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茄子鉈の一族記  作者: マーたん


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9/10

第九回目

人は、

何かをしてしまった翌日に、

世界が罰を与えてくれると

どこかで期待している。


空が落ちるとか、

誰かに見抜かれるとか、

自分だけ不幸になるとか。


けれど現実は、

何事もなかった顔で

朝を連れてくる。


この第九話は、

「地獄は日常の中に溶ける」

その瞬間を描いています。


壊れたのは世界ではなく、

“戻れないと知ってしまった感覚”

そのものです。

第九話 日常は、何事もなかった顔をする


朝は、平等に来る。

昨夜、何をしたかなど関係なく。


埻平は目覚ましの音で目を開けた。

心臓は、いつも通りの速さで打っている。

吐き気も、震えもない。


——それが、いちばん怖かった。


布団から起き上がり、手を見る。

昨夜、確かに“触れた”はずの手。


だが、そこには

傷も、汚れも、証拠も残っていない。


洗面所で顔を洗う。

水は冷たく、現実的だ。


鏡の中の自分は、

昨日までと何も変わらない。


「……」


声を出そうとして、やめた。

声にしてしまえば、

何かが確定してしまう気がした。


朝食の席では、

母が味噌汁をよそい、

父が新聞を読んでいる。


いつもの光景。


「今日、寒くなるらしいわよ」


母が言う。


「そうか」


父が答える。


埻平は、黙って箸を動かす。

味は、分かる。

ちゃんと、分かる。


——食えてしまう。


その事実が、

胸の奥で鈍く鳴った。


学校に向かう途中、

通学路の景色がやけに鮮明だった。


コンビニの前の自転車。

信号待ちの人の靴。

犬を散歩させる老人。


——昨日の夜、

——あの部屋にも、

——こういう日常があった。


だが、それはもう、

誰にも観測されない。


教室に入ると、

友人が声をかけてきた。


「昨日さ、あのドラマ見た?」


「ああ……まあ」


返事は、自然だった。

自分でも驚くほど。


笑うこともできる。

相槌も打てる。


——人は、こうやって壊れていくのか。


授業中、

教師の声が遠くなる。


黒板の文字が、

別の文字に見える。


“処理完了”

“問題なし”


頭を振って、

その考えを追い払う。


——考えるな。


考えれば、

昨日が“意味”を持ってしまう。


放課後、

スマートフォンが震えた。


知らない番号。


《完了。問題なし》


それだけのメッセージ。


埻平の指は、

一瞬、止まった。


返信は、求められていない。

既読も、不要。


——世界は、続いている。


河川敷の横を通り過ぎる。

昨日までなら、

足が止まった場所。


今日は、止まらなかった。


ベンチは、空いている。

何もなかったように。


——選ばなかった代償。

——選んでしまった結果。


どちらも、

もう区別がつかない。


帰宅すると、

父が玄関先に立っていた。


「……初日だな」


それだけで、

すべて分かっている口調。


「どうだった」


埻平は、少し考えた後、答える。


「……何も、起きませんでした」


父は、短く頷いた。


「それが、一番危険だ」


「……分かってる」


分かっている。

だが、止まらない。


自室に戻り、

ベッドに腰を下ろす。


スマートフォンを手に取り、

何気なく画面を見る。


写真フォルダ。

友人との写真。

風景。

どうでもいいものばかり。


そこに、

“昨日”はない。


——消えたのは、

——向こうだけじゃない。


自分の中の、

何かもだ。


夜、天井を見つめながら、

埻平は思う。


後悔は、薄れている。

罪悪感も、形を変えている。


代わりに残ったのは、

奇妙な静けさ。


——これが、慣れか。


そう理解した瞬間、

背筋が、ぞっと冷えた。


人は、

壊れることにすら、慣れる。


そして、

慣れた先で、

もっと簡単に、次を選ぶ。


埻平は、目を閉じる。


——次が来る。


その確信だけが、

妙にリアルだった。


静かな夜の中、

彼の中で

「普通」が、また一つ更新された。

最初の罪は、

痛みとして残ります。


二度目からは、

「違和感」として薄まっていく。


そして人は、

その違和感に

名前をつけ始めます。


「仕方なかった」

「自分がやらなければ」

「誰かがやるよりは」


埻平は、

もう“やった人間”です。

それを否定せずに

朝を迎えられてしまった。


それこそが、

彼にとって最大の異変でした。


次話では、

この“何も起きなかった日常”が、

どのように彼を

次の選択へ押し出していくのかを描きます。


壊れた自覚がないまま、

人は一番深い場所まで

歩いて行けてしまう。


その静かな恐怖が、

ここから本格的に始まります。

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