8 チャリン
──昇る朝日の明るみに。
こんどは目を覚ます。
朝だ。ずいぶんとお久しぶりの朝日。
「⋯⋯⋯⋯」
目をぱちくり、ぱちくりとしばたいた。
──覚えていた。
しばし、天井と見つめ合う。
──覚えている。
夢と、現と、その狭間。『夢喰い』のドミー。
鼓膜の奥、頭の中から聞こえる彼の声。
〝こんな世界から抜け出して、狭間の世界で一緒に暮らそう!〟
〝親友として相棒として、みんなの夢を叶えよう!〟
彼がいった。ぼくの夢──。
あぁそれと、忘れちゃいけない、待ち合わせは『雑木林』。
昨夜の病室のサマを空中にありありと描き出すように、ふんふんと記憶を反芻してみる。
細かいところまではわからないけれど、たぶん。一言一句とまではいかないものの、きっと。昨夜の病室での、彼との会話を覚えている。
夢にまで聞いた声を、覚えている。
ならばよしだ!
チャリンは毛布といっしょに起きあがる。
ならば成功だ、成功だ、成功だ!
時計を見れば、いつもどおりに七時まえ。
そうとなれば、やることはひとつだ。
ベッドのしたに、並べられたスリッパをはく。
──出発の準備をしよう。
まずはタンスの奥底から、ぺちゃんこにつぶれた黄色のリュックサックをひっぱり出す。
いかんせんずいぶん昔のものなので、少し色あせ、すこしだけ小さくなっていた。
もちろんじっさいはチャリンが、少しだけだろうとなんだろうと、大きくなったという確固たる証拠だ。まだまだ伸びるぞ。
それからおなじく、こんどはタンスの中段で眠りこけていた服にズボンにくつしたに、あるだけ全部リュックに詰め込む。⋯⋯ネクタイはいいや。
ちなみにすべて同じ服だ。
最後にベッドわきの小さな引き出しから、お気に入りの懐中時計を取り出した。
ふと思い、部屋のそれと見比べてみれば、こっちのほうが若干遅れ気味のよう。そういえば、とずっとしまいっぱなしになっていたことを思い出す。
久々のご対面だ。
けれど、かといって電池をとり替えるのも面倒なので、数分遅れでときを刻むお気に入りは、そのままリュックへ。たかが数分、構わないだろう。と、
コンコンコン。
あっという間にいつもの時間がやってくる。
強情を張るリュックのフタをやっとこさで閉めおえてから、
「入っていいよ」
そうして入ってきたのは、いつもの、アンナという名の使用人だ。
「おはよう」
「おはようございます、ぼっちゃま。お召しものはこちらに」テーブルに置かれる。
「うん」
「あぁ、そうだ。きょうはデザートに、モモの実をむいたのをご用意いたしました」
──モモ。
ぱん、と、手を合わせたアンナが、それからまたゆっくりと、目を細める。
「それでは、お待ちしております、ぼっちゃま」
「うん」
そうして部屋を出ていく際、チラリとぱんぱんになったリュックに目が向けられるも、アンナはなにもいわずに去っていく。
猫足テーブルのうえ、いつまでもそこにあるラジオのとなりに置かれた着替え。
いそいそと、ちょっと手抜きの身支度をすませ、まるまる太ったリュックをしょって、チャリンは病室の入り口であり、出口でもある扉のまえに立つ。
そこに立って、もう帰る気はない部屋を振り返る。
窓から差し込む朝日に、「いってらっしゃい」と手を振られ。
そのせいなのかどうしてかいま、この病室がおかしいくらいにきれいに見える。
もうこのさき、なつかしむことなんてないだろうに。
さいごに、数年前からそこにある、そこそこ長いときをいっしょに過ごしたラクガキたちを見た。
「⋯⋯⋯⋯」
記憶の残り香となって、部屋のはしばしに漂う日々ともお別れだ。
これだから人生、なにがあるかわからない。
たしかな思い出を心に連れて、扉を閉じる。
食堂についたチャリン、リュックを背負ったまま椅子に腰かける。ちょっとジャマだけどおろさない。
この椅子は大のおとな用なため、足が床に届く気配すらないことには目をつむろう。
緑のチェックの柄のランチョンマットに、朝ごはんが並べられていく。
野菜のスープに、バターとジャムをそえられたパン。コップ一杯ぶんのミルク。
「いただきます」
ぎょうぎのいい習慣で手をあわせ、それらを口へ運ぶ。──と。
あっ、と、思わず目を見開いた。
噛んで飲み込んだそのどれもに、なくした味をひしと感じる。
味がした。
四口め、五口めと食べすすめていくうちに、思い出す。
いつか忘れてしまっていたけれど、ここの使用人たちはみんな、料理がうまいと評判だった。
そのイミを舌でたんと味わいながら、すっかりお皿もコップも空にする。
「デザートでございます、ぼっちゃま」
じいやが、ひとくちサイズに切ったモモを、小さな白い花で盛り付けたプレートを運んできてくれる。
「こちらは今朝もぎとったばかりの、新鮮なものでございます。きっとおいしくお召しあがりになられましょう」
「うん⋯⋯」
小耳半分に聞きながら、金のフォークでそれをさして、ひとくちに、はむっ。
幼いころ好きだった、あの味があふれだす。
ついついと、よくばってふたつみっつと口に入れると、中でいっぱいになった果汁が、ついに口からこぼれてしまった。
なにもいえずにじいやばあやに顔を向けると、
「おやまぁ、これはこれは」
アンナが手ぬぐいでふき取ってくれる。
それからやさしい笑みをひとつ浮かべて、
「お慌てになられずとも、モモが逃げ出すことはございませんから」
ごゆっくりお召し上がりください、と。
「⋯⋯⋯⋯。うん」
口のなかのものをすべて飲み込んでから、返事をした。