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茄子鉈の一族記  作者: マーたん


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7/10

第七回目

選ばなかったことは、

何もしなかったことではない。

その沈黙の裏側で、

誰かが代わりに血を流している。


この章は、

「逃げない」と決めた瞬間に生まれるものが、

勇気なのか、堕落なのか――

その区別が、まだつかない場所を描いています。


静かな決意ほど、

人を深く、取り返しのつかない場所へ運ぶ。

その始まりを、ここに置きます。

第七話 境界線は、踏み越えるためにある


翌朝、埻平は再び早く目を覚ました。

だが昨日とは違い、胸の重さは“形”を持っていた。


後悔ではない。

罪悪感でもない。


——覚悟だ。


カーテンの隙間から差し込む光が、やけに白い。

世界は何も変わっていないのに、自分だけが一段、違う場所に立っている感覚があった。


制服に袖を通しながら、埻平は思う。

「逃げない」と決めたのは、正義のためじゃない。

逃げ続けた先に、何が待っているかを——もう知ってしまったからだ。


玄関で靴を履くと、父の声が背後から飛んできた。


「今日は、まっすぐ帰れ」


命令でも忠告でもない、ただの事実確認のような口調。


「……分かってる」


そう答えながら、埻平は自分でも驚いた。

その言葉に、迷いがなかったからだ。


学校では、いつも通りの一日が流れた。

黒板の文字。

教師の声。

友人たちの笑い声。


だが、それらはすべて“上滑り”していた。

埻平の意識は、別のところにある。


——境界線。


父の言葉が、何度も頭をよぎる。


「“誰がやるか”だ」


自分がやらなければ、もっと残酷な誰かがやる。

それは、免罪符ではない。

選択の重さを、別の形で突きつけてくる現実だ。


放課後、埻平は河川敷へ向かわなかった。

代わりに、街の外れへ歩く。


そこには、父から一度だけ教えられた場所がある。

「いずれ、必要になる」と言われただけの、半ば冗談のような話だった。


古い倉庫。

使われていないはずなのに、鍵は壊れていない。


中に入ると、空気が変わる。

埃と鉄と、わずかな薬品の匂い。


壁際には、見覚えのある道具が並んでいた。

処理のための“準備”一式。


埻平は、しばらく動けなかった。


——ここに立つこと自体が、越線だ。


だが、足は自然と前へ出る。

逃げるための一歩ではない。


棚の上に置かれたファイルを手に取る。

名前は書かれていない。

番号だけ。


中身を開くと、数枚の紙と、写真。


見覚えのある顔ではない。

だが、そこに写る“日常”は、昨日の女と同じだった。


普通の生活。

普通の笑顔。

普通に、壊される予定の人生。


喉が、ひどく渇く。


「……俺がやるのか」


声に出して、ようやく実感が追いつく。


そのとき、背後で足音がした。


振り返ると、そこにいたのは——

父ではなかった。


年上の男。

埻平より、少しだけ目が冷たい。


「来たか」


知っている顔だ。

父の“後始末”を請け負う側の人間。


「今日の担当は、お前だ」


埻平は、息を吸い、吐く。


「……教えてくれ」


「何を?」


「正しくやる方法を」


男は、ほんの一瞬だけ目を細めた。


「正しい方法なんて、ない」


そう言って、淡々と続ける。


「あるのは、後悔が少し残るやり方と、

 一生残るやり方だけだ」


埻平は、頷いた。


——なら。


少しでも、自分の手で選ぶ。


その夜、帰宅した埻平は、いつもより静かだった。

母は何も聞かない。

父も、何も言わない。


それが、この家のルールだ。


布団に入って、目を閉じる。

だが、眠気は来ない。


頭の中で、あの未送信のメッセージが、何度も点滅する。


《信じていい?》


埻平は、心の中で答える。


——信じるな。

——誰も。


そして同時に、もう一つの声が囁く。


——それでも、俺は逃げない。


境界線は、もう引き返せない場所にある。

踏み越えた足音が、

静かに、だが確かに鳴っていた。

埻平は一歩、境界線を踏み越えました。

けれどそれは、

正義の側へ進んだ一歩ではありません。


「自分がやらなければ、もっと残酷な誰かがやる」

この理屈は、

正しくもあり、同時に非常に危険です。


彼はまだ、

“壊す側”になる覚悟の意味を

本当には理解していません。


理解する前に、

理解できなくなるほどの現実が、

これから彼を待っています。


次話では、

その決意が初めて“現実の重さ”として

埻平自身に返ってきます。


逃げないと決めた者が、

最初に失うものは何なのか。

その答えが、少しずつ姿を現します。

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