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「僕を奪ったのは誰?」と問う双子に、メイドの桜子は真実を囁く

作者: ひとひら

第一幕 疑惑の館


館は朝の光にゆっくりと溶けていく。

淡い霧が、階段の手すりをそっと揺らしていた。


六条家の広間にはまだ人の気配はなく、冷たい木の床に足音だけが静かに吸い込まれていく。

重厚な家具の影が壁に揺れ、整いすぎた静寂が、かえって屋敷の孤独を際立たせていた。


屋敷には親戚たちも暮らしている。だが、昼夜のざわめきはない。

ただ静かな息遣いと、微かな視線の交錯だけが空気を揺らしている。


双子の兄弟、蓮と悠の間には、表には出ない不仲の噂があった。


「顔を合わせれば言い争う」


「後継争いでもめているのでは」


屋敷の空気は、そんな囁きでほんの少しざわつき、見えない針のように心を刺していた。


メイドの桜子はゆっくりと階段を降りる。


奥の書斎から漂うのは、微かに冷たく、言葉にならない沈黙の香り。


扉に触れた指先に、空気がほのかにざわめき、何かを秘めたように変化した。


中に踏み入ると、柔らかく横たわる影――悠。


机の前で瞳を閉じ、白い指先まで光を吸い込んだかのように静かに横たわっている。


傍らには、香水瓶のように小さく、美しい金色の液体を湛たたえた小瓶がひとつ。

揺れることなく、まるで時を止め、静かな力を抱えているかのようだった――ひそやかに命を吸い尽くす毒を秘めた小瓶。


「悠様……」


桜子の声はかすかに震え、しかし誰にも届かない。


そのとき、館の奥から親戚たちが集まり、倒れた悠を見て、囁きが重く落ちる。


「……蓮、お前が……」


「まさか……悠を……」


冷たく重く、広間の空気を振動させる声。

桜子は言葉を失い、倒れた悠をただ見つめる。

親戚たちの視線は、悠の静けさを兄に押し付けるように鋭く、胸に針を刺した。


「……弟を恨んでいたのではないか?」


沈黙が館の奥深くに染み渡る。

窓の外の朝の光は、ひび割れた鏡のように机の上や悠の顔を淡く揺らす。優しくも残酷に、すべてを映し出しては消え、胸の奥に冷たい余韻を残した。


――誰もまだ、真実を知らない。


――悠の息は止まり、時間は止まったまま。

――兄は疑われ、館には冷たい視線が漂う。


桜子はその場に立ち尽くす。

沈黙と光に包まれ、眠るように穏やかに沈む悠の姿を胸に刻むしかなかった。


朝の光は静かに館の廊下を滑り、埃の粒が舞う水滴のように揺れる。

蓮は広間の奥に立ち、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。

あの日から幾日も過ぎたというのに、胸の痛みは癒えることなく、心を切り裂くように疼き続けていた。


悠はもう、この世界にはいない。


「おはようございます」


声を落ち着け、蓮は親戚たちに向き直る。

だが、視線の端に映る疑惑の光。


「蓮、お前……悠のこと、本当に知らないのか?」


叔父の低い問いかけに、蓮は唇を微かに噛む。


親戚たちは囁く。


「蓮は悠を憎んでいたのでは……?」


その疑いの目は、静かな広間に針を刺すように重く、冷たく響く。

空気は張り詰め、香水の甘さと屋敷の冷たさが混ざり合って漂った。


桜子は少し離れた場所から静かに蓮を見つめる。


「……お兄様、大丈夫ですか?」


蓮はわずかに微笑みを返す。


「大丈夫だ。心配かけたな」


言葉は軽く、しかし奥に沈む痛みは深く、見えない悲しみの影を落としていた。

桜子はただ頷くしかなかった。


広間の暖炉の火が淡く揺れる中、蓮は朝食の席に静かに座っていた。

皿の上の肉と野菜、白いナプキンに落ちる影までもが、時間とともにゆらりと揺れる。

親戚たちの談笑は途切れず続くが、蓮の視線は遠く、庭の木々のざわめきに溶けていた。


桜子はそっと後ろに立ち、静かに蓮の所作を見守る。

整然とした彼の動きは完璧に見える――しかし、見えない綻びが空気の隙間に潜んでいた。


ふとした瞬間――


普段の蓮とはどこか違う。

左利きの彼は、いつも左手に持つナイフを、知らず右手に移してしまっていた。


桜子の胸に、氷のような違和感が走る。


――おかしい。


ほんの一瞬、見逃せるほどの小さな仕草。

しかしその瞬間が、すべてを問いかけるようで、桜子は視線を逸らせなかった。


蓮は何事もなかったかのように、ゆったりと食事を続ける。

その仕草は自然で、周囲には何も伝わらない。

だが桜子の心には、微かに揺れる影が残った。


――お兄様、もしかして……?


言葉にはできず、桜子はただ静かに座る。

暖炉の火に揺れる光が、蓮の影をひび割れた鏡のように映し出す。

その少しの歪みは、何か秘められた真実を静かに告げていた。


書斎の窓辺、冬の淡い光が机の上に凍てつくように差し込む。

蓮は椅子に腰を落とし、書類に目を落としたままペンをゆっくり走らせる。

桜子は背後に立ち、本を片手に静かに見守る。


気配は柔らかく、しかし空気の奥には淡い緊張が漂っていた。


「……お兄様、今日はお手紙の整理をされるのですか?」


桜子の声はささやかで慎ましやか。

――先ほどの右手の違和感が、まだ胸に影を落としている。


蓮は顔を上げ、わずかに笑む。


「そうだ。親戚からの連絡も多くてな。悠のことがあってから、少し整理しておかないと」


その微笑はいつも通りで、桜子にはまぶしく、切なく、胸を締め付けるほどに美しく見えた。


「……悠様のこと、まだお辛いでしょうに、よくそんなに落ち着いていられますね」


桜子の声には、無意識の探りが混じる。


蓮は小さく息を吐き、目を伏せる。


「ただ、気を張っているだけだ……桜子。心配させたくなくて」


その声は柔らかく、深く、痛みを孕んでいた。


桜子は頷き、言葉を返さずにただ蓮を見つめる。


――でも……どこか、違う。

――あの一瞬の右手の動きが、胸に棘のように引っかかり、離れない。


窓の外の影が揺れ、書斎の光はひび割れた鏡のように床や壁を淡く揺らす。

蓮の背に落ちる影は微かに歪み、桜子の胸に静かな不安を落とした。


「……お茶をお持ちしましょうか?」


桜子は自然な仕草で声をかける。


蓮は一瞬目を細め、そしてまた微笑む。


「悪いな、頼む」


その短いやり取りの中で、桜子の胸に違和感が確かに芽吹き始める。

だが、確信にはまだ遠い――

それでも、この屋敷に潜む、何か大切で、静かに隠された秘密の気配だけは、ひしひしと伝わってきた。


桜子は静かにお茶を運びながら、蓮の横顔を見つめる。

窓の外の影が長く伸び、館の壁を淡く、透き通るように染めていた。


ふとした仕草、わずかに力の入りすぎた指先。

食事のとき、右手でナイフを握った一瞬の違和感。

その微かな記憶が、桜子の胸の奥でひそやかに反芻される。


「……お兄様、今日の書類はすべて整理できましたか?」


桜子の声は自然で柔らかく、それでいて確かさを探るようだった。


蓮はゆっくり顔を上げ、淡い微笑を浮かべる。


「大方は片付いた。後は明日まとめよう」


その声は穏やかで、静かに流れる水のように柔らかい。

桜子の胸に、一瞬の安堵が訪れる。


――すべてが自然に見えた。でも、あの右手の仕草が、胸の奥で小さく波を立てる。


桜子はそっと蓮の手元を追う。

ペン先に伝わる指の柔らかさ、ページをめくる手の動きの繊細さ。


――……お兄様……?


心の中の問いは、まだ声にならない。

それでも、胸の奥に小さな予感が芽吹きはじめていた。


――この人は、蓮ではないかもしれない。


――悠……なのではないか。


桜子は目を細め、再び静かに蓮を見つめる。

微かに揺れる光が、蓮の影を床に落とす。

その影は、ひび割れた鏡のように微妙に歪み、桜子の心に小さな棘を残す。


言葉にできない違和感が、静かに確信へと近づいていく。

それでも、桜子はまだ黙している――問いかけるには、証拠が足りない。


しかし胸の奥で微かな声が囁く。

――いつか、真実を確かめねばならない。


夕暮れの書斎、窓から差し込む光は薄く、長い影が床を静かに滑る。


桜子は蓮の傍らに立ち、紅茶のカップをそっと差し出す。

蓮は一瞬、迷うように手を止めたが、やがて右手で受け取った。


――違う……


そのほんの一瞬に、桜子の胸にひそやかに衝撃が走る。

普段なら左手で持つはずのものを、右手に握った。

蓮の仕草が、ふとした瞬間に悠の癖を覗かせたのだ。


さらに目元のほのかな揺らぎ。

言葉には出さずとも、頬のわずかな緊張、瞳の奥に漂う揺らぎ。


――あの瞬間、悠の影が、蓮の背中にひそやかに重なった。


桜子は息を飲み、視線を外せずに、蓮の手元と表情を交互に追う。


ペンを取る指のしなやかさ、ページをめくる手の角度にまで、わずかに弟の面影が宿っていた。

小さな違和感が重なり、やがて桜子の胸に一つの確信を結ぶ。


――お兄様……いや、悠……


声には出さず、桜子はただ静かに蓮を見つめる。

ひび割れた鏡のように揺れる夕暮れの光が、蓮の背に落ちる影をわずかに歪め、

その影は確かに弟のものだと告げていた。

もう、隠すことはできない。


桜子はそっと息をつき、紅茶を差し出す手を揺らす。

――今、この屋敷で、真実がひそやかに顔を出しはじめた。

空気は静かに震え、儚い光の粒が、二人の間をそっと漂う。


広間は重厚な空気に包まれていた。

暖炉の炎が揺れるたびに影が壁を裂き、親戚たちの視線が蓮に突き刺さる。

窓の外には深い夜が沈み、風がわずかに硝子を震わせていた。


誰もが口を閉ざす中、桜子だけが前に進む。

胸の奥で芽生えた確信を、刃のように抱きしめながら。


「蓮様……」


声は微かに揺れることなく、澄んだ響きが広間を満たした。


蓮はゆっくり顔を上げ、桜子の瞳をまっすぐに見つめ返す。

その奥で淡い揺らぎが走る。


桜子は息を整え、言葉を選び、そして――


「あなたは……悠様ではありませんか?」





第二幕 嘘と真実の影


桜子の問いが落ちた瞬間、広間は凍りついた。


暖炉の炎がぱちりと弾ける。

しかし誰も声を出さない。

その一瞬が、永遠のように伸びていく。


蓮――いや、その姿をした青年は、ゆっくり桜子を見返した。

瞳の奥に微かな波紋が広がり、消え、また沈む。


何も言わない。

否定も肯定もせず、沈黙が答えより雄弁に真実を告げていた。


親戚たちは顔を見合わせる。


「……どういうことだ?」


「桜子、何を言っている……?」


疑念と困惑のざわめきが、広間の壁に吸い込まれていく。


桜子は一歩踏み出した。声は震えていない。


「お兄様……どうか、答えてください」


だが返事はない。

沈黙と、わずかに揺れる炎の影だけが、二人を隔てていた。


その沈黙は、嘘よりも残酷で、真実よりも重かった。

館の空気は張り裂けそうに張り詰め、次の瞬間、何が壊れるのか、誰もまだ知らない。


彼はゆっくり肩の力を抜き、深く息をつく。

その瞳には痛みが宿るが、微笑みはない。

ゆっくり頭を垂れ、低く確かな声で告げる。


「……ああ、そうだよ。僕は悠だ。……僕が、蓮を……」


その瞬間、親戚たちの視線が鋭くなる。

ざわめきが広がり、息を呑む音だけが響く。

そして悠は声を震わせ、胸の奥に秘めた感情を口にする。


「……僕が、兄を……手にかけたんだ」


広間は凍りつき、誰もが固まる。


桜子も、心の奥で小さく息を呑む――

目の前の悠が兄を失わせたという事実を信じてしまいそうになる。


「……憎んでいたんだ、……兄を」


声は震え、悔恨と孤独が滲む。


「でも……もう後悔しか、残ってない……」


親戚たちはざわめき、非難や恐怖の視線を悠に向ける。

誰も疑いを差し挟めず、悠の言葉に圧倒される。


桜子だけが、小さな違和感を胸に抱いた――

――本当に悠は蓮を手にかけたのか。


しかしその表情やほのかな仕草に、何か別の感情が交じっているように見えた。


悠は静かに立ち、真実を告白したかのように振る舞う。


広間の光は揺れ、影が床に長く伸びる。

真実はまだ隠されている――だが、その存在は確かに感じられた。


広間には、冬の夜気のような重さが満ちていた。

親戚たちの声は矢のように飛び交い、炎のゆらめきすら小さく怯える。


「――本当に……そうなってしまったのか」


「――家の名に、影を落としてしまった」


「――警察に伝えなければ……」


声のひとつひとつが鋭く、悠の肩に突き刺さる。

彼はただ黙して立ち、瞳を伏せたまま影に身を沈める。

否定もせず、弁明もせず。

その仕草は、罪を認めるかのように見え、広間の空気はさらに凍りつく。


そのとき――桜子が静かに一歩前に出た。


「……待ってください」


その声は小さかったが、鋭い囁きのように空気を裂いた。

すべての視線が彼女に注がれる。

桜子は怯まず、悠の隣へ歩み寄り、その手をそっと取った。

指先に伝わる熱は、震えを秘めながらも確かで、ひとつの命の鼓動を告げていた。


「……この方は……そんなことをなさる方ではありません」


声はかすかに震えていた。けれど揺るぎない確信がそこにあった。


叔父の声が震えるように響いた。


「桜子……何を言うのだ。本人がそう口にしたのだぞ……」


だが桜子は悠の横顔を見つめ続ける。


――この瞳は、誰かを傷つけた瞳じゃない。


――ただ、深い悲しみを抱えた瞳……。


「もし本当に……蓮様を……

お兄様を手にかけたのなら……

こんなお顔をなさるはずがありません」


その言葉に、広間は再び沈黙した。

炎がぱちりと弾ける音さえ、遠い世界の出来事のように聞こえる。


悠は小さく息を飲み、目を伏せる。

肩がわずかに震え、桜子の指先に伝わった。


――この人は嘘をついている。


――でも、その嘘はきっと……誰かを守るためのもの。


桜子の胸に、静かな確信が芽吹く。

彼女はそっと悠の前に立ち、炎の揺れる影から庇うように身を差し出した。


「……お願いです。もう……これ以上、この人を責めないでください」


広間の光は淡く揺れ、影が床に長く伸びる。

誰ひとり口を開けぬまま、ただ二人を見つめていた。


真実はまだ深く隠されている。

だが、その温もりを知る者だけが、かすかな光を信じていた。


夜は深まり、館は静寂に沈んでいた。

広間のざわめきが去ったあと、残されたのは悠と桜子だけ。

燭台の炎が細く揺れ、二人の影を壁に映している。


長い沈黙ののち、桜子が小さく唇を開いた。声は震え、けれど確かに届く。


「……悠様、本当に……蓮様を……失わせてしまったのですか……?」


その問いは、夜気の冷たさの中に置かれ、炎の揺らぎとともに、悠の胸を深く抉った。


悠は視線を落とし、長い睫毛の下で瞳を閉じる。やがて吐き出すように言葉を零した。


「……そうだよ。僕が……兄を……」


しかしその声はかすれ、まるで自分にすら信じ込ませようとする嘘のように、脆く揺れていた。


桜子はその答えにうなずけなかった。

胸の奥で痛みを抱えながらも、瞳を逸らさずに見つめ続ける。


「……けれど……その言葉の中に、悲しみしか見えません」


悠は肩を震わせ、微笑むこともできないまま、ただ沈黙で答えた。


燭台の火がまたひとつ小さく弾け、部屋の空気はさらに重く沈んでゆく。


――嘘か、真か。

桜子の問いは夜に溶け、悠の心は、なお深い闇に沈んだままだった。


二人の間に、しばらく言葉は落ちず、ただ静かな呼吸だけが漂っていた。

燭台の炎が揺れ、壁に映る影も微かに震む。

夜気が肩に触れ、重く冷たい空気が広間を包む。

時折、かすかな木の軋む音が響くたび、胸の奥が小さく震えた。

沈黙は、言葉以上に深く、二人の心を静かに確かめ合うように流れていた。


悠は桜子の隣に立ち、肩の力を抜くことなく、ただ静かに息を吐いた。


「桜子……君にだけ、話すよ」


その声は、月光に溶ける霧のように淡く、耳に触れる。


桜子は息を呑み、視線を逸らさずに彼を見つめる。


「……はい」


悠は長いまつ毛の影の下で瞳を伏せ、言葉を紡ぐ。


「蓮は……僕の手が届かないまま、夜の闇に消えたんだ。

静かに、誰にも言わずに……自分で選んだんだ。

……桜子、君が兄を見つける前に、僕はすでにその影を抱いていた……

でも、もう手遅れだった」


桜子の胸がざわめき、全身の力が抜けていく。

唇をわずかに震わせ、震える呼吸を整えようとするが、言葉は出てこない。


「僕は……蓮の一部でいたかった。

……だけど、残されたのは、果てしない孤独だけだった」


悠の声は、低く、蜜のように甘く、そしてひび割れた氷のように冷たい。

指先が震え、壁に落ちた影が淡く揺れる。


「だから……この秘密は、君だけに。

僕は……もう誰にも話さない」


桜子に視線を向けたその瞳には、痛みと愛惜が静かに、しかし濃密に滲んでいた。


桜子はそっと悠の手に触れる。

指先に伝わる熱は、言葉の嘘も、広間のざわめきも、越えてくる。

その静けさは、言葉にできない深い信頼と、触れられない悲しみを抱えていた。


夜はさらに深まり、館は光の揺らぎと影だけを残して沈む。

悠と桜子――二人だけの秘密が、静かに夜の中に溶けていった。


真実は誰にも知られない。

しかしその重みは、確かに胸に刻まれている。


(悠 視点)


冬の光が柔らかく窓辺を撫でる書斎。

机の上には、兄の残した手紙と日記の断片が静かに置かれている。

僕はそっと手を伸ばし、ページに触れる。

文字は震え、どこか迷いながらも、確かな意思を秘めていた。


――「僕がいなくても、弟は僕でいてくれるでしょう――」


その一文が胸に刺さる。愛と依存の境界が、ふわりと揺れる。

優しさの奥に隠された深い孤独が、僕の胸を締めつける。愛していたはずの兄が、なぜ自分を置いていったのか。


「蓮……」


紙を握る手が震え、涙が指先をすり抜け、頬を濡らす。

けれど心の奥には、兄を愛した記憶が、薄紅の光のように揺らめき、痛みに似た温もりを帯びて残り続ける。


──記憶の海が、再び僕をさらっていく。


「なあ、悠……僕、怖いんだ」


あの夜の震える声が耳の奥でそっと蘇り、胸をぎゅっと締めつける。

心が震えた。

蓮の顔は桜色に染まり、震える唇で僕を見つめていた。


病弱で、ちょっとしたことで心も体も揺れる彼は、外の広さや、誰もいない暗闇に一人で置かれること、何よりそれが怖かった。


「怖くないよ……一緒にいるから、大丈夫だ」


僕の指先がそっと兄の手に触れる。

その鼓動は淡く脆いのに、確かに生きていた。

柔らかな胸の奥の震えが、孤独と不安を物語る。


「でも……僕、いつも迷惑ばかりかけて……」


「迷惑なんて思わないよ。……蓮をそっと守っていたいだけ」


言葉を吐き出すより先に、蓮はそっと笑った。


世界でただ僕にだけ向けられた、儚い微笑み。


その一瞬が、胸を永久に縛った。


――なぜ、守れなかったのだろう。


日差しの差し込む廊下で立ち止まった蓮が、ふいに言った言葉を思い出す。


「悠……ずっと、君に甘えてばかりだな」


「そんなことない……僕だって、蓮に甘えてた」


互いに寄り添うそのやり取りが、今は痛みと後悔の楔に変わっている。


瞼を閉じ、額を紙に寄せる。

兄を失った痛みは、ただの死の悲しみではない。

まるで自分の一部を奪われたような感覚――


僕が蓮を演じていた日々は、影に沈む迷路を歩くようだった。

誰も知らない屋敷の奥で笑い、話し、時には怒り、時には深い哀しみに沈む。


それでも心の奥底では、ずっと蓮を愛していた。


あの日、兄は静かに、自らの手で眠りについた。

傍らに残された小さな瓶は、香水のように繊細で、けれど確かに命を遠ざけた。


蓮はもう、誰にも縛られず、自由になるために、その手を選んだ――僕は知っていた。


だから僕は蓮として振る舞った。

偽りの影を生きること。それは、愛する兄を守るためであり、自分の痛みを隠すためでもあった。


「僕は……兄を、失ったんだ……」


口にした瞬間、現実の重さが胸の奥にのしかかる。

でもそれ以上に締めつけるのは、兄を失った喪失感だけではない。

自分の影を切り離されたような、名残のない空白が胸に広がる。


問いは、自分自身に向けられる――


「僕を奪ったのは、誰だろう……」


答えはなく、蓮の残した文字がかすかな炎に揺れ、胸の奥に残る。

兄が選んだ死、その理由の断片だけが、静かに僕を見つめる。


夜の静寂の中、答えのない問いだけが漂う。

胸の奥に芽生えた小さな痛みとともに、僕はゆっくりと息を吐いた。


兄のいない屋敷は、冬の夜のように凍りついている。

廊下の床に落ちる影は長く、肖像画の瞳は遠くを見つめる。

風はなく、暖炉の火も弱く揺れるだけ。

すべてが、兄の不在を告げるために息を止めているかのようだ。


僕は廊下を歩きながら、無意識に兄の痕跡をたどる。

書きかけの手紙、まだ温もりの残る椅子、微かに残る香り――

どれもが胸に静かに重く響く痛みとして迫る。


「僕は……本当は、兄を愛していた」


小さな声が屋敷の冷たい空気に溶けていく。

抱きしめたくても、もうできない――その思いが、儚く切なく胸を満たす。


夜は深まり、窓の外の影が長く伸びる。

屋敷の静寂が、哀しさを際立たせ、そっと残る空虚さを照らす。


目を閉じれば、笑顔も声も鮮やかに蘇る。

でも現実は無慈悲で、孤独だけが静かに残る。


僕はそっと手を握る。空気を抱きしめるように。

誰もいない広間で、心は兄への想いと共に揺れ、儚く、切なく、わずかな温もりだけを残した。


――『僕』を奪ったのは、君か、僕の影か。答えは、もう誰も知らない。


兄の存在も、僕の痛みも、影のように揺れながら、夜に溶けていった。


冬の光が薄紅に染まる。

僕はまだここにいる――胸に残る痛みと、愛した記憶と共に。


机の引き出しの奥に、一枚の写真が眠っていた。

まだ幼い蓮と僕が、庭の片隅で笑い合っている。

無邪気な笑顔は時を超えて揺れ、もう戻らない日々を静かに刻んでいた。


その仕草は、胸の奥で静かに響く切なさを残す。

愛おしさと喪失が重なり合い、冬の空気の中で淡く滲んでいく。


――あの微笑みこそが、僕に残された最後の真実だった。


この物語の終幕まで、館の深い霧と秘密に満ちた静寂にお付き合いくださり、心より感謝申し上げます。


双子の愛と孤独、そして真実の影を追う桜子の探求の旅は、いかがでしたでしょうか。


もし、この物語の切ない余韻や、館に潜む愛の謎が、貴方の心にわずかでも響きましたなら、どうかその静かな感動を、評価という形で残していただけますと幸いです。


貴方様の温かい高評価やブックマークは、この館の物語が、さらなる光を浴びるための、何よりの支えとなります。


引き続き、この深遠な物語を心に留めていただければ、作者としてこれ以上の喜びはございません。


静謐なる夜の帳の下で、またお会いできますことを。

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