第五回目
善悪の境界は、
はっきり線を引けるほど単純ではありません。
正しいことをしたはずなのに、
それが誰かを深く追い詰めることもある。
守ったつもりの言葉が、
刃になることもある。
第五話では、
壊す側の人間が、
「壊してはいけない存在」と向き合います。
そこは、白でも黒でもない場所。
踏み込んだ瞬間から、戻れない境界線です。
第五話 境界線のない場所
仕事の間隔が、短くなっていた。
埻平はカレンダーを見て、そのことをはっきり自覚する。
一週間に一度だったものが、三日に一度になり、
今では「空いた日に入る」程度の感覚になっていた。
断っていない。
だから増える。
理由は単純だった。
——断る言葉を、もう考えなくなった。
その日の依頼は、妙に情報が少なかった。
年齢、性別、居場所。
最低限のことしか書かれていない。
「……珍しいな」
父は多くを語らなかった。
「直接見ろ。
判断は任せる」
それは、信頼なのか、放棄なのか。
埻平には分からない。
指定された場所は、河川敷だった。
夕方。
子どもたちの声が遠くに聞こえる。
ベンチに座っていたのは、若い女だった。
二十代前半。
スマートフォンを握りしめ、画面を見つめている。
埻平は、隣に腰を下ろした。
「……誰ですか?」
警戒はしている。
だが、恐怖ではない。
「通りすがりです」
女は笑った。
乾いた、軽い笑い。
「そういう人、今日は二人目」
「……」
「安心して。
あなたが何者でも、もうどうでもいいから」
その言葉に、埻平の胸が微かに疼く。
「どうでもいい、というのは?」
女は画面を見せた。
SNSの通知。
罵倒、晒し、断片的な憶測。
「正しいことをしただけなんです」
女は言った。
「告発した。
間違ってることを、間違ってるって言った」
埻平は黙って聞く。
「でもね、正しい側に立つと、
正しくない人間が一斉に殴りに来る」
女は空を見上げた。
「……疲れたんです」
埻平は、すぐに判断できなかった。
壊れているのか。
壊す必要があるのか。
「あなたは、消えたいですか?」
女は首を振る。
「消えたいんじゃない。
“戻りたい”だけ」
「どこへ」
「……何も考えなくてよかった頃」
その答えに、埻平は息を詰めた。
——境界線だ。
壊す側と、壊される側。
生きる人間と、終わりかけている人間。
そのどちらにも、女は立っている。
「今日は、何もしません」
埻平は言った。
女は少し驚いた顔をした。
「……それでいいの?」
「分かりません」
正直な答えだった。
「でも、あなたはまだ、
選ぼうとしている」
女はしばらく黙り、やがて小さく笑った。
「……変な人」
「よく言われます」
立ち上がる前に、埻平は一言だけ残した。
「明日も、ここに来てください」
女は問い返さなかった。
帰宅すると、父は何も聞かなかった。
報告も、確認も。
それが逆に、重い。
その夜、埻平は初めて思った。
——この仕事には、
——答えがない。
壊すか、壊さないか?
救うか、見捨てるか。
そのどれもが、
誰かの人生に触れる行為だ。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
境界線のない場所に、
自分はもう立っている。
そして一度そこに立った人間は、
二度と、元の場所には戻れない。
埻平は目を閉じた。
次に会う時、
自分がどちら側に立つのかを、
まだ決められないまま…。
この話で、埻平は初めて
「何もしない」という選択をしました。
それは逃げでも、
完全な救いでもありません。
ただ、人として残った部分が、
かろうじて踏みとどまった結果です。
しかし、この選択は
必ず後を引きます。
何もしなかったこともまた、
一つの結果だからです。
次話では、
この判断がどのような歪みを生むのか、
そして埻平自身が
“選ばなかった代償”と向き合うことになります。
物語は、
静かに、しかし確実に
深い場所へ降りていきます。




