない。それに私が狙われるという想像も出来ない。ディスプレイ、ホログラムを介して様々なものを見る現代では恐らくリアルさを得にくいのだろう。私もご多分に漏れずそうだ。
オジさんに連絡してみようかと思い、携帯電話を取り出した。まだ連絡先は消していない。
通話ボタンを押す。
出ない。着信拒否もされていないし、番号も変えていないみたいだけど、今は忙しいんだろうか。
十数度のコール音を聞き終えると通話を切った。
私は、SWを辞めたらどうするんだろう。また引きこもりになるのは目に見えている。仮想現実だから積極的に行動していたのだ。RPしていたから、別の自分のように思えて、活動的になっていた。
しかし現実の私にそんな気力はない。
やっぱりSWを辞めるのは気が進まない。オジさんの手伝いを辞めても、プレイは続けてもいいんじゃないだろうか。
もう一度オジさんに連絡しようとしていたら、携帯が鳴り響いた。
オジさんかな、と思ったけど番号は知らないものだった。
少しだけイヤな予感がした。けど出ないでいると余計に不安になる気がして、通話ボタンを押す。
『もしもし。赤澤レンカさんですか? 自分は大厳っス。神山先輩の後輩っス』
後輩? 知らない。というよりはオジさんとプライベートな話はあまりしない。
でもこの番号を知っているということは事実なんだろうか。
「あ、ど、どうも」
『実は、先輩の行方が知れなくなりまして……』
「ど、どういうことですか?」
『どうも失踪したらしいんス。自宅にもどこにもいなくてですね……その赤澤さんのことは聞いていたので』
どうも怪しい。直感的にそう思った。
「……この番号はどうやって知ったんです?」
『自分に何かあった場合、こちらに連絡するように、と言われていたっす。もし失踪でもしたら、次に狙われるのは赤澤さんだと』
オジさんなら言いそうな気がする。けど、それなら私に事情を説明しておくべきなんじゃないだろうか。
『なんでも心配をかけたくなかったとか。危険があるなんて思ったら協力もしてくれないかもしれない、と申し訳なさそうに言っていたッス。それで、警護のために近くに来ているんスが』
「警護、ですか」
『そうっス。ご存知の通り、警察機関は機能しませんので、自分しかいないんス。一先ず保護したあと、安全な場所までお送りするっス。今、部屋の近くにいるっス』
どうしたものだろう。
信じていいんだろうか。とりあえず話だけでも聞いた方がいいかも?
まさかエニグマビル内で危険が及ぶことはないと思う。いや、むしろ危ない?
けど、オジさんが失踪したということが事実ならば事情を聞かなくてはならない。警察に行っても、遠縁な私に詳細を教えてくれるとは思えないし。
『このまま話してもいいんですが、先輩が失踪したということは……その、登録している番号を知られている可能性があるッス。となると話し続けるのは危険ではないかと。エニグマにどこまで出来るのかわからないっすが、他企業でも通話記録を知るくらいは出来るかもしれません』
「そ、そうですね」
『うっス。なので、すみませんが一度切ります』
切れちゃった。どうしよう。
信用していいのか。部屋に入れるのは危険? けど外で話す内容でもないし、かといって扉にロックをかけたまま話すのはかなり失礼な上に目立つ。
内々の話なら部屋に入れるしかないのではないだろうか。
コンコンとノックされた。インターホンを鳴らさなかったのは記録が残るからだろうか。
「大厳っス」
悩んだ結果。
私は部屋に入れることにした。
扉を開ける。
現れたのは大柄の男。妙な恐怖心が浮かび上がる。
岩のような顔が歪んだ。笑ったと気づいた瞬間、私はその場から後ずさってしまう。
「すみませんっス。こんなことに巻き込んでしまって」
頭を下げられてしまった。
どうやら私の勝手な勘違いだったようだ。
見た目で差別しちゃいけないな、と自分を言い聞かせた。
「ど、どうぞ」
「どうも」
後ずさるわけにもいかず、私は振り返る。背中を大厳さんに向けたまま、部屋の奥へ行こうとした。
扉が閉まる音が聞こえた。途端にぞわっと全身が総毛立つ。
私は無意識に振り返った。
次の瞬間、首に何かが纏わりつく。
「かっ」
息が出来ない。苦しい。
首が絞められている、と気づいた時にはもう遅かった。
大厳はいつの間にか手袋をはめている。片手で私の首を握り、腕を伸ばしていた。
殺される!
こいつはエニグマの人間だったのだ。
自分の不用意な行動を悔いても遅い。又聞きでは理解出来ず、オジさんも実は失踪していないんじゃないかと考えてしまっていた。
けどこれは確実に現実。私は今殺されかけている。
顔を歪めながら、逃れようと、大厳の手首を掴む。爪でひっかいても意味はない。かなり頑丈な素材で来ている手袋らしく、前腕部の中心位まで覆っている。
意識が遠のきそうになる。
痛みも苦しみも薄くなり、このまま死ぬのだと実感が湧き始めた。
ピピッ、と鳴った。
『はい、大厳っス。ええ、今処理中ですが……はぁ、今からっスか? ですが、まだ途中で……わかりました。じゃあこちらは後回しで』
声が聞こえなくなると突然痛みと苦しみが湧きあがってきた。
「げほっ、ぐっ、けほっ、はぁ、んんっ」
大厳が手を離したおかげで、意識が戻ったからか感覚が警告し続ける。
「残念っス。殺して処理する時間はなくなってしまったので、後回しということで」
大厳は私に背を向けて部屋を出ようとした。
しかし、ピタリと足を止める。
私はたったそれだけの所作で恐怖を抱いてしまう。
「部屋から出ない。連絡をしないこれに従うように。逃げても無駄っス。警察に行っても信じてくれませんよ。どちらにしても監視してますからね」
そう言って、大厳は再び私から離れて行った。
状況が理解出来ずに、大厳をそのまま見送ることしか出来ない。
ドアが閉まり、私は今更になって、二度と普通の生活に戻れないのだと理解した。
▼
震えながら床に座って、自分の身体を抱いた。
携帯電話が鳴る。
ビクッと震え、私は怯えるように携帯を見据える。
出なくては。もし大厳ならば、連絡が取れないとわかれば戻って来るかもしれない。
電話なら相手は近くにいない。むしろ安全だ。
私は震える手で携帯を掴み、通話に出た。
『もしもし、大厳っス』
自分を殺そうとした癖に、何の感慨もなく話している。この男は自分とは別の世界の住人なのだと思った。
私は声を出せずに、なんとか携帯を持ち続けることで精一杯だった。
『これから言うことを守ってくださいっス。まず戸塚リハツや周囲の人間に事情を説明しないこと。これ以上、エニグマに関して調べないこと。このままプレイを継続すること。今日中にログインしてくださいっス。あと、周りに悟られたら、殺しに行きますんで』
大厳が話した内容を必死で記憶する。
この情報は私の命綱だ。失敗すれば、さっきのような出来事が起こる。
「わ、わかりました」
『助かるっス。抵抗されると色々面倒なので。では』
端的な説明を終えると通話は終わった。
私は携帯電話を持ったまま、腕を床に落とす。そのまま脱力し、床を見つめた。
何が起こっているのかわからないままだった。けど、事情が変わったということはわかった。もしかしたら大厳は彼と接触したのだろうか。
どうも彼に対する行動と私達への行動には差異がある気がする。今まで聞いたオジさんの話を加味すると、内藤は彼に対して執着しているような。
大厳の言葉からして、彼は殺されてはいない。何か利用価値があるのだろうか。
私は生かされたように思える。何をさせるでもなく、ただゲームをプレイしろとは一体どういうことなのか。
しかし、すべきことはわかる。
『決して誰にも事情を知られてはならない』ということ。彼にも、だ。
震える身体を無理やり起こしてベッドに転がった。いつもの姿勢になるとほんの少しだけ落ち着いたように思えた。それは錯覚だ。心臓は張り裂けそうに脈動し、心は荒波のようにざわついている。
私はログインするだろう。そうしなければ殺されるのだから。しかし行動を起こす前に、心を整理したかった。まさか数分の合間でさえも許されなくはないだろう。
「リハツ……さん」
彼の名前を口にする。一体、どういう状況なのか知りたいという思いもあった。
もしかしたらとてつもない事態に巻き込まれているかもしれない。恐らく彼はある程度の事情は知らされているだろう。でなければ大厳が出て行った意味、その後、私を生かすことになった説明がつかない。
『今、処理中』という言葉、これはすでに内藤かエニグマの誰かに命令されている、或いは了承を得ているということ。
それを覆した理由は、それを止める人間がいたか、内部の事情で止めざるを得ない理由が出来たということ。警察機関との兼ね合い、犯行に対しての準備不足、もしくは一般市民の存在などの外的要因とは思えない。なぜなら私を殺すのは今日じゃなくても構わないからだ。わざわざ条件付きで生かすというのはおかしい。
行動に起こす前ならまだしも、実際に殺そうとした相手をわざわざ生かしておくということはかなり不利益を被るはずだ。ということは後者の可能性は薄いはず。きっと実行する前に不穏分子は排除しておくからだ。
失踪させ、その尻尾も掴ませないエニグマならばそれくらいは当然すると考えられる。通り魔の事件と比べると随分お粗末な状況だとも思う。証拠を残し過ぎだ。つまりそうせざるを得なかった理由がある。
それにわざわざ『戸塚リハツと周囲の人間』とわけて話していた。ということはやはりリハツさんに大きな関心があるということ。
ならば外部、もしくは彼らにとって利のある人間から交渉されたのでは。
私に親しい人間はいない。オジさんくらいだ。
もしかしたら遠くから私を見守っている優しい人がいるかもしれないが、そんな非現実的で夢みたいなことを信じられるほどメルヘンな思考は持ち合わせていない。
では何が起こったのか。
例えば『何かの条件を飲む代わりに、協力者を殺すな』と言ったのではないか。リハツさんは恐らく私が誰なのかは知らない。だから『リハツさんに事情を説明するな』と条件を提示したのだ。けどオジさんに協力者がいたことは知っていたはず。
彼の交友関係は把握をしていないけど、恐らくSW内の人間以外との接点はあまりない。となると協力者との繋がりを保持したかったのでは。
リハツさんも私と同条件を提示されているのであれば周囲の人間に話すことは出来ない。エニグマに利益がある内はいいが、それが解消されたら殺されてしまう。ならばそれまでにどうにか抵抗手段を見つけなくてはならない。そう考えれば、事情を把握し、利害が一致している協力者の生存を望むのもわからなくはない。
もしかしたら単純に殺すことを忌避してのことかもしれないけど。リハツさんならあり得そうな気もする。
けど私に出来るのは、陰ながら彼を支えることだけだ。
殺されそうになった情景が浮かび、足を竦ませる。もう二度とあんな目に会うのはごめんだった。
私はリハツさんのような勇気ある人間ではない。ただの弱虫で逃げ癖のある引きこもりだ。
決してバレないように、疑われないように生きていくしかない。
――レベッカ・タブリスとして。
これにて第一部は終了です。同時に完結済みとさせて頂きます。詳細は活動報告をご覧ください。