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さよならの続きを、別の名前で  作者: かーすけ


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第7話 波打ち際のラスト・ダンス 老境の愛

 その施設は、潮騒が子守唄のように響く、岬の突端に建っていた。  

 シルバーケア・レジデンス『蒼海そうかい』。

 入居者たちの多くは、ここで人生の最後の一頁を、穏やかな波の輝きとともに綴っている。

 

 七十五歳になった佐和子さわこは、毎日決まった時間に、テラスの藤椅子に腰を下ろす。  

 彼女の膝の上には、いつも一冊の古い日記帳が置かれている。けれど、彼女がその頁をめくることは滅多にない。ただ、表紙の掠れた手触りを指先でなぞりながら、水平線の彼方に沈んでいく夕陽 を眺めているだけだ。 


 佐和子の半生は、一言で言えば「慎ましやかな成功」だった。  

 地方の名家に生まれ、親が勧める非の打ち所のない男性と見合い結婚をし、二人の子供を育て上げた。夫は真面目で、佐和子を大切にしてくれた。子供たちは自立し、時折孫を連れて遊びに来る。世間から見れば、それは理想的な、非の打ち所のない「幸福」の肖像画だった。

 

 だが、佐和子の胸の奥底には、誰にも、夫にさえ明かさなかった「砂の城」がある。

 五十五年前の夏。 彼女は、一人の青年と恋に落ちた。名前は誠司せいじ。地元のダンスホールでアルバイトをしていた、貧しいけれど、夜の海のように深い瞳を持つ青年だった。


 二人は、月の光が降り注ぐ波打ち際で、何度も秘密のダンスを踊った。誠司のリードはぎこちなかったが、その大きな手のひらからは、佐和子が知る世界にはない、激しい「生」の脈動が伝わってきた。

「佐和子、一緒に行こう。東京へ行って、俺はもっと働いて、お前を必ず幸せにする」

 誠司が差し出した、潮風で荒れた手。

 二十歳の佐和子は、その手を握りしめることができなかった。

 家名、親の涙、世間体。そして何より、未来に対する臆病さ。彼女は誠司の手を振り解き、泣き崩れる彼を置き去りにして、用意された豪華な結婚馬車に飛び乗ったのだ。


 それ以来、彼女は「佐和子」という個人の魂を半分、あの海岸に置いてきたような心地で生きてきた。 夫との生活に不満があったわけではない。ただ、ふとした瞬間に、ラジオから流れる古いスウィング・ジャズを聴くたび、あるいは夜の海の匂いを嗅ぐたび、胸の奥の砂の城が、波に洗われるようにチクリと痛む。  

(私は、自分の人生を選ばなかった。選んでもらった道を、ただ正しく歩いただけ・・・)

   

 夫が他界し、独りになった佐和子がこの施設を選んだのは、誠司と別れたあの海が、窓から見えるからだった。今や、彼女の体は月日とともに脆くなり、かつて誠司が愛したしなやかな指先も、細く、節くれ立っている。足取りも覚束なく、ダンスを踊ることなど、もう夢のまた夢だ。


 ある日の午後。

 庭園の夾竹桃きょうちくとうが赤く燃えるように咲き誇る中、佐和子は一人の新しい庭師の姿に、目を疑った。麦わら帽子の下からのぞく、夜の海のような瞳。汗を拭う、その大きな、節くれだった手のひら。そこに立っていたのは、五十五年前に別れたはずの、二十歳のままの誠司だった。


 心臓の音が、耳の奥で早鐘のように鳴っていた。

 佐和子は藤椅子から身を乗り出し、震える手で手すりを掴んだ。視力の衰えた目に映るその姿が、西日の悪戯による幻覚でないことを、彼女は必死に祈った。

 青年は、庭の植え込みを丁寧に剪定していた。麦わら帽子のひさしからはみ出した黒髪が、潮風に揺れている。日に焼けた逞しい腕、作業服の上からでもわかる広い肩幅。そして、彼が鋏を動かすリズム。それは、佐和子の記憶の底に仕舞い込まれていた「あの夏」の誠司そのものだった。

「・・ありえないわ」

 佐和子は掠れた声で呟いた。

 彼は二十歳のままだ。自分が失った若さを、美しさを、あの時のまま全身に纏っている。五十五年の歳月は、彼を素通りして、自分一人だけをこの老いた体へ閉じ込めたようだった。

 佐和子は、誰にも借りたくなかった杖を握りしめ、ゆっくりと立ち上がった。一歩一歩、砂を噛むような重さでテラスの階段を降り、庭園へと向かう。芝生を踏む感触さえ、どこか現実味を欠いていた。


 青年の数メートル後ろで、佐和子は足を止めた。

 その時、彼の口元から、微かな「音」が漏れ聞こえてきた。

「――♪」

 佐和子の全身が、落雷に打たれたように硬直した。それは、流行の歌などではなかった。五十五年前、二人で忍び込んだダンスホールの片隅で、誠司が「いつか、ちゃんと踊れるようになったら、お前に捧げるよ」と照れ臭そうに口ずさんでいた、即興の名もなきメロディ。楽譜にすらなっていない、この世界で二人しか知らないはずの、不器用なスウィング。

「・・誠司・・さん?」

 名前を呼ぶ声は、自分でも驚くほど少女のように震えていた。

 青年が、ゆっくりと振り返った。

 麦わら帽子の下から覗いたその瞳。夜の海の色。深い紺碧の中に、どこか寂しさを湛えた、あの誠司の目。彼は佐和子を見ると、驚く風でもなく、ただ懐かしい友人を待っていたかのように、優しく、穏やかに目を細めた。

「佐和子」

 呼ばれた瞬間、佐和子の周囲から、現実の景色が剥がれ落ちていくような感覚に襲われた。

 彼の声は、あの夏の夜、波打ち際で「一緒に逃げよう」と言った時の、低くて温かい響きのままだった。

「やっと、追いついたよ。・・ずいぶん、遠いところまで歩いたんだね」


 青年――誠司は、鋏を置くと、土のついた手を自分のズボンで無造作に拭き、佐和子へと一歩踏み出した。佐和子は思わず、自分のしぼんだ手で顔を覆った。

「見ないで。・・見ないでちょうだい、誠司さん。私はもう、こんなに醜くなってしまった。あなたの知っている私は、もうどこにもいないのよ」

 涙が、深く刻まれた皺を伝って零れ落ちる。若く、美しいままの彼を前にして、自分を無残に削り取った「時間」という怪物が、これほど残酷に感じられたことはなかった。

 だが、誠司は迷うことなく佐和子の前に立ち、その節くれ立った手を、壊れ物を扱うような手つきでそっと包み込んだ。

「何言ってるんだ。・・俺には見えるよ。この皺の一つ一つが、お前が誰かを愛して、誰かを守って、懸命に生きてきた証拠だってことが」

 彼の掌は、驚くほど熱かった。 その熱が、佐和子の凍りついていた血管を、再び脈打たせていく。

「佐和子。あの日、俺たちは踊りきれなかっただろう?・・今度は、最後まで踊ろう。誰の目も気にしなくていい、この海辺のひだまりで」

 彼は、かつてのダンスホールで見せたような、少しだけぎこちないお辞儀をした。西日に照らされた夾竹桃の庭が、まるで二人のための、黄金色に輝くステージに見えた。


 庭園の隅にある東屋に、二人は並んで座っていた。

 海から吹き上げる風が、佐和子の白い髪を優しく撫でる。誠司は、若々しい横顔を水平線に向け、遠い記憶を辿るように静かに語り始めた。

「あの日、お前が馬車に乗って去っていくのを見送ったあと・・。俺は、しばらくあそこの砂浜から動けなかったよ」

 誠司の声は、寄せては返す波のように穏やかだった。

「恨んだこともあった。どうして俺の手を取ってくれなかったのかって、海に向かって叫んだ夜もあった。でも、時間が経つにつれて、わかってきたんだ。お前が捨てたのは俺じゃない。お前は、自分の『平穏な未来』を守るために、必死だったんだって」

 佐和子は、握りしめたハンカチを白くなるほど強く絞った。

「・・ごめんなさい、誠司さん。私は本当に、卑怯だった」

「謝らないでくれ。・・俺はその後、結局東京へ出たよ。お前を幸せにするはずだったその力で、死に物狂いで働いた。小さな工務店を立ち上げて、お前のようなお嬢様が住むには相応しくないかもしれないけど、温かい家を作れるようになったんだ。・・いつか、お前がふらっと帰ってくるんじゃないかって、そんな馬鹿な夢を見ながらね」

 誠司は苦笑いをして、自分の大きな掌を見つめた。

「俺も、普通に年を取ったんだよ、佐和子。髪は白くなり、腰も曲がった。・・数年前、病室のベッドで独りで死を待っているとき、最後に思い出したのは、やっぱりあの夏のことだった」

 佐和子は息を呑んだ。目の前にいるのは二十歳の誠司だが、その言葉には、一人の男が一生を全うした重みが宿っていた。

「俺の人生も、悪くはなかった。でも、たった一つだけ、神様にやり直しをお願いしたいことがあった。あの日、泣きながら去っていくお前に、俺は『行くな』としか言えなかった。・・本当は、もっと違う言葉をかけてやりたかったんだ」

 誠司はゆっくりと佐和子の方を向き、その瞳をまっすぐに見つめた。

「お前は、自分が『選んでもらった道』を歩いただけだと言ったね。でも、それは違う。お前はあの日、家族を守り、義務を果たし、誰かを傷つけないために、自分の恋を殺すという『重い決断』をしたんだ。それは、逃げるよりもずっと、勇気のいることだったはずだ」

 佐和子の頬を、涙が堰を切ったように伝った。

 五十五年間、自分を「臆病者」だと責め続けてきた。選ばなかった道への後悔という泥濘ぬかるみの中で、自らの「正しさ」を呪ってきた。けれど、その長い葛藤を、誠司は「勇気」だと肯定してくれたのだ。

「俺が今、この姿でここに来たのは、お前のこれまでの五十五年を労うためだよ。佐和子、お前は立派に生きた。誰かの妻として、母として、一人の女性として。・・その歩みは、俺と踊ったステップに負けないくらい、美しかったんだ」

 誠司の言葉が、佐和子の心に深く突き刺さっていた棘を、一つずつ丁寧に抜いていく。夕陽が海を赤銅色に染め、潮が満ち始めていた。

「さあ、佐和子。夜が来る前に、最後の一曲を。・・お前の選んだ人生という長いダンスの、最高のフィナーレを踊ろう」

 誠司が立ち上がり、優雅に手を差し出した。  

 その手は、あの日振り解いてしまった手と同じ、けれど今の佐和子にとっては、世界で最も頼もしい「救い」そのものだった。


 施設のスピーカーから、夕食の時間を告げる静かなチャイムが流れた。

 けれど、テラスを包む黄金色のひだまりの中では、別の音楽が鳴り響いていた。佐和子の耳にだけ届く、あの懐かしい、不器用で優しいスウィング。

「手が、震えてしまうわ」

「大丈夫。俺が離さない。お前はただ、俺に身を任せていればいい」

 誠司は佐和子の腰にそっと手を回した。佐和子が彼の肩に手を置いた瞬間、奇跡が起きた。

 重く、自由の利かなかったはずの足が、羽が生えたように軽くなる。節くれ立ち、強張っていた指先が、誠司の熱に溶かされてしなやかに伸びていく。

 二人は踊り始めた。夾竹桃が咲き乱れる庭園は、いつの間にかあの夏の夜の海岸へと姿を変えていた。寄せては返す波の音がリズムを刻み、満天の星々がスポットライトのように二人を照らす。

 一歩、また一歩。

 佐和子は、自分が七十五歳の老人であることを忘れた。彼女は今、白いワンピースの裾を翻し、潮風の中で笑う二十歳の少女だった。

 誠司のリードは、あの頃よりもずっと頼もしく、温かい。あの日、振り解いてしまった手。あの日、言えなかった「愛している」という言葉。あの日、選べなかった未来。そのすべてが、このステップの中で溶け合い、許され、昇華されていく。

「誠司さん、私・・幸せだったわ。あなたを愛したことも、あなたを諦めて別の人生を歩んだことも、そのすべてが、今の私を作ってくれた。・・もう、どこにも後悔なんてない」

 誠司は何も言わず、ただ愛おしそうに佐和子を抱き寄せ、その額に優しく口づけをした。

「ああ。・・最高のダンスだったよ、佐和子」

 曲の終わりと共に、誠司の体が少しずつ、透き通るような光の粒子へと変わっていく。佐和子は慌ててその手を掴もうとしたが、彼女の指をすり抜けたのは、温かな夜風だけだった。

「誠司さん!」

「さよならは言わないよ。・・お前が眠りにつくとき、また夢の中で踊ろう。・・お疲れ様、佐和子。よく頑張ったな」


 光が弾け、視界が真っ白に染まった。

 ――。

 気がつくと、佐和子はテラスの藤椅子に深く身を沈めていた。

 あたりは既に夜の帳が下り、遠くの灯台の光が規則正しく海を照らしている。

 膝の上には、あの日記帳。

 佐和子はゆっくりと、五十五年間一度も開くことのなかった最後のページをめくった。そこには、いつの間にか、力強い男の筆跡で、たった一行だけ書き添えられていた。

 『俺の誇り、愛する佐和子へ。ラスト・ダンスをありがとう。』

 佐和子の口元に、少女のような無垢な微笑みが浮かんだ。彼女はゆっくりと目を閉じ、深く、穏やかな呼吸を一つ吐いた。その顔には、長い旅路を終えた者だけが辿り着ける、究極の安らぎが宿っていた。


 翌朝、介護士が彼女を起こしに来たとき、佐和子は椅子に座ったまま、静かに息を引き取っていたという。その死顔は驚くほど若々しく、まるで今も美しい夢の中で、愛する人とステップを踏んでいるかのようだった。

 窓の外では、朝の光を浴びた海が、どこまでも青く、キラキラと輝いていた。佐和子が遺した日記帳は、潮風に吹かれてパラリと捲れ、そこから小さな、けれど鮮やかな夾竹桃の花びらが一枚、風に乗って海へと舞い戻っていった。


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