ジム入会後
──土曜 トラストキックジム。
「ふーっ……今日も汗かいたなぁ……」
ミット打ちを終えた結衣は、グローブを外しながら息を整える。
ポニーテールの先が、汗で少しだけ重く揺れた。
「ありがとうございました! 西野さん、ミットすごくやりやすかったです!」
ミットを持ったのは、大会で優勝した西野。
結衣の打ち終わりのバランスを褒めたり、フォームについて少しだけアドバイスしたり――
そこに他の女性たちも加わり、輪になってちょっとした“談笑”が始まっていた。
「ねえねえ、今のワンツーのタイミング完璧だったよね!」
「ほんとほんと、西野さん教えるの上手い~!」
「西野さんどれくらいやってるんですか?」
「あ、もう5年くらいですかね。最近ようやく試合で結果出せるようになってきた感じで……」
「えー!すごいですね!」
会話は自然に弾み、笑い声が隣のエリアに聞こえる。
「……西野、ずるくね?」
「教え方“丁寧な男”モードじゃん……」
「なんか腹立つな」
各々が軽く舌打ちや深いため息をこぼしながら、黙々と再びトレーニングに戻る。
……が、内心は煮えたぎっていた。
(次は俺が絶対ミット持つ)
(今度はスパーでもなんでもやって勝つしかない)
それぞれの目に、妙な闘志が宿っていた。
隣のスタジオでは女性4人が楽しそうな表情でタオルを首にかけていた。
「いや〜!今日もめっちゃ動いた!」
「私もう腕パンパンなんだけど」
「でもさ、体動かすとストレス吹っ飛ぶよね~!」
「うん、わかる。……なんか最近、ちょっと楽しいかも」
そう微笑んだ結衣の目に、壁の掲示がふと映る。
「……ん? これって、先週の大会?」
掲示板に貼られた紙には【区アマチュアキックボクシング大会 結果】と書かれていた。
4人が自然と近づき、視線を走らせる。
「え……トラストキックジムの人、めっちゃ載ってない?」
「ちょっと待って…優勝って――西野さんじゃん!?」
「マジで!? さっきミット持ってくれてた人!?」
「えっ、うそ、そんな強かったの……?」
「いやでも言われてみれば、フォームめっちゃ綺麗だったよね……」
「……かっこよ」
神谷さんが思わず笑う。
「なんか……レベル高いんだね、このジム」
「ねえ、ちょっとだけ……あっちの方、覗いてみない?」
木下さんがそっとリング奥のエリアを指さす。
「練習、見てみたいかも。なんか本気の人たちって感じで、かっこよくない?」
「うん、私も気になってた。……ちょっと行ってみよ」
結衣たちはタオル片手にジムの奥へと足を向けた。
重い打撃音がリズムよく響く。
パンチ、ステップ、ミットへの鋭いコンビネーション。
ひとつひとつの動作が洗練されていて、素人目にも「すごい」とわかるレベルだった。
「うわ……めっちゃ速い」
「ステップが全然違うね」
「やばい、目で追えない」
その中に、西野の姿もあった。
黙々とシャドーを繰り返しながらも、意識は明らかに研ぎ澄まされている。
結衣は思わず見入ってしまった。
(……さっきまで気さくに話してた人が、こんな集中した顔するんだ)
(やっぱり、続けてる人ってかっこいいな)
自然と背筋が伸びるような感覚。心地よい緊張感。
隣では、神谷さんがふっと笑った。
「……かっこいいなぁ、なんか」
──その頃、ジム奥のエリア。
男性陣は、いつも通りのルーティンに取り組んでいる……はずだった。
だが。
結衣たちの姿が見えた瞬間――
空気が、微かに変わった。
誰一人、露骨に振り向いたりはしない。
だが、全員が“気づいて”いた。
リングのロープ越しに。ミラーの反射の端に。トレーナーの背後に。
──彼女たちが、こちらを見ている。
そして、すぐに聞こえてくる。
「えっ、すごい!」
「めちゃくちゃ速いね、あのコンビネーション」
「えっ、今の蹴りめっちゃ綺麗じゃない?」
「かっこいい……」
その無邪気な賞賛の声が、耳に届いた瞬間。
男たちの中に、スイッチが入った。
(……見られてる)
(手、抜けないなこれは)
(いや、逆に見せてやるか)
拳に、力がこもる。
パンチの一撃が、さっきよりも深く、鋭くなる。
ミットを持つトレーナーも思わず「おっ」と声を漏らす。
「はい! もう1セットいこう!」
「コンビネーション追加で!」
「ステップだけでもう一回、調整したいっす!」
──誰に言われたわけでもなく、自然と自発的な強化練習が始まっていく。
呼吸は荒く、汗は流れ、息は切れる――それでも誰一人として止まらない。
ジム内の温度とテンションが、じわじわと上がっていく。
その原因に、彼ら自身が気づいていないわけがなかった。
けれど誰も、口には出さない。
あくまで“いつも通り”を装って。
あくまで、“いつも通りのトレーニング”をしている体で。
だが、確実に火は点いていた。
その日、トラストキックジムの男たちは「見せ場」をつくることに命を燃やしていた。
──やがてその変化は…キックボクシング界隈で広まり始めた。
「あそこのジム……最近、めちゃくちゃ強くないか?」
「どこ? トラスト? 駅前の?」
「そう、あそこ。選手が明らかに異常」
最初は、地元大会の観客席で交わされた何気ない会話だった。
だが、その噂は少しずつ――確実に広がっていった。
「トラスト勢、全員動きが鋭すぎる。無駄がまったくない」
「フィジカルもスタミナも一段上だし、打ち終わりも早いし」
「集中力の質が違うんだよな」
セコンドの指示に特別な演出はない。
ただ、選手たちの迫力が異常だった。
「技術とか根性とかってより、“試合の入り方”がもう違う。最初から勝ちに来てる」
「トラストと当たるの、マジで気が重い……」
いつの間にか、各ジムの練習会でもこう言われるようになっていた。
「次の大会、トラストいるからな。対策しとけ」
「……トラスト想定で、スパーもう一回」
──急浮上した、無名の強豪ジム。
どこかの有名選手が移籍したわけでも、派手なSNS活動があるわけでもない。
それでも、「あそこは強い」と知れ渡る。
……誰も知らない。
本当の原因を。
──その頃のトラストジム
「ね、あの人のミドルすごいね!音が全然違う」
「フォームめちゃくちゃ綺麗だね……」
「私たちも、ちゃんと頑張ろうね」
「……うん!」
結衣たちは今日も和やかにウォームアップを始めていた。
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