ジム体験
「ねぇ結衣ちゃん、今週末、キックボクシング体験行かない?」
昼休みのオフィスで、神谷さんがパンフレットを手に声をかけてきた。
「えっ、キックボクシング?」
「そう。総務の中村さんと木下さんとで行こうって話になってて。結衣ちゃんもどうかなって」
――全員20代前半の、明るくて元気なタイプの女性社員たちだ。
「……ちょっと気になるかも」
「おっ、いいね!じゃあ土曜に駅前のジム集合ね!」
なんとなく新しいことに触れてみたくて、結衣は頷いた。
──土曜午後、駅前のキックボクシングジム。
「わ、本格的」
リング、サンドバッグ、ミット。
思ったより清潔感のある空間に、エアコンの風と薄く響く打撃音。
受付で名前を伝えると、スタッフがにこやかに案内してくれた。
「いらっしゃいませ。更衣室はこちらになりますね」
(ちょっと緊張するけど……まぁ、楽しんでみよう)
更衣室で着替えを終えて集まる。
「結衣ちゃん、スタイルよすぎ!」
「いやいや、脚長すぎない?」
「ちょっと立ってみて。ポーズ取って!」
「うわっ、本気で広告いけるやつじゃん!」
恥ずかしいけどちょっと嬉しかった。
インストラクターの説明で体験コースが始まる。
「じゃあまずは構えからいきましょう!」
足を肩幅より広めに、体重を均等に。
拳は顎の前、肘を内に絞って。
鏡の前でフォームを確認しながら、結衣はそっと身構えた。
(動いてみると、思ってたより難しい……)
続いて軽いシャドー。
周囲は「うわ、難しい!」「腕下がってく~!」
と笑いながら動いている。
「ワン・ツー!」とテンポよく掛け声が響く中、結衣も合わせて拳を出す。
「はい、ここはリズム意識していきましょう〜!」
汗がじわじわとにじみ、肩で息をする頃には、ようやくミット打ちに移った。
バシッ、バシッ。
ふと視線を横に向けると、奥のエリアでは常連らしき男性たちが、サンドバッグを黙々と叩いていた。
「うわ……レベル違う……」
「どれだけ通えば、あんなふうになれるんだろ……」
蹴りの音、ステップのキレ、無駄のない動き。その一つひとつに見惚れてしまう。
(……ちゃんと続けたら、私達もああなれるのかな)
そんなことを思いながら、結衣はまたミットの前に立った。
やっぱり女になると力も落ちるんだな…などと思いながらも、ようやく形になってくる。
(難しいけど……なんか気持ちいい)
──その頃、ジムの隅。
スタジオのガラス越し、ウェイトエリアにいた既存の男性会員たちが、ちらちらと目線を送っていた。
「……あの子、今日体験?」
「可愛いねあの子」
「モデルとかやってそうじゃね?」
「おい、見すぎ見すぎ」
その視線の先――
前髪をピンで止めた結衣が、真剣な表情でミットに向き合っていた。
細くしなやかな腕、軽く跳ねるポニーテール、額の汗が光に反射してきらりと光る。
ジム内の空気が少しだけざわつく。
「来週も来るかな」
「来るって信じよう」
彼らはその後も、自分のメニューそっちのけで――時折チラ見しながら、黙々とトレーニングを続けていた。
その日、ジムの一角には多くの“視線”が集まっていた。
──体験終了後。更衣室。
「は〜!めっちゃ疲れたー!」
「でも、なんか楽しかったね!めちゃくちゃ汗かいた!」
汗まみれになったTシャツを着替えながら、みんなが盛り上がっている。
「ていうかさ、結衣ちゃんほんと可愛かったよね!」
「あの跳ねた髪とか、汗でちょっと乱れた感じとか……」
「アイドルのライブ終わりっぽいね!」
やめて!と結衣がツッコミを入れると、みんなで爆笑。
「でもホント、結衣ちゃん来てくれて楽しかったよ〜!また一緒に来よう!」
「……じゃあ、私も付き合うよ」
軽い疲労感と、笑い声と、ほんのり心地よい高揚感。
(これ、案外悪くないかも)
そう思いながら、結衣はタオルで額をぬぐった。
そして、四人はジムの入会手続きをした。
──結衣たちが帰った後、ジムの一角。
「……今の子たち、帰った?」
サンドバッグエリアの隅に、男たちが自然と集まってきていた。
「なあ、さっきの子ら……体験だけじゃなかったよな?」
「うん、間違いない。入会手続きしてた。全員」
「マジで!? 結衣ちゃんって呼ばれてた子も!?」
「いたいた。受付でしっかり用紙書いてた」
「うおお……マジか……! ってことは、また来る……?」
「来るぞ。グループで定期的に通うって、スタッフが話してた」
その瞬間、周囲にざわっとした歓声が広がった。
「盛り上がってきたな……」
「てかお前、ミット打ち中ずっと振り返ってただろ」
「お前だってコンビネーション途中で止まってたからな」
「うるせーよ。……でも、あんな子が定期的に来るとか、モチベ爆上がりだろ」
そんな空気を横目に、スタッフが苦笑しながら一言。
「……カッコいい姿、見せてあげてくださいね」
その言葉に、全員が一瞬ピタリと静まり――
「……っしゃあ!!」
「もう一回スパーお願いします!!」
「今日からメニュー増やすわ!!」
「ディフェンス練習もう一回!!」
一斉に、それぞれのトレーニングエリアに散っていく男たち。
汗を拭っていたタオルを放り投げ、サンドバッグへ向かう者。
鏡の前で構えをチェックし直す者。
声を張り上げるスパーリング組。
その日ジムは“燃えて”いた。
──翌週、駅前のキックボクシングジム。
入口のドアが開く。
「こんにちは~!」
明るい声とともに、結衣たち4人がジムに入ってきた。
先週と同じポニーテール姿の結衣が、入った瞬間、数人の視線を一斉に集めた。
──奥のサンドバッグエリア。
「……あ、来た来た」
「先週の子たちじゃね?」
「やっぱ可愛いな……特にあのポニーテールの子」
「いや全員可愛いだろ……」
その場にいた男たちの動きが、一瞬ぴたりと止まる。
が、すぐにザッと音を立てるようにトレーニング再開。
「っしゃー! もう1セットいこう!」
「ディフェンス練習入れて!」
「俺、サーキット追加でやっとくわ!」
唐突に湧き上がるやる気と活気。
空調の音より、打撃音の方が明らかに響くようになる。
スタッフが受付カウンターの奥で小さく苦笑した。
「……また今日も元気になったな、うちのジム」
更衣室から出てきた結衣たちが、ストレッチを始めていると――
「誰かー、あの子たちのミット持ってあげて〜」
と、インストラクターの声がフロアに響いた。
その一言に、男性陣が同時にピクッと反応する。
「……誰いく?」
「いや、ここはさりげなく自然に……!」
「お前、グローブ脱ぐの早すぎ」
「全員めっちゃ狙ってるじゃん」
一人が一歩前に出ようとすると、別の男がわずかに肘でブロック。
視線の駆け引きと、謎の心理戦が静かに展開されていた。
──そのとき。
「じゃあ、高橋さんお願いできますか?」
インストラクターの声に場が静まり返る。
「……っしゃあ……!」(小声)
高橋は誇らしげにミットを掴んだ。
「よろしくお願いします!」
結衣の笑顔に、裏返った声で応える高橋。
遠巻きの男たちはグローブを強く握り直す。
リング脇で会長が咳払いをした。
「そんなにミットしてぇなら、今度の試合で決めろ。勝ったらあの子らのミット持たせてやる――それで文句ねぇだろ?」
「マジか」「……絶対勝つ」
その場の空気が一変した。
後日、区のアマチュア大会。
なぜか同じジムの男たちが全員、一回戦を突破していた。
「……で、結局誰がミットを持つんだ?」
「決勝まで残った奴で決めるしかねぇだろ」
動機はどこか間違っている。
だがジム史上、かつてない快挙が幕を開けようとしていた。
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