木村(前半)
月曜朝。
いつもより重い空気が漂う社長室に、取締役や部長たちが顔を揃えていた。
「社員の顔と名前が一致せんのよ。これ、ダメじゃろ?」
唐突に開口したのは、応接ソファの中心でふんぞり返る男。
藤原社長。
勢いとカリスマ???で会社をここまで引っ張ってきた男。
部下にとっては“予測不能な爆弾”。
誰もツッコめない空気の中、専務が口を開く
「中途採用の増加で、仕方ないかと…」
藤原社長の鶴の一声。
「そう。だからやるんだよ。スポーツ大会。」
「何カ月後かになるだろうが、体育館とグラウンド、両方押さえとけ。使い倒すぞ」
ピクリと全員の眉が動く。が、誰も止められない。
「社員交流で“絵になる会社”にすんだよ。」
「……絵に?」
「採用だ。求人。ブランディング。
顔と顔を並べて、笑って汗かいてるとこ映せ。
ちゃんと編集して、うちのHPに載せんだよ。応募者増えるぞ。」
沈黙。
「やるからにはガチでいく。
チームは混成。若手・ベテラン・地味・派手――うまくばらけさせろ」
「……競技は?」
「リレー、ドッジボール、借り物競争、障害物……好きにやれ。血が騒ぐようなやつ、な」
──昼過ぎ。
社内ポータルに更新されたお知らせを見て、木村は無意識にため息を漏らした。
【お知らせ】
社内スポーツ大会 開催決定
会場:市営体育館およびグラウンド(終日貸切)
目的:社内交流・団結力向上
チーム分け:ランダム(年齢・部署を考慮)
※全社員参加が原則となります。
「……はぁ?」
思わず独り言が漏れた。
PCのモニターを睨むように見つめたあと、木村はぐったりと椅子にもたれた。
(マジかよ……よりによって、スポーツ……)
経理部の木村は、四十代半ば。
身長はやや低め。ぽっこりと突き出たお腹と、椅子に広がる太もも。
Yシャツは、腹を包むというより張りついていた。誰が見ても、完全なる肥満体型だ。
学生時代の部活も帰宅部。
体育の成績は「2」が最高だった。
そんな木村にとって、“スポーツ大会”は地獄でしかない。
「……マジで勘弁してくれよ……」
この会社、時折全員参加型のイベントがくる。
木村は再び自分の腹を見下ろす。
きつくなったベルト穴。最近ちょっと動いただけで息が上がる。
汗っかきだし。
(どうせ俺は見学枠だろ、って……思いたいけど。
「全員参加が原則」って書いてるんだよなあ……)
憂鬱だった。
深くため息をついてから、そっとエアコンの温度を下げた。
──翌日
昼休みの自販機前。
誰もいないのを見計らって、木村は缶コーヒーを選んでいた。
缶を取り出そうとしたその瞬間、不意に横から声がした。
「こんにちは、木村さん」
振り返ると、そこに立っていたのは――藤原結衣。
清潔感に溢れた装いに、すっとした佇まい。
涼しげな表情で立つその姿に、木村は一瞬、息を飲んだ。
(やっぱ……綺麗だよな、この人)
社内で知らない者はいない存在。
総務でも営業でも、誰かしらが彼女の話題をしている。
“笑ってくれるだけで嬉しい存在”が、今自分に話しかけている。
「え、あ、こんにちは……」
喉が詰まりかけて、缶コーヒーを落としそうになる。
なんとか笑って返すが、視線を合わせるのが怖い。
「最近、経理のチェック早くて助かってます。営業がバタついてるのでありがたいです」
「い、いえ……まあ、できる範囲で……」
その瞬間だった。
結衣の微笑みと一緒に届いた「ありがとう」の言葉が、木村の胸に、真正面から突き刺さった。
(うわ……まじか……何その声……)
(え、ちょっと待って、それ褒められてる? 俺、今……褒められてるよな?)
(ありがとうって……俺に……言ってくれた……結衣さんが……!)
自分でも引くほど、心臓がバクバクしていた。
年甲斐もなく赤面しそうになるのを、必死で缶コーヒーに視線を落として誤魔化す。
(こんなん……一瞬で好きになるって……)
結衣はふと言った。
「そういえば、もうすぐスポーツ大会ですね」
唐突な話題に、木村の表情がぴくりと動いたのを彼女は見逃さなかった。
「私、運動あんまり得意じゃないんです。特に球技とか」
「……えっ、そうなんですか……?」
「はい、……運動できる人って、かっこいいですよね」
それは、あくまでただの会話。
何気ない雑談。
別に期待されているわけでも、誘われているわけでもない。
でも――
「運動できる人って、かっこいいですよね」
その一言が、木村の胸の奥に、静かに火を点けた。
(……俺が活躍して……
まさかのアンカーで逆転して……
みんなが沸いて――)
(結衣さんが、驚いた顔で拍手してる。
『木村さん、すごいですね』って言ってくれて――
……あああ、ダメだ、落ち着け、俺)
でも妄想は止まらなかった。
(……俺が本当に変わったら、あの人カッコいいね”って、思ってもらえるのか?)
目立ちたいわけじゃない。
モテたいわけでもない。
――ただ、彼女に、自分のことを“男”として見てほしい。
結衣は「ではまた」と笑顔で去っていった。
その背中を見送る木村の胸は、火でもついたかのように熱かった。
缶コーヒーのプルタブを一気に引いた。
(――本当に変われるのか?)
(いや、変わってやる。何がなんでも)
静かに握った缶が、じんわりと汗をかいていた。
──その晩。
木村はベッドに沈み込み、天井をぼんやり見つめていた。
眠る気配はまったくない。
昼間の会話と“あの笑顔”がフラッシュバックする。
『運動できる人って、かっこいいですよね』
(……なんだよ、あれ……反則だろ……)
結衣の声が、笑顔が、頭の中で無限ループしていた。
そのたびに胸がぎゅっと締めつけられ、何かが疼く。
(……俺が、カッコいい……?)
現実を見ろと、自嘲気味に腹をつまんでみる。
脂肪が指の間に溢れる。
(……変わりてぇ)
自然に、スマホを持ち上げていた。
検索欄に打ち込む。
『40代 男 運動』
親指が滑るたびに、現れるのは現実と向き合った人たちの記録。
「毎日スクワット30回から」「食事を見直しただけで-5kg」「誰でもできる」――
(……ホンマかよ)
半信半疑のまま、気づけば片っ端からリンクを開いていた。
その中でも「初心者はまず“やれることだけ”でいい」という文言に目が止まる。
『腕立て・腹筋・スクワットを、まずは5回から』
『重要なのは“継続”』
『必要なのは、才能じゃなくて習慣だ』
(……5回なら、俺にも……)
気づけば布団をはいで、寝間着のままリビングに向かった。
YouTubeを再生し、インストラクターの明るい声が部屋に響く。
「まずは腕立て伏せを5回やってみましょう!」
「っ……ぐぅ……あ゛あっ……」
……1回目で潰れた。
腕が震え、肩が火を噴く。
腹筋は2回で腰が吊りそうになり、スクワットだけはなんとか10回。
冷や汗。息切れ。膝ガクガク。
でも――
(……なんだか気持ちいいな…)
風呂上がりのような汗。
使ってなかった筋肉たちが、悲鳴のように目を覚ましている。
(始めたってだけで、今日は合格ってことでいいだろ)
スマホ画面に関連動画がずらりと並んでいた。
『半年で-15kg』
『体はこう変わる』
『嫁が見直す体へ』
(俺も……変われるのか?)
『運動できる人って、かっこいいですよね』
結衣の声が再びよみがえる。
(次に会うときには、ちょっとくらい……ちょっとくらい、変わってるから)
握ったスマホの画面には、汗のあとがうっすらついていた。
「……やってやるよ」
その夜、木村の中で何かが始まった。
──翌朝。
スマホのアラームが鳴り響く。
「……ぅぁっ⁉」
目が覚めた瞬間、木村の口から呻き声が漏れた。
体が……動かない。
というか、痛すぎて動けない。
「え、なにこれ……死ぬん……?」
腕。肩。背中。太もも。
すべての筋肉が「俺は存在していた」と言わんばかりに悲鳴を上げている。
特に太ももはヤバかった。
ベッドから降りようとした瞬間、膝が曲がらずその場で一瞬フリーズ。
「……あ゛っ……くそ、なんで歩くだけでダメージくるんだ……」
一歩一歩がリハビリ。
ゆっくりと洗面所に向かいながら、昨晩のスクワットが頭をよぎる。
(10回で……こんなに……?)
──けれど、ちょっとだけ。
ほんの少しだけ。
「これが“効いてる”ってことか」と思えている自分がいた。
──昼休み。
いつものコンビニ。
決まった時間、決まった場所。
棚の前でしばし悩んだ末、手にしたのは――
「雑穀米と野菜のバランス弁当(カロリー控えめ)」
(からあげ弁当……ハンバーグ……よし、今日は見なかったことにする)
続けてコーラではなく、無糖のお茶をカゴに入れる。
レジへ向かう途中、自然と手が伸びたのはスナック菓子のコーナーだった。
カロリー高めのチョコパイ。無意識に手に取っていた。
(……1個くらいなら、いいんじゃね?)
(昨日頑張ったし、今日も筋トレするし……)
そう自分に言い訳しながら、じっとパッケージを見つめる。
けれどその瞬間――
『運動できる人って、かっこいいですよね』
脳内で、あの笑顔が再生された。
(……くっそ……ずるいな、あれ)
ため息まじりに、チョコパイを元の棚へそっと戻す。
そして、レジ横のドーナツも……見送った。
(……誰も見てねぇのに、なんでこんな頑張ってんだ、俺)
でも、不思議と気持ちは悪くなかった。
むしろ、ひとつ勝ったような満足感があった。
「頑張ってる自分」を、ほんの少しだけ誇れるような――そんな昼休みだった。
一週間後の朝。
ワイシャツのボタンを留めようとして、木村はふと手を止めた。
(……あれ?)
いつも、下腹のボタンは“引っ張って止めてる”状態だった。
だが今朝は――布地がちょっとだけ余裕を持ってボタンに届いた。
(……まさか。いや、気のせいか? でも……)
さらに、階段の昇り降りで息切れする頻度が減った気がする。
腕立てはまだ3回が限界。
腹筋は足を押さえなきゃできない。
スクワットも膝が悲鳴を上げる。
それでも――
(昨日より、今日のほうがちょっとマシだ)
毎晩、マットを敷いて自分と戦う日々。
まだ誰にも気づかれない。
誰も期待してない。
でもそれでいい。
(見返したいわけじゃないんだ)
(見てほしい人が、一人いればそれで――)
木村はシャツのすそを整え、ベルトを一つ締め直した。
「……よし」
そう呟いて、静かにドアを開けた。
──数カ月が経ち。
木村の夜は、もはや「義務」ではなかった。
やるのが当たり前になっていた。
最初は動画を見ながら、腕立て5回で潰れていた。
だが今では――
腕立て伏せ
スクワット
プランク
仕上げにHIIT
これらも今や物足りない。
木村はさらに、自分なりの補強メニューを加えていった。
(……よし、今日もやるか)
トレーニング内容には“使える筋肉”というテーマが根付いていた。
競技が何であっても、恥をかかずに済むように――
木村は、己の実戦力を信じられる体を目指していた。
──そういえば、服も何度も買い替えたっけ。
最初に変化を実感したのは、あのシャツだった。
朝、いつものようにYシャツに袖を通した瞬間、妙な違和感があった。
「……ん?」
下腹を押さえつけていたボタンは余裕で留まり、むしろ“浮いて”見えるほど。
気になって鏡を覗き込むと、シャツの中で自分の体だけがスッと細くなっていた。
たるんだ袖、ぶかぶかの背中、生地が余っている。
ベルトは、穴が足りずに一番奥まで回しても余った。
革の先が長くなりすぎて、いつもだらしなく横に突き出していたのを覚えている。
結局そのシャツは、ほどなくして処分した。
スラックスも、ジャケットも、全部サイズが合わなくなった。
買い替えたときは、サイズ選びに本当に戸惑った。
着替えのたびに、クローゼットの奥から「過去の自分」が見つめてくるような気がして、
なんとも言えない気分だった。
でも――
あの頃に戻りたいとは、一度も思わなかった。
そして決戦の時が来た。
「準備は万端だ」
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