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さよならの続きを、別の名前で  作者: かーすけ


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4/10

第4話 名もなき勇者への子守唄 再生へのステップ

 世界は、泥の色をしていた。

 少なくとも、十七歳の海斗かいとにとっては。


 放課後の裏路地。コンクリートの壁に背中を預け、海斗は口の中に溜まった鉄の味を吐き出した。 

 拳の皮は剥け、右目のあたりが熱く脈打っている。足元には、さっきまで言い争っていた他校の生徒たちが、毒態を吐きながら逃げ去っていく背中が見えた。

「・・・くだらねえ」

 勝ったはずなのに、胸にあるのは充足感ではなく、底の抜けたバケツのような虚無感だけだった。

 家に帰っても、誰もいない。父親は数日帰らないこともザラで、リビングのテーブルには、脂の浮いたコンビニ弁当の空き殻と、カサカサに乾いた請求書の束が転がっているだけだ。


 海斗が物心ついたとき、母はすでにこの世にいなかった。  

 写真の中で笑う彼女は、ひどく若く、ひどく遠い存在だった。父は母の死以来、仕事に逃げるように没頭し、海斗との会話を捨てた。海斗にとって「家庭」とは、ただ雨風を凌ぐための箱に過ぎず、「愛」とは、テレビの向こう側で流れるフィクションの単語だった。


 重い足を引きずり、築三十年の古いアパート『ひだまり荘』の階段を上る。  

 自分の部屋の前まで来たとき、ふと、隣の「202号室」の異変に気づいた。  

 長く空き室だったはずのその部屋の前に、真新しい自転車と、数個の段ボールが置かれていた。


 「ねえ、そこの野良犬くん。ずいぶん派手にやられたわね」

 頭上から降ってきたのは、鈴の音を硬くしたような、凛とした声だった。  

 海斗が顔を上げると、隣の部屋のベランダから、一人の少女が身を乗り出してこちらを見下ろしていた。


 彼女は、海斗と同じくらいの年齢に見えた。  

 短く切り揃えられた黒髪に、意志の強そうな瞳。彼女は海斗の傷だらけの顔をじっと見つめると、フンと鼻を鳴らした。

 「何見てんだよ。・・・引っ越してきたのか」

 「そうよ。今日からあなたの天敵になる、凛子りんこよ。よろしく、隣の乱暴者くん」

 初対面で「天敵」と言い切る不遜さに、海斗は言葉を詰まらせた。

 「・・・チッ。変な女に絡まれたぜ」  

 鍵を開け、逃げるように部屋に入ろうとした海斗の背中に、彼女の声が追いかけてきた。

 「ちょっと待ちなさいよ。その傷、放っておくと跡が残るわよ。女の子にモテたくないの?」

 「関係ねえだろ。放っておけよ」

 「放っておけないわよ。・・・お腹、空いてるんでしょ」

 海斗が反論しようとした瞬間、裏切るように腹が「ぐう」と鳴った。

 凛子は満足げに頷くと、ベランダからひょいと身を乗り出し、海斗の腕を掴んだ。その力は驚くほど強く、そして、不思議なほど温かかった。

 「来なさい。引っ越し祝いで多めに作りすぎたの。捨てるのは勿体ないから、あんたが処理して」

 強引に連れ込まれた202号室は、海斗の殺風景な部屋とは対照的に、段ボールだらけの中にもどこか「生活の予感」が満ちていた。キッチンからは、出汁の香りが漂っている。それは、海斗がこれまでの人生で、一度も自宅で嗅いだことのない、けれどなぜか魂が知っているような、懐かしい匂いだった。

「ほら、座って。まずはおにぎり。それから、味噌汁。火傷しないようにね」

 差し出されたのは、不格好なほど大きな、けれど丁寧に握られたおにぎりだった。  海斗は毒づきながらも、一口、それを頬張った。

(・・・あ。なんだ、これ)

 口の中に広がる、程よい塩気と、ふっくらとした米の甘み。  

 その瞬間、海斗の視界がかすかに揺れた。  

 忘れていたはずの、幼い頃の記憶。熱を出して寝込んでいたとき、誰かがおでこに当ててくれた冷たい手のひら。耳元で聞こえていた、優しいハミング。

 「・・・おい、これ。何が入ってんだよ」

 「愛情・・・なーんてね。ただの梅干しよ、バカね」

 凛子は笑いながら、海斗の額に冷やしたタオルを乱暴に押し当てた。

 「いってえな!」

 「我慢しなさい。・・・あんた、ずっと一人で戦ってきたんでしょ。でもね、勇者はご飯を食べないと世界を救えないのよ。わかった?」

 海斗は、おにぎりを握りしめたまま黙り込んだ。  

 目の前にいるのは、昨日まで知りもしなかった他人だ。それなのに、なぜ彼女は、海斗が一番触れられたくない心の柔らかな部分を、こうも簡単に暴いてしまうのか。

 窓の外では、夜の帳が下りようとしていた。孤独な勇者の、長すぎる戦いの日々に、初めて「他人の体温」という名の亀裂が入った瞬間だった。


 その日の雨は、すべてを洗い流すのではなく、ただ冷たく、海斗を地面に縫い付けるようだった。

 学校で、ある「事件」が起きた。

 海斗を目の敵にするグループが、海斗の数少ない宝物――唯一残っていた、赤ん坊の頃の自分を抱く「母」の写真――を、面白半分に奪い、ズタズタに引き裂いたのだ。  

 海斗は逆上し、我を忘れて暴れた。結果、相手に大怪我を負わせ、自分も無期限の停学処分を言い渡された。

 「・・・勝手にしろよ。どうせ、俺なんて」

 泥と血にまみれ、びしょ濡れでアパートの階段を這うように上る。自室のドアの前で、海斗は力尽きたように座り込んだ。引き裂かれた写真の破片を、震える指で握りしめている。唯一の心の拠り所さえ、自分の暴力が守りきれず、むしろ汚してしまった。

 その時、隣のドアが静かに開いた。

 「・・・何、その無様な姿」

 凛子の声だった。いつもなら言い返す気力もあるが、今の海斗には何も残っていない。

 「・・・ほっとけよ。俺はただの出来損ないだ。誰も、俺なんて見てねえんだよ」

 海斗の頬を、涙が、雨水に混じって伝い落ちた。その瞬間、凛子が海斗の前に膝をついた。彼女は海斗の汚れも厭わず、その泥だらけの頭を、自分の細い胸に強く抱き寄せた。

 「嘘をつきなさい。・・・私が、見てるよ」

 凛子の手が、海斗の背中をゆっくりと、一定のリズムで叩いた。

 トントン、トントン・・・。  

 それは、時計の刻む音よりも優しく、心臓の鼓動よりも温かい。

 「あなたは、壊してなんていない。写真が破れても、あなたがここに生きていることが、その人の生きた証なのよ。・・・泣きなさい、海斗。全部吐き出して、空っぽになりなさい」

 凛子の口から、無意識に、掠れたメロディが漏れた。  

 それは歌詞のない、けれど聴く者の魂を深い眠りへと誘うような、柔らかなハミング――。

 海斗は子供のように声を上げて泣いた。十七年間、凍りついていた時間が、彼女の体温で溶け出していくのを感じながら。


 嵐のような夜が明け、停学期間が始まった。

 翌朝、凛子は海斗の部屋のドアを蹴破らんばかりの勢いでノックした。

 「いつまで寝てんのよ、この馬鹿息子! ・・・あ、間違えた。馬鹿隣人!」

 「・・・うるせえな、頭に響く」

 目が腫れ上がった海斗がドアを開けると、凛子はスーパーの袋を両手に下げて立っていた。

 「いい? 勇者の第一条件は『自己管理』よ。自分の腹も満たせない奴に、自分の人生は守れない。今日から特訓よ」

 そう言って彼女は、海斗の汚れたキッチンに陣取った。

 「まず、その包丁を持ちなさい。喧嘩で振るう拳より、こっちの方がよっぽど重いのよ」

 凛子が教えたのは、昨夜海斗を救った、あの「味噌汁」の作り方だった。

 「煮干しの頭と腹わたを取る。面倒でしょ? でも、この『一手間』が、雑味を消して、澄んだ味を作るの。人間も同じよ。余計なプライドや怒りを捨てて、芯の部分だけを磨きなさい」

 海斗は不器用に、けれど真剣に、小さな煮干しと向き合った。

 「・・・こうか?」

 「そう。上手じゃない。あんた、意外と筋がいいわよ」

 出汁が取れ、味噌を溶き、豆腐を切る。トントントン、とまな板を叩く音が、静かな部屋に響く。それは、昨夜彼女が海斗の背中を叩いてくれたリズムと同じだった。


 「完成。食べてみて」

 自分で作った、黄金色の味噌汁。一口飲むと、身体の芯から熱が広がり、指先の震えが止まった。     

 「・・・うまい」

 「でしょ? 自分で自分を養うってことは、自分を許すってことなのよ」

 凛子はカウンターに肘をつき、満足げに海斗を眺めた。

 「いい、海斗。喧嘩で勝ったって、お腹は満たされない。でも、誰かのために、あるいは自分のために美味しいものを作る手は、決して誰かを傷つけない。・・・あんた、調理師にでもなれば? 意外と向いてるかもよ」

 「調理師・・・俺が?」

 「そうよ。世界中の空腹で泣いてる勇者たちに、その味噌汁を食べさせてあげるの」

 海斗の胸の中に、初めて「未来」という言葉が、小さな灯火となって宿った。

 凛子の背後にある窓からは、眩しいほどの朝日が差し込んでいた。彼女の輪郭が、その光の中で少しだけ淡く、透けて見えるような気がしたが、今の海斗はそれを、単なる逆光のせいだと思い込もうとしていた。


 三ヶ月が経ち、季節は秋の気配を帯びていた。

 海斗の停学は解け、彼は学校へ戻った。かつての荒んだ目つきは消え、放課後は居酒屋の厨房でアルバイトに励む毎日だ。目標は、春からの調理師専門学校への進学。初めて自分の力で掴み取ろうとする未来だった。

 「よし、できた」

 ある土曜日の夜。海斗は隣の凛子を自分の部屋に招いた。テーブルに並ぶのは、彼女から教わった「黄金色の味噌汁」、ふっくら炊けた白米、そして海斗が独自に工夫した鯖の味噌煮。

 「へえ、やるじゃない。盛り付けまで気取っちゃって」  

 凛子はいつものように不遜に笑いながら、箸を取った。一口食べると、彼女の動きが止まった。

 「・・・どうだ? 味が薄かったか?」

 「ううん。・・・完璧よ。私より上手かもね」

 凛子は俯き、隠すように何度も味噌汁を啜った。その肩が微かに震えているのを、海斗は見逃さなかった。

 「凛子。・・・俺、お前に出会わなきゃ、今頃どっかの溝で野垂れ死んでた。ありがとな」

 「バカね。あんたが勝手に這い上がっただけでしょ」

 凛子が顔を上げたとき、その瞳は驚くほど澄んでいた。だが、街灯の光に透けた彼女の指先は、以前よりもずっと希薄で、まるで薄氷のように頼りなげだった。

 「海斗。・・・あなたはもう、立派な勇者よ。誰の助けも借りずに、自分の足で、どこへでも行ける」

 その言葉は、予言のように静かに部屋に響いた。


 異変は、その数日後に起きた。  

 アパートの廊下で倒れている凛子を、海斗が見つけたのだ。病院のベッドに横たわる彼女は、まるで吸い込まれるように白く、呼吸は細く、途切れがちだった。

「凛子! しっかりしろ! おい!」  

 海斗が叫びながらその手を握る。驚くほど冷たい。彼女の体から、何かが急速に失われていくのがわかった。


 医師は「原因不明の昏睡だ」と首を振った。だが、海斗にはわかっていた。彼女の「役割」が終わろうとしているのだ。自分を立ち直らせ、一人で生きていく術を教え、未来を見せ終えた今、彼女をこの世に繋ぎ止める「理由」が消えてしまったのだと。

 「・・・いかないでくれ。まだ、お礼も言ってないんだ」

 海斗の脳裏に、あの嵐の夜、凛子が歌ってくれたメロディが蘇った。それは、写真の中の母が、自分を抱きながら歌っていたはずの――この世でたった二人にしか共有されていない、名もなき旋律。

 「・・・トントン、トントン・・・」

 海斗は彼女の手を握りしめ、拙い声で、その子守唄を歌い始めた。かつて母が自分にしてくれたように、彼女の寝顔を見守りながら、一定のリズムでその手を叩く。

 すると、閉じていた凛子の瞼が、ゆっくりと震えながら開いた。その瞳に宿っていたのは、生意気な女子高生のものではない。すべてを包み込むような、深く、深い慈愛の光だった。

 「・・・海斗・・・。大きくなったわね・・・」

 その一言に、海斗はすべてを確信した。目の前にいるのは、隣人の凛子ではない。自分を産み、愛し、そして時を越えて救いに来てくれた、一人の母親だ。

 「・・・母さん・・・!」

 「しーっ・・・。もう、その名前は呼んじゃダメ。・・・あなたは、もう勇者。前だけ向いて、笑っていなさい・・・」

 凛子の指先が、海斗の頬の傷跡をそっとなぞった。そして、彼女は満足そうに微笑むと、深く、長い溜息をついた。

 その瞬間、海斗の手の中にあった「熱」が、ふっと消えた。


 ・・・数日後。  

 凛子は目を覚ました。だが、そこにいたのは、海斗を知らない「ただの十七歳の少女」だった。   

 彼女は海斗を見ても、

 「あら、お隣さん。・・・私、どうして病院に?」

 と、不思議そうに小首を傾げるだけだった。

 海斗の胸には、ぽっかりと穴が開いたような寂しさが広がった。けれど、その穴を埋めるように、彼女から教わった「味噌汁の熱」が、今も腹の底で燃え続けているのを感じていた。

 「・・・なんでもねえよ。ただの貧血だってさ。気をつけて帰れよ」

 海斗はわざとぶっきらぼうに言い、彼女の病室を後にした。廊下を歩く足取りは、力強い。自分はもう、一人ではない。形こそ失っても、彼女の愛は、自分が作る料理の中に、自分が歩む道の中に、永遠に息づいている。

 アパートへ戻ると、空は白み始めていた。海斗はキッチンに立ち、慣れた手つきで煮干しの頭を取った。 トントントン、とまな板を叩く音が、清々しい朝の空気に響き渡る。

 「・・・いってきます、母さん」

 独り言は、誰に届くこともない。けれど、朝日を浴びた海斗の背中は、どんな嵐にも屈しない、真の勇者のそれだった。

 窓の外では、新しい一日の始まりを告げるように、柔らかな風が吹き抜けていった。


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