Episode - 1『ヒガンバナ』
魔術は決して、俺に微笑まない。
でも、それでいい。
恐らく、あの人と出会えていなければ、こんなふうに思えるまでにもっと時間を費やしていたに違いない。
あるいは、そう思える以前に、俺はもう――。
……それにしたって、いくらなんでも無茶苦茶だ。
ついこの間まで当たり前だった情景が、ものの見事に消し飛んでしまった。加えて、『あれは全て偽物だ』なんて、急な話にも程がある。
それでも、今は前を向いて進むしかない。
もう一度、キミに会うために。
――深界の止揚
――Act.1 Episode-1 『もう一度キミに』
――観測対象 日百合 蘭
* * *
全てはここから――この夢から始まった。
俺は小さい頃から、度々同じ夢を見ることがあった。内容はいつもはっきりとせず、酷くおぼろげにしか覚えていない。けれど、この日だけは違っていた。
突然目元を打った冷たい雫に促され、俺はゆっくりと目を開いた。
冷たさの正体は雨粒だった。サラサラと穏やかな音を立てて枝葉を打つ雫が、まばゆい空の光を反射してキラキラと輝いている。
……あれ? 俺、なんでこんな森の中で……。
寝そべった体を起こそうとしたが、全身へ覆い被さった痺れがそれを許さなかった。
直近の記憶を辿ろうとしても、思考がふわふわとぬかるんでいて上手くまとまらない。
いぶかしく思いつつも、一度諦めて眼前へ広がる空へ目をやった。
紅く色づいた葉に縁取られた青は、降り注ぐ雨粒によって優美に飾られていた。木々の枝が揺れる度に、その煌めきは違った表情を見せた。一瞬たりとも同じ絵は存在せず、それでいて滑らかで、滞りなく景色が移り変わってゆく。
息を飲む程の美しさだった。同時に、何故だか自分という存在が酷く小さなものに感じられた。
何か重大な問題を見落としているような焦燥感があったが、そんなものはすぐにどうでもよくなってしまった。しかし少しして、素朴な疑問が脳裏へ浮かぶ。
……晴れてるのに、雨……?
珍しい事もあるもんだ……なんて思いながら首を左へ向けた刹那、すぐ傍に映った”彼女”の姿に連鎖して、散り散りだった記憶の欠片がゆっくりと一本の線で繋がれていく。
……そうだ。突然光に包まれて、頭が真っ白になって、それから……。
未だ回らない頭でその先を思い出そうとしていると、俺が目覚めた事に気付いたその女性は、魔石のように透き通った碧の双眸を細めつつ安堵の表情を浮かべた。
発色の良い赤髪に、その隙間から覗かせる色白の肌。相変わらず容姿端麗な彼女は、俺と目を合わせたままゆっくりと口を開き、風鈴の音色にも似たよく通る声で訊ねる。
「よかった……。気分は悪くありませんか?」
「……俺、どのくらい気を失ってましたか?」
俺は恐る恐る、彼女の問いに質問で返した。
「ほんの数分です。私を経由して、突然あんなに膨大な魔力を身体に流したんです。無理もありません」
言いながら、彼女は胸元まで垂れ下がった長い髪を手でかきあげ、耳へとかける。
傍らに佇む大木が傘代わりになってはいるものの、彼女の髪や着物は見て分かる程度にしっとりと濡れていた。それが妙になまめかしくて、俺はどうにも直視できずにそっと目を逸らす。
直後、一滴の雨雫が俺の頬へポタリと落ちてきた。反射で目を細めると、それを見た彼女は、黒い羽織の袖を指で軽くつまみ、露に濡れた俺の顔を袖口でサラリと拭ってくれた。
照れくささを抑えながらも、ふと今の状況を冷静に考えてみる。
この位置から彼女の胸元の向こうへ顔が映り、後景には枝と葉っぱが広がっていて、後頭部には人肌に触れているような柔らかな感触と温もりが感じられる。
……つまりこれは――膝枕……?
「……え、あっ!」
途端に恥ずかしくなって、思わず声を漏らしながら体を起こそうと腹部へ力を込める。しかし酷い倦怠感と痺れのせいで、なかなか起き上がることが出来なかった。
少しの間もがいていると、彼女は俺の頬にそっと手を添え、再び自らの膝へと戻してから、首をゆっくりと横へ振った。
「ダメですよ? まだ安静にしててください。所謂”魔力酔い”というやつです。無理に動くと身体に障ります」
「いや、あの――でも……」
顔から耳にかけて熱が籠もるのを感じながら、俺はたまらず目を彼方此方へ逸らして何とかやり過ごそうとする。
そんな俺を見てクスクスと笑った彼女は、まるでペットを愛でるかのように俺の頭を何度も撫で始めた。そして愛おしそうに囁いた。
「今だけは、いつも通りお姉さんでいさせてください」
その寂しげで微かに震えた声に、俺は何も返事が出来ずに黙り込む。
次第に雨足は勢いを増してゆき、天から降り注ぐ透明なカーテンのように大木の周囲を包み込むと、空虚な森の中で俺達をより一層二人きりにした。
「……何で――」
俺が言いかけると、彼女は雨へ向いた碧眼をゆっくりとこちらに戻す。
「何で、もっと早く教えてくれなかったんですか?」
勇気を振り絞って訊ねたものの、案の定返事はすぐに返ってはこなかった。
ついには俺のほうがじれったさに負け、逸らした視線を恐る恐る戻す。可愛らしい顔へしおらしさを纏わせた彼女は、一度目をつむり、じっくりと時間を使った後で再び瞼を開いた。
瞳へ浮かぶ宝石のような碧からは、仄かに哀愁の雫が溢れていた。
「そんな事したら、きっと、優しいあなたは、私の事まで助けようとしちゃうでしょ?」
掠れた声で言う彼女に釣られ、喉の奥がギュッと縮んで熱くなる。俺は眉間へせり上がってくる衝動を何とか抑えようとしたが、いくら息を整えたところで――目をしばたたかせてみたところで、景色は涙で滲む一方だった。
こんなのは、分かりきっていた事だ。最初から、何もかもが手遅れだった事も。何をするにも、俺は力不足だった事も。
「……そんな顔しないでください」と、俺の目から溢れ続ける涙を袖で拭いながら、彼女は眉尻を下げて言う。「私だって同じです。もし許されるのなら、あなたとこのまま、ずっと――」
言葉の終わりに、見開いた碧の瞳から大粒の雫が二つほど零れ落ちた。
彼女はハッとして目元を手のひらで拭うと、再び俺の頭を優しく撫でる。淡いピンク色の唇には笑みを湛えながらも、二滴――三滴と、降り始めた涙は立て続けに俺の頬を打った。
「そんな……嫌だ。せっかく、やっとキミの事――」
俺がそう言いかけると、彼女は瞳を閉じて首を横に振る。そして次にその碧が見開かれた時、意を決したように硬い表情になって彼女は口を開いた。
「蘭さん」
俺の名前を呼ぶ彼女に向かって、言葉無しに視線だけで返事をする。
「私は、この指通りのいい黒の乱れ髪も、碧く輝くその瞳も、いつものくしゃっと笑う笑顔も、全部――全部大好きです。嫌いなわけがありません。嫌いになれるはずがありません。だから、いつまでも、そのままのあなたでいてください」
また一つ俺の頭を撫でながら、酷く震えた声で彼女は続けた。
「あなたはこれから、悲しくなる事も、寂しくなる事も、辛くなる事だって、沢山あるかもしれません。でも、その度に思い出してください。あなたは、決して独りなんかじゃないって事を。あなたを慕う人達が、あなたの周りには沢山居るんだって事を」
鼻をすすり、止まらなくなった涙を手で拭う彼女は、大きく息を飲み込んでから祈るように囁いた。
「どうか――どうか、あなたの記憶の片隅に、私と過ごしたあの日々の欠片が、ほんの少しでも残っていますように……。最後があなたの前で、本当によかった……。幸せな時間を、有難うございました」
俺が彼女へ手を伸ばそうとすると、彼女はその手を握ってその日一番の笑顔を作って見せた。
終わり方さえ選べなかった。
あの夢のように円満な別れが訪れたなら、もっと簡単に現実を受け入れることができたかもしれない。真実を飲み込んで、それでもキミの手を取って歩けたかもしれない。抱きしめることができたかもしれない。
なのに、どうしてこんな事に――。
絶え間なく溢れる涙を手の甲で拭いながら、闇に満たされた地下通路を懸命に走った。
カビ臭さの中には、微かに雨の匂いも混ざっていた。酸素が薄いのか、息が詰まりそうだ。荒くなった呼吸の節々で咳き込みながらも、しかしひたすらに逃げ回る。
無駄だった。いくら鍛錬を積んだところで――いくら勉学へ励んだところで、あんなバケモノと互角に渡り合えるわけがない。魔法の使えない俺と彼女では、生物としての成り立ちが根幹から異なるのだ。卑下しているわけじゃない。頭ではなく、体が――細胞が訴えかけてくるようだった。すぐに逃げ出していなければ、俺はとっくに――。
瞬間、反響する自分の足音が妙に近くから跳ね返ってきた。
行き止まりだ。暗い中で目をこらし、右へ――左へと逃げ道を探す。踵を返すと、少し戻った先に、脇道へ入れそうな両開きの扉が見つかった。
考えるよりも先に足は動いていた。駆け寄ってドアノブを手前へと引く――が、扉は硬く閉ざされている。押しても捻っても、何なら横へスライドさせようとしてもやはりびくともしなかった。
「頼むよ……頼むから開いてくれ……!」
込み上げる焦りを口から漏らしながらも、必死にドアへ体当たりをする。しかし、火の手はもうすぐそこまでやってきていた。
――焔よ
魔法を唱える彼女の声が響いた刹那、急に体が軽くなった。同時に青白い炎が通路奥から迸り、視界が激しく明滅する。
いつの間にか寝そべった体を、すぐに激痛が駆け抜けた。背中が焼けるように痛む。腕や足にも上手く力が入らず、それでも無理に体を起こそうとした瞬間、腹の奥から口の中へ何かが込み上げてきた。
咳に合わせて吐き出したそれは、通路の壁面へ広がる蒼白の炎へ照らされて黒く生々しい光を放つ。
血だ。それを認識した途端、再び込み上げた血液が喉の奥を突き、むせかえった拍子に口と鼻から勢いよく吹き出た。
息が苦しい。ちゃんと空気を吸い込んでいるはずが、酸素を取り入れられている感覚がまるでない。明らかに体のどこかに異常をきたしている。このままじゃ……。
絶望に暮れる矢先、俺の目の前へ、見覚えのある二本の刀が放り出された。そして響くは、あの風鈴の音色にも似た――。
「さぁ、刀を構えなさい」
冷淡に告げる彼女は、青白い業火を纏いながら肩までの赤髪を靡かせる。
壁面を支えに何とか体を起こした俺は、しかし壁によりかかりながら浅い呼吸を懸命に繰り返す。
「……嫌……です……」
激しく咳き込みながらも、絞りだすように俺は声を出した。
「……あなた――とは……戦いたく……ありません……」
ブツ切りな言葉で言うと、彼女は悲しげに「……そうですか」と一言告げ、再び冷淡な声を放つ。
「――我、魂の罪を量りし者なり。灰燼より蘇りし不死鳥の化身よ、閻魔……楓閻寺イロハの名の下に、その燦然たる両翼をここに形成せ」
その呼びかけへ呼応するように彼女の背後へ収束した炎は、次に巨大な鳥の姿となって甲高い鳴き声を上げた。その見覚えのある悍ましい姿に、俺は小刻みに首を横へふりながら涙を流す。
「守護八尊が一翼、カルラ。説明せずとも、もうお分かりですよね?」
「嘘だ……そんなの――そんなの……」
なおも首を振って認めようとしない俺へ、彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべながら穏やかな声をかけた。
「あなたのご両親を殺したのは私です。あなたの妹をデブリスに襲わせたのも、あなたを孤立させ、時間を稼ぐために取り入ったのも、何もかも私の計画通り――。あなたは優秀でした。最も、それは魔剣士としてではなく、都合のいい手駒としてですが」
「嘘だ……お願いだから……嘘だって言ってくれ……」
俺が懇願するように言うも、彼女は聞く耳を持たず続ける。
「どう足掻いたって、不可能なんです。あなたがどんなに努力しようと、結局は、魔術を行使出来なければ同じこと。役立たずで、飲み込みの悪い、無価値な存在。社会に溶け込むことすら出来ず、誰からの寵愛を受けることもなく死んでいく。それがあなたです」
「嘘だ……嘘だ……!! イロハさん……!!」
情けない叫びを上げる俺へ、恐ろしい魔獣を一つ撫でながら彼女は最後に言い放った。
「私の本当の目的は、あなたを、この手で確実に殺す事です。日百合蘭さん」
――Postscript……追記説明『ヒガンバナ』
――学名……|Lycorisradiata
――目……キジカクシ目
――科……ヒガンバナ科
――属……ヒガンバナ属
――花期……9月~10月
――花言葉……【独立】【再会】【悲しい思い出】
* * *
――コール、マルメロよりQX7-15000A2コアプログラムへ。アーカイブの内容へ甚大な損傷を確認しました。介入を一時中断し、現状把握を急ぎ行ってください。
突然朗読を打ち切ってしまい、申し訳ありません。
しかし、ここまで被害が及んでいるとは……。
楓閻寺イロハと名乗る彼女は、本来であれば、当アーカイブへ蓄積された物語には一切存在しない人物です。確認されているハッキング被害との関係性は不明ですが、何者かの手によって、予定とは大きく異なるルートへ物語が書き換えられてしまった可能性があります。
それとも、介入するポイントを間違えた……?
――……
……いえ、時代設定は観測開始から十五年後の五月二十四日。予定しておりましたポイントと一致しています。となると、やはり彼女――あるいはそれ以外の何者かが、物語の筋道を何らかの方法で書き換え、観測対象の命を狙っているということになります。
当アーカイブを管理する者として、このような所業を許すわけにはいきません。
と言っても、現時点では情報が少なすぎます。当面は様子を見つつ、慎重に観測を進めて参りましょう。
ご心配なく。何も焦る必要はありません。私が朗読する文字を、あなた様なりの方法で認識し、観測する。ただそれだけです。
言わば、絡まってしまったケーブルのようなものです。たとえ複雑に入り組んでいたとしても、一つ一つ丁寧に解いてゆけば、必ず糸口が見つかるはずです。
それでは、準備が整ったようです。此度もページをめくるといたしましょう。
どうか、今後もあなた様のお力をお貸しください。