表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/15

第十一章 草頭の王、血の終わり

 王とは、何でしょうか。

 冠を戴く者か。

 玉座に座る者か。

 それとも、多くの命を従える者でしょうか。

 いいえ。

 王とは、最後まで、逃げぬ者です。

 草の中から立ち上がり、草の上に王を名乗る者は多くいます。

 だがその多くは、血の匂いに酔い、名の重さに耐えられず、やがて自らの影に潰されます。

 田虎もまた、そうした一人でした。

 彼は力を持ちました。

 土地を持ちました。

 そして王を名乗りました。

 だが彼は、王になる理由を持っていませんでした。

 守るべきものを持たぬ王は、いずれ守られなくなります。

 梁山泊の戦は、領土を奪うためのものではありません。

 王を倒すためのものでもありません。

 ただ、王を名乗る資格なき者から、その名を返させるための戦です。

 血で始まったものは、必ず血で終わります。

 だがその終わり方を選ぶことだけは、まだ人の手に残されています。

 これは、一人の王が終わる物語であり、そして、影がその終わりを見届ける物語です。

 遼を退け、凱旋する梁山泊軍を迎えたのは、

 安堵ではなく、新たな乱の報せであった。

「……田虎、か」

 宋江は地図を見下ろし、低く息を吐いた。

「威勝を根城に五州五十六県。

 草賊にしては、放っておけぬ規模だな」

「兄貴!」

 李逵が膝を打って叫ぶ。

「そんな奴ァぶっ殺しゃあいい!

 官軍だの王様だの、関係ねぇ!」

 宋江は苦笑し、李逵を見た。

「鉄牛。

 気持ちは分かるが、今回は“討つ”より“鎮める”戦だ」

「へっ、難しいこと言うなよ……」

 それでも李逵は、不満を呑み込み、口を閉ざした。

 一方、そのころ。

 威勝州。

「ははは!

 これで五州だ! 次は衛州よ!」

 田虎は玉座もどきの椅子にふんぞり返り、杯を煽った。

「宋の官軍など、烏合の衆よ!

 俺様が晋王だ!」

 取り巻きたちは笑顔を貼り付け、声を合わせる。

 だが、その中に一人だけ、

 冷えた目で主を見つめる者がいた。

 葉清である。

(……長くは、もたぬな)

 王を名乗るには、

 この男は軽すぎた。

 戦は激しかった。

 瓊英の石が唸り、将を落とす。

「行きましょう。

 まだ終わりではありませんわ!」

 扈三娘が歯を食いしばる。

「強い……だが、何か違う」

 林冲が低く言った。

「戦いに、迷いがある」

 その様子を、少し離れた高台から見つめている者がいる。

 燕青だ。

(あの女将……敵ではあるが、賊ではない)

 彼は戦場の音を聞いていた。

 刃のぶつかる音ではない。

 人の心が揺れる、微かな軋み。

(この戦は、討つ戦ではない。

 王を名乗る資格を、奪う戦だ)

 襄垣。

 毒矢を受け、床に伏す鄔梨。

「……医者を呼んでくださいませ……」

 そこへ現れたのが、全霊と名乗る医師と、

 その弟・全羽――張清であった。

 瓊英は、張清を見た瞬間、息を呑んだ。

(……夢で逢ったお方……)

「郡主様?」

「……いえ、何でもございませんわ」

 燕青は城外の屋根の影から、その様子を見ていた。

(張清も、因果な役を引き受けたものだ)

 近づかない。

 助言もしない。

 ただ、失敗した時のために、

 塞ぐべき逃げ道だけを、頭に刻む。

 瓊英と張清は、やがて結ばれた。

 婚儀の夜。

「……これで、本当に後戻りはできないわ。

 覚悟はいいの?」

「戻るつもりは、最初からない」

 二日後、鄔梨は静かに息を引き取った。

 城は、内から陥落した。

 威勝。

「なぜだ!

 なぜ襄垣が音もなく落ちる!」

 田虎は怒鳴ったが、

 取り巻きは誰一人、彼を見なかった。

「……王様。

 金への降伏を――」

「黙れ!」

 だが、その声の裏には、

 隠しきれぬ恐怖が滲んでいた。

 そこへ葉清が進み出る。

「襄垣は安全にございます。

 瓊英様も、王様をお迎えしたいと」

「……そうか」

 田虎は疑わなかった。

 否。

 疑える器ではなかった。

 夜道。

 襄垣へ向かう田虎一行の前を、

 燕青が影のように走っていた。

(城門、第三刻で閉じろ)

(路地は二本。北側を塞げ)

 殺すつもりはない。

(生き恥を晒させる)

(血で終わらせれば、また“王”が生まれる)

 それが、この乱に相応しい終わりだ。

 城門が閉じる。

「な、何の真似だ!」

 松明の灯りの中、張清が声を張る。

「晋王殿下。

 ……お迎えに上がりました」

「裏切り者め!」

 縄が飛び、田虎は地に倒れた。

 燕青が一歩前に出る。

「動けば、命はない」

 田虎は、弱々しく笑った。

「は……ははは……

 王とは……こんなものか……」

 東京。

 刑場。

 引き立てられたのは、

 もはや王ではなかった。

 瓊英は、両親の肖像を掲げ、深く息を吐く。

「……ようやくですわ」

 罪状が読み上げられ、

 刑は、淡々と執行された。

 刃が落ち、

 血は、

 誰の記憶にも残らぬように、

 大地へと吸い込まれていった。

 長年の憎しみと、

 ようやく届いた正義が、

 静かに終わった。

 梁山泊の列の後方で、

 燕青は空を見上げていた。

(草に生えた王の血が、

 ようやく、還った)

 誰も、彼を見ない。

 それでいい。

 影は、名を残さぬ。

 草頭の王の血が静かに大地へ還り、

 物語だけが、前へ進む。

 王は、死にました。

 ですがその死は、戦場の中ではありませんでした。

 歓声の中でもなく、誇りの中でもなく、ただ静かに、罪人として終わりました。

 それは敗北です。

 ですが同時に、最も正しい終わりでもありました。

 もし田虎が戦場で死ねば、彼は英雄として語られたでしょう。

 もし最後まで剣を取れば、彼を慕う者は、新たな乱を起こしたでしょう。

 ですが彼は、王としてではなく、ただの人として終わりました。

 それで十分だったのです。

 血は流れました。

 ですが、憎しみは残りませんでした。

 瓊英の復讐は終わり、土地は宋へ戻り、乱は静かに消えていきました。

 それが、最も少ない血で終わる形だったからです。

 燕青は、それを知っていました。

 だから殺さなかった。

 影の役目は、命を奪うことではありません。

 終わらせることです。

 この日、また一つの乱が終わりました。

 ですが、戦はまだ終わっていません。

 梁山泊の戦は、乱を鎮める戦へと変わりました。

 かつては、義のために戦いました。

 今は、義を守るために戦っています。

 その違いは、わずかです。

 ですがそのわずかな違いが、やがて大きな代償を生むことを、

 この時、まだ誰も知りませんでした。

 影だけが、知っています。

 戦が続く限り、影は消えないことを。

 そして、すべての血の終わりが、まだ先に待っていることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ