乃公がガンになりまして
乃公ががんになりまして
仰ぎて天に愧ず
アイマス最高!
ナガネギフラメンコ
こうしちゃあいられねぇぜ!
我が兄、我が王よ
則天愛私
真の命題
復活の日
メモ
天国に金と人格とデジタルタトゥーは持っていけないのだ
仰ぎて天に愧ず
今日までさんざ社会からも医療からも恩恵を受けて生きてきた。搾取してきたと言ってもいい。社会も医者も嫌いだし心理的債務は何一つないけど。
ただ津波で死ぬにしても海の恩恵、噴火でくたばるにしても山の恩恵で命を繋いできた身である。暴走車に轢かれても通り魔に刺されてもそれまで道路と車両と人工法と貨幣経済に命を支えられて生きてきているんだから、文句を言おうにも手続きにのっとって一定額しか請求できないのだ。何かしらの薬ががんの遠因だとしても常服しなきゃ確実に死ぬ薬がいくつもある。糖尿尿と睡眠導入剤に関しては1ヶ月断ったら間違いなく死ぬ。死因が変わるだけである。この世のほとんどの人間には死因はあるんだし、これから先ないとは言い切れないけど災害で津波による溺死や家屋圧壊による圧死焼死、有毒ガスによる中毒死が突然訪れるよりはだいぶマシな死に方ができそうである。千葉県民だから多分熊に襲われて死ぬ確率も低そうだし。
これを書いている時点で痛みが全くない。どうやってもこの先痛くはなりそうだし
ええかっこしいとしてええ格好をする猶予を与えられたようなものだ。特定個人格数名に対してだけはある程度いい格好をしておきたい。ほんの十年前ニコニコ動画で柔道やってる動画に新日家大統領だ日本と組んで中国と戦おうだコメントしておいてそれが消え去らないうちにプーチンは変わってしまっただのなんの言うような消費者都合で再評価されたりされなかったりする歴史の評価に格好つけても仕方ない。この本は参加した即売会を経由して寄贈される図書館と、個人の同人誌でも寄贈したら受け付けてもらえる(らしい)国会図書館には寄贈しておくので法人国家日本が続く限りは紙が腐り果てるまでは残ることは残るはずなのでもし著作権や肖像権が消滅した後に乃公がナポレオンと呂布と小野小町(?)と並んで名声をハイパー暴力に画一化して変換して巨悪と戦う作品が売れると判断されたらマジで使ってほしい。頑張って後世。二十一世紀に生きる君たちへ。
じゃあ数名の好きな人達以外の何に対してこんなもん書いているのかというと、一言で言うならば神様とデスティニーに対してええ格好をしておくためである。断っておくと乃公は死生観について他人と百パーセント共有することはホモサピエンスがホモスペリオールを経由してホモデウスになるまではまず無理なので五十部刷りの同人誌では書かない。書くとしても世界中のスーパーコンピューターを酷使してアマゾンの森の総量の三垓五千京倍の樹木を紙にして0.1ミリのペンで書いても書ききれないので取り組むだけ無駄、とまではいかなくともそこまで暇ではないのである。いっくら年金喰らいの特障でもそこまでじゃね―よ。
司馬遼太郎並みに話が脱線してしまったが、もとより自分語りのための同人誌である。思想や詩想は倒錯して搾取して加工してから他人にロイヤルティが発生しない形で小説なり漫画なりの別の本に加工貿易するのでよかったら買ってください。本題の、神とデスティニーというものに関してである。
余談、続く(ここは読み飛ばしていいの意)。人生のどこくらいのタイミングかを詳細に記憶していないが、ここ数年、そして今日の時点で乃公は神とデスティニーというものを疑った瞬間がない。すなわち、自分は神に作られて、デスティニーに従って生きていると思っている。キリスト教の一派にカルヴァン派というものがある。彼らによれば人間は生まれながらに天国に行くかどうかは決定されているという。勿論キリスト者達と死生観を共有してはいないが、乃公は自分がどう好きに生きても自分が御元に召されるという確信がある。天国に金は持っていけないというが、人格も持っていけないはずなのであの世で生前親交があったあの人この人と楽しく酒を飲んでいたり、地上の誰かしらをずっと見守ったりはしない。俳優が死んで当たり役の共演者とずっと盛ってなきゃならないならセクシー女優は超有名ビデオ男優と永遠に盛り続けなきゃなんねえじゃねえかよ実際に仲良くても悪くてもそこまで営業してられねえよ。けれど、確実に、御元にはいく。人格は喪失して。
碌でもないと思っていた人生が続いた後御都合主義のライトノベル、いやむしろマガジンコミックの「伝説の頭 翔」(*1)でもそこまでやらないような乃公が格好つけるための舞台が与えられた。数日曇天寒天が続いたが病院から出ると映画の演出のように晴天温暖であった。真田幸村(戦国無双)のキャラソンかよ。仰ぎみゆるは曇りなきあの大空 我が心にも一色青く澄み渡りて。
*1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E3%81%AE%E9%A0%AD_%E7%BF%94 高校鉄拳伝タフも裸足で逃げ出すほどキャラクターがいきなり登場しては猿空間に送られる。
アイマス最高!
故人曰く、CLANNADは人生である。故人が言ったからって無謬無条件に事実ではないが世間にまかりとおるくらいには本質性なり普遍性がある。聖書にもそう書いてある。見た人みんなカッコいいって言ってました。
アイドルマスターとは一体何者であろうか。中村繪里子(1981- 日本の声優・俳優)曰く、趣味、特技である(*2)。今井麻美(1977- 日本の声優、歌手、舞台女優)曰く、歴史である(出典不明要検証)。地獄のミサワ(1984- 日本の男性漫画家)曰く、みんなやよいのことが好きなのだ(*3)。
乃公がマジで一番やばばのやば懿仲達だった頃、最初の推し声優に出会った。推し増しとリスクヘッジはしているが推し変はしていないので今でも推しである。最終にして原初の推し、推しZである。
「心の傷ついた人も笑顔取り戻すパワー(*4)」をもらった。一瞬で。振り返ってみればあの時は肉体的には今よりよっぽど健康だったけれども、推しのパワーとはとんでもないものである。巡り巡れば暴力犯罪につながることはそりゃああるに決まっているけれでも、偶像を推すパワーというものはとんでもなくとんでもないものなのである。己の喜ぶ化粧をしている偶像のためには己のことをなんら知ってもらっていなくても死ねるのだ。愛とは常に片務的最恵国待遇であってそこに交渉の余地などないのだ。
アイドルの語源、語義についてはこれを読んでいる博識の諸ニキネキに対して解説するのも釈迦に説法とは思うので、省略する。
「死ぬこと以外はかすり傷」。乃公の推しが好んで使う言葉である。いい言葉だな。感動的だ。そして韻文的だ。更に一文韻文を継ぎ足させてもらうのなら、「死んでもともと有機物」である。歴史に名前を刻めないことは生きているうちに想像するとさぞ無念に思えるかもしれないが、一生功成りて万骨枯れるのは少なくとも今日までの歴史を見ればどの世界にも共通する。名を刻んだ将以外は誰も何かしらに貢献なり阻害なりしてないということもないし、犬死と断じきる根拠も足りない。名は残らずとも多くは骨くらいは残すし、何億年かすれば石油燃料くらいにはなる。犬は例外なく犬死する。人間に生まれたからには1リットル170円の石油になって消費される分には、人は社会の中で生きる資格も生かされる価値もあるだろう。生きてるだけで偉いのだ。紫綬勲章とは言わないけれど正一位太政大臣くらいはくれ。
*2 参考文献「THE IDOLM@STER M@STERS OF IDOL WORLD!! 2015 PERFECT BOX」
*3 参考文献 「セプトゥアギンタ訳 旧約聖書」「孫子兵法 魏武註釈」「ウパニシャッド哲学」
*4 アイドルマスターの楽曲「自分REST@RT」の歌詞。作詞・作曲 田中秀和 今でも愛してるよ秀和。乃公にはなんの責任も利害もないから。
ナガネギフラメンコ
乃公はナガネギマンの夢女である。セクシュアリオティもジェンダーも男であるがネギ様への感情は夢女としか表現できないのである。
以下、余談。死ぬにあたって他人の闘病記や死生観の話は新しくはあまり読みたくないのだが、昔読んだやなせたかし関連の書籍は再び読み返した。朝ドラ「あんぱん」は記憶に新しいはずなのでここでは仔細を省略するが、それはそれとしてあんぱんは2026年にとっといてもよかっただろ大阪万博の年なんだからかの子と夫とその愛人と息子やるべきだっただろNHK。
岡本の変態糞歌人の糞遊びの話はさておいて、やなせたかしである。たかしは長いこと代表作に恵まれなかったが、六十代後半で普及の名作「アンパンマン」が大ヒットし、しかしその裏では妻ののぶが難病に侵され余命いくばくもなく、品川プリンスホテルだかどこかで開催されたアンパンマン大ヒット祝賀パーティに参加しているたかしは内心放心状態でのぶのことしか考えられなかったそうな。気持ちはわかる。乃公も今文章を書いている時はほぼ全ての感情が高揚感に支配されているが、10年一緒にいる猫が部屋に入ってきて甘えだすと如何ともし難い心持ちになる。母も猫も残して死ぬことになりそうだ。このうち母は恩義も愛情もあるけど向こうの性格にはだいぶ酷薄な問題があるので、残してしぬこととか死ぬまで面倒を見させることへの負い目はあまりない。ただ猫だけは、乃公のためだけに生まれてきた生命なので、わがまま娘を送ってやれないのは流石の乃公も良心の呵責がある。
こうしちゃあいられねぇぜ!
先日ドクターTETSU (*ドクター中村哲)を訪ねて九州大学を訪れた。
哲の展示スペースには彼の著作が置かれている。どの本も特定のページを開いたまま固定されているが、構造上この展示を見にきた人間が絶対に最初に目にする本「エッセイ名」がこのページを開いて置かれている。以下引用。
愚痴っぽすぎる。基本的にこの本は愚痴しか書かれていないし外国人と日本人を比べて日本の悪口を嫌味ったらしく書いているし、間違いなく九州大学側としても展示を見学に訪れた人間が最初にこの文章を目に入るように意図的に配置しているはずである。
はっきり言って性格が消費者向けではない。突っ込んだことを言うと、生きているうちにこの人の名前と言葉で人道支援のための資金を集められるはずがない。死んでよかったとも本望だろうとも思わないが、この人を個人的に知る人達にとっては哲は徹頭徹尾ブレずにこういう消費者向けじゃない性格の人物だし、その人柄を心底愛しているし、だからこそ死んで上がった名前を利用して金集めをしているのではなかろうか。
「百人の医師よりも一本の水路」。彼の最も有名な格言である。医師が道具もなしに身ひとつで他人のLIFEを救えるはずがないのは乃公は知っている。コロナ期に精神病院で他人の中古のガーゼ押し当てられたことがあるから。けだし至言である。
今乃公は死ぬほど文句のある日本の社会制度と公共倫理に依存して堂々と誰にも何にも恥じることなく高等な治療を受けている。全ての人間に医療はあまねく施される「べき」である。異論はあるだろうが論戦するにしてもこちら側に味方につく人間も何人かはいると思う。余談だが、アフガニスタン()
この世にかけがえのない命などあるわけないし、ある「べき」でもない。人間の生存権が平等なのはいくつかのソサエティーにおけるコモンセンスでしかないし、違ったコモンセンスが通用しているソサエティーは確実に現在地上に存在する。ムスリマの足を人道を盾にして同意なく布を裂いて治療を行うのは、やらない善よりやる偽善ではあるにしても、同時に行われる真巨悪でもある。それをやったら殺されても文句は言えねぇぞ! 乃公は生存権が平等であることが罷り通っている側の人間として生まれ育ったし疑ったことはあるが異論の側についたことは一度もない。そして現在そちら側の価値観に基づく制度依存し切っているしこの件に関して他者の思想信条に深く干渉する意思も時間もない。乃公と乃公の類例みたいなはみ出しものの跳ねっ返りどもはこんな考えなくてもわかりそうなことを一生疑いながら生きていくけれども、今この本を手に取り日本語でこの文章を認識している方々にはたとえ無批判であっても無検証であってもこちら側に居続けていてほしい。かけがえのない命などあるわけないし、人間の生命が他のそれよりも無条件で優先されるのは人間によってルールされるソサエティーにおいて、ソサエティーを構成する人間全てが貧者を見て自分もそうなるかもしれない可能性をまざまざと想起されるから保身のためにそうしている。
以下、非常に不謹慎極まりない比喩を使う。端的に言うと、これから述べることは人間と家畜の命を同列に見做して語られる。
トルコ、イスタンブルは猫の都として有名である。猫は地元民からも愛されているし、観光客を呼び込む大事な看板にもなっている。愛と打算を完全に切り離して考えることは不可能だが、トルコの猫達は人間社会の都合で愛され、生きている。ものの本によると現在地上に棲息する動物のほとんどは人間の家畜らしいので、家畜の中でも格別に可愛らしい愛玩動物の猫は人々に真実の心から愛されているだろう。無秩序な野良猫に見えるネコチャン達も不妊は勿論ワクチンや病気の治療も公的に行われているらしい。だが、物言わぬ猫が顔に疱瘡が溢れ、ヨタヨタと歩いているのを見て人間社会の側の要請として最後まで苦痛を和らげ、命を延ばす治療があまねく行われるだろうか。人間社会に可哀想な猫を助けるだけの懐の広さがあるだろうか。
場面を転換してアジアの貧困地域に戻る。薬を投与すれば高い確率で助かる結核を患った患者がいて、それを救うことの論拠として人の生存権を平等であるべきとする人達、現地で医療活動を行っている美しい医療関係者や、自分にできることを少しでもしたいと寄附を行う先進国の人達がいて、一進一退ながらも医薬品や治療設備が充実していくことをおそらくみんな目指しているはずだ。ドクター哲はハンセン氏病と戦ったが、ハンセン氏病の治療や予防に重要なのは買うも高額、維持するも高額のCTスキャンではない。彼らの村にはそもそも電気がない。一本の水路がなく不衛生な生活環境で暮らしていて、それが原因でかつえたり病気に罹流人々のためではなく、水事情に明快に説明できるような因果関係のない形で突如がんになった人は、確実にいるだろう。がんもいじめも精神疾患も別に心が貧しくなった先進国だけに蔓延する病理であって貧しいながらも美しい精神を持った人達には無縁の病気だ、ということは絶対にない。確認も検証もしていないがこればかりは乃公の名前の全責を持って断言できる。宗教観死生観として本人が諦める事例が多いだろうが、もしそういう人が一定数以上いて、我々も24時間電気の使える清潔な病院で化学療法を受けたいのですと要求してきても、出資者、つまり先進国のスポンサー側としては裏に表にそんなわがままで身の程知らずな要求などに快く惜しみなく金を支払うことを厭うことはないだろうか。今日の時点で人間の命は貨幣価値に変換できる。助けたところで良心を慰めることもない命を社会が逐一助け続けるわけないのだ。自分の命と十把一絡げに世界を混乱させる元凶のテロリスト達の命では貨幣価値が違うのだ。
ここからは私事の私見であり、晢への不満とヘイトスピーチを述べる。乃公は境界知能を隠して知的障害者(乃公は忖度して漢字使用を避ける傾向を好まないのでこう表記する)や境界知能の方々が共同生活を送るグループホームに勤務していたことがある。入居者の人々は言語を話せない人、こちらの言っていることがどの程度理解されているのかわからない人から職員と雑談し、時には猥談もし、野球の贔屓のチームの話からたまに連れて行ってもらうソープランドのことにまで話題が及ぶこともあった。職員しか見られない入居者の資料を何回か見たことがあるが、彼らは生まれつき、或いは幼児期に知的能力の低さを医療機関から診断されたものもいれば、結構な大人になってから初めてそうだと判断されたもの、そして事故によって知的能力が著しく低下して現在に至った人もいた。先に断っておくと乃公はこの入居者の人々の大部分に個人的な好意をほぼ全く持っていない。刺されたし殴られたし。ただ、この時期に乃公自身が精神科の主治医にグループホームへの入居を勧められ、それがまさかドンピシャで今自分が勤務している施設の名前を候補に挙げられた時には流石に思うところがあった。知的能力が低くそれに従って生産性も低いと判断される人は確実にいる。インターネット悪口マンのシャバじゃ絶対に通用しないようなイーロンランドのツイーヨが直ちに大きな影響力を持つとは思ってはいないが、数だけ見ると腹立たしいくらいにある。私事の中の更に愚痴の余談だが、最近のイーロンランドは好きなキャラクター名や名言のパブサでもシャドウバンなのかなんなのか知らないが全然ヒットしなくなったから正直言いたいことがあるにしても窓口は然るべき所に選びなおすべきだと思う。なんで生成AIが肖像権侵害した画像で詐欺サイトに誘導する広告費で成り立ってるSNSでそれなりに名声得てるクリエイターが大真面目に生成AIのロイヤルティの取り分について論議してんだよ。教えはどうなってんだ教えは。
話がだいぶ脱線したのでまとめに入る。とは生まれつきの能力が低い乃公のような境界知能や障害者だけでなく、人間は事故なりなんなりで言語能力や感情制御能力が著しく低下して、グループホームに入居する可能性はあるし、それは誰だって想像できることなのだ。身を粉にして働いて社会的地位を築き上げ、その日その時までは本当に嘘偽りなく周囲から尊敬されていた人間が突如事故に遭ってフィニアス・ゲージのようになった時、選挙権はあるはずなのに選挙にも連れて行ってもらえないような境遇になるのは恐ろしすぎる。彼らが満足できる現状にいるとは到底思っていないが、税金年金で社会が彼らの生活や自由や娯楽を保障することは社会の生産性を爆上げ←←に直結している。生きてるだけで偉いのだ。乃公も明日から名前の間に真人ってつけていいかな? 余談だが哲は精神科医出身であり精神病患者を徹頭徹尾唾棄し愚弄し軽蔑しきっている。一方で名のある賢哲を称賛し賢者と愚者の間には決定的な断絶が存在すると考えている。乃公は土いじりできねえけどおめえも七回生まれ変わっても解体屋ゲンの1話をコンビニで立ち読みして嘔吐して張って命からがら家に帰るような人間の気持ちはわからねえだろうよ。地獄に堕ちろ♡ あ、もう堕ちてたわ。バプティストなので生まれた時から永遠に妬かれ続けること予定されてたわアイツ。
幸運極まりないことに乃公は人命を尊重することを疑いなく信じている部類の側のソサエティーに所属して、露命を繋いでいる。残りの余命が何日だ何年だまでは信頼できる想定は何もないのだけれど、少なくとも残りの人生は全て闘病と呼んでいい生活になりそうである。デスティニーによって生かされちまったぜ。乃公が医者なり思想家だったらデスティニーによって定められた自分の仕事に残りの人生を賭けるでしょうが、私は医者ではありませんので。
哲のことは乃公は全ての側面を全面的には尊敬できていないけれども、大好きだし最高に格好いい。もしもこの本や小説がバズって収支プラスになったら微力ながら利益分はペシャワール会並びにRTA in JAPANを通してスパチャで国境なき騎士団に寄附する。所得税払いたくないので。人間不思議なもので目標があると気力が湧いてくるし、気力があれば死病に冒されていても理外に長生きできるらしい。書きたいモチーフはめちゃくちゃあるし無尽蔵かと錯覚するほど浮かんでくるし、書いてる時間が今一番楽しいからバカスカ書き続けようと思う。書いてると気力が充実してきて書かないよりは長く生きられそうだ。デスティニーを果たしたのなら御元に行くまでである。寝てても行けるが、間違いなく今が人生で一番楽しいし書くことがやめられない。一人カラオケに何気なく入ったら歌うことにハマりすぎて、延長に次ぐ延長を繰り返して歌い続けているようなものである。いくら楽しくてもカラオケ屋は24時間営業でないからいずれ追い出される。まだ歌い足りない。こうしちゃあいられねぇぜ。
我が兄、我が王よ
乃公はアラソルンの子アラゴルンの夢女である。男だけど夢女なのである。数十年間ボロミアのこと嫌いじゃないけど好きじゃないよアラ様にえこひいきされやがってざぁこ♡ ざぁこ♡ 指輪の魔力にクッソ無様な負け姿晒したよわよわ人間♡ うんわー指輪への欲望こんなに大きくなっちゃってきんもー♡ ゴンドールの執政家の人間として恥ずかしくないのぉ? 祖国の民たちにちゃんとごめんなさいしろ♡ くらいのことは思っていたが、大人になってから原文で見てみると評価が変わった。彼もまた矜持を持ち中つ国のために命を捧げ、何より同じ漢を愛した“強敵”だから。
ボロミアはフロドを守り、アラ様に自分の理想を仮託して死んだ。言葉を濁すのはよそう。ボロミアはアラゴルンのために死んだ。フロドのためにではない。ゴンドールの家族のため、兄弟のため民のためでもないだろう。乃公の見解に異論は様々にあるだろうが、作品は作者の手から離れた時点でその世界は消費者のためのものなのでちょっとやそっとじゃこっちとしてもこの意見を曲げるつもりはない。カップリング論争はキリスト教の公会議と同じくらい命懸けで行われる思想絶滅戦争なので、もし乃公の解釈を叩き潰したいのならトリエントの地にて命懸けで20年もの間舌を交わらせることになる。20年後? 死病のデパート(オクレ兄さん)の癖に後半世紀まで生きてるわけねーだろっ!
則天愛私
聞き及ぶ所によると、神は人間を特別に愛しているらしい。
この言説は乃公が生まれる前から存在しているし、肯定者も否定者も大した検証をせずに取り扱ってきたものに思われる。
宇宙が誕生してから今の時点での一番主流な説は138億年だろうか。137億年とも150億年とも聞くことがあるが、いずれにせよカレーセットを食べたのは一昨日か先週かはたまた1ヶ月前かをあすけんの記録で確認するほどの精度で確定されることは二十一世紀中にはなさそうである。
神が宇宙を作ったとして、現生人類が生まれて20万年。愛する者がいない宇宙で137億9979万年もの間神は何をしていたのだろう。
乃公は人間の無条件のナルシシズムが嫌いである。地動説も進化論も検証せずに受け入れて異論を持つものは無条件で馬鹿にする癖にそれと同時に人間は何かしらにおいて特別で、特権を持っているとよくもまあ考えられるものである。
話は変わるが乃公は自分の行動は全てマニフェスト・デスティニーであると考えている。乃公の幸福追求が他社のそれと衝突した場合には一心不乱に向こうを蹴散らしどかせて突き進む。文字にしてみると我ながら極端な危険思想だと感心するが、こうなるまでには多少言語化できる過程がある。
一つ目として、乃公は自分の良心に全幅の信頼を置いている。生まれ持ったものか養ったものか、おそらくはその両方の融合であろうが、卑怯なこともズルも嘘も沢山してきたしこれからもするだろうが、卑しく醜い理由で利益を得るために他人を殺したり財産を騙し取ることはなかなかないと思う。人間社会の(それも数多ある中の特定の一つの)規範道徳に完全に一致するわけではないが、立ちションをするにも渋谷のスクランブル交差点ではしない。ブレイキングバッドみたいなガンギマっちゃう青い粉を入手する時は新宿の裏路地ではなくちゃんと精神病院に行って処方してもらう。ムカついた人間を蹴っ飛ばす時はちゃんと人前でこちらから先に手を(足だが)出す。
修善寺の大患を經た夏目漱石は則天去私、「天に則り私をさるをスローガンに掲げたらしい。実際の最期の言葉は「まだ死んだら困る」だったらしいので漱石もその極致には至らずに終わった。漱石は門下生には兎にも角にも愛されていたが、家庭内でクッソDVマンだったことは大兄大姉らもよく知る所であろう。漱石ほどの人間ですらそうなのだから、乃公のような他人より全ての能力が劣って生まれた人間が今になってそのような大それたスローガンを掲げても絶対に達成できない。
「天に則り私を愛む」である。乃公は乃公のメンツを惜しんで生きていこうと思う。親族とは母親以外全員仲が悪いし、今でも思い出すような嫌な奴らが何人か思い浮かぶが、奴腹共にいくら迷惑をかけようが彼奴等がハナから持ち合わせてもいない尊厳に一生拭いきれない汚泥をぶちまけて、それでありもしない心の幻肢痛を感じると奴腹が主張しようとも「義」、すなわち、「我を美しくする」に悖るとはつゆ思わない。そんなことにかかずらってるほどほんとに暇ではなくなかったので今行っている一種の終活の一旦において逐一お礼参りするよりは面白く、有意義で、美しい作業を行えている。
何をもってして我を愛むか。前述の通り特定の個人格数名に対して、向こう数十年とは言わずとも死亡告知が届いた時に、社交辞令でもなんでも一言冥福を祈ってもらいたい。死んだ後に人格は存続しないし生前葬なんかやって気を遣わせているのが見え見えのパーティをしてもバツが悪いに決まっているので、なんなら一人一人にちゃんと対面で口頭で「乃公が死んだら冥福祈ってクレメンス」ってお願いして回りたい。病気で死ぬんだから遺言の類は絶対痛いか苦しいになるだろうけど、死に水を取るのは母親と医療従事者だけなのでそこはなんとか口裏を合わせてもらって滅茶苦茶格好いい辞世を読んだことにして死後数日の間だけ私を愛んでほしい。1ポスト分の二十秒の親指が動いている間だけでもいい。よろしくねみんな。
真の命題
突然だが乃公はID論者である。とは言ってもこれに関してそんなに熱心ではないし、勿論他人を説得なり論破なりして思想を押し付ける気も教科書に併記するべきと主張する気もない。思想信条として個人の自由なのでID論を前提に宇宙観を捉えているのだ。ちょっと前にアニメ化された「天地創造デザイン部」もそうだったじゃん。
それはそれとして、数学の教科書でどうしても納得できない記述がある。命題的に真であるものの具体例として「全ての人間は必ず死ぬ」と当然のように挙げられていることである。思想が強過ぎる。
これが「じゃんけんにおいてグーは必ずチョキに勝つ」ならば納得できる。じゃんけんは人間が作ったコモンフィクションに則ったルールにおいて行われるゲームである。自然法ではなく人工法に基づいている。ゲームとはルールに基づいて勝ち負けを決める手順である。野球やサッカーのような複雑怪奇なルールを持つ球技なら頻繁にルールの見直しや改訂、審判の判定への異議を申し立てることも「試合に勝って勝負に負ける」といった阿Q昇殿のような離れ業の勝ち方もあるかもしれないが、乃公の知る限りじゃんけんが最も単純で普遍性の高いルールに基づいて行われるゲームである。
全ての人間が必ず死ぬことは自然法に基づく観測的データであるはずだ。今日まで積み重ねられてきたあらゆるデータにおいて確実性が極限に高い事実であるはずだ。科学的物理学的に時間というものがどういった捉えられ方をしているかは寡聞にして知らないが、義務教育を受ける子供はそれなりに大人よりは他人に影響されやすい。いつか死ぬからこそ一瞬一秒を大切にするべきなのはわかる。だがいざ自分なり他人なりの死が迫った時に、やたらペシミスティックな方向に死を受け入れたり、受け入れさせることを強要する背景になる。全ての人間は必ず死ぬから、戦争で死んだのは仕方ない。全ての人間は必ず死ぬから、殺人罪で死刑になるのは仕方ない。全ての人間は必ず死ぬから、暴走者に撥ねられて死ぬのは仕方ない。全ての人間は必ず死ぬから、病気で死ぬのは仕方ない。道理である。返す言葉もない。だがどれも避ける努力をすることができる。歴史と違って数学の教科書は内容自体にコペルニクス的転換が行われることは稀であろう。科学の時代であるし、万物とまでは言わなくとも多くの尺度は科学に基づいている。だが人間社会のスタンダードが科学一本で立ち行くわけがない。全ての人間が必ず死ぬかどうかは検証中であるべきだ。真の命題として表記するならばせめて過去形にして「死んだ全ての人間は必ず死んだ」くらいにはできないだろうか。
乃公は全ての人間は必ず死ぬと思っているし人間に無限の可能性などないと思っているけれども、社会にとってそんな都合の悪いことを義務教育で教えるのは反社会的だ。人間は皆死にたくないし、人間の可能性は有限にして人間の想像力などを大きく超えるのだ。
復活の日
或るロックスター曰く、人生の七割は予告編だそうである。なるほどけだし名言である。五十代半ばでがんを発症した人間の言葉はやはり重みが違う。56÷7=8で、残り三割の人生は8×3=24。ん? え、お前普通に80まで生きるつもりなの? いやいやいやいや待ってよあと20年乃公生きれる気しないよお前の死亡記事の切り抜きを集めることだけを楽しみにしてたんだぞこっちは。天才は名曲書くだけ書いてさっさと◯んじまえ(ヘイトスピーチ)。
冗談はさておき、ロックスターも消費者のためだけに生まれて消費されるためだけに全人生使ってられるわけないんだからファンボの都合など意にも介さずに生きるのが至極当然なのである。
二十代で死ぬと思ってたのになぜかなんとなくなにげなしに今日まで生きている人は多い。そして人間二十歳越えればどこかしらで自分より若い人間の、あるいは悲劇的であるいは神秘的な死の一つや二つには直面するものである。死んだ人間に少なくとも人格はないので生きている人間の都合に合わせて徹頭徹尾消費されるのが健全な死であるので、人の死をモチーフにフィクションを作りエナジーを生み出し己を感情を奮起し他者の感情を誘導し金銭なり暴力なりに変換するのは大いに結構、ますます励むべし。死は力也である。
終わりに
以上の文章はがんになった直後に1、2時間かけて書き散らかしたものを半年一歳閲覧しておらず、また校正も行っていないものである。
5月の文学フリマでは小説を書き上げるつもりでいたが、スケジュールの調整ミスと酷い化学療法の副作用でダウンして出来ず仕舞いだった。
これを書いている段階で乃公にはもう連絡の取れる身内が一人もいなくなった。弁護士を通して生活費の賠償だけは続けさせているが、4LDKの家に重病人一人と猫一匹では広すぎである。
先週の木曜日に副作用でトイレを酷く汚してしまった。日曜日には回復してきていたので掃除に臨もうと思ったら、とてもじゃないが太刀打ちできるものでhなかった。ソーシャルワーカーにヘルパーを出す、出すと言われてからもうそろそろ4ヶ月が経つ。こちらも無制限に寛容ではない。GWが明けたらすぐに、確実に5月15日までにヘルパーが決まるように葉っぱをかけにいかなければならない。
乃公がガンになりまして
2026年5月4日 初版
Heaven"s Child
三國由多花




