新入社員
──俺の名前は佐川瞬、24歳。
学歴も経歴もごく普通。
俺の人生が変わったのは、あの会社説明会だった。
最前列で見た、壇上の女性。
白いブラウス、落ち着いた声、誠実な言葉。
そのすべてが眩しすぎて、息を飲んだ。
「“ちゃんと見てくれてる人がいる”――それだけで頑張れるんです」
――その姿が胸に突き刺さった。
真摯さと美しさでなぜか涙が出そうになった。
どこか儚げで、それでいて芯がありそうで。
笑うと少し頬がふくらんで、目元が柔らかくなって。
言葉よりも先に、見惚れていた。
(……もう一度、会いたい)
正直、その気持ちのほうが先だったかもしれない。
いや、もしかすると――そのために入社を決めたのかもしれない。
あの会社説明会のあと、俺は迷わずエントリーした。
数日後、採用通知が届いたとき、変な話だけど、最初に思ったのはこうだ。
(……また会えるかもしれない)
そんな理由で入社を決めた自分をちょっとだけ恥じつつも、内心ではけっこう本気だった。
***
そして今日、入社初日。
本社で初動研修が始まった。
同期は数十名。年齢も境遇もばらばらだろうが、全員、今日が第一歩だ。
午前の研修が終わり、昼食としてお弁当が配られた。
スタッフ「好きな席でどうぞ」
俺は空いていた四人席に腰を下ろす。
そこへ、ほぼ同時にやってきた男たちが自然とテーブルを囲む形になった。
「空いてます?」
「どうぞ」
「高梨です。よろしくです」
「岡崎です」
「大橋っす」
「佐川です。よろしくお願いします」
気づけば男4人、同じテーブルを囲んで弁当をつつく形になっていた。
高梨「……あのスピーチしてた人、すごかったよな」
岡崎「藤原さん、って言ってたよね?」
大橋「うん。見た目も綺麗だったけど、それ以上に……なんか、すごく響いた」
高梨「“ちゃんと見てくれてる人がいる”って……あの言葉、マジで刺さったわ。泣きそうになった」
岡崎「俺も。なんか、嘘っぽくなくてさ。あの人自身の言葉って感じがした」
大橋「……ここに入りたいって思えてさ」
みんながそれぞれの言葉で、感じたものを口にする。
話題はそのまま“前職のこと”や“住んでる場所”へと移っていった。
高梨「通勤1時間半です、俺……家、遠いんですよ」
岡崎「お疲れ様すぎるだろそれ」
大橋「え、俺チャリ通15分」
高梨「リアル格差社会きたな……」
冗談を飛ばしながらも、だんだんと空気が柔らかくなっていく。
誰かが言った何気ないひと言に、誰かが必ず返す。
初対面だったはずなのに、なんだか昔から知っている気さえしてくる。
皆連絡先を交換し、また皆で昼飯でも食べようという話になる。
(……こういうの、いいな)
一人で応募して、一人で来た場所。
でも今、ここには同じ方向を向いてる“仲間”がいる。
それだけで、不安が少しだけ軽くなった気がした。
***
研修が終わった翌朝――
いよいよ配属初日だ。
案内された扉を開けた瞬間、少しだけ胸が高鳴る。
理由は……もちろん、ひとつだけ。
(……いるかもしれない。もしかしたら――)
そんな期待を押し殺しながら中に入った瞬間だった。
???「あっ、おはようございます」
背筋が伸びるような、柔らかくて、でもきちんとした声。
その声に引かれるように顔を向けたその先に――
(……いた)
佐川「今日から配属です……佐川瞬です。よろしくお願いします」
声が裏返りそうになるのを、なんとか押し殺す。
返ってきた笑顔は、ごく自然なものだった。
「藤原です。こちらこそ、よろしくお願いしますね」
(……まじで、いた)
本当に、いた。夢じゃなかった。
説明会で壇上に立っていたあの人が、今、目の前にいる。
距離にして数メートル。
視界の中で、ちゃんと動いて、こっちを見て、笑ってる。
どこか柔らかい空気をまとっていた。
動くたびに白のブラウスがふわりと揺れる。
やたらと目が離せなかった。
(……神様、マジでありがとう)
心の中で思わず手を合わせたくなった。
あのとき壇上で見た“特別な人”が、今、すぐそばにいる。
同じ部署で、同じ時間を過ごす。そんな奇跡みたいなことが、現実に起きてる。
奇跡とか運命とか、普段なら絶対に使わない言葉を――
今だけは信じても、バチは当たらない気がした。
席に向かう途中、ふと足が止まりそうになった。
(……ん?)
どの社員も、妙にテンションが高い。
まるで――
自ら喜んで戦場に向かう兵士たちみたいだった。
(……気のせい、だよな?)
この時の俺はまだ知らない。
数日後、自分も同じ顔していることを。
***
昼休み。食堂の端っこで、昨日のメンバーが手を振っていた。
高梨「おー、佐川!こっちこっち!」
岡崎「お疲れ〜!」
席に着いて弁当を広げた瞬間
高梨「なあ……なんか、周りすごくなかった?」
岡崎「わかる。みんなやたら気合い入ってたよな。資料渡しただけで、全力でお礼されたんだけど」
大橋「高歩合って、マジなんだな……」
高梨「うちもすごかった。朝からギラッギラだった」
他愛もない会話の中、俺は少し照れながら言った。
佐川「俺さ…藤原さんと、同じ部署だった」
(沈黙)
高梨「はあああああ!?!?!?!?」
岡崎「マジで!? え!? なにその引き!」
大橋「えっ、朝とか喋った!? 見た!? いたの!? 生きてた!?」
佐川「いたし、生きてたし、喋った。普通に“よろしくお願いします”って」
高梨「その“普通に”が一番うらやましいんだよ!」
くだらないことで盛り上がるけど、どこか嬉しくなる。
(……なんだかんだで、いいスタートかもしれない)
***
配属されてから数日。
俺は職場を眺めていた。
(……なんか、空気がちょっとおかしい)
席につくと、近くから会話が聞こえてきた。
「今日こそ“ありがとうございます”って言われたいんスよ」
「先週、俺、笑顔もらったんですよ。一日一回の奇跡っす」
一瞬、何のことかと思った。
だがすぐに、話題の中心にいるのが藤原さんだと分かった。
俺は少し違和感を覚えた。
だが――いつからだろう。
その違和感がなくなったのは。
きっかけは、多分小さな出来事だった。
資料作りの締切前、俺が少し焦っていた時。
藤原さんが後ろから声をかけてきた。
藤原「この資料、レイアウトすごく工夫されてますね。読みやすいです」
その瞬間だった。
藤原「こういう工夫ができるのって、なかなか真似できないです。佐川さん、すごいです!」
体が一瞬固まった。
(……“すごい”?)
俺の作った資料をまじまじと見て感心してる!
藤原「さすがですね」
微笑んで、そう言った彼女の顔が、やけに近く感じた。
白いブラウス。涼しげな表情。整った横顔。
まるで光が差したみたいだった。
(……美人すぎない? てか近い近い近い)
目のやり場に困って、視線をそらした。
でも耳まで熱くなっていた。
心臓がドクンと鳴った。
(……なんだこれ、めちゃくちゃ気持ちいい)
妙に、満たされた。
たったそれだけで。
(気づけば、些細なタスクにも気合いが入っている自分がいた)
***
次の日、また藤原さんが俺の席に立ち寄った。
藤原「昨日の報告書も、すごく分かりやすかったですよ。特にこの部分のまとめ方、参考にしたいくらいです」
(……まただ)
心臓が軽く跳ねた。
藤原「本当、佐川さんって丁寧なお仕事されますよね」
その笑顔が、また綺麗だった。
白いブラウスの袖がふわりと揺れる。
近くで見ると、目の色まで澄んでいて、肌も信じられないくらい綺麗で。
(……やばい。目、合ってるのに話聞けてない)
返事が遅れてしまい、慌てて「ありがとうございます」と口にした。
でもそれすら、ちゃんと届いたようで、彼女は嬉しそうに頷いた。
その瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
もっと、頑張らなきゃ。
もっと、認められたい。
もっと、褒められたい。
それが、目標みたいになっていった。
いつの間にか、自分でも驚くくらい集中して仕事をしていた。
朝の準備に余裕を持つようになり、資料の構成を何パターンも練るようになった。
褒められるために。
それだけのために。
そして、彼女に褒められた瞬間のあの“熱”を、また味わいたくて――
***
朝、始業前だというのに部署の一角は妙な熱気に包まれていた。
コーヒーを片手に、数人が立ったまま談笑している。
いや、“談笑”というより――戦果報告会だった。
「昨日、藤原さんに“完璧です!”って言われた!」
「えっ、それめっちゃ強いやつじゃん! “完璧”なんて、めったに出ないぞ!?」
「俺なんか、“見習いたいくらいです”って言われたぞ。これもう、ちょっとした表彰じゃね?」
「それ、実質トップ評価だろ……!」
全員が大マジだった。
気付けば俺もその輪に加わっていた。
「昨日、報告書出したときに“佐川さんの書く資料、安心できますね”って言われたんですよ」
その一言に、周囲がざわつく。
「マジ!? それもかなりレアじゃない?」
「それ、俺も一回しかもらったことない……!」
「“安心できます”は信頼枠だよな……ああ、うらやましい」
俺は、心の中でひそかにガッツポーズを決めていた。
(……この一言だけで、今日も一日戦える)
***
昼休みの食堂。
同期4人が久々に顔を合わせた。
高梨「お、佐川じゃん! めっちゃ久しぶり!」
岡崎「最近全然見かけなかったけど、大丈夫か?」
大橋「なんか痩せた……?」
声をかけた3人の目に映った佐川は、どこか以前と違って見えた。
笑顔は絶えないが、そのテンションは妙に高く、瞳はギラついていた。
佐川「いやー、ごめんごめん。最近けっこう忙しくてさ。でも、調子はいいよ」
そう言って佐川は弁当を開きながら、どこか誇らしげに笑っていた。
高梨「へぇ、いいね。なんか成果でもあったの?」
佐川「うん、昨日“分析すごく助かりました”って言ってもらえたんだ。それから、“ファイルの整理が綺麗で流石です”って」
岡崎「……へぇ、それって……誰に言われたの?」
佐川「藤原さんに決まってるじゃん」
大橋「……ああ、うん……?」
高梨「え、それ……褒められたってこと?」
佐川「そうだよ! ちゃんと認めてもらえてるって感じがしてさ。今週だけで“安心できます”って言われたの2回目だし」
佐川はまるで営業成績を語るかのような口ぶりで、“褒められた言葉”を並べ立てる。
佐川「今朝も“丁寧ですね”って言われた。あれ、相当レアだと思うよ」
そう言って笑った佐川の目は、どこか焦点が合っていないようにも見えた。
その熱量に、他の3人は静かに目を見交わした。
彼らにとって“成果”とは仕事の実績や結果のことだった。
仲間からの評価は嬉しいが、それを“戦果”として語る感覚は理解しがたい。
佐川だけが、何か別のルールで戦っているようだった。
まだ笑っている佐川を前に、誰もそれ以上、何も言えなかった。
***
一カ月後の食堂
同期4人が久々に顔を合わせた。
他愛もない雑談の中…
高梨「なあ、ぶっちゃけ聞いていい? みんな先月の歩合、いくらくらいだった?」
岡崎「俺、1万2千円。まあ、最初はこんなもんっしょ」
大橋「俺は1万5千。地味な作業しかしてないけど、意外とついてた」
高梨「俺、1万ちょい。ま、まずは様子見ってことで」
3人が「まあまあだよな」と頷き合う中、自然に視線が佐川に集まる。
高梨「で、お前は? 佐川」
佐川「あー……歩合、23万4千円だった」
――一瞬、食堂の空気が止まる。
岡崎「……え?」
大橋「え、“給料”じゃなくて、“歩合”で?」
佐川「うん、歩合だけでそれくらい」
高梨「お前それ、一か月目の歩合じゃなくね!? なにしたらそんな金額になるんだよ!?」
佐川「えっとね、“佐川さんの資料、本当に見やすいです”って言われたり、“まとめが的確で助かりました”って言ってもらえたし、“ファイル整理まで完璧で嬉しいです”って感謝されたんだよ。で、“安心できます”って2回も言ってもらえて……」
岡崎「それ、“言われたこと”じゃなくて“やったこと”教えてくれない?」
佐川「や、ちゃんとやったって! 資料のレイアウトとかも褒められて、“説明が丁寧で理解しやすい”って……」
高梨「……あー、なるほどな」
大橋「褒められるのがモチベーションだったわけか」
岡崎「っていうか、それで20万超えって……努力の方向性がヤバいけど、結果出てるのは事実か……」
佐川「そうそう。ちゃんと“成果”は出してるんだってば」
高梨「うん……わかった。お前、たぶん一番真剣に“推しの言葉”を仕事に変換してる人間だわ」
大橋「マジでな……逆に尊敬するレベルかもしれん」
佐川「藤原さんに“今日もお願いしますね”って言われると、なんかこう……“生きててよかった”って思うんだよね」
(沈黙)
高梨「……お、おう」
大橋「そのうち“褒められ帳”とか作り出しそうだな……」
佐川「え? もう作ってるけど?」
高梨・大橋「…………」