第8話 透明な雨のあとで もう一度家族を守るため
その瞬間、世界からすべての「重力」が消えた。
激しい雨がアスファルトを叩く音も、耳を裂くような金属の衝突音も、一瞬にして遠のいた。
結城直人の意識は、砕け散ったフロントガラスの破片とともに、夜の闇の中へと放り出された。だが、不思議と痛みはなかった。ただ、今まで自分を縛り付けていた肉体という「重いコート」を脱ぎ捨てたかのような、圧倒的な軽やかさだけがあった。
(ああ・・・終わったんだな)
視界の端に、ひっくり返った自分の車が見える。潰れた運転席。そこには、つい数分前まで「自分」だった、血を流して動かない肉体が横たわっている。野次馬の叫び声や、遠くから近づいてくる救急車のサイレンが、まるで厚い氷の層を隔てた向こう側の出来事のように、こもった響きとなって聞こえた。
その時、直人の視界が急激に反転した。
闇が消え、視界のすべてが、まばゆい真珠色の光に包まれる。
それは単なる「光」ではなかった。
そこには、この世の言葉では形容しがたいほどの慈愛と安らぎが満ちていた。
直人の意識は一気に拡大し、彼の三十三年の人生が、まるで巨大なパノラマ映画のように脳裏を駆け巡った。
それは「走馬灯」と呼ぶにはあまりに鮮明な、魂の回想だった。
泥だらけになって遊んだ少年時代。
妻・恵と初めて出会った日の、胸が高鳴るような午後の陽光。
そして、娘・陽菜が生まれた瞬間の、あの柔らかく温かな産声の重み。
「直人さん、夕飯できたわよ」
「パパ、見て! お花が咲いたよ!」
日常の、何でもない一コマ一コマが、ダイヤモンドの粒のような輝きを持って彼を包み込む。
直人の心は、全能感に近い肯定感で満たされた。
「すべては、これで良かったのだ」という深い納得。彼はその光の奔流に身を任せ、光の門の向こう側――永遠の静寂へと溶け込もうとした。
だが、その至福の境界線を越えようとした刹那。光の海の底から、魂を震わせるような「慟哭」が届いた。
「パパ! 嫌だ、パパ! 起きて、お願い・・ッ!」
陽菜の声だった。
冷たい病院の廊下か、あるいは事故現場か。絶望に染まった五歳の娘の泣き叫ぶ声が、直人の魂を貫く鋭い棘となった。同時に、恵の、魂が枯れ果てたような、静かすぎる祈りの声も聞こえてくる。
(陽菜・・恵・・)
直人の意識が、急激な引力によって引き戻された。 目の前の安らかな光の門が、急速に遠のいていく。
『一度こちらへ来れば、もう戻ることは叶わない。それは宇宙の理だ』
形のない「声」が、直人の魂に語りかける。
(分かっています。でも、せめて、あの子が笑うまで。あの子が自分の足で歩き出せるようになるまで・・ 神様、僕を何にしてもいい。言葉なんていらない。ただ、あの二人のそばにいさせてくれ!)
直人の魂は、まばゆい至福の門を拒み、暗い落下の淵へと身を投げた。
意識が急速に収縮し、再び「個」という孤独な重みを帯びていく。凄まじい風圧と、心臓を抉られるような痛み。次に彼が目覚めたのは、饐えた匂いと、冷たい檻の感触の中だった。
目を開けると、世界はひどく「低く」なっていた。
視界は色彩を欠き、グレーの濃淡で構成されている。だが、その代わりに嗅覚と聴覚が、暴力的なまでの鮮明さで情報を伝えてきた。
直人は、自分が小さな、茶色い毛並みの雑種犬の体に宿っていることを理解した。そこは、市街地の外れにある動物愛護センターの保護房だった。
(本当になったんだ・・犬に・・)
彼は吠えようとしたが、喉から出たのは「クゥン」という情けない鳴き声だけだった。
隣の檻では、絶望した犬たちが虚空に向かって吠え、冷たいコンクリートの床を引っ掻いている。 直人はただ、じっと檻の隅に座り、家族が来るのを待ち続けた。
事故から四十九日が経った、ある雨上がりの午後。喪服を着た恵と、以前より二回りも小さくなったように見える陽菜が、そのセンターを訪れた。
「パパがいなくなってから、この子がずっとふさぎ込んでいて・・。何か、寄り添ってくれる存在がいればと・・」
恵のやつれた顔、目の下の深い隈を見て、直人の心は千々に乱れた。
(恵、僕はここだよ! 目の前にいるんだ!)
彼は檻に駆け寄ろうとしたが、踏みとどまった。
ただの犬として、怪しまれずに、彼女たちに選ばれなければならない。
直人は、かつて陽菜が夜泣きをしたとき、彼がいつも隣で見せていた「首を少し傾けて、慈しむように相手の目を見つめる」という独特の仕草をした。
「・・ママ。このワンちゃん、パパと同じ目をしているよ」
陽菜が震える指で、直人を指差した。
恵はハッとしたように目を見開いた。
理屈を超えた「魂の共鳴」が、その瞬間に起きた。
直人は「レオ」という新しい名前を授かり、かつての自分の家へと帰ることになった。
家族としての新しい生活は、幸福と、そして耐え難いもどかしさの連続だった。
直人は、自分がかつて座っていたダイニングチェアの下に潜り込み、家族の会話を聞いた。
恵が一人で台所に立ち、ふとした瞬間に包丁を止めて、誰もいない空間を見つめているとき、直人はそっと彼女の足元に体を寄せた。
(恵、ごめん。夕飯、美味しいよって言ってあげられなくて。でも、僕はここにいる。君が作る料理の匂いも、君の温もりも、全部知っているよ)
恵はレオ(直人)の毛並みに指を沈め、「レオがいると、直人さんがそばにいるみたいね」と、消え入りそうな声で呟いた。その時、直人の目から、犬には流れないはずの熱い一筋の雫が零れ落ちた。
娘の陽菜にとっても、レオはただのペットではなかった。
夜、陽菜がパパを思い出してベッドで声を殺して泣いていると、直人はドアを器用に鼻先で押し開け、彼女の布団の中に潜り込んだ。
ある日、陽菜が学校で「お父さんの絵」を描く宿題を前に、筆を止めて泣き出してしまったことがあった。直人は、かつて自分が陽菜によく読んで聞かせていた絵本を、本棚から必死に引っ張り出した。
「・・レオ? この本、パパが大好きだったやつだね。読んでほしいの?」
陽菜は涙を拭き、直人に寄り添いながら絵本を開いた。直人は彼女の膝に顎を乗せ、彼女がページをめくるリズムに合わせて、優しく尻尾を振った。
(そうだよ、陽菜。パパは死んでなんかいない。君がこの本を読むとき、君が笑うとき、パパは君のすぐ隣で、同じ景色を見ているんだ)
家の中に、少しずつ光が戻り始めた。
恵の笑い声が戻り、陽菜の食欲が戻り、止まっていた「結城家」の時計が、再び時を刻み始めた。
だが、二人が前を向くにつれ、直人の「時間」は削り取られていった。
最近、夜眠るたびに、あの真珠色の光の回廊が、より鮮明に、より近くに現れるようになっていた。
『時は満ちた』
光の意志が、厳かに告げる。
『君の愛惜は、十分に癒されたはずだ。この器(犬の体)を返却し、光の海へ戻る時が来た』
直人は、自分の体が日に日に重くなり、心臓の鼓動が弱まっていくのを感じていた。この四十九日間、彼は「奇跡」という名の借金をして、この世に踏みとどまっていたのだ。
事故からちょうど四十九日目の夜。
窓の外では、あの夜と同じ、静かな雨が降り始めていた。
直人は、リビングのソファに座る恵と陽菜の足元で、重い瞼を持ち上げた。全身を襲う、銀色の冷たい静寂。意識が、レオという小さな肉体の檻から、ふわりと浮き上がり始めていた。
「レオ・・? どうしたの、息が苦しそう・・」
恵が異変に気づき、レオを抱き上げた。
その腕の震えから、彼女が「また大切な何かを失おうとしている」予感に怯えているのがわかった。
(恵、怖がらないで。僕はもう、どこにも行かない。今度は、もっと自由な形になって、君たちのそばにいるから)
直人は最後の力を振り絞り、恵の頬を優しく舐めた。
そして、隣で泣きじゃくる陽菜の手のひらに、温かな鼻先を寄せた。
それは、五年前、彼女が生まれた日に初めて指を握らせてくれたときのような、静かで深い「契約」の儀式だった。
(陽菜。パパは、君の勇気の中にいる。恵。君は、僕の誇りだ。・・・愛している。愛している、愛している・・・)
直人の意識は、レオの体から完全に解き放たれた。
今、彼の前には再び、あの真珠色の光の門が広がっていた。
だが、前回とは違う。そこには「未練」という名の重石は一つもなかった。
彼は光の海へと、静かに、優雅に溶け込んでいった。
もはや「瀬尾直人」という一個の意識は消え、彼は風になり、光になり、宇宙の慈愛そのものへと回帰していく。
――。
翌朝、雨は上がり、空には信じられないほど鮮明な七色の虹が架かっていた。
恵は、冷たくなったレオを抱きしめながら、窓の外を見つめた。
不思議と、涙は止まっていた。
心の中にあった「直人を失った穴」が、いつの間にか温かい何かに満たされているのを感じたからだ。
「ママ、見て! 虹だよ!」
陽菜が空を指差して笑った。その笑顔は、かつて直人が愛した、屈託のない輝きを取り戻していた。
「ええ。・・パパが、渡っていったのかもしれないね」
恵は、空を見上げて微笑んだ。
レオが遺していったものは、悲しみではなく、明日を生きるための「確信」だった
命は、死なない。
愛惜は、消えない。
それは形を変え、巡り巡って、今日も誰かの心を温めるひだまりとなる。
透明な雨が降ったあとの世界は、昨日よりも少しだけ、優しさに満ちていた。




