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1章:燕青と盧俊義の絆

人は、生まれた場所や血によってではなく、

誰の背を見て育ったかによって形づくられる。


燕青にとって、

盧俊義という男は主であり、師であり、

そして生き方そのものだった。


この章は、

影が影である理由――

忠義が芽吹いた、その始まりを描く。

冬の冷気が北京大名府の狭い路地裏を鋭く刺し、枯れ葉は湿った石畳に張りついていた。

踏みしめられるたび、土の湿った匂いが、かすかに立ち上る。

街灯の淡い灯が揺れ、遠くで鈴の音が寂しげに響くなか、幼い燕青はひとり立ち尽くしていた。

震える小さな身体を抱え込むように、澄んだ瞳の奥に、静かな光が宿っている。

泣き叫ぶこともなく、ただ冷えた空気の向こう――

まだ名も持たぬ運命の道筋を、見据えていた。

やがて燕青は、北京随一の富豪にして武術の達人・盧俊義のもとに迎えられる。

盧俊義は小さな命を慈しみながらも、甘やかすことはなかった。

剣術と学問、鍛錬と規律――

生きるための道を、黙して示した。

広い屋敷の暖炉が冬の冷え込みを和らげ、煤けた木の香りが静かに漂う中、

燕青は剣を振り、相撲に汗を流し、琴や笛の音色に耳を傾けて育った。

それらは教え込まれたものではなく、背を追ううちに、いつしか身についていた。

盧俊義の深い情は、燕青の胸に揺るがぬ灯をともした。

その忠誠は声高に誓われることなく、

朝陽を受けた庭の花のように、静かに、しかし確かに在り続けていた。

――

冬の空気がさらに冴えたある朝。

凍える冷気の中、遠く商人の声がこだまし、石畳を踏む足音が硬く響いていた。

城郭に囲まれた盧俊義の屋敷は、冬の光に深い陰影を落とし、

堅牢な塀と磨き込まれた木戸が、黙して風を受け止めている。

中庭では、燕青が上着を脱ぎ捨て、薄衣一枚で舞っていた。

引き締まった身体が宙を切り、跳ねるたびに砂利がきゅっと鳴る。

「そこまでだ」

低く響く声に、燕青は動きを止め、振り返る。

高身長で堂々とした盧俊義が立っていた。

白い息を吐き、鋭い眼差しで、静かにその姿を見据えている。

「お目汚しをいたしました」

燕青は一礼した。

卑屈でも、過剰でもない。

そこには、この屋敷で己が立つ位置を知る者の、凛とした節度があった。

「見事だ。相撲も剣も、舞も……よく身についている」

盧俊義の口元が、わずかに緩む。

だが、その瞳の奥には、消えぬ思案の影があった。

「旦那様の背を追ううちに、覚えたことばかりです」

燕青は微笑んだ。

その笑みには、越えてはならぬ一線を知る者の、静かな覚悟が滲んでいる。

「都の噂は、耳に入っているか」

盧俊義が、ぽつりと言った。

「梁山泊のことでしょうか」

名を口にしただけで、空気がわずかに沈む。

「官に逆らい、賊と呼ばれながらも、義を掲げる者たち……」

「噂は、噂に過ぎません」

燕青は、淡々と続けた。

「ですが、ここまで広がるのは――

それだけ、行き場を失った者が多いということでしょう」

盧俊義は息を吐き、燕青を見つめた。

「……よく、世を見ている」

「そうせねば、生き残れません」

燕青は視線を落とした。

その先にあるものを、まだ名付けることはしなかった。

――

中庭の空気が、わずかに緩む。

盧俊義は歩み寄り、燕青の体躯を改めて眺めた。

細身ながら、流れる筋肉は無駄がない。

重い鎧に頼らず、かわし、潜り、懐へ入る――

影のような戦いに向いた身体だった。

「占い師がな……剣難の兆しを告げていった」

唐突な言葉に、燕青は眉を寄せる。

「占いは、人の心を乱します」

否定でも、肯定でもない。

事実だけを置くような声音だった。

「お前らしいな」

盧俊義は短く笑い、

「だが、泰安州へは行く」

その声には、迷いがなかった。

燕青の胸に、わずかな重みが落ちる。

「では、お供を」

「いや。お前は留守を守れ」

その言葉が、燕青の肩に残る。

「……承知しました」

――

日が高くなるにつれ、屋敷は慌ただしさを帯びていく。

燕青は、空気の微かな変化を感じ取っていた。

帳場と蔵の往復。

潜められた声。

そして――李固。

目が合った瞬間、逸らされる視線。

蔵の前で立ち止まり、錠に触れる。

残る、かすかな温もり。

「……今、開けたな」

遠くで馬の嘶きが響く。

旅立ちの気配。

「今が好機だ。旅に出れば、戻れぬ」

壁越しに漏れる声。

胸の内で、何かが静かに崩れた。

偶然ではない。

矛先は、明確だった。

空は冬晴れ。

だが、その静けさは、嵐の前のものに似ていた。

燕青は深く息を吸う。

――まだ、動く時ではない。

この日を境に、

主の運命も、己の行く末も、

確かに別の流れへ入ったことを――

彼は、言葉にせず、受け取っていた。


信じる者ほど、裏切りの兆しに気づくのが早い。

それは疑いではなく、守ろうとする心があるからだ。


燕青はまだ動かない。

剣も、言葉も、沈黙のまま胸に収めている。


だがこの日、

主の運命と、自らの行く道が

静かに分かたれ始めた。


嵐は、もう屋敷の外ではなく、

内側で息を潜めている。

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