第3話 夕映えの再会、あるいは永遠の初恋
午前六時十五分。
健一はアラームが鳴る三秒前に目を覚ました。正確に言えば、目が覚めてしまった。
隣のベッドでは、妻の紀子が静かな寝息を立てている。かつてはその寝顔を見ているだけで愛おしさが込み上げたものだが、今はただ、使い古されたシーツのような、清潔ではあるが無機質な安心感があるだけだった。健一は音を立てないようにベッドを抜け出し、一階のキッチンへ向かう。自動でコーヒーメーカーが動き出し、ゴボゴボという低い音を立てる。それがこの家の、一日の最初の音だ。子供たちがいた頃は、朝は戦場だった。
「お父さん、靴下どこ?」
「お弁当、箸が入ってないよ!」
そんな騒がしさに眉をひそめていた自分を、今の健一は苦く思い出す。
「おはよう」
十五分後、階段を降りてきた紀子が、昨日と全く同じトーンで挨拶をする。
「ああ、おはよう」
健一もまた、昨日と同じ角度で頷く。
食卓に並ぶのは、トーストと目玉焼き、そして決まったメーカーのヨーグルト。
紀子は新聞の折り込みチラシを眺めながら、
「駅前のスーパー、今日は卵が安いみたいよ」と呟く。
「そうか」
「あなたのカッターシャツ、襟元がだいぶ擦り切れてきたわね。今度の週末、買いに行きましょうか」
「・・・ああ、適当に頼むよ」
会話はそこで途切れる。会話というよりは、生存確認に近い情報の交換。
不満があるわけではない。紀子は家事を完璧にこなし、健一の健康を気遣い、良き妻であり続けてくれている。ただ、そこに「熱」がないのだ。
健一はスーツに身を包み、鏡を見る。 そこに映っているのは、白髪の混じった、どこにでもいる五十二歳の男だ。 自分という人間が、少しずつ透明になっていくような感覚。社会という大きな歯車の一部として磨り減り、最後には誰にも気づかれずに消えていくのではないか。
玄関を出る時、紀子が「いってらっしゃい」と言った。健一は「行ってくる」と答え、ドアを閉めた。その瞬間に感じる微かな解放感が、今の彼にとって唯一の刺激だった。
・・・その日は、重要なプロジェクトが一区切りついた金曜日だった。
いつもなら真っ直ぐ家に帰るはずの健一だったが、なぜかその夜は、紀子の作る「金曜日の定番のカレー」を食べる気になれなかった。 駅ビルの雑踏を抜け、細い路地に入る。そこには、学生時代から通っている喫茶店『エトワール』がある。時代に取り残されたようなレンガ造りの外観。重い木製のドアを開けると、カランカランという乾いた鈴の音が響く。
「いらっしゃい、健さん。珍しいね、こんな時間に」
白髪のマスターが、馴染みの客をいつもの席へと促す。店内は薄暗く、ジャズが低い音量で流れている。ここは、健一にとっての「避難所」だった。ここでは、課長でも、父親でも、夫でもない、ただの「健一」に戻れる気がした。
カウンターの隅に座り、ブレンドを注文する。健一は無意識に、古い日記帳を取り出した。最近、昔の記憶を書き留めることが習慣になっていた。未来に期待することが少なくなった分、過去の貯金を切り崩して生きているような感覚。
日記の頁をめくると、三十年前の自分の筆跡が躍っている。
『真由と図書館へ行った。彼女の巻いていたスカーフが、空の色より青かった』
不意に、鼻腔をくすぐるものがあった。コーヒーの香りをかき消すような、甘く、切ない香り。
(・・・金木犀?)
いや、今は六月だ。あるはずがない。だがその香りは、健一の記憶の深層にある重い蓋を、軽々と押し上げた。
真由。
二十歳でこの世を去った、健一の初恋の人。
彼女がつけていたコロン。彼女と一緒に歩いた、秋の並木道の匂い。
健一は顔を上げた。
入り口から一番遠い、隅のボックス席。
そこに、一人の女性が座っていた・・・。
その女性は、文庫本を読んでいた。健一は息をすることさえ忘れた。丸みを帯びた肩のライン。本をめくる時に、少しだけ指先を湿らせる癖。そして、何よりも・・・首元に巻かれた、鮮やかなシアンブルーのスカーフ。窓から差し込む夕映えの光が、彼女の横顔を黄金色に縁取っている。健一の心の中で、白黒だった世界にバケツ一杯の絵の具をぶちまけたような、暴力的なまでの色彩が溢れ出した。
三十年前、病院の待合室で聞いた「残念ですが」という医師の声。あの時、健一の時間は止まったはずだった。その後、紀子と出会い、子供を育て、それなりに幸せな人生を歩んできた。 けれど、今目の前にいる彼女を見た瞬間、その三十年という歳月が、まるで砂の城のように崩れ去っていくのを感じた。
「・・・真由?」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
女性が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、健一は自分の姿を見た。 驚きに目を見開く、疲れ果てた中年の自分。
「・・・健一さん。ずいぶん、おじさんになっちゃったね」
彼女は、あの頃と全く変わらない、悪戯っぽく、それでいてどこか透明な声で笑った。テーブルの上には、コーヒーカップが二つ。一つは彼女の。もう一つは・・・まるで誰かを待っていたかのように、湯気を立てている。
「座らないの? 冷めちゃうよ」
健一は、操り人形のように彼女の前の席に座った。 手のひらに汗が滲む。こんな感覚は、何十年ぶりだろうか。彼女はコーヒーの中に、三つのスティックシュガーを一本ずつ、丁寧にさらさらと落とした。
「健一さん、覚えてる? 昔、ここでよく『砂糖の数だけ願いが叶うなら、私は何個入れるかな』って話したこと」
健一の脳裏に、強烈な情景が蘇る。
『私は三つ。健一さんとの今と、明日と、明後日の分』
そう言って、彼女は甘すぎるコーヒーを一口飲んで、顔をしかめたのだ。
「・・・君は、誰だ。真由なのか? でも、そんなはずは」
「真由だよ。でも、真由じゃないかもしれない。・・・今の名前は『凛』っていうの」
彼女はシアンブルーのスカーフを指先でなぞった。
「ずっと、あなたを見ていたよ。健一さんが頑張って働いているところも、お父さんになったところも。・・・でも最近、あなたの心が、とても寒そうだったから」
健一の目から、不意に涙がポロポロとこぼれ落ちた。会社での理不尽も、家庭での虚無感も、すべてを優しく包み込むような、圧倒的な「肯定」がそこにあった。
「一度だけ、神様にお願いしたの。健一さんに、もう一度だけ『温かいコーヒー』を淹れさせてほしいって・・・」
・・・その日から、健一の心には「秘密の部屋」ができた。凛との密会は、週に一度、水曜日の定時後に限られていた。かつての真由とのデートコースをなぞるように、二人は街を歩いた。
ある日は、大学の裏手にある古い並木道を。またある日は、再開発から取り残された小さな映画館を。
「健一さん、歩くのが早くなったね。昔はもっと、私の歩幅を気にしてくれていたのに」
凛はそう言って、健一のスーツの袖を小さく引いた。その仕草ひとつで、健一は五十二歳の課長という肩書きを脱ぎ捨て、恋に溺れる青年に戻ってしまう。凛の肌は瑞々しく、夕闇の中でも発光しているかのように見えた。彼女と話している間だけ、健一の血管には熱い血が通い、世界は高解像度の映画のように鮮明に映った。
「・・・ごめん。つい、仕事の癖で」
「いいよ。おじさんになった健一さんも、私は好きだから」
凛は無邪気に笑い、健一の腕に自分の細い腕を絡めた。その瞬間、健一の脳裏をかすめるのは、朝、紀子に「いってらっしゃい」と送り出された自分の姿だ。だが、その罪悪感さえも、凛の体温に触れると甘い麻痺に変わった。
二人は、駅ビルの最上階にあるテラス席でパフェを食べた。 色とりどりのフルーツと、溶け出したバニラアイス。健一の年代には似つかわしくない、暴力的なまでの甘さ。
「真由・・・いや、凛。美味しいね、これ」
「でしょ? 昔はこんな豪華なデザート、なかったもんね」
彼女がスプーンで掬った生クリームを、健一の口元へ運ぶ。健一は周囲の目を気にしながらも、それを口に含んだ。喉が焼けるような甘み。それは、今の彼の日常には絶対に存在しない、過剰で、不必要な、けれどたまらなく愛おしい「無駄」だった。 この時間が永遠に続けばいい。 凛の瞳に見つめられていると、自分という存在が肯定され、死へと向かう一方通行の時間が逆流しているような錯覚に陥った。
「ただいま」
午後九時。健一はなるべく平然を装い、玄関のドアを開けた。 家の中には、煮魚の匂いが微かに漂っていた。 ダイニングに行くと、紀子がエプロン姿で、保存容器に残り物を詰めているところだった。
「おかえりなさい。遅かったのね」
「ああ、ちょっと急な打ち合わせが入って。食べてきたよ」
「そう。今日は鰈を煮たんだけど・・冷蔵庫に入れておくわね。明日食べて」
紀子の声は穏やかだ。だが、その穏やかさが今の健一には、首を絞める真綿のように感じられた。
健一は洗面所へ向かい、鏡を見る。 自分の口の端に、微かにバニラアイスの匂いが残っているような気がして、入念に口を濯いだ。凛との密会は、健一にとって「極彩色の冒険」だが、この家に戻った瞬間に、すべてが「不潔な裏切り」へと変質する。
風呂から上がり、寝室へ向かうと、紀子がアイロンをかけていた。健一が明日着るための、真っ白なカッターシャツ。
「ねえ、あなた」
紀子がアイロンの手を止めずに言った。
「今日、クリーニング屋さんに行ったら、駅前であなたに似た人を見かけたわよ。若い女の子と歩いてた」
健一の心臓が、耳元で鐘を鳴らしたように激しく打った。
「・・・人違いじゃないか。僕はオフィスにいたよ」
「そうよね。私もそう思ったのよ。あんな楽しそうな顔、あなたはもう家ではしないものね」
紀子の言葉には、怒りも、悲しみも、疑いさえも混じっていなかった。 ただ、淡々とした「事実の確認」があるだけだった。それが健一をさらに追い詰めた。彼女は健一の嘘を見抜いている。見抜いた上で、この平穏を維持するために、あえて踏み込んでこないのだ。
健一は、アイロンが吐き出すシュッという蒸気の音を聞きながら、自分が立っている場所の足元が、音もなく崩れていくような感覚に襲われた。 紀子が差し出した、糊のきいたシャツ。それは彼女が健一に捧げ続けてきた、二十数年の月日の積み重ねだ。 対して、凛との時間は、一瞬で消えてしまう魔法の幻。健一は、シャツを受け取る手が震えるのを隠すことができなかった。
「・・・ありがとう」
「いいえ。おやすみなさい」
紀子はアイロンを片付け、先にベッドに入った。暗闇の中で、健一は天井を見つめた。凛の潤んだ瞳と、紀子の擦り切れた指先。三十年前の輝くような情熱と、現在の重く沈殿した信頼。どちらも本当で、どちらも残酷だった。罪悪感は、冷たい霧のように健一の全身を侵食していく。彼は自分が、取り返しのつかない分岐点に立っていることを痛感していた。
紀子の「人違いよね」という言葉は、呪文のように健一の耳に残り続けた。あの日以来、健一は自分が透明な殻の中に閉じ込められたような心地だった。会社に行き、会議に出て、部下と話す。けれど、その視線は常に時計の針を追い、水曜日の黄昏時だけを渇望していた。
一方で、鏡の中の自分は日に日に老け込んで見えるようになった。凛(真由)と会っている間だけは若返る気がするのに、別れた後の反動は凄まじい。凛の瑞々しさが、健一の寿命を少しずつ吸い取っているのではないか・・・そんな妄想さえ抱くようになった。
そして、ついにその日が来た。
水曜日、いつもの『エトワール』。
凛は、窓から差し込む赤い夕陽を背に受けて座っていた。だが、その姿を見た健一は息を呑んだ。
彼女の輪郭が、陽炎のように揺れている。首元のシアンブルーのスカーフさえも、夕闇に溶け出しているかのように透けて見えた。
「健一さん、遅かったね」
「凛・・・、君の体、どうしたんだ。透けて見えるよ」
健一が慌ててその手を掴もうとしたが、触れた感覚は驚くほど希薄だった。まるで霧を掴んでいるような、冷たい心許なさ。
「時間が・・・なくなっちゃったみたい。神様がくれた、ほんの少しのわがままの時間が」
凛は寂しげに微笑むと、健一の手を握り返した。その力は驚くほど弱く、今にも消えてしまいそうだった。
「ねえ、健一さん。最後のお願い。・・・あの丘に行こう?」
二人は、学生時代に何度も登った、街外れの展望台へと向かった。かつては夜景を眺めながら将来を語り合った場所。いま、眼下に広がる街の灯りは、一つ一つが誰かの生活の証であり、誰かの「日常」の灯火だった。
「健一さん。私、あの時からずっと、あなたとあっちで一緒になりたかった・・・」
凛が健一の胸に顔を埋めた。その声は、もはや彼女のものではなく、三十年前に死にゆくベッドで震えていた真由そのものの震えを帯びていた。
「このまま、一緒に行こう? 向こうへ行けば、健一さんはもう年を取らなくていい。会社も、責任も、孤独もない。ずっと二十歳のままで、私と恋をしていられる。・・・あっちへ行きましょう?」
凛の瞳が、深く、昏い誘惑の色を帯びて健一を見つめる。 健一の心は激しく揺れた。ここにあるのは、終わらない青春。永遠の初恋。 向こうへ行けば、このまま「セピア色の映画」の中に入り込んで、永遠に幸せなラストシーンを繰り返していられるのだ。
「真由・・・。僕は・・・」
健一が彼女の肩を抱き寄せた、その時だった。
ふと、健一の指先が、自分のスーツの袖口に触れた。
そこには、今朝、紀子が丁寧にアイロンをかけてくれた、真っ白なシャツの感触があった。
不意に、昨夜の情景がフラッシュバックする。健一の嘘を知りながら、何も責めず、ただ黙ってアイロンを滑らせていた紀子の、節くれだった指先。安売りの卵を買って喜んでいた、生活の匂いのする声。子供たちが熱を出した夜に、二人で一晩中起きて看病した時の、ぬるくなったお茶の味。それらは、決して「キラキラしたもの」ではなかった。むしろ、泥臭く、退屈で、積み上げるほどに重たくなる「生活」という名の荷物だった。けれど、その荷物を一緒に背負って、三十年という気の遠くなるような坂道を登ってきたのは、真由ではなく、紀子だった。
「・・・できない。僕は、行けないよ、真由」
健一は、静かに、しかし決然と彼女を押し戻した。
「ここにある生活は、確かに退屈で、僕はもう若くない。でも、このシャツの白さも、紀子が僕の健康を願って作る煮魚の味も、僕がこの三十年で必死に積み上げてきた『僕の人生』なんだ。それを捨てて、想い出の中へ逃げることはできない」
真由(凛)の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
「・・・よかった。健一さんが、ちゃんと『今』を愛していて」
彼女の姿が、いっそう透明度を増していく。
足元から少しずつ、夕映えの光の粒子となって溶け出していた。
「健一さん、ありがとう。私を忘れないでいてくれて。でも、もういいの。私の代わりは、あの人が、紀子さんがずっとやってくれていたんだね。・・・私、あなたの幸せな『おじさん姿』を見られて、本当に満足だよ」
シアンブルーのスカーフが風に舞い、空へと高く昇っていった。
「さよなら、健一さん。・・・大好きな、私の初恋の人」
彼女の手が健一の頬をなぞり、その感触が完全に消えた。健一は一人、展望台に立ち尽くしていた。
目の前には、ただの広大な夜景が広がっている。彼は深く、深く呼吸をした。肺に流れ込むのは、金木犀の香りではない。少しだけ排気ガスの混じった、街の、生きた空気。
「・・・さよなら、真由」
健一は踵を返し、坂道を駆け下りた。もう、後ろを振り返ることはなかった。
玄関のドアを開けると、いつものように、微かな生活の匂いが健一を包み込んだ。時計は十時を回っていた。リビングには、紀子が一人でテレビを眺めていた。健一の足音を聞くと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「おかえりなさい。遅かったわね」
彼女の顔には、すべてを察したような、それでいてすべてを許したような、穏やかな笑みが浮かんでいた。健一は彼女の前に立ち、その少し震える手で、紀子の肩をそっと抱きしめた。
「・・・ただいま、紀子」
「急にどうしたのよ、おじさんが」
紀子は照れたように笑いながらも、健一の背中に手を回した。
彼女の体温は、凛のそれとは違い、確かで、重厚で、生きている温もりに満ちていた。
「紀子。明日の休み、新しいシャツを買いに行こう。ついでに、二人でどこか美味しいものでも食べないか。パフェとかじゃなくて・・・もっと、普通の和食がいいな」
「あら、珍しい。・・・いいわよ、そうしましょうか」
健一は、紀子の肩越しに、窓に映る自分の姿を見た。白髪の混じった、くたびれた中年の男。けれど、その表情は、長い迷路を抜け出した後のような、晴れやかなものだった。人生の映画は、まだ終わっていない。これから始まるのは、セピア色ではない、二人の「生活」という名の続きの物語。
台所では、明日食べるための鰈の煮付けが、静かに冷めていた。 それは、世界で一番贅沢で、かけがえのない、幸福な日常の味がした。




