みくちゃん
「それでは運転免許証を、お預かりします」
峰岸は、色剥げしたみすぼらしい革財布から免許証を抜き取り、警察官の手のひらにそれを置いた。
「住所なんですけど、茨城県龍ケ崎市×の×で、間違いありませんか?」
「はい」
峰岸は苛立っていた。
パトカーの後部座席に乗せられたその時から、膝を絶えずこまかくゆすっている。
「失礼ですが、これまでに交通違反で取締りを受けた事はありますか?」
「いえ、ありません」
ぶっきらぼうに答える。
峰岸は、どうやらこの問答を無駄な時間と解釈しているようだ。
「ひとつ、きいてもいいですか?」
助手席に座っている初老の警察官が初めて口を開いた。
太く、重く、どすの利いた声である。
「何でしょう?」
「あのハイエース、社用車ですか?」
「それとも、峰岸さんご本人の車ですか?」
「私のですが、それが何か?」
「いえいえ、別にたいした事ではないんですがね」
「はあ」
「ただ、ちょっと気になりまして」
「何のことですか?」
「布ですよ」
「ハイエースの助手席に置いてあった黒いマント。あれ、一体なんですか?」
「……」
「……」
黙々と書類を作成していた警察官のペンの動きが止まる。
殺気のような、冷たく乾いた空気が峰岸を刺した。
「説明する必要があるんですか?」
「いえ、したくなければ結構です。ただの、興味本位ですから」
峰岸の顔面から表情が消えた。
怒っているのか、それとも何も感じていないのか、感情を読み取ることができない。
言うなれば、SFに登場する人間そっくりのロボットのような表情である。
「峰岸さん、今回の違反内容なんですけれども、あそこに見える規制標識通りこの道路の法定速度は五十キロとなっております。それに対して、七十九キロで走行していましたので、二十九キロの速度超過ということになり、三点減点と反則金が一万八千円になります」
「はい」
「納付期限ですが、翌日から起算して七日以内に銀行または郵便局にてお支払いください」
「わかりました」
峰岸は、受け取った青キップと運転免許証を荒荒しくポケットへ押し込み、腕時計へと視線を移した。午後、八時三十分。早く解放しろ、と無言で主張しているかのような所作である。
「峰岸さん」
助手席の警察官が身を乗り出し、顔を下に向けた峰岸に視線を定めた。
「はい?」
「ずいぶん急がれてるようですけど、何かあるんですか? 大事な用とか」
「さっきも言いましたけど、答える必要があるんですか?」
「いえ、答えたくなければ結構です。ただの、興味本位ですから」
ですから、と警察官が言葉を吐き捨てた瞬間、峰岸の瞳孔は奇形児のごとく大きく開かれ、およそ想像のおよぶかぎりこれ以上気味のわるい人間はなかろうといわんばかりの表情をつくりあげた。
「まあまあ」
険悪な場の空気を読み取ったのか、運転席の警察官がすかさず上司をなだめる。
「え……」
「それでは、これで終了となりますので」
峰岸は、会話の途中でドアを開け、何も言わずに自分の車へと戻っていった。
鍵をまわし、シフトレバーをドライブに入れ、ハンドルを両手でがっしりと握る。峰岸は、その体勢を維持したまま硬直し、いっこうに車を走らせようとしない。同じく、警察車両にも動きがない。ハイエースの斜め後ろ数十メートルのところに粛然と停車している。
午後、八時五十五分。対向車のヘッドライトが峰岸の歪んだ顔面を照らす。直後、峰岸はようやくアクセルを踏み込み、車を発進させた。二人の警察官の視線が気になるのか、三十キロという微妙な速度を保ちながら、少しずつ少しずつパトカーとの距離をひろげる。
T字路を左に曲がり、車は細い住宅街に入っていく。
「ぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ」
突然、峰岸がわめきだす。
「愚者愚者愚者愚者愚者愚者愚者愚者がぁ」
「むかつくむかつくむかつくぅぅぅぅぅぅ」
峰岸は体を上下に激しくゆすり、ハンドルを引っこ抜かんばかりに暴れだした。
狂気。気違い。薬物依存症患者のごとき振舞いである。
「この僕にむかってぇぇ、よくもぉぉぉぉぉ」
「死刑、死刑、死刑、死刑、まとめて死刑」
五十、六十、七十キロ、峰岸はアクセルを踏み続ける。
対向車、歩行者、障害物、交通ルールを完全に無視した殺人的な運転である。
「待っててねえ、みくちゃーん」
「もうすぐだからねえ」
「もう少し、あと五分でつくからねえ」
「いい子にしててねえー」
車は閑静な住宅街を抜け、入り組んだ林道へと入ってゆく。
月の光は巨大な樹木に遮られ、どこまでも続く仄暗い道は、長いトンネルを思わせた。
峰岸は、一向にスピードを緩めようとしない。
「るーるるるるーるるるるー」
「みっくたーん、みっくたーん、みっくたんたん」
「みっくたーん、みっくたーん、みっくたんたん」
「るーるるるるーるるるるー」
峰岸は、異様なテンションを保ちながら除除にスピードを落とし、怪しげな雰囲気をおびた小屋の前に車をとめた。窓の外は暗く、青みがかった鼠色に、あらゆるものが浸されている。
「みっくたーん、みっくたーん、いっまいっくよ」
「みっくたーん、みっくたーん、いっまいっくよ」
月夜を浴びて黒々と光る大きな扉。峰岸は、内ポケットから鍵束を取り出し、例の歌を口ずさみながらひとつひとつ丁寧に錠を開け、小屋の中へ入り込んだ。
「ただいまあー」
「みくたーん」
「いい子にしてたあー? ひとりで寂しくなかったあ?」
「すぐご飯にするからねえー」
少女は金属製の鎖につながれ、うー、うぐー、うぐー、うー、と不明瞭な言葉を漏らしながら涙をながし、じっとこちらを見つめていた。