社長の秘策
──社長室、午後六時。
「……人が足りねぇ。笑えるくらいに」
藤原社長は、ホワイトボードの前で缶コーヒーを片手にぼやいた。
ホワイトボードには、今月受注したばかりの国から斡旋された仕事。
その下に貼られたのは、部署別工数表と人員リスト――どれも赤、赤、赤。
「この進捗でよく誰も倒れてねえな……」
そう呟いたが、内心では笑っていた。
──今、うちの会社は空前の“好景気”にある。
政府筋からの大型案件。
正式な契約書は曖昧だったが、振込予定額を見て背筋が伸びた。
社長が手にした粗利試算表には、見たことのない桁数が並んでいた。
「これは回せたら歴史に名を刻むぞ」
全社員に頑張ってもらうしかない!
社長はその場で決断した。
「全員、歩合制導入だ。やった分だけ給料に反映する。成果出せば出すだけ稼げるようにする」
掲示板に張り出された報酬改定表に社員たちは騒然とし、やがて沈黙ののち、一斉に目の色が変わった。
現場に火をつけた。
結果――
「先月の手取り、70万いきました……」
「もう寝てねぇっすけど、笑いが止まりません」
「残業代と特別手当で、ボーナス月を超えました」
社員はみんな目の下にクマを作りながらも、テンションが高かった。
朝は早く、夜は遅い。
昼休みはPCの前でパン片手に資料確認。
エレベーター内でも進捗確認、トイレでもチャットで情報共有。
それでも笑っているのは、金がすべてを正義に変えていたからだ。
社内の休憩スペースでは、こんな会話が飛び交っていた。
「今月で冷蔵庫買い替えたわ」
「今度海外旅行行くわ」
「マジで? 俺、親に仕送り増やした」
社長も誰よりテンションが高かった。
差し入れのエナジードリンクを両手に抱えてフロアを回り、社員一人ひとりに「ファイト!」と声をかけて歩く。
「さぁ稼げ!お前ら今、時代の波の真上に立ってるぞ!」
まるで創業直後のベンチャーのような熱狂。
「仕様通りました! 飛ばせるぞ!」
「来週までにいけるいける、睡眠時間けずれば!」
だがその裏で――藤原社長は冷静だった。
「……この熱気このままではもたない。あと一歩だけ持たせる……何かがいる」
利益と興奮だけで走れるのは今だけ。
人間は疲れる。飽きる。集中もいつか切れる。
少しのミスが、大きな損失につながる。
少し考えて結論が出た。
──藤原結衣。
当初は存在を隠す方向で運用していたが、出社初日から異変は起きていた。
「誰あの子?」「可愛すぎんだろ……」
結衣がフロアを歩くだけで、男性社員たちの目が輝き、いつもより数倍活発に動き出す。
休憩室で隣に座られただけで作業効率が3割上がったという者まで出た。
藤原社長は、これを見逃さなかった。
「……あいつ、戦力になる」
──その日、社長は結衣を社長室に呼び出した。
「社長……呼び出しってなんですか」
「おう。ちょっと頼みがある」
社長は自席に戻ると、椅子を軋ませながら腰を下ろす。
そして開口一番、核心を突いた。
「お前には今から起爆剤になってもらう」
結衣は目を瞬かせた。
「……は?」
「営業フロアで声かけられるだろ? 差し入れも多いだろ? 最近、社員の残業申請時間が全体的に伸びてんだよ」
「それって……国からの仕事の影響ってことですか?」
「そう。“お前のおかげ”だよ」
社長はそう言いながら、デスク横の資料を一枚抜き出して結衣に見せた。
「見ろよ。お前のいるフロアの人間、全体的に生産性高いだろ? 他より明らかに数字がいい。恐らく、お前がいると士気が上がるんだよ。」
「…………」
「つまり、お前が“いる”だけで、現場が元気になる。極端な話、コーヒー配って回ってるだけでも十分効果ある」
「……それって、つまり俺に、見て回れと?」
「そうだ」
結衣はあからさまに嫌な顔をした。
「……無理ですよ。俺、別にそういうキャラじゃないし。っていうか、そもそもこれ仕事なんですか?」
「業務命令だ」
ズバッと切り込んだ社長の声に、空気が一瞬で引き締まった。
結衣は口を閉じたまま、じっと社長の顔を見る。
「結衣、お前にしか出来ない事なんだ。社員が疲れて、空気が淀む。それを取り除けるのは間違いなくお前だよ」
「……そんな大げさな」
「じゃあ試してみよう。明日、誰にも言わずに有給とってみろ。フロアが一気に静かになるぞ」
それを想像して、結衣は小さく笑ってしまった。
「……たしかに、それはちょっと見てみたいかも」
「だから難しいことは言わん。話しかけてやれ。褒めてやれ。横で“うんうん”って聞いてやるだけでいい」
「……それ、何かの職業じゃないですか」
「キャバ嬢だな」
即答。
「……マジで言ってます?」
社長は引き出しから、小さな資料を取り出した。コピー用紙一枚、手書きの文字が並ぶ。
《キャバ嬢の魔法ワード:さしすせそ》
・さすがですね!
・知らなかったです~
・すごい!
・センスいいですね!
・そうなんですか!
「これ、使え」
「これが……会社で使われる日が来るとは思わなかった……」
結衣は天を仰ぎながらも、紙を受け取った。
「言っとくけど、これはただの“接客術”だ。相手を気分よくさせ頑張ろうって思わせる。それって、マネジメントでも営業でも同じことだろ?」
「……はぁ」
結衣はその言葉にだけ、少し表情を曇らせた。だがすぐに、静かに頷いた。
「……了解です。業務命令、受けます」
社長は満足げに頷いた。
そして、ふと思い出したように追いかけるように言った。
「そうだ結衣、今後“俺”って言うの禁止な。お前はもう皆のアイドルなんだからよ」
結衣の背中が、ぴたりと止まった。
「……お、おす」
「“おす”も禁止だ!」
結衣は意を決して「さしすせそ」作戦を実行に移した。
まずは資料作成中の男性社員のデスクへ、そっと近づき、声をかける。
「さすがですね、この資料。すごく分かりやすいです。」
その瞬間、資料を見ていた社員が硬直した。
椅子から立ち上がり、手にしていたボールペンを落とす。
「……これ……俺のこと……褒めた……? 本当に?」
数秒の沈黙のあと、突然バッと腕まくりをし、机に身を乗り出した。
「もっとやれる! いや、今までの俺はただの準備段階だったんだ……!」
急に背筋を伸ばし、画面に向かって何かをぶつぶつ言いながら全力でタイプを始める。
周囲の社員たちがちらりと視線を寄せるが、当の本人はまったく気にしていない。
「今日中に仕上げる……見てろ……俺の本気……!」
「よし、これはまだ終わりじゃない! もっと詰める! ツメるぞおおお!!」
周囲が驚く中、彼は書類を抱えて別室に走り去った。
結衣は小さく頷き、今度は別の社員の元へ。
電子機器の動作チェックをしていた男性の隣に立ち、柔らかく声をかけた。
「このロジック、すごいですね。」
一言だけで、彼はピクリと固まり、ぶるぶる震える。
「……今、俺のコード、見て褒めた? 本気で? ……よし、続きやる。いや、書き直す!」
彼は突然立ち上がって別モニターを引き寄せ、コードを書き直し始めた。
続けて、ホワイトボード前で話し合っていたグループにも近づく。
「センスいいですね、このまとめ方。」
ホワイトボードの前では――
言われた社員が急に周囲の資料を抱え込み、叫んだ。
「これでいいんだ! もう迷わない! 案Bに全振りする!!」
周囲のメンバーも立ち上がり、ざわざわと興奮が広がる。
社員たちのテンションは天井知らずに高まっていった。
「納期? 予定より前倒しで行こう」
「確認? 言われる前に直す!」
(……もっと結衣ちゃんに注目されたい……)
ギラついた目があちこちで光を放ち、キーボードの音は加速を続けていた。
午後に入り、さすがに作業の手が鈍くなってきた頃――
結衣が両手に差し入れを抱えて戻ってきた。
冷えた缶コーヒーとチョコレート菓子。
「みなさん、ちょっと休憩しませんか?」
その一言で、沈んでいた空気が一変する。
差し入れのコーヒーを配っただけで作業ペースが1.5倍。
「やべえ、手が止まらねぇ……!」
菓子を口に運びながら再び動き出す社員たち。
その後、結衣はエレベーターに乗って、他部署にも足を運んだ。
「お疲れさまです。差し入れ置いておきますね」
「うおっ……マジか……」
そこでも疲弊していた社員たちが一気に姿勢を正し、動きが戻る。
「あの結衣ちゃんが来た……」「可愛すぎ……ヤバ……」
結衣が差し入れを手渡し「さしすせそ」を実践。
社内の空気が華やぎ、熱気が戻っていく
結衣が去ると、社員たちはひと息ついたようで――
「……あの人、いつまた来るかな」
「今のうちに褒められそうな成果出しとこう」
と、完全に行動基準が“結衣の存在”で回り始めていた。
「結衣ちゃんに褒められたい」
その欲望は、瞬く間にフロア全体を覆い尽くした。
そして半狂乱の戦士達が作り上げられていく。
廊下の端で、橋本が腕を組みながら静かにその様子を眺めていた。
「……なんだこの職場……どうなってんだ……」
その夜。
「結衣、今夜はおにぎり作れ」
社長の指示により、結衣はキッチンに立っていた。
深夜――
完成したおにぎりが、静まりかけたフロアへと届けられる。
「これ……結衣ちゃんが?」
「うまっ……! なんだこれ……」
炊きたての米、やさしい塩加減、香ばしい海苔。
だが、社員たちが口にした瞬間に見せた表情は、その味だけではなかった。
「結衣ちゃんの……手作り……?」
「うそ、マジで……? そりゃ頑張るだろ……」
頬を染めたまま、再び椅子に座り直す者。
拳を握りしめて立ち上がる者。
肩を回し、目を見開いて再起動する者。
「……まだ、いける……もう少し……!」
結衣のおにぎりは、ただの食事ではなかった。
まるでその一粒一粒に、再起動の魔法が込められているかのように――
モニター越しにその光景を見ていた社長は、深く頷いた。
「これで……あと一ヶ月は戦えるな」
一方の結衣目線では
正直、やる前から不安しかなかった。
(ほんとにこれ……効果あるの?)
手元のメモには、例の「さしすせそ」が書いてある。
キャバ嬢の魔法ワード。社長の直筆。字がやたら達筆なのが逆に腹立つ。
一歩。
二歩。
覚悟を決めて、最初のターゲットへ近づく。
「さすがですね、この資料。すごく分かりやすいです」
声に出した瞬間、こっちを向いた眼鏡の社員の顔が“パァッ”と明るくなる。
(えっ、うそ……効いてる……!?)
彼はすぐさま姿勢を正し、パチパチとキーボードを叩き始めた。
「もっとやれる! いや、今までの俺はただの準備段階だったんだ……!」
(やばい、想像以上に効いてる……)
隣の席でも、一言「このロジック、すごいですね」と声をかけたら、
「……よし、続きやる。いや、書き直す!」
最初から書き直す!?
正気かお前!?
周囲のメンバーも立ち上がり、ざわざわと興奮が広がる。
……なんだこれ、褒めドーピング?
気づけば、自分の発言に全力で反応してくれる社員たちを次々と観察していた。
目がギラギラと光り、「もっと!もっと褒めてくれ!!」と、全身全霊で訴えてくる。
手が止まった瞬間にチラッとこちらを見て、目が合うと一瞬で姿勢を正し、わざとらしく資料をペラペラとめくり始める者までいる。
視線、動き、息づかいのすべてが「次は俺を褒めてくれ!」の一点に集中していて、もう完全に“褒め依存症”と化していた。
正直、ちょっと怖い。でも、楽しい。
(……いやいや、仕事中だぞ私)
と自分に言い聞かせながら、ふと社内を見回す。
みんなの目が、明らかに違う。
活気。緊張。変な色気と、熱。
それが社内の空気を満たしてる。
そして――
通りすがりの橋本と目が合った。
彼は数秒固まったあと、明らかに「なんだこの光景……」って顔をして口を半開きにしていた。
(分かるよ、私もだよ……)
結衣は溜息まじりに、再び笑顔を作って、缶コーヒーを片手に社員たちへと歩み寄る。
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