第八回目
一線を越える瞬間は、
叫びも、爆発も、音楽も伴わない。
あるのは、
生活の匂いと、静かな手触りだけだ。
「やらなかった後悔」から
「やってしまった現実」へ。
この第八話は、
埻平が“思想”ではなく
“感触”で堕ちていく物語です。
ここから先、
彼はもう「迷っている少年」ではありません。
選ぶ者であり、
壊した事実を抱えて生きる者になります。
第八話 最初の手触り
倉庫の中は、静かすぎた。
音がないのではない。
音が、意味を持たない場所だった。
埻平は、机の前に立っている。
例のファイルは閉じられたまま、
それでも中身は、頭の裏側に焼き付いて離れない。
番号だけの人生。
予定日。
処理方法。
——人ひとりが、ここまで薄くなるのか。
「震えてるぞ」
背後の男が言った。
「……寒いだけだ」
嘘だった。
だが、訂正もしない。
男は、金属製のケースを開けた。
中には注射器と、小さなアンプル。
「直接やる必要はない。今回は“軽い”」
その言葉に、埻平の眉がわずかに動く。
「軽い……?」
「眠らせるだけだ。
起きた時には、社会的に死んでる」
説明はそれだけ。
そこに感情は含まれていない。
「選択肢はある」
男は言う。
「今、帰ることもできる。
その場合は、俺がやる」
埻平は、すぐには答えなかった。
——帰る。
その言葉は、
甘く、そして危険な響きを持っていた。
昨日までなら、迷わなかったかもしれない。
だが、あの未送信のメッセージが、脳裏に浮かぶ。
《信じていい?》
「……俺がやる」
声は、思ったよりも低かった。
男は頷き、注射器を差し出す。
「なら、覚えておけ」
「何を」
「これは“最初”だ」
倉庫を出た頃には、空はすでに暗くなっていた。
向かう先は、街外れの安アパート。
写真で見た通りの場所。
ありふれた外観。
壊される理由が、どこにも見当たらない。
階段を上がるたび、
心臓が一段ずつ重くなる。
——まだ、引き返せる。
そう思うたびに、
足は前に出た。
部屋の前で、男が止まる。
「ここからは、一人だ」
「……分かってる」
ノックはしない。
合鍵で、静かに扉を開ける。
中は、生活の匂いがした。
洗い物の残った流し。
干しっぱなしの洗濯物。
奥の部屋で、
対象の人物が眠っている。
規則正しい寝息。
埻平は、一歩、近づく。
——知らなければ、よかった。
そう思った瞬間、
自分がもう“知る側”に立っていることを理解する。
注射器を取り出す。
手は、まだ震えている。
「……すぐ終わる」
誰に向けた言葉かも分からない。
針が、皮膚に触れる。
その感触は、
想像していたよりも、ずっと現実的だった。
息が止まる。
だが、手は止まらなかった。
アンプルが空になるまで、
数秒。
それだけで、
一つの人生が、線を引かれた。
対象は、小さく身じろぎし、
そして再び静かになる。
——終わった。
そう思った瞬間、
胃の奥が、強くねじれた。
吐き気が込み上げる。
だが、吐かなかった。
吐いてしまえば、
それは“拒否”になってしまう気がしたからだ。
部屋を出ると、男が待っていた。
「どうだ」
「……」
言葉が、出てこない。
男は、埻平の表情を一瞥し、短く言った。
「それが、最初の手触りだ」
帰り道、夜風が冷たい。
だが、寒さは感じない。
家に着き、
風呂に入っても、
手の感覚が消えなかった。
何度洗っても、
残っている気がする。
——俺は、やった。
布団に入って、目を閉じる。
心臓の音だけが、やけに大きい。
後悔か。
それとも、麻痺か。
まだ、判断はつかない。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
もう、戻れない。
埻平は、暗闇の中で小さく息を吐いた。
——これが、始まりだ。
そう思った瞬間、
胸の奥で、何かが静かに壊れた。
最初の一度は、
誰にとっても特別です。
それは
達成感でもなく、
解放でもなく、
ただ「戻れなくなる感覚」だけを残します。
埻平が感じた吐き気は、
良心の証でもあり、
同時に――
それがまだ壊れ切っていない証拠です。
しかし、
人は慣れます。
どんな地獄にも。
次話では、
この“最初の手触り”が
どのように日常へ侵食していくのか、
そして埻平自身が
それをどう正当化し始めるのかを描きます。
静かに壊れたものは、
音を立てずに、連鎖していく。
それに気づいた時、
彼はもう
「面白いかどうか」すら
考えられなくなっているでしょう。




