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さよならの続きを、別の名前で  作者: かーすけ


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第9話 向こう岸からのエール 未完の絶筆に魂を吹き込む

 その瞬間・・・世界から「色」が消えた。

 心電図が刻んでいた無機質な電子音も、肺の奥で燻っていた焼けるような痛みも、すべてが嘘のように霧散した。


 一条澪いちじょう みお、二十八歳。

 人気絶頂の最中にあった彼女の意識は、病室の天井を通り抜け、重力から解き放たれた鳥のように、高く、青い「無」の空間へと舞い上がった。

 臨死体験者が語る「光のトンネル」を、彼女はもっとクリエイティブな形で体験していた。

 視界のすべてが、無限に広がる「真っ白な原稿用紙」へと変わっていく。

 その紙の上には、彼女がこれまでの人生で描いてきた数万枚のコマが、銀河のようなパノラマとなって流れていた。    

 幼い頃、クレヨンで描いた母の似顔絵。

 初めて漫画賞を受賞したときの、震えるような躍動感。  

 そして、現在連載中の『銀河の旅人』の熱い名シーンたち。

 それらはただの記憶ではなかった。

 澪の意識が触れるたびに、キャラクターたちが紙の中から飛び出し、彼女に語りかけてくるのだ。

「お疲れ様、澪。よくここまで描いてくれたね」  

 主人公の青年が、かつて彼女が描いた最高の笑顔で手を差し伸べる。    

 視界の先には、臨死体験の核心とも言える「境界線」が見えた。  

 それは、黄金に輝く「インクの河」だった。  

 その河の向こう岸には、筆舌に尽くしがたい多幸感と、永遠の安らぎが満ちているのがわかる。

 そこへ行けば、もう締め切りに追われることも、読者の評価に怯えることも、病魔に冒された体でペンを握る苦しみもない。    

 澪は、その河へと一歩を踏み出そうとした。

 だが、ふと足元を見たとき、彼女の魂は凍りついた。

 パノラマのように流れる人生の原稿。

 その一番最後、本来なら「完」の文字が刻まれるはずの最終回のページが、無残なほど真っ白なまま、冷たい風に揺れていたのだ。

(・・待って。まだ、終わっていない。この物語は、あそこで終わっちゃいけないの!)

 その瞬間、現世からの凄まじい「思念」が、澪の魂を強く引き留めた。  

 それは、病院の待合室で震えるアシスタントたちの祈りであり、何百万人の読者の、やり場のない喪失感だった。  

「澪先生・・嘘だろ・・。最終回まで、あとたったの一話だったのに・・ッ!」    

 チーフアシスタント、駿しゅんの声だった。

 澪の才能を誰よりも信じ、彼女の「右腕」としてペンを握り続けてきた男。彼の絶望が、インクの河を真っ黒に染め上げ、澪の足首に絡みつく。

(駿・・ごめん。あとの展開は、ネーム(構成案)に残してある。・・・でも、あのネームは私でしか読み解けない。私が描かなきゃ、この物語は永遠に「未完」という名の地獄に落ちてしまう・・・)

 澪は、慈愛に満ちた「向こう岸」に背を向けた。  

 魂が叫びを上げる。

(神様、いらない。永遠の安らぎなんて、まだいらない! 私を、あのスタジオに戻して。一本のペンでいい。一滴のインクでいい。私の命を、物語を終わらせるための『一線』に変えてください!)

 直後、澪の意識は爆発的な光に呑み込まれ、銀河のパノラマはシュレッダーにかけられたように砕け散った。  

 彼女は、暗く、激しいインクの渦へと、自ら飛び込んでいった。


 目が覚めたとき、そこはひどく懐かしい場所だった。    

 微かに漂う修正液の匂い。

 散乱したスクリーントーン。

 そして、二十四時間稼働し続ける空気清浄機の低い唸り。

 一条澪の個人スタジオ、『スタジオ・ミラージュ』。    

 だが、澪の視点がおかしい。  

 彼女は、自分が自分自身の肉体に戻ったのではないことをすぐに悟った。

 鏡に映ったのは、二十八歳の自分ではなく、どこか幼さの残る、だが瞳に異常なまでの「熱」を宿した十八歳ほどの少女の姿だった。

 それは、澪がかつてデビュー前にボツにした、自画像のキャラクターに酷似していた。  

「・・誰だ、君は。うちは今、それどころじゃないんだ」    

 デスクで頭を抱えていた駿が、力なく顔を上げた。  

 彼の前には、澪が最後に遺した、走り書きのネームが置かれている。  

「助っ人です。・・一条澪先生に、頼まれてきました」    

 少女の姿をした澪の声は、かつての自分の声よりも少し高く、けれど、毅然としていた。

「頼まれた? 先生はもう・・・」

「知っています。でも、先生は言っていました。『最終回の最後の一コマ、駿になら託せる』って」    

 駿は目を見開いた。

 その言葉は、彼と澪の間でしか交わされたことのない、信頼の合言葉だった。

「君、まさか・・・」

「時間は、明日まで。先生が遺したかった『答え』、私と一緒に描いてくれませんか?」

 駿は、目の前の少女に澪の面影を見たわけではなかった。

 だが、彼女がペンを手にした瞬間の構え、インクの瓶を開けるときの手つき、そして、原稿用紙を見つめる鋭い眼光。そのすべてが、彼が愛し、畏怖した天才漫画家・一条澪そのものだった。  

「・・わかった。君が誰かなんて、今はどうでもいい。・・描こう。一条先生が命を削って遺した、この物語の続きを」


 修羅場が始まった。澪と駿、二人だけの最終回。

 少女のペン捌きは、もはや人間業ではなかった。丸ペンが紙を削るカリカリという音が、スタジオの静寂を切り裂く。

 彼女には見えていた。真っ白な原稿用紙の上に、本来描かれるべきだった「正しい線」が、青白い光となって浮かび上がっているのを。  

 彼女はただ、それをなぞるのではない。その線に、今の自分の「魂」を乗せて叩きつけていく。  

(駿、見ていて。私の線の引き方を。キャラクターの目の、一ミリのハイライトの置き方を。物語は、私が死んでも終わらない。君がこの技術を盗み、君が描き続ける限り、私の命は君のペン先に宿り続けるの!)    

 駿は、隣で描く少女の凄まじい集中力に気圧されながらも、必死に食らいついた。  

 彼の手が、かつてないほど自由に動く。

 これまで「一条澪の真似」でしかなかった彼の絵が、澪の魂と同期シンクロすることで、彼自身の新しい表現へと昇華されていく。    


 夜が深まり、スタジオの時計の針が午前三時を回った頃。  

 二人の意識は、一つの「線」へと収束していった。

 臨死体験で見たあのパノラマの風景が、原稿用紙の上に再現されていく。

 主人公たちが、それぞれの苦難を乗り越え、ついに「銀河の果て」へと辿り着くシーン。  

 そこは、澪がさっきまでいた「あの世」の入り口と同じ、真珠色の輝きに満ちていた。  

「・・ああ、これだ」    

 駿が、描きながら涙を流していた。

「先生は、この景色を見せたかったんだ。死ぬのが怖くないような、優しくて、美しい終わりを・・」    

 澪は、震える手で最後のページにペンを下ろした。

 一線、一線。  

 自分の存在が、一滴のインクへと変わっていくような感覚。    

 最後のコマ。  

 主人公が、読者に向かって微笑み、こう告げるシーン。

『旅は終わらない。君が明日を夢見る限り、僕らはいつでもここにいる』    

 そのセリフを書き入れた瞬間、澪の右指から力が抜けた。  

 Gペンの先が、カタンと机に落ちる。

 窓の外から、白々と夜が明け始めていた。


 スタジオに、柔らかな朝陽が差し込んだ。  

 完成した二十四ページの原稿が、机の上に誇らしげに並んでいる。  

「・・できた。完成だ! 一条先生、やったよ!」    

 駿は歓喜の声を上げ、隣を見た。  

 だが、そこにはもう、あの不思議な少女の姿はなかった。    

 ただ、彼女が座っていた椅子の上には、一枚の原稿用紙が置かれていた。  

 それは本編にはない、番外編のような一コマ。  

 そこには、いつもの仕事着を着て、少し眠そうに笑う「一条澪」自身の姿が描かれていた。    その絵の横には、彼女にしか描けない、歪で、愛嬌のある「花丸」が添えられ、走り書きでメッセージが残されていた。    

『駿、満点だわ。あとは、君の物語を描きなさい。・・ありがとう。』    

 駿は、その原稿を抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。


 その時。

 一条澪の魂は、スタジオの天井よりもずっと高く、再び「光の門」の前に立っていた。    

 今度はもう、振り返ることはなかった。  

 彼女の目には、現世に残された「未完」という名の暗雲はもう見えなかった。  

 代わりに、駿がこれから描き出すであろう、新しい物語の産声が、心地よい音楽となって聞こえてくる。    


 光の門がゆっくりと開く。  

 そこから溢れ出したのは、彼女が一生をかけて追い求めた、どんな高価なインクよりも深く、どんな白い紙よりも純粋な、「祝福」の輝きだった。    

 澪は、満足そうに微笑んだ。  

(さあ・・次は、どんな物語を描こうか)    

 彼女の魂が、光の深淵へと溶け込んでいく。  

 それは「消滅」ではなく、永遠の「完成」へと至るステップだった。    

 スタジオの机の上、駿が握るペンの先には、今も一条澪が遺した一滴の情熱が、乾くことなく輝き続けていた。

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