噂とお局様
午後、オフィスのざわめきの中で、俺はようやく一息つこうとしていた。
そこへ、にやついた顔で近づいてくる男がひとり――営業部の井口だった。
「やあやあ、結衣ちゃん! 初日から注目の的だね!」
軽快な口調。ノリのいい笑顔。近すぎる距離感。
前世の俺なら関わりたくないタイプ、ランキング上位である。
「えっと……よろしくお願いします」
内心、警戒しながらも、表面上は笑顔で対応する。訓練通りだ。
「いや~、ホント目の保養だよ。あ、コーヒーとか飲める? 俺、いいカフェ知ってるんだよね~。今度行こうよ」
「お気持ちだけで十分です」
丁重にお断りしても、井口はまったく気にしていない様子だった。
「結衣ちゃんってさ、話しやすいし、優しいよね~。それに笑顔が素敵でさ~」
(うわ……こういうやつか……)
社交的というより、ただのグイグイ系。
気付けば、日に何度も話しかけてくるようになった。
そのたびに俺は、笑顔でやんわりとかわし続けた。
だが――
「井口さん、またあの子に行ってない?」
「しかもなんか毎回笑顔で応じてない?」
「もしかして……あれ、手玉に取ってない?」
俺の知らないところで、妙な“誤解”が社内に広がり始めていた。
廊下では目を伏せられ、休憩室では気まずそうに話をやめられ、
そして、女子社員からは避けられる様になった。
(……え、なんで?)
心当たりがない。
ただ“笑顔で対応した”だけで、こんなことになるなんて――
噂の火種は井口ではなく、“井口のせい”だった。
連日の接触。浮かれる井口。
対応する俺の“愛想笑い”が、周囲には“気がある風”に見えたのかもしれない。
気づけば、女子社員の間でも何やらヒソヒソ声が増えていた。
「やっぱり、ちょっと男慣れしてる感じあるよね」
「営業部の井口、あれ完全に勘違いしてるわ……」
それはまるで、誰かが静かに小さな石を投げ入れた湖のようだった。
最初は小さな波紋だった噂は、徐々に職場全体へと広がっていった。
それでも、俺は知らなかった。
この異変に、社内のある人物がすでに気付き、動き出していたことを。
総務課、花田課長補佐。
“お局様”と呼ばれる、社内最凶の存在が――。
ある日の午後。総務の一角にて。
「橋本くん、ちょっと来てもらえます?」
おっとりした声に呼ばれたのは、入社3年目の若手男性社員・橋本、25歳。
呼ばれるままについていくと、案内されたのは使われていない小会議室。
そしてその声の主――花田課長補佐は、社内で“最凶のお局様”と密かに呼ばれていた存在だ。
普段は誰に対しても丁寧な敬語、穏やかな物腰。
しかし一度スイッチが入れば、まるでヤクザの親分の様に豹変する。
扉が閉まった瞬間――そのスイッチが入った。
「……橋本」
「は、はい……?」
「井口いうんが、うちの結衣ちゃんにべたべたしとるっちゅう話、聞いたで」
「えっ、あ、いや、それは……」
「ええか。結衣ちゃん、どえらいもん背負って生きとるんじゃ。
うちも知っとる。お前も知っとる。社長も知っとる。
ほんでな、噂が立ちよるんじゃ。“男を手玉に取っとる”っちゅう、くだらんもんがの」
「……」
「元はといえば、井口じゃろが」
橋本は完全に固まった。
「……お、おっしゃる通りです……」
花田は、じろりと橋本を睨みつけた。
「ええか橋本。お前、あの場で社長から言われたじゃろうが。“給料10倍にする”っちゅうて」
「そ、それは……」
「それは――わしらの命かけとるシノギじゃろうが」
低く、しかし響くような声。お局様の口調が、いつもの丁寧な敬語から一変していた。
「何かあってからじゃ遅いんよ。お前も、結衣ちゃんのおかげで10倍の恩恵、受けとるんじゃろが。なら命張れ。守らんでどうすんのんじゃ」
橋本が思わず息を呑む。視線すら逸らせない。
「ええか? うちらが守らんで、誰が守るんじゃ」
ゆっくりと、ひと呼吸置いてから。
「……静かに、穏便に。サクッと終わらせぇ」
その目は、すでに“すべてを把握している者”の目だった。
「……了解です。やります……!」
「よう言うた。今度ランチで好きなもん食わしたるけぇ」
「マジっすか!!やる気出ました!!」
その日のうちに、橋本は井口に接触した。
――場所は給湯室。
「あ、井口さん。ちょっといいっすか?」
「ん? 橋本くん?」
「まあ……立ち話もなんですし、コーヒーでもどうです?」
いつになく落ち着いた口調に、井口は少しだけ訝しげな顔をしたが、促されるまま給湯室の奥、目立たないカウンター席に腰を下ろした。
紙コップに注いだコーヒーを手渡しながら、橋本は軽く笑う。
「いやあ、最近どうっすか。営業部もバタバタしてますよね」
「ああ……まあな」
「で、ですね……ちょっと一個、ここだけの話ってことで聞いてもらっていいですか?」
と、そこで急に声のトーンが落ちた。
「――結衣ちゃん。社長の姪っ子なんですよ」
「……は?」
「ガチの。表には出てないですけど、かなり可愛がられてるみたいで。なんかあったら、社長ブチ切れるって噂もあります」
井口の顔色が、見る見るうちに変わる。
「……マジかよ……」
「井口さん、何かあったとは言いませんけど……たとえば、ちょっとでも“そういう空気”が社内に漏れると、ですね――いろいろ面倒になりますよ」
「…………」
「井口さん、悪気はなかったと思うんです。ただ、周りから見たら、“何かあったのか”ってなる可能性もあるじゃないですか。そこから余計な話が広がって、誰かが処分されるとか……お互い、損ですよね」
井口はしばらくコーヒーを見つめていたが、やがて、深くため息をついた。
「……わかった。悪かった。ちょっと……調子に乗ってたかもしれない」
「いえいえ。俺、井口さんにはマジで期待してるんで。だからこそ、ここは引きましょう。大丈夫、誰にも言いませんよ。俺と井口さんだけの話っす」
橋本が穏やかに笑うと、井口は少し苦笑いしながら、カップを傾けた。
それ以降――井口は、見違えるほど静かになった。
フロアで話しかけてくることもなく、結衣の近くをうろつくこともない。
そして、噂も自然と静かになっていった。
数日後。橋本がこっそり報告に戻ると、花田は一言だけ言った。
「ようやったのう。ほな、今度うまいもんでも食いに行こか」
「っしゃあ!!ありがとうございます!!」
俺は、そんな裏のやりとりがあったことなど露知らず――
今日も笑顔を振りまいていた。
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