第一回目
人は生まれを選べない。
家も、血も、過去も。
だが、それらから逃げられるかどうかは、
生まれた後の「意志」に委ねられている――
そう信じたい者は多い。
茄子鉈埻平の人生は、
その幻想がいかに脆く、残酷なものかを静かに証明していく。
これは英雄の物語ではない。
抗う者の物語ですらない。
沈みながら、まだ呼吸をやめない男の記録である。
第一話 泥は、最初から乾かなかった
茄子鉈埻平は、自分の人生が「やり直せるもの」だと思ったことが一度もない。
後悔はある。反省もある。
だが“希望”だけは、最初から選択肢に存在していなかった。
朝、安アパートの天井を見上げる。
黄ばんだ染みが広がり、そこに人の横顔を見た気がして、目を逸らす。
気づけば息が浅くなっていた。
昨日、仕事を辞めた。
三日で終わったバイトだ。
理由は些細なことだった。上司が部下を叱る声が、父に似ていた。
それだけで、体の奥が固まった。
埻平は自分を弱い人間だと思っている。
だが同時に、壊れてはいないとも感じていた。
壊れているなら、もっと派手に狂えただろう。
自分はただ――腐る環境に順応してしまっただけだ。
スマートフォンが震える。
画面に表示された名前を見て、胸が一段深く沈んだ。
――父。
茄子鉈恒一。
埻平はすぐには出なかった。
五秒、数えた。
出ない自由があることは知っている。
だが、その自由を使った人間がどうなるかも、嫌というほど知っている。
「……もしもし」
『元気そうだな』
形式だけの挨拶。
生存確認以上の意味はない。
「用件は」
『冷たい言い方だな。家族だろ』
家族。
その言葉はいつも、腹の奥を掻き回す。
「俺はもう、そっちの人間じゃない」
短い沈黙。
そして、父の笑い声。
『そう言ってた弟は、今どうしてる?』
心臓が一拍遅れた。
叔父。
事故死とされているが、棺の中の顔を見た埻平だけは知っている。
あれは事故の死に顔じゃない。
「……何が言いたい」
『仕事が一つある。お前向きだ』
拒否の言葉は、喉の奥で形にならずに溶けた。
『住所を送る。今日中に来い』
通話は一方的に切れた。
埻平はしばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
怒りも恐怖もない。
ただ、静かな諦めが胸に広がっていく。
――結局、戻るんだ。
茄子鉈家へ。
夕暮れ、実家の前に立つ。
古いが手入れは行き届いている。
外から見れば、普通の家庭だ。
玄関を開けると、母・澄江がいた。
「おかえり」
声は優しい。
それが、余計に気持ち悪い。
「……ただいま」
何もなかった顔で、何もなかった人生の続きを演じる。
それがこの家のやり方だ。
居間では父が書類を広げていた。
埻平を見ても立ち上がらない。
「座れ」
逆らう理由を探す気力もない。
埻平は黙って座った。
「人を一人、消す」
父は淡々と言った。
天気の話でもするような口調で。
「殺しじゃない」
書類を差し出される。
写真、住所、家族構成、職歴。
どこにでもいる男。
「余計なことを知った。それだけだ」
埻平は写真を見つめた。
胸は、驚くほど静かだった。
その事実が、一番怖い。
「お前は向いてる」
父の声が低くなる。
「情はあるが、止まらない。
罪悪感を抱えたまま、やる。
それが茄子鉈だ」
血、という言葉が聞こえた気がした。
実際に口にしたわけではない。
だが確かに、縛る鎖の音がした。
埻平は書類を受け取った。
手は震えていなかった。
その瞬間、はっきり理解した。
――俺はもう、戻れない。
夜、家を出るとき、母が小さく言った。
「……ごめんね」
振り返らなかった。
許す権利も、恨む余裕も、もう残っていない。
外は雨だった。
アスファルトに溜まった水に街灯の光が滲む。
埻平はその水たまりを踏み抜く。
泥が跳ね、ズボンを汚した。
最初から、こうなる人生だった。
茄子鉈埻平は、
泥に足を取られながら、
それでも前へ歩いていった。
茄子鉈家の物語は、まだ始まったばかりだ。
埻平が選んだのは「悪」ではない。
だが「善」でもない。
彼が踏み込んだのは、
選択肢が削られ続けた末に残った、
最も逃げにくい道だった。
この先、彼はさらに多くを失うだろう。
感情も、関係も、
そして「自分は違う」という最後の言い訳さえ。
それでも物語は続く。
泥は乾かない。
だが、沈んだままでも人は歩けてしまう。
次章では、
**“最初の仕事”**と、
埻平自身が気づいていなかった「適性」が描かれる。
――その時、彼は初めて知る。
地獄とは、特別な場所ではなく、
慣れてしまう日常のことだと。




