現実
(はぁー…)
心でため息をついた晴香の目の前には、山積みにされた苺があった。これを全部ヘタをとってスライスしなければならない。バースデーケーキやイチゴショートケーキやジャムに使うものだ。
-早くしないとまた怒られる。
あれから、晴香は専門学校へ入学し、有名なホテルの厨房に就職した。料理人の世界は厳しい。知らなかったわけではないが、やはり想像するのと体験するのは違うのだ。
「おい、お前いつまでやってんだ。それにそんなに時間かけてたら他のことができねーだろ」
「すいませんっ。…痛っ!」
先輩に叱られて謝っていたら、手が滑って持っていた苺と共に右手を切ってしまった。
それを見た先輩は一瞬目を丸くしたが、すぐに、
「バカかお前。よそ見してっからだ。…もうその苺は捨てろ。」
そう言って去っていった。
晴香は、いつも失敗ばかりだった。そして何よりも、行動が遅く、勘違いが多かった。
「お前なぁ…空の鍋を火にかけてどうすんだよ。こっちの水が入ってる方に決まってんだろ?」
「これ、逆になってるぞ」
「お前…これ…誰がこうしろって言ったんだよ。コントじゃねーんだから」
今日もたくさん失敗した。
あー…ダメだな、私。せっかく自分の好きな世界に来たっていうのに。
仕事が終わって着替えていると、同期の仲間達も次々とロッカールームに入ってきた。
「お疲れー。晴香、手、大丈夫?」
心配そうに声をかけてくれた倉橋美優は、美人で気が利く子だ。
「うん。大丈夫。ありがとう」
晴香は笑顔で返す。
「てか、あたし早く結婚して辞めたいかも」
そう言ったのは山本奈々実。髪をほどいてメイクを直しながらダルそうにつぶやく。
「えっ!そうなの?」
晴香は驚いた。奈々実は同期の中で、一番テキパキと動いて、よく仕事を任される。しかもやる気も人一倍強いように見えた。その奈々実が早く辞めたいだなんて…。
「だってあたし、爪伸ばしたいし…ネイルしたい」
「あたしも早く辞めたい!」
「あたしは、やっぱりみんなと休みが合わないのが嫌」
奈々実の言葉に、美優と他の2人も声を上げる。
「…そう…」
帰り道、晴香は考えごとをしながら歩いていた。
同期の子達はみんな晴香より年下だ。まだ18だもんなぁ。…遊びたいよね…。
そりゃそうだよなぁ…なんて思い、一人で頷く。
でも、6人の中で一人だけ、違う意見の子がいた。
「あたしは、辞めない。どれだけ足手まといだって言われても」
静かな口調だったが、長野茉莉の目には強い意志が宿っていた。
辞めるも辞めないも、別にその人の自由だし、晴香はそのことに関してはどうでもよかった。
問題は、自分なのだ。