女になって得たもの、失ったもの
──就業時間後。誰もいなくなった会議室。
そこにいたのは、藤原結衣、そして元同僚であり、数少ない“事情を知る者”の一人、若手社員の橋本だった。
「結衣さん…あの…仕事の事なんですけど……」
「ん? 何?」
「いや、手際良すぎというか……完全に田中さんのときと同じで」
「そりゃ、田中だからな」
結衣が椅子に背を預けて、脚を組む。
口調も、いつもの柔らかいものではなく、完全に“田中モード”。
「で、何か問題でも?」
「いえ、問題はないというか、……社内研修も受けずにいきなり仕事してますからね…」
「お前さぁ、あのシステム組めなかったろ?俺が先に仕掛けといたから、今日終わったんだぞ」
「いや、それはほんと助かりましたけど……その顔で“はいできました〜”ってやるの、ちょっとズルいっす」
結衣はふっと笑った。
「しょうがないだろ。身体変わっても、頭の中までは女の子仕様になってねぇよ」
「たまに思うんですよ……その見た目で中身が田中さんって、反則じゃないですか……」
「……じゃ、見た目に合わせた中身の練習でもしとくか? んふふっ」
と、急に女の子っぽい声色で、手を胸元に添えて小さく首をかしげる。
自然に揺れた髪の毛、上目遣いの柔らかい視線、少し膨らんだ頬。
あまりにも“完成された女の子”の仕草に、橋本は一瞬ドキっとし、目を逸らしてしまった。
「っ……や、やめてください……マジで、その顔でやるの反則です……」
「じゃあどっちがいいんだよ。田中でいてほしいのか、藤原でいてほしいのか」
「……どっちもで大丈夫です。でも、もう少し“結衣さん”に慣れていただけると助かります……」
結衣は、すこしだけ真面目な顔に戻った。
「……慣れたくないわけじゃない。ただ、変に馴染みすぎるのも、違う気がしてさ」
「違う、ですか?」
「誰も何も言わないけど……元が“田中”って分かってる自分にとっては、今の自分の扱われ方って、ちょっと過剰に感じるんだよな」
結衣がふっと息を吐いたところで、橋本がぼそりと呟いた。
「……そういや俺、あの件で花田さんに呼び出されたんすよ」
「“あの件”?」
「井口っすよ。あの人のせいで変な噂立ったじゃないですか。結ちゃんが男手玉に取ってるとか……。俺、裏で“静かにサクッと処理しろ”って、課補に詰められましたからね?」
「……マジか。そんなことあったの?」
「ええ。“結衣さんのこと、命かけとるシノギじゃ”って、ドス利かせてくるんですよ……怖いとか通り越して、もう逆らえないっす」
「……マジか。そんなことあったの?」
結衣が少し目を見開いた。
「で、どうやって井口に?」
「給湯室で軽く話しました。“結衣ちゃん、社長の姪なんですよ”って。あとは――“社長、めちゃくちゃ可愛がってるんで、もし変な空気にでもなったら……ちょっと怖いですよね”って、軽く釘さした感じです」
「……お前、仕事できるな。というか、花田さんとお前に感謝だわ」
「……いや、それはありがたいんですけど」
橋本が苦笑しながら肩をすくめる。
「さっきの話ですけど、仕事出来過ぎると目立つんで……ちょっと自重してください、ほんと。笑」
「……おう。ちょっとだけ手加減しとくわ」
「いやマジで。新人がいきなり業務効率バグってたら、周りざわつきますって」
「うるせー。そこも俺の仕様だ」
「いやホント、それ、外で出さないでくださいよ? 今は女なんですから!」
「あと“元の人”がふと漏れるとヒヤッとするんで……」
「……はいはい、自重しまーす。こっちも結構神経すり減ってんのよ」
橋本は、何気ない仕草でペンを回しながらぽつりと聞いた。
「……ぶっちゃけ、男のときと、今と……どっちが楽ですか?」
結衣は一瞬、視線を天井に向けてから小さく笑った。
「あー、それな。意外と難しいんだよな」
「難しい?」
「そ。まず、女ってだけで視線が集まる。悪気はなくても、無意識に見られてるのが分かるから、ずっと気が張ってんのよ」
「ああ……確かに、結衣さん、しょっちゅう見られてますもんね……」
「正直、気楽だったのは男。何やっても“普通”の枠内だったから、目立つこともなかったし」
「それは……分かる気がします」
「でも、女になって得したこともあるよ。見た目が可愛いってだけで、丁寧に扱われるし、話もスムーズに進んだりする。あと甘いもんくれる奴が増えた」
「あ、沢山もらってますね…」
「うむ。」
「で、結局どっちが楽なんです?」
結衣は少しだけ間を置いて、真顔で言った。
「……今のところは男だな。気楽さが段違い。女に慣れたら変わるかもだけど」
「どっちが楽とか言えないですね」
「話変わるけど…橋本、お前今誰に教わってるんだ?」
「営業の斎藤さんです。入社初日に一番丁寧に声かけてくれて……」
「……あの人か。あんまり深入りされんなよ。優しいけど、人懐っこすぎるとこあるからな」
「いや、それ俺の先輩なんで……あんまり言わないでもらっていいですか」
「ん? なんだ、庇うんか」
「いや、ちょっと尊敬してるだけです」
結衣はニヤリと笑う。
「……ま、あいつが“今の俺”にデレデレしてたのは見たけどな」
「……マジっすか……?」
「昨日エレベーターで一緒になった時、“君みたいな子が来てくれて嬉しいよ〜”ってにっこにこで言ってたぞ」
橋本はうつむき加減に苦笑いした。
「……うわっ聞きたくなかった」
結衣は吹き出しそうになりながらも堪えて、目を細める。
「いい先輩持ったな。可愛がられてるじゃん」
「そういや……結衣さんのときとテンション明らかに違いましたけど……」
「ははっ、そりゃ見た目の分、ボーナス乗ってんだよ。人生って平等じゃねーな」
橋本は小さく苦笑い。
「でも……結衣さんが笑ってるの、なんか安心します」
「……そっか。ありがと」
少しだけ、結衣の声が柔らかくなる。
──それはただの会話。
でも、結衣にとっては“素に戻れる空間”という、かけがえのない命綱だった。