第2話 輪廻(めぐ)り逢う体温
大切な人を失ったとき、世界から色が消えた。
言えなかった言葉、果たせなかった約束、止まったままの時計。
けれど、魂の絆は決して断ち切られることはありません。
かつて愛したあの人は、姿を変え、時代を越え、あなたを救うために戻ってきます。
これは、喪失の淵に立つ主人公たちが、別の名前を持った「懐かしい誰か」と再会し、再び明日へと歩き出すまでの物語。あなたの隣にいるその人も、もしかしたら・・・。
切なさと温かな光が、あなたの心を包み込む「転生オムニバス」。
深夜一時。
玄関のドアを開けると、冷え切った空気と「無音」が美咲を迎え入れた。
靴を脱ぐ気力もなく、壁に背中を預けてずるずると座り込む。
パンプスの圧迫から解放された足先が、ジンジンと痺れるように痛んだ。
「・・・疲れたぁ」
独り言は、狭いワンルームの壁に跳ね返って、虚しく消えた。
今日のプレゼン。
自信を持って作った企画書は、クライアントの「もっとインパクトが欲しいよね」という一言で、ゴミ箱行きになった。無理をして作った笑顔が、今は顔に張り付いた仮面のように重い。
美咲は這うようにしてキッチンへ向かい、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
プシュッ、と弾ける音が、この部屋で唯一の景気のいい音だ。
そのまま一口。喉を焼く刺激を期待したが、流れ込んできたのは、ぬるくなった苦味だけだった。
「ねえ、お兄ちゃん。東京って、こんなに寂しい場所だっけ」
ふと、視線が棚の上の写真立てに向いた。
そこには、二十年前、日に焼けた顔で意地悪そうに笑う少年が写っている。
美咲が八歳の時に事故で亡くなった、四つ上の兄・晴だ。
『泣くなよ美咲。お前が泣くと、雨が降るだろ』
ぶっきらぼうで、口が悪くて、でも転んで膝を擦りむいた時は、いつも無言で背中を貸してくれた。あの日、兄がいなくなってから、美咲の心の一部は、ずっと立ち止まったままだ。
その時。 ベランダの外から、掠れたような、細い声が聞こえた。
「ニャォ・・・」
風の音かと思ったが、それは間違いなく生き物の声だった。
美咲は吸い寄せられるようにカーテンを開けた。
雨に濡れたコンクリートの隅で、小さな塊が震えていた。
「嘘・・・」
そこには、泥まみれになった一匹の三毛猫がいた。
びしょ濡れで、片耳が少し欠けている。鋭い眼光でこちらを睨みつけているが、その足元は生まれたての小鹿のように細く震えている。
驚いたのは、その模様だった。
背中にある黒と茶の斑点が、まるで・・・兄が大切にしていた、あのボロボロの野球グローブの形に見えた。
「あんた・・・、こんな雨の中で独りなの?」
美咲は迷わず窓を開け、手を伸ばした。
猫は一瞬、威嚇するように喉を鳴らしたが、美咲の指先に触れた瞬間、ふっと力を抜いた。
その時、美咲の胸に不思議な感覚が走った。
冷たいはずの雨の中で、その猫の体温だけが、驚くほど熱く、懐かしく感じられたのだ。
お湯で温めたタオルで泥を拭いてやると、猫は最初こそ「やめろよ」と言わんばかりに前足で抵抗していたが、やがて諦めたように喉を鳴らし始めた。
美咲は暖房を強め、兄の写真が置かれた棚の近くに、古くなった毛布を敷いてやった。
「ハル、そこでお休み。・・・やっぱり、お兄ちゃんと同じ名前にしちゃうね」
美咲がビール缶を片付け、何気なくテレビのスイッチを入れた時だ。
画面に映し出されたのは、深夜のスポーツニュース。ちょうどプロ野球のダイジェストが流れていた。
快音を響かせてボールがスタンドへ消えていく。
「ナァッ!」
それまで丸まっていた猫が、弾かれたように顔を上げた。
テレビの前に駆け寄ると、画面の中でダイヤモンドを回る選手を、身を乗り出して凝視している。
「ハル……? 野球、好きなの?」
猫は美咲を振り返り、一度だけ短く「アンッ」と鳴いた。
それは肯定の返事のようでもあり、あるいは「今のスイングは甘いな」とでも言いたげな、不遜な響きがあった。
やがて、部屋が十分に暖まると、猫は毛布の上でふう、と大きな溜息をついた。
そして、ゴロンと横に転がったかと思うと、そのまま足をピンと伸ばし、無防備に腹を上に向けて仰向けになった。いわゆる「ヘソ天」だ。
美咲は、その姿に釘付けになった。
(・・・あ。これ、知ってる)
視界が、ぐにゃりと歪む。
目の前にいるのは、三毛猫ではない。
真夏の午後。窓を全開にした実家の座敷。
泥だらけのユニフォームを脱ぎ散らかし、畳の上で大の字になって眠っていた、十四歳の兄・晴の姿だ。 野球の練習で疲れ果て、口を半分開けて、無防備に手足を投げ出していたあの姿。西日が差し込む部屋で、汗の匂いと一緒に漂っていた、絶対的な安心感。
「お兄ちゃん……?」
美咲が震える指先で、猫の白い腹に触れようとした。 その瞬間、眠っていたはずの猫が薄目を開けた。 彼は逃げることもなく、ただ美咲をじっと見つめ、その不器用な前足で美咲の指を「ぎゅっ」と抑え込んだ。
『泣くなよ。俺がここにいるだろ』
言葉にはならない声が、指先を通じて心に直接流れ込んできた気がした。
美咲の瞳から、一筋の熱い雫がこぼれ落ち、猫の柔らかい毛の中に吸い込まれていった。
翌朝、アラームの電子音が鳴り響いたが、美咲はそれを無意識に止めて布団を頭まで被った。
昨夜の不思議な体験は、もしかしたら仕事の疲れが見せた夢だったのかもしれない。そう思うと、余計に現実の「仕事」が重たく感じられた。
「・・・もう無理。今日くらい、風邪引いたってことにしよう」
どうせ私の代わりなんていくらでもいる。あんなに頑張った企画もボツになったんだ。
暗い思考の渦に沈み込もうとした、その時だった。
「グハッ!?」
みぞおちに強烈な衝撃が走り、美咲は肺から空気を吐き出しながら飛び起きた。そこには、三毛猫のハルが、美咲のお腹の上に完璧な着地を決めた姿で座っていた。
「ちょっと、ハル! 何すんのよ・・・痛いじゃない」
抗議する美咲を、猫は鋭い眼光で射抜いた。
彼は「ニャァーッ!」と一喝すると、まだ開いていないノートパソコンをこれ見よがしに前足で叩き、そのまま洗面所の方へとトコトコ歩いていく。さらに鏡の前で足を止め、美咲の方を振り返って「情けない顔をしてるな」と言わんばかりに鼻を鳴らした。
(・・・ああ、そう。お兄ちゃんも、私が部活をサボろうとすると、いつもそうやって『勝負はこれからだろ』って笑ってたっけ)
美咲は観念して鏡の前に立ち、冷たい水で顔を洗った。 ハルは足元で、尻尾をパタンパタンと床に叩きつけている。それは、野球の試合でピンチの時、兄がマウンドで自分を鼓舞する時のリズムにそっくりだった。
「わかったわよ。行くわよ、行けばいいんでしょ」
美咲がカバンを手に取り、パンプスを履いたとき、ハルが玄関までついてきた。彼は美咲の足元に頭をコツンとぶつけると、一度だけ力強く「ナァ!」と鳴いた。 それは、昨夜のような甘えではなく、背中を叩いて送り出す、最高の「いってらっしゃい」だった。
駅へ向かう美咲の足取りは、昨日よりずっと軽かった。
「ボツになったなら、もっと凄いのを作って驚かせてやればいいだけじゃない」
兄ならきっと、そう言ったはずだ。美咲の心の中に、消えかけていた火が再び灯り始めていた。
一ヶ月後。
美咲が心血を注いだ新プロジェクトは、社内で過去最高の評価を得た。
プレゼンの日、美咲の胸ポケットには、ハルの抜けた一本の髭がお守り代わりに入っていた。不思議と緊張はなかった。
「後ろで兄貴が見てるんだから、ヘマはできない」・・・そう思えたからだ。
その夜、美咲は奮発して、自分には高級なビールを、ハルには最高級のマグロの缶詰を買って帰宅した。
「ハル、勝ったよ! 完封勝利!」
意気揚々とドアを開けた美咲だったが、そこで少しだけ足を止めた。
いつもなら「遅いぞ」と言いたげに玄関で仁王立ちしているはずのハルが、今日はソファの上で丸くなって、のんびりとあくびをしていたからだ。
「・・・ハル?」
声をかけても、ハルはかつてのような鋭い眼光を見せない。ただ、眠そうに「ニャー」と、どこにでもいる普通の猫のような、甘えた声を上げただけだった。
美咲が好物のマグロ缶を差し出しても、以前のように「礼を言う」といった風情で食べるのではなく、ただ一心不乱に、無邪気にがっついている。テレビで野球中継が始まっても、ハルはもう画面を凝視しなかった。それよりも、美咲の膝の上で温かな塊になって、幸せそうに喉を鳴らすことを選んだ。
(ああ……、お兄ちゃん、もう「卒業」したんだね)
寂しさがなかったわけではない。けれど、それ以上に温かな確信が美咲を包み込んだ。 兄は、美咲が一人で立てるようになるまで、あの「野球グローブの模様」を背負って戻ってきてくれたのだ。そして、美咲の心が安定したのを見届けて、重たい「兄貴」という鎧を脱ぎ捨て、ようやく自由な一匹の猫になれた。
美咲は、棚の上の写真立てに指を触れた。
「お兄ちゃん、ありがとう。もう大丈夫だよ。
・・・これからは、このハルを私が全力で可愛がるからね」
写真の中の少年が、心なしかいつもより満足げに笑って見えた。
美咲は膝の上の猫を抱き上げ、その柔らかな毛に顔を埋めた。
死は、決して絆を断ち切るナイフではない。それは形を変え、温度を変え、私たちが前を向くための優しい追い風に変わるものなのだ。
部屋にはもう、ぬるいビールの味も、凍りついた孤独もない。
窓の外では、明日への希望を告げるように、穏やかな夜風が吹き抜けていった。




