第六回目
人はよく、
「何もしなければ傷つけない」と考えます。
けれど現実では、
何もしないという選択もまた、
はっきりとした“行為”です。
第六話では、
選ばなかったことの重さ、
そして責任の所在が描かれます。
優しさと逃避は、
とてもよく似た顔をしています。
その違いに気づいた時、
人はもう元には戻れません。
第六話 代償は、静かに来る
翌日の朝、埻平は目覚ましより早く目を覚ました。
夢は見ていない。
それなのに、胸の奥に重いものが残っている。
——昨日の女。
「明日も、ここに来てください」
そう言った自分の声が、
まだ耳の奥に引っかかっていた。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
変わらない顔。
だが、どこか輪郭が曖昧に感じられる。
「……」
自分が誰なのか、
どこに立っているのか。
その境目が、少しずつ溶け始めていた。
居間では、父が新聞を読んでいた。
いつもと同じ光景。
だが今日は、紙をめくる音がやけに大きく聞こえる。
「……昨日の件だが」
父が言った。
埻平は、少しだけ身構える。
「向こうから、連絡があった」
胸が、嫌な形で沈む。
「“処理が行われていない”とな」
埻平は黙った。
言い訳をする準備も、反論する気力もない。
「お前が何もしなかったことは、
もう把握されている」
父は新聞を畳み、
初めて埻平の方を見た。
「今回は、私が処理した」
その言葉に、埻平は顔を上げる。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味だ」
父の声は、低く、淡々としている。
「彼女は、もう表には出てこない」
埻平の喉が、ひくりと鳴った。
「……壊したのか」
父は少し考えるように間を置き、答えた。
「お前より、深くな」
言葉が、刃のように刺さる。
「俺は……」
何を言おうとしたのか、
途中で分からなくなる。
父は、ため息にも似た息を吐いた。
「お前は、勘違いしている」
「……何を」
「選ばなかったことが、
誰も傷つけないと思ったか?」
埻平は、答えられなかった。
「仕事というのはな、
“やるか、やらないか”じゃない」
父は立ち上がり、
埻平の横を通り過ぎる。
「“誰がやるか”だ」
背中越しに、言葉が落ちてくる。
「お前がやらなければ、
もっと容赦のない人間がやる」
埻平は、拳を握りしめた。
——それでも。
それでも、自分がやらなかった事実は、
消えない。
その日の夕方、埻平は河川敷へ向かった。
昨日と同じ時間。
同じベンチ。
だが、女はいなかった。
代わりに、ベンチの下に
スマートフォンが落ちている。
拾い上げると、画面には
未送信のメッセージが表示されていた。
《明日も来てくれるって、信じていい?》
送信時刻は、今日の昼。
指先が、震える。
——遅かった。
それ以上、何も考えられなかった。
帰り道、街の音が遠のく。
人の声、車の音、信号の音。
すべてが、別の世界の出来事のようだ。
家に戻ると、母が夕飯の支度をしていた。
「おかえり」
いつも通りの声。
「今日は、あなたの好きなものよ」
その優しさが、
何より残酷だった。
食卓につきながら、
埻平は思う。
——選ばなかった代償は、
——必ず、誰かが払う。
そしてそれは、
選ばなかった本人にも、
確実に返ってくる。
夜、自室でスマートフォンを見つめる。
連絡先に、
あの女の名前はない。
最初から、
繋がっていなかった。
それでも、
埻平の中には残った。
壊さなかったはずの人生が、
より深く壊れたという事実だけが。
天井を見上げ、
埻平は静かに目を閉じる。
——次は、逃げない。
その決意が、
正しさなのか、
堕ちる音なのか。
まだ、分からないまま。
この話で、埻平は
自分の選択が誰かを救ったわけではないと
はっきり知ってしまいました。
むしろ、
より残酷な結果を招いたかもしれない。
その事実が、彼の中に深く沈みます。
父の言葉は、
正論であり、
同時に呪いでもあります。
「お前がやらなければ、別の誰かがやる」
その論理を受け入れた瞬間、
人はもう一歩、深い場所へ踏み込む。
次話では、
埻平が“逃げない”と決めた先で、
本当に選ばされるものが何なのかが描かれます。
物語は、
救いのない静けさを保ったまま、
さらに深部へ進んでいきます。




