第八十九話 四日目 リミットブレイク▲
正面には人影が見える。
ただの通行人だ。そう言い聞かせようとするが、俺の身体は動こうとしない。遠目だがはっきりと見える。
雨で視界は塞がれているが、それでも対象の輪郭は脳裏に焼き付く。
黒ずくめの人間。
全身黒のレインコートで覆われ、ズボンも黒。手足は同様の色で染められたグローブとブーツで、顔はフードを目深に被っているため見えない。
そして右手、そこに握られていたものを理解すると、俺の全身が粟立つ。
ナイフだ。
あれが通行人なわけがない!
だが、引き返そうと思うのに、足が地面に張り付いて動かない。
竦んでいる。腰が抜けている。
黒ずくめは少しずつ俺へと向かって来ている。
次の瞬間、走り始めた。
動け、動け!
恐怖に身体を支配されていた俺は、必死で四肢に命令を送った。
奴まで六、七メートル。奴は、俺から見て一つ前の街燈に照らされている。
黒ずくめの姿が暗闇に紛れた。
身を竦ませながらもなんとか姿勢を低くする。それは動物的本能だった。
そして、次の瞬間、俺は驚愕しながら後方へ飛びのいた。
奇跡的だ。ここは現実であり、SWではない。だというのに、身体が反射的に動いてくれた。伴って傘とレジ袋を落としてしまう。
俺の腕をナイフが掠める。厚手のコートに一筋の線を作るだけで済んだ。
黒ずくめは正面ではなく、側面から現れ、ナイフを突き出していた。それを間一髪避けると、同時に叫んだ。
「と、通り魔だ!」
震えていたが、声量は十分出ている。周辺の住人が通報してくれれば警察が来てくれる。だが、黒ずくめは気にした風もなくナイフを構えていた。
逃げる気はないらしい。
殺す気だ。
殺される。
なぜ、どうして?
俺が何をした?
誰かの恨みを買った?
それとも誰でもよかったのか?
こいつはなぜこんなことをしている?
理解出来ない。
疑問は巡っても意味はない。
わかっているが脳が拒否する。現実でこんなことはあり得ないと叫んでいる。
鼓動が早い。ぶわっと全身に汗が滲み、焦りで痙攣する。
逃げろ!
俺はコンクリートを蹴り、逃亡をはかったが逃げ道を塞がれてしまう。
その行動で、目的は俺を殺すことであると認識した。強盗でもない。命を奪うつもりだ。
殺人欲求からか、それとも俺を殺してなにか利益を得ることが出来るのか。
ただの引きこもりの俺を殺すほど憎んでいるのは家族くらいだろう。だが、あの人たちがここまでするとは思えない。例え、俺を強制的に借金まみれにしようとも、自ら殺そうとするような人達ではないからだ。
ではなぜ。なぜなんだ。
やめろ、今はそんなことを考えている余裕はない。
どうする。どうすればいい。
思考がまともに働かない。だが答えは出さないといけない。
正面の黒ずくめは姿勢を低くし、右手をこちらに向けている。すぐに攻撃するつもりはないのか、じりじりと俺に迫っている。
男、のようだ。肩幅、体格が女性ではない。
近くで見ると、顔は覆面で覆われていた。素性を隠している。これは計画的に俺を襲おうとしたのか?
素人とは思えない動きだ。慎重に、俺を見くびらずに対処しようとしている。
力量の差は歴然だった。
逃げられない。対抗も出来ない。
だったら、殺されることを受け入れろと?
男が猛然と迫る。
大きく踏み出し、右手を突き出した。向かう先は心臓。避けなければ。
俺は横に飛びのこうとしたが、雨で滑ってしまう。恐怖からか足に力が伝わっていない。
その場に倒れ、刺突は回避出来たが、大きな隙を晒してしまう。
俺は痛みを無視しようと意識してしまい、対処が遅れた。
男はナイフを逆手に持ち、振り下す。俺は後転し、ぎりぎりで回避する。
男の動きを確認せずに、一度後方へ跳躍し距離を取った。俺の身体は暗闇に覆われる。だが男は街燈の下で姿を露わにしている。
ここまで三度回避出来た。それは奇跡的と言える。SWならば容易、現実では困難だ。
もしかしたら仮想現実での経験が、俺を成長させているのかもしれない。三森先生の言葉を思い出し、俺は恐怖を拭った。しかし完全とはいかない。
叫んだというのに周辺に変化はない。留守なのか、それとも無関心なのか。雨音で聞こえていないのか。
もう一度叫ぶか? しかし、意識を削げば隙が出来る。愚鈍な身体では俊敏には動けない。かといって、先ほどまでの無意識下の回避に委ねるのは危険すぎる。
集中だ。いつもの通り、回避に意識を集中するしかない。
男が動く。凶刃は線となって俺の首、胸を狙ってきた。
俺は首への攻撃を、首と上半身を傾けて何とか躱す。胸部への攻撃は後ろへ飛び退くことで回避。早い。いや、俺の動きが遅すぎる。
相手は暗がりでも見えている? それに急所ばかりを狙っているのか?
男の姿が闇に覆われる。完全に光はなくなり、俺達は暗がりの中で対峙していた。
くそっ! 見えない!
間髪入れずにもう一度後方へ飛びのく。すると街燈が俺の身体を照らした。
だが、次の瞬間、眼前にナイフが迫っていた。
ゾワッと鳥肌が立つと同時に、顔を背ける。
「ぐっ!」
鋭い痛みが頬に走る。掠ってしまった。
鮮血が飛び散るが、雨と混じり見えなくなった。
俺は顔を顰めて、強引に意識を回避に集中する。
「だ、だれか」
回避しながら声を出しても、反応はない。聞こえていないのか。誰もいないのか。それとも聞こえていて無視を決め込んでいるのか。
他人が助けを求めていても、率先して行動を起こす人間は少ないのだ。それは俺が良く知っていることだった。
男の攻撃は俺へと繰り出され続ける。
回避を継続し、転がりながら、男と最初に対峙した場所まで戻った。
身体が重い。
極度の緊張の上、雨に晒されながら身体を動かし続けると、ここまで体力を消費してしまうものなのか。俺の肺は軋み、呼吸は荒くなっている。
雨のせいで息がしにくい。
「はぁはぁ!」
距離が少し開いた。逃げるなら今だ!
俺は瞬時に地面を蹴った。だが、足腰がそれに耐えてくれなかった。ガクッと足を折り、地面に倒れこんでしまう。勢い余って一回転する。
「か……はっ」
強かに横腹を地面に叩きつけられて呼吸が止まる。
痛みが顔を出し、視界が歪んだ。
仰向けになると、男が悠然と佇んでいる。
俺は座ったまま後ずさりする。だが硬い感触に阻まれてしまった。壁だ。それは俺に諦めろと言っているように思えた。
嘘だろ。こんなわけもわからず殺されるのか。
そこまで非道なことを俺がしたのか。
引きこもりになり、家族に心労をかけてしまった。それだけで死に値するのか。
……そうかもしれない。俺は、俺という存在は害悪でしかなかったのだから。
諦観を覚えた俺の手のひらにカサッとした感触を伝わる。
男がナイフを振りかぶった。
自責に駆られながらも、俺は生存欲求をむしり取った。瞬間的に立ち上がると同時に右手を振る。
ゴンと鈍い音と共に男の身体ブレる。
俺の右手にはレジ袋が握られていた。思いっきり慣性を利用し男の頭に直撃したのだ。中には缶の飲み物が三つ入っている。スチール缶だ。
打ち所が悪ければ危険かもしれない。だがそんなことに気を割く余裕はなかった。
男は倒れ……なかった。上半身を逸らしただけで、ぐいっと元の姿勢に戻る。
どうなってる、効いていない?
動揺を隠せず、一瞬身体が止まってしまう。その隙に男の足裏が、俺の視界を埋め尽くした。
「がはっ!」
前蹴りで吹き飛んだ俺は、壁に叩きつけられる。
背中を打ち、呼吸困難になると、抗う気力を削られる。
地面に崩れ落ち、呼吸を整えようとするが、もうどうにもならない。
男がナイフを順手に構え、引いた。
死んでしまうのか。
痛いだろうな。死ぬってどんな感じなんだ?
天国に行けるんだろうか。いや、俺は地獄行きだろう。
頑張ったよな。もう十分だ。足掻いて、もがいてそれでもダメだったのだ。
褒めてくれるよな、リリィ。
ナイフの先端が俺の瞳に真っ直ぐ迫る。
諦めの心境の中、小さな波紋が生まれた。
――なぜだろう。
なぜ俺がこんな目にあうんだ?
いつも、いつも。俺は虐げられていた。
なぜだ。なぜなんだ?
徐々に浮かぶ感情は今までに感じたことがないものだった。
憎しみだ。
理不尽な状況に、俺は憤り、やがてそれはどす黒い憎悪と変わっていく。
誰のせいだ。
誰が俺をこんな目にあわせている?
目の前の男は俺を嘲笑っているかのように見えた。
所詮、矮小な存在だと、抗っても無駄だと蔑んでいるように思えた。
お前か。
お前のせいか。
お前がッ!
――その瞬間、膨大な熱量を体内に感じた。
怒りと憎しみが絡み合い、激情となり、俺の身体を動かした。
ナイフはまだ俺に到達していない。
遅い!
俺は瞬間的に男の手首を右手で掴んだ。
体重を乗せた攻撃を片手で止めることは出来はしない。それは両手でも一緒だ。
だが、ピタッと男の動きは止まる。
ナイフは俺の瞳に届く寸前で停止した。
ググッと握り、力を込め押し返すと、少しずつナイフが離れていく。
身体中が熱い。血液が沸騰している。腕は、激しく脈動している鉄の塊だった。
「がああああっ!」
咆哮と共に、右手に限界まで力を込めた。
同時に何かが弾ける音と、グキッという不快な音が響いた。
「くっ……」
男が呻き声を漏らしながら俺から離れる。その拍子にナイフを落としたが、構わず俺から後ずさった。
奴の右手首はぷらぷらとぶら下がっていた。関節が外れているのか、骨折したのかは把握出来ない。どうやら俺がやったらしい。
だがそんなことはどうでもいい。
「殺す気なら……殺してやる……」
くぐもった声は俺のものだった。
怒りに打ち震え、奥歯を思い切り噛みしめる。立ち上がり、男に一歩ずつ迫った。全身から溢れる力の奔流に俺は全てを預けた。
戸惑いが伝わる。男は間違いなく臆していた。更に一歩、二歩と下がる。
「かかって来いよ……!」
それは虚勢だ。だが俺は戦闘本能のままに男へ敵愾心をむける。
俺は臨戦態勢を維持しながらゆっくりと近づいた。
しかし、反撃に移るかと思っていた俺の考えとは裏腹に、男は瞬時に踵を返し、そのまま走り去ってしまう。
追いかけるという考えは俺の中に浮かばなかった。だが気を引き締めたまま、小さくなる背中をにらむ。
そして男は遠ざかりやがて姿を消した。
俺は雨に打たれながら呆然と立ち尽くす。頭に靄がかかり、思考がまともに働かなかった。
それから数分過ぎた時、遠くからサイレンが響いていた。
警察だ。遅いんだよ……。
助かったと思った瞬間、激痛が右腕に走る。
俺は痛みに蹲りながら、安堵感よりも、不条理な出来事にどうしようもないほどの怒りを覚えた。




