表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/7

秘策の副作用

──ある日の昼休み。給湯室の奥。


「……最近さぁ、うちの部署、雰囲気変わったと思わない?」


「うん、なんか……男連中が浮き足立ってるっていうか」


「昨日もそうだよ?藤原さんがちょっと褒めただけで、隣の席の佐藤さん、急に立ち上がって“俺、やります!”とか叫んで別室にこもったんだから」


「うわ……それ聞いた。マジで引いたわ」


3人の女子社員が、紙コップに注いだ紅茶を手に小声で話していた。


さしすせそ作戦が大成功し、職場が活気に満ちてからしばらく――その裏で、確かに“別の空気”も育っていた。


「ていうか、あの子……やってること、営業みたいなもんよね。男の目を見てニコッて笑って、差し入れ配って……」


「仕事してないわけじゃないんだけどさ、なんか“あざとい”って感じ?」


「まぁ、顔があんなに可愛かったら、そりゃ男もチョロいわよね」


口調はあくまで穏やか。だが、その奥には確実に“火種”がくすぶっていた。


「……男に気に入られるのは上手いみたいね」


「なんかこう……“見られてるの分かっててやってる”感じしない?」


「分かる~! あれで“気づいてません”とか言われたら、マジで鼻で笑う」


「で、何? 最近じゃ営業部の連中もやたら近くない?」


「もうさ、ぶっちゃけ“男の気を引いて得してる”ようにしか見えないのよ」


そして、ふと口をつぐんだあと、誰かがこう呟いた。


「……仕事、してるようでしてないよね。かわいいだけで許されてる気がする」



***



数日後、その空気は形になって現れた。


フロアの一角で結衣が資料を手に歩いていたとき。


「お疲れさまです」

「……」

「…………」


一瞬だけ、廊下にいた女子社員たちの手が止まり、しかし返事も目線もないまま、そそくさと離れていった。


(あれ……?)


違和感。


今までなら微笑まれていた場面。

けれど、今の空気は明らかに“拒絶”だった。


その日から、昼休みに話しかけても輪に入れてもらえず、廊下で目が合っても、何故か気まずそうに逸らされるようになった。


(なんか……女子からの視線、冷たくないか……?)


手元のコーヒーを配りながらも、笑顔の奥で心がざわついていた。


「可愛い」だけでは得られないものが、確かにあった。


***


──総務課。昼のフロア。


「……ていうか、あれってわざとでしょ。あんな笑顔、営業用以外に何があるの」


「差し入れ配って、“頑張ってくださいね”とか言われても……なんか白々しいんだよね」


「……あれ、完全に狙ってやってるよね」


──その声は、隣の給湯室からかすかに聞こえてきた。


花田は、たまたま近くの棚にコピー用紙を補充していた。


(……いけんねぇ)


声に出さず、紙束を静かに棚に戻した花田は、何事もなかったかのように給湯室の扉を開けた。


***


「おつかれさまです~」


女子たちの会話がぴたりと止まる。


「あら、皆さんお揃いで。紅茶の香り、ええねぇ」


にこやかな笑顔と穏やかな声。優しい花田のままだった。


「あっ、花田さん……どうもです」


「うちはちょっと喉が渇いたけぇ、一杯だけ混ぜてもろてもええかね?」


「あ、どうぞ……!」


花田は自然な動きで湯飲みにお茶を注ぎながら、ぽつりとつぶやいた。


「最近、社内の空気、良うも悪うも変わるねぇ」


女子たちは無言で顔を見合わせた。


「誰かの噂が立ったりすると、不思議と空気まで重うなる。――藤原さんのこと、なんか言われとるらしいねぇ」


「……い、いえ。私たちは別に……」


「本人が嫌そうな顔して仕事しとったら、誰が気持ちよぉ働ける? だから笑っとるんよ。そういう“役目”背負わされとるだけじゃ」


花田課補は、誰にでもなくそう呟いた。


しかし、それを聞いていた事務の三宅が、やや挑発気味に返す。


「いやまぁ、頑張ってるのは分かりますけどね? でも、あそこまでやられると……正直ちょっと、わざとらしいっていうか」



花田は湯飲みを静かに置いた。


「……三宅」


「……はい?」


花田のスイッチが入った。


声が低く、重く、空気を押し潰すように落ちてくる。


「おどれ、あの子の何を見とったんじゃ」


「え……?」


「毎日気ぃ張って、顔作って、周り気遣って、笑顔振りまいとる裏で、どんだけ神経すり減らしとるか、考えたことあるんか?」


「……いえ、それは……」


「ないんじゃろうが。想像すらできんのんじゃろ」


三宅が小さくうなだれる。


「そがぁなもん、“媚び”ちゃう。あの子はの、黙って空気作っとる。誰に頼まれた訳でもない。自分で動いとるんじゃ。――おどれに、それが出来るんか?」


「……いえ、できません……」


花田は一歩、間を詰めるように前に出た。


「できん? よう言うたな、それで人のこと媚びとるゆうて責めとったんか? どうなんじゃ、三宅」


「…………」


「黙るな。答えぇや。おどれに、あの子と同じことが出来るんか? 空気読んで、声かけて、気遣って、皆を動かせるんか? ――できるんか、出来んのんか?」


「……出来ません……っ」


吐き出すように答えた三宅の声は、小さく震えていた。

花田は溜息ひとつ、そしてこう付け加える。


「……ええか、そりゃあ“可愛い”ゆうだけで得することも、世の中にはあるじゃろうよ。じゃけどの――それ“だけ”で、あないに人が本気で動く思うとんか?」


花田の声が、ずしりと床を這うように落ちる。


「おどれ、よう見とらんのんじゃ。あの子がの、どんだけ場の空気見て、誰が疲れとるか、どこで声かけたら流れが変わるか、全部計算しとるんじゃ。笑顔一つ出すにも、タイミングと相手見て、ちゃんと仕事しとるんじゃ」


「それが見えん奴が“媚び”とかほざくんは、ただの無知か、僻みじゃ。ええか、自分で場を動かすのが、どんだけしんどいか一遍やってみぃや」



***




──その日の夕方。


「……聞いた? 三宅さん、今日花田課補に詰められたらしいよ」


「えっ、マジで? なんで?」


「藤原さんのこと、ちょっと言っただけで……らしい」


給湯室の奥、コピーの前、トイレの個室の扉越し。


社内のあらゆる“隙間”を通じて、その話はじわじわと広がっていった。


「え、やばくない? 花田課補って、あんなに優しいのに……」


「そう。でも“あの人が動いたら終わり”って、昔から言われてるし」


「なんかね、あの場にいた人が言ってた。空気が一気に冷えたって……“あ、これは本気のやつだ”って」


女子社員たちは、誰に言われたでもなく、何となく察し始めていた。


「藤原さん、たぶん……もう誰にも手出しできないよね」


「てか、怖……」


「いや、分かる。別に私、何も言ってないし! 本当、本当!」



それはもはや、注意でも忠告でもなく、空気のように社内を包み込んでいった。


気づけば、結衣に対する陰口はぴたりと止まり――

代わりに、誰かが負の話題にしようとすると、すぐに誰かが目配せをしてその場がサッと静かになる。


そして数日後。


「えっ、藤原さん今日来てる? あー、よかった。私、あの子のことずっと可愛いと思ってたんだ~」


「分かるー! 私も前から推してた! なんか応援したくなる感じあるよね?」


「ほんとそれ! もうあの笑顔見たら、こっちも元気になるっていうか~」


誰が聞いても白々しい“応援”の声が、今度はあちこちから聞こえてきた。



「私さ、あの子の努力、ちゃんと見てたよ」


「ね。なんか、辛い事も多かったんじゃないかなぁって……」


まるで最初から味方だったかのように、誰もがそれらしく語り出す。


だけど――


(この前まで言ってたことと全然違うじゃん……)


たまたま通りすがりに聞いてしまった橋本は、思わず心の中で突っ込んだ。


口には出さない。出せない。


なにせ今、藤原結衣の後ろには“社内最凶”が控えているのだから。



──その日の午後。会議後の休憩室。


自販機の缶コーヒーを手に、藤原結衣はひとり、ソファの端に座っていた。差し入れを配っても、反応は柔らかくなった。声をかければ笑顔が返ってくる。……でも、それがなんだか、妙に“滑らかすぎる”のだ。


(……うーん。なんか、逆に怖い)


ほんの少し前まで、視線が冷たかったのに。今では誰もが穏やかな顔をして、まるで何もなかったかのように振る舞ってくる。


そんなとき、背後から声がした。


「……結衣さん、ちょっといいっすか」


振り返ると、橋本が缶コーヒー片手に立っていた。


「どうしたの?」


「いや……あの、最近、女子の空気が柔らかくなったっていうか、なんか変わったっすよね」


「うん。そう……だよね」


結衣はそっと目を伏せた。


「……前より話しかけやすくなったのは、正直ありがたい。でも、なんか……“急に”過ぎて、逆に気持ち悪いっていうか」


「……あー……ですよね」


橋本は、ちょっと言いにくそうに頭をかいた。


「実は……この前、給湯室で、女子たちが結衣さんのこと言ってたのを、花田課補が聞いちゃって……」


「……え?」


「そしたら……うん、まあ……あの人の“親分モード”が発動したっていうか……」


橋本は缶コーヒーで口元を隠しながら、低くつぶやいた。


「たぶん、全員、頭が真っ白になったっす。俺もたまたま聞いてて、ちょっと背筋ゾクッとしましたもん」


「……そうだったんだ……」


結衣は小さく息をついた。花田が守ってくれている。それはありがたい。心強い。だけど――


「……それって、私のせいで誰かが怒られてるってこと、だよね」


「うん。でも、結衣さんのせいじゃないっすよ。ただ、今は“誰も軽口叩けない”ってだけで、誰もほんとは悪く思ってない……と、思いたいっすね」


「……そうだといいな」


2人の間に、ふっと沈黙が落ちた。


自販機のモーター音だけが、静かに空間を満たしていた。



「……まあ、仕事してないんだけどね」


「……そっすね」


ふたりはほぼ同時に缶コーヒーを口に運んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ