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第二章 裏切りの影

 裏切りは、いつも剣を振るわない。


 声を荒げず、

 血も流さず、

 ただ、書と名と沈黙によって、

 人の居場所を奪っていく。


 この章で描かれるのは、

 戦ではない。

 裁きですらない。


 「正しさ」を名乗った者たちが、

 最も容易な形で誰かを切り捨てる瞬間である。


 燕青は、まだ戦わない。

 怒鳴らない。

 抗わない。


 だが、この沈黙こそが、

 彼を“戻れぬ側”へと踏み出させる。


 主が不在の屋敷で、

 忠義は試されるのではない。

 奪われる。


 そして――

 奪われた者だけが、

 本当の道を選ぶことになる。

 冬の残り香を踏みしめるように、盧俊義は北京大名府の門をくぐった。

 妻の賈氏と従者の燕青は屋敷に残り、供として連れたのは都管の李固ただ一人であった。

「留守は頼んだぞ」

 短い言葉だった。

 燕青は門前で深く頭を垂れる。

 馬蹄が湿った石畳を叩き、その音はやがて街のざわめきへと溶けていった。

 冷たい風が頬を刺す。

 燕青は、その感触を振り払うように背筋を正した。

 日が過ぎ、また日が重なる。

 屋敷は静まり返っていた。

 人の声も、足音も、どこか控えめで、空気は張りつめている。

 燕青は留守を預かる者として、昼夜を問わず目を配った。

 帳場、蔵、人の出入り。

 視線の揺れ、声の途切れ。

 何かが、ずれている。

 使用人たちは燕青と目が合うと、慌てて視線を落とした。

 理由を尋ねる者はいない。

 説明もない。

 そんな折、李固が戻った。

 旅の疲れではない。

 その顔には、妙な昂ぶりがあった。

「旦那様は?」

 燕青の問いに、李固は一瞬、言葉を探す。

「……梁山泊だ」

 その名が落ちた瞬間、屋敷の空気が凍った。

「盧旦那は梁山泊と通じていた。もう戻らぬ」

 燕青は一歩、前へ出た。

「嘘だ」

 低く、しかし揺れのない声だった。

「旦那様が、そんな道を選ぶはずがない」

 李固は、感情を見せずに見返した。

 そこにあるのは動揺ではなく、計算だった。

「そう思いたいのは分かる」

 声を潜める。

「だが、役所はそう判断した」

 帳場の者、蔵番、女中たちが集まってくる。

 誰一人として、燕青を正面から見ない。

「訴えは、すでに出ている」

「賈氏様と、連名でな」

 胸の奥で、何かが静かに砕けた。

「……主を売ったのか」

 李固は眉を寄せ、すぐに表情を整える。

「売ったのではない」

「守ったのだ」

 屋敷を。

 商いを。

 そして、自分を。

 役所の名が出るたび、使用人たちの背が強張る。

 官の影は、声を荒げずとも人を縛る。

 燕青は、理解した。

 李固は、すでに周囲を押さえている。

「出ていけ」

 李固の声は、冷えていた。

「今日限りだ。お前は、この屋敷の者ではない」

 衣が剥ぎ取られ、私物が床に投げられる。

 裸足に冷たい板が刺さった。

「逆らえば、どうなるか分かっているな」

 燕青は拳を握った。

 だが、刃は抜かない。

 ここで血を流せば、主の名を汚す。

 何も言わず、屋敷を出る。

 門を越えた瞬間、風が容赦なく肌を打った。

 振り返らない。

 かつて主と過ごした屋敷は、すでに遠く、影のようだった。

 だが、燕青の足は止まらなかった。

 主は、生きている。

 ならば、行く先は一つ。

 梁山泊。

 凍てつく道を、ただ前へ進む。

 名を奪われようと、居場所を失おうと、その胸に宿る忠義だけは、誰にも触れさせぬ。

 こうして、影は動き出した。

 この章における最大の裏切りは、

 李固でも、賈氏でもありません。


 それは、「官」という言葉が持つ重さです。


 剣を抜かずとも、

 声を荒げずとも、

 役所の名は、人を黙らせ、

 人を孤立させ、

 人を追放する。


 燕青がここで刃を抜かなかった理由は、

 力が足りなかったからではありません。


 抜けば、

 主の名が汚れる。

 抜けば、

 真実が届かなくなる。


 彼は、戦わないことを選びました。

 それは逃避ではなく、

 最も過酷な忠義でした。


 名を奪われ、

 居場所を失い、

 それでも進む先を一つに定める。


 この瞬間、

 燕青は「従者」であることを終え、

 「影」として歩き始めます。


 梁山泊へ向かうその一歩は、

 彼自身が選んだ、

 最初で最後の自由でもありました。

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