秘策の副作用
──ある日の昼休み。給湯室の奥。
「……最近さぁ、うちの部署、雰囲気変わったと思わない?」
「うん、なんか……男連中が浮き足立ってるっていうか」
「昨日もそうだよ?藤原さんがちょっと褒めただけで、隣の席の佐藤さん、急に立ち上がって“俺、やります!”とか叫んで別室にこもったんだから」
「うわ……それ聞いた。マジで引いたわ」
3人の女子社員が、紙コップに注いだ紅茶を手に小声で話していた。
さしすせそ作戦が大成功し、職場が活気に満ちてからしばらく――その裏で、確かに“別の空気”も育っていた。
「ていうか、あの子……やってること、営業みたいなもんよね。男の目を見てニコッて笑って、差し入れ配って……」
「仕事してないわけじゃないんだけどさ、なんか“あざとい”って感じ?」
「まぁ、顔があんなに可愛かったら、そりゃ男もチョロいわよね」
口調はあくまで穏やか。だが、その奥には確実に“火種”がくすぶっていた。
「……男に気に入られるのは上手いみたいね」
「なんかこう……“見られてるの分かっててやってる”感じしない?」
「分かる~! あれで“気づいてません”とか言われたら、マジで鼻で笑う」
「で、何? 最近じゃ営業部の連中もやたら近くない?」
「もうさ、ぶっちゃけ“男の気を引いて得してる”ようにしか見えないのよ」
そして、ふと口をつぐんだあと、誰かがこう呟いた。
「……仕事、してるようでしてないよね。かわいいだけで許されてる気がする」
***
数日後、その空気は形になって現れた。
フロアの一角で結衣が資料を手に歩いていたとき。
「お疲れさまです」
「……」
「…………」
一瞬だけ、廊下にいた女子社員たちの手が止まり、しかし返事も目線もないまま、そそくさと離れていった。
(あれ……?)
違和感。
今までなら微笑まれていた場面。
けれど、今の空気は明らかに“拒絶”だった。
その日から、昼休みに話しかけても輪に入れてもらえず、廊下で目が合っても、何故か気まずそうに逸らされるようになった。
(なんか……女子からの視線、冷たくないか……?)
手元のコーヒーを配りながらも、笑顔の奥で心がざわついていた。
「可愛い」だけでは得られないものが、確かにあった。
***
──総務課。昼のフロア。
「……ていうか、あれってわざとでしょ。あんな笑顔、営業用以外に何があるの」
「差し入れ配って、“頑張ってくださいね”とか言われても……なんか白々しいんだよね」
「……あれ、完全に狙ってやってるよね」
──その声は、隣の給湯室からかすかに聞こえてきた。
花田は、たまたま近くの棚にコピー用紙を補充していた。
(……いけんねぇ)
声に出さず、紙束を静かに棚に戻した花田は、何事もなかったかのように給湯室の扉を開けた。
***
「おつかれさまです~」
女子たちの会話がぴたりと止まる。
「あら、皆さんお揃いで。紅茶の香り、ええねぇ」
にこやかな笑顔と穏やかな声。優しい花田のままだった。
「あっ、花田さん……どうもです」
「うちはちょっと喉が渇いたけぇ、一杯だけ混ぜてもろてもええかね?」
「あ、どうぞ……!」
花田は自然な動きで湯飲みにお茶を注ぎながら、ぽつりとつぶやいた。
「最近、社内の空気、良うも悪うも変わるねぇ」
女子たちは無言で顔を見合わせた。
「誰かの噂が立ったりすると、不思議と空気まで重うなる。――藤原さんのこと、なんか言われとるらしいねぇ」
「……い、いえ。私たちは別に……」
「本人が嫌そうな顔して仕事しとったら、誰が気持ちよぉ働ける? だから笑っとるんよ。そういう“役目”背負わされとるだけじゃ」
花田課補は、誰にでもなくそう呟いた。
しかし、それを聞いていた事務の三宅が、やや挑発気味に返す。
「いやまぁ、頑張ってるのは分かりますけどね? でも、あそこまでやられると……正直ちょっと、わざとらしいっていうか」
花田は湯飲みを静かに置いた。
「……三宅」
「……はい?」
花田のスイッチが入った。
声が低く、重く、空気を押し潰すように落ちてくる。
「おどれ、あの子の何を見とったんじゃ」
「え……?」
「毎日気ぃ張って、顔作って、周り気遣って、笑顔振りまいとる裏で、どんだけ神経すり減らしとるか、考えたことあるんか?」
「……いえ、それは……」
「ないんじゃろうが。想像すらできんのんじゃろ」
三宅が小さくうなだれる。
「そがぁなもん、“媚び”ちゃう。あの子はの、黙って空気作っとる。誰に頼まれた訳でもない。自分で動いとるんじゃ。――おどれに、それが出来るんか?」
「……いえ、できません……」
花田は一歩、間を詰めるように前に出た。
「できん? よう言うたな、それで人のこと媚びとるゆうて責めとったんか? どうなんじゃ、三宅」
「…………」
「黙るな。答えぇや。おどれに、あの子と同じことが出来るんか? 空気読んで、声かけて、気遣って、皆を動かせるんか? ――できるんか、出来んのんか?」
「……出来ません……っ」
吐き出すように答えた三宅の声は、小さく震えていた。
花田は溜息ひとつ、そしてこう付け加える。
「……ええか、そりゃあ“可愛い”ゆうだけで得することも、世の中にはあるじゃろうよ。じゃけどの――それ“だけ”で、あないに人が本気で動く思うとんか?」
花田の声が、ずしりと床を這うように落ちる。
「おどれ、よう見とらんのんじゃ。あの子がの、どんだけ場の空気見て、誰が疲れとるか、どこで声かけたら流れが変わるか、全部計算しとるんじゃ。笑顔一つ出すにも、タイミングと相手見て、ちゃんと仕事しとるんじゃ」
「それが見えん奴が“媚び”とかほざくんは、ただの無知か、僻みじゃ。ええか、自分で場を動かすのが、どんだけしんどいか一遍やってみぃや」
***
──その日の夕方。
「……聞いた? 三宅さん、今日花田課補に詰められたらしいよ」
「えっ、マジで? なんで?」
「藤原さんのこと、ちょっと言っただけで……らしい」
給湯室の奥、コピーの前、トイレの個室の扉越し。
社内のあらゆる“隙間”を通じて、その話はじわじわと広がっていった。
「え、やばくない? 花田課補って、あんなに優しいのに……」
「そう。でも“あの人が動いたら終わり”って、昔から言われてるし」
「なんかね、あの場にいた人が言ってた。空気が一気に冷えたって……“あ、これは本気のやつだ”って」
女子社員たちは、誰に言われたでもなく、何となく察し始めていた。
「藤原さん、たぶん……もう誰にも手出しできないよね」
「てか、怖……」
「いや、分かる。別に私、何も言ってないし! 本当、本当!」
それはもはや、注意でも忠告でもなく、空気のように社内を包み込んでいった。
気づけば、結衣に対する陰口はぴたりと止まり――
代わりに、誰かが負の話題にしようとすると、すぐに誰かが目配せをしてその場がサッと静かになる。
そして数日後。
「えっ、藤原さん今日来てる? あー、よかった。私、あの子のことずっと可愛いと思ってたんだ~」
「分かるー! 私も前から推してた! なんか応援したくなる感じあるよね?」
「ほんとそれ! もうあの笑顔見たら、こっちも元気になるっていうか~」
誰が聞いても白々しい“応援”の声が、今度はあちこちから聞こえてきた。
「私さ、あの子の努力、ちゃんと見てたよ」
「ね。なんか、辛い事も多かったんじゃないかなぁって……」
まるで最初から味方だったかのように、誰もがそれらしく語り出す。
だけど――
(この前まで言ってたことと全然違うじゃん……)
たまたま通りすがりに聞いてしまった橋本は、思わず心の中で突っ込んだ。
口には出さない。出せない。
なにせ今、藤原結衣の後ろには“社内最凶”が控えているのだから。
──その日の午後。会議後の休憩室。
自販機の缶コーヒーを手に、藤原結衣はひとり、ソファの端に座っていた。差し入れを配っても、反応は柔らかくなった。声をかければ笑顔が返ってくる。……でも、それがなんだか、妙に“滑らかすぎる”のだ。
(……うーん。なんか、逆に怖い)
ほんの少し前まで、視線が冷たかったのに。今では誰もが穏やかな顔をして、まるで何もなかったかのように振る舞ってくる。
そんなとき、背後から声がした。
「……結衣さん、ちょっといいっすか」
振り返ると、橋本が缶コーヒー片手に立っていた。
「どうしたの?」
「いや……あの、最近、女子の空気が柔らかくなったっていうか、なんか変わったっすよね」
「うん。そう……だよね」
結衣はそっと目を伏せた。
「……前より話しかけやすくなったのは、正直ありがたい。でも、なんか……“急に”過ぎて、逆に気持ち悪いっていうか」
「……あー……ですよね」
橋本は、ちょっと言いにくそうに頭をかいた。
「実は……この前、給湯室で、女子たちが結衣さんのこと言ってたのを、花田課補が聞いちゃって……」
「……え?」
「そしたら……うん、まあ……あの人の“親分モード”が発動したっていうか……」
橋本は缶コーヒーで口元を隠しながら、低くつぶやいた。
「たぶん、全員、頭が真っ白になったっす。俺もたまたま聞いてて、ちょっと背筋ゾクッとしましたもん」
「……そうだったんだ……」
結衣は小さく息をついた。花田が守ってくれている。それはありがたい。心強い。だけど――
「……それって、私のせいで誰かが怒られてるってこと、だよね」
「うん。でも、結衣さんのせいじゃないっすよ。ただ、今は“誰も軽口叩けない”ってだけで、誰もほんとは悪く思ってない……と、思いたいっすね」
「……そうだといいな」
2人の間に、ふっと沈黙が落ちた。
自販機のモーター音だけが、静かに空間を満たしていた。
「……まあ、仕事してないんだけどね」
「……そっすね」
ふたりはほぼ同時に缶コーヒーを口に運んだ。