第二回目
この物語は、誰かを救う話ではありません。
正義が勝ち、悪が裁かれる物語でもありません。
あるのはただ、
生まれた場所と血の重さに抗いきれなかった一人の男が、
「選んだつもりで選ばされていく」過程です。
茄子鉈埻平は、特別な力を持たない。
ただ少し、人の壊れ方を知りすぎていただけでした。
静かな夜に起きた出来事が、
どれほど深く人生を削るのか。
その感覚を、どうか覚悟して読み進めてください。
第二話 最初の仕事は、静かすぎた
夜の街は、思ったよりも音が少なかった。
車の走行音も、人の話し声も、すべてが一枚膜を張ったように遠い。
茄子鉈埻平は、指定されたアパートの前に立っていた。
築三十年は下らない、くすんだ外壁。
表札の文字は薄れ、ここに「誰かの生活」があることすら、世界は忘れかけている。
——ここだ。
ポケットの中で、指が無意識に動く。
鍵。
父から渡された、合鍵。
「……」
深呼吸を一つ。
胸は痛まない。
それが一番、怖かった。
階段を上る音が、夜にやけに響く。
二階、奥から二番目。
ドアの前で立ち止まり、耳を澄ます。
物音はない。
テレビも、話し声も。
鍵を差し込み、回す。
抵抗はほとんどなかった。
ドアの向こうにあったのは、生活だった。
脱ぎ捨てられた靴、コンビニの袋、洗濯物。
どれも昨日の続きのまま、止まっている。
「……失礼します」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。
男は、リビングの奥にいた。
ソファに座り、スマートフォンを眺めている。
こちらに気づくのが遅れたのは、運が悪かったのか、良かったのか。
「……誰だ」
振り返った男の顔は、写真通りだった。
どこにでもいる、普通の顔。
埻平の喉が、わずかに鳴る。
「……」
言葉を選ぶ時間はなかった。
父の言葉が、頭の奥で響く。
——“殺すな。壊せ。”
埻平は、ゆっくりと男の前に立った。
「あなたの人生は、今日で終わります」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
男は一瞬、理解できない顔をした。
次の瞬間、怒りに変わる。
「ふざけるな。出て行け」
当然の反応だ。
埻平はうなずく。
「そう言うと思いました」
テーブルの上に、封筒を置く。
中身は、写真と書類。
男の顔色が変わった。
家族、職場、過去の行動。
“余計なこと”の証拠。
「……なんで」
「知ってしまったからです」
それだけで十分だった。
男は立ち上がり、声を荒げる。
「脅しか? 金が目的か?」
埻平は首を横に振る。
「違います。
あなたが“消える”ことで、丸く収まる人がいるだけです」
沈黙。
男の肩が、小さく震え始める。
「……待ってくれ」
その声に、埻平の胸がわずかに軋んだ。
だが、足は止まらない。
「死なせはしません」
男は希望に縋るような目を向ける。
「でも、あなたはここから先、
社会的に、誰の記憶からも、少しずつ消えます」
言葉を重ねるたび、男の呼吸が浅くなる。
「仕事は失います。
信用も、居場所も」
「……やめろ」
「家族は、あなたを信じなくなる」
「やめてくれ!」
「あなたは生きます。
ただ、生きている意味だけが、消えます」
男は崩れ落ちた。
声を上げることもできず、床に手をつく。
その姿を見て、埻平は気づく。
——俺は、見慣れている。
この壊れ方を。
父の仕事場で、親戚の集まりで、
言葉にされなかった“結果”として。
作業は、淡々と終わった。
証拠は回収し、連絡先は処理され、
男はその場に残された。
生きている。
だが、もう戻れない。
外に出ると、夜風が冷たかった。
手が、少しだけ震えている。
「……」
罪悪感かと思った。
だが違う。
慣れ始めていることへの恐怖だった。
スマートフォンが鳴る。
父からだ。
『終わったか』
「……ああ」
『どうだ』
少し考えて、埻平は答えた。
「……静かすぎた」
電話の向こうで、父が笑った気配がした。
『最初は、みんなそう言う』
通話が切れる。
埻平は空を見上げた。
星は見えない。
雲が、すべてを覆っている。
それでも夜は、ちゃんと朝へ向かう。
——人の人生が終わっても。
埻平は、ゆっくりと歩き出した。
泥に足を取られながら、
その感触を、もう忘れ始めていた。
第二話では、「最初の仕事」を描きました。
血も刃も使わず、それでも確実に何かが終わる仕事です。
この話で壊れたのは、依頼された男だけではありません。
埻平自身の中にあった
「普通でいたい」という感情も、確かに欠け始めています。
恐怖よりも先に来る慣れ。
それこそが、この一族にとって最も恐ろしい“才能”です。
次話では、
埻平がこの仕事を続ける理由と、
彼を縛る家族の影が、よりはっきりと姿を現します。
もし読み終えたあと、
胸の奥に少し重さが残ったなら――
それは、この物語が正しく始まった証拠です。




