表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/20

木村(後半)

──快晴。




風も強くなく、絶好のスポーツ日和だった。


市営グラウンドを貸し切り、準備がやけに“本気”で、結衣は開始前からすでに少し圧倒されていた。


テント、スピーカー、ライン引き、のぼり旗に横断幕。

スタッフ用のTシャツまで用意されていて、まるで企業対抗の運動会のようだ。


(……思ったより、ちゃんと“やる気”なんだな)


ビブス姿の社員たちが、軽くランニングしたり、ストレッチしたりしている。

その光景を見ながら、結衣は出場名簿をチェックをしていた。


(こうして皆が楽しそうにしてるのは、ちょっといいかも)



普段は話す機会が少ない別部署の人たちが、チームを組んで笑い合っている。

「○○さんって走れるんすか?」

「俺、最後までバテないようにだけ頑張ります!」

なんて掛け合いがあちこちから聞こえてくる。



「藤原さん、リレー見ててくださいね!」


「俺、後半担当なんで。ちゃんと見てくださいよ!」


「うちのチーム、勝ったら一緒に写真撮ってくださいよ、記念に!」


笑いながら手を振る結衣に、何人もが「見ててください」と真剣な目を向けてくる。

そのたびに、ほんの少しだけ胸が温かくなる。




(……なんだろう、これ。ちょっと照れるけど、嬉しいな)



こんな風に声をかけられるようになったことが、少しだけ誇らしかった。


結衣は、手にしていた名簿に目を落としつつ、ふとあることに気づく。


(……そういえば、木村さん。今日は見かけてないな)



特別気にしているわけではない。

ただ、数日前に自販機前で話したのを、なんとなく思い出しただけだった。




──グラウンドの一角。



騒めく人だかりができていた。


「え、……誰あれ?」

「経理部の木村じゃない?」

「うそでしょ、誰だよあれ……」


白いTシャツの上からでもわかる、鋭利なまでに絞られた肉体。

脇腹、肩、前腕、脚――動くたびに筋繊維が浮かび上がる。


ジム通いどころの話ではない。

もはや、競技者の域だった。


しかし当の本人は、周囲の視線などどこ吹く風。

折りたたみ椅子に腰かけ、黙々と食事を進めていた。


特大タッパーのおじやにウメボシ。

バナナ。


そして――


彼はおもむろに、2リットルのペットボトルをシャカシャカと振り始めた。

キャップを回し、勢いよく「ブシュッ!」と炭酸を抜いてから、ぐびぐびと飲み干す。



メガネの社員が呟いた。

「ほう……炭酸抜きコーラですか。たいしたものですね」

挿絵(By みてみん)


「レース直前に愛飲するマラソンランナーもいるくらいですよ」


「それに特大タッパーのおじやとバナナ。ウメボシまで添えて……栄養バランスもいい」




──障害物競走、出走前。




「次の競技、選手の方はこちらにお願いします」


受付横で案内の声を上げる女性社員に促され、ぞろぞろと数名の選手が集まってくる。


「青チーム、佐々木さん……赤チーム、山口さん……」


ひとり、またひとりと結衣が点呼を進めていく中、最後に名前を呼んだ。


「経理部、木村さん」


その瞬間、周囲の空気が一変した。



列の後方から、ゆっくりと歩いてくる男。


思わず口にしたのは、結衣だった。


「……え?」



周囲もザワつき始める。


「……あれが、木村……?」


「嘘だろ……マジで?」


その姿に、全員が言葉を失った。


真っ白なTシャツに、スポーツ用のハーフパンツ。

だが、それを包む身体が“以前の木村”とはあまりに違いすぎた。


肩幅は広く、引き締まった筋肉の輪郭。

見るからにトレーニングを重ねた者のそれだった。


“ぽっちゃりした木村”の面影は、どこにもなかった。

まるで、別人だった。


「藤原さん……見ててください」


挿絵(By みてみん)


木村は、ごく自然にそう言って、穏やかに微笑んだ。


圧をかけたわけではない。

努力した男の、堂々たる眼差し。


結衣は、一瞬だけ言葉に詰まり――


「は、はい…!」


思わず、小さく頷いていた。


そのやりとりを見ていた周囲の社員たちから、ざわめきが走る。


「……マジか、経理部のあの木村が……?」


「なんだあの体……」


しかし、木村本人は周囲の反応など気にする様子もなく、静かに列へと加わった。


そこにいたのは、かつての“冴えない経理のおじさん”ではなかった。

ただ、自分の力を試しに来た一人の“アスリート”だった。



──障害物競走、開始の合図。


スタートラインに並ぶのは、各チームから選出された代表社員たち。

結衣が見守る中、「よーい……ドンッ!」の掛け声と同時に一斉に駆け出す。


初手、ミニハードル。


「うおっ!?」「あっぶね!」

引っかかって転ぶ者、足をもつれさせる者、笑いを誘う波乱の展開。


その中で――

木村は、何事もなかったかのように飛んだ。


軽やかに、無駄のない動き。

足を高く上げるのでも、力で踏み切るのでもない。

重心移動だけでスッと超えていく“合理的な動き”。


次に現れる平均台。

バランスを崩しておたおたする他の社員たちを尻目に、木村は速度を落とさず、しなやかなに通過した。


ざわっ――と観客席がどよめく。


土管状のトンネルも、跳び箱も、ネットの下くぐりも――

木村はすべてにおいて、異質だった。


一言でいえば、“パルクール”。

動きに一切の無駄がなく、見ている者を魅了するリズム感と滑らかさがあった。


「なにあれ……」

「速い!!」

「……美しい……」


社員たちが口々にざわめく中、木村は最後の高跳び型の障害を、軽々とクリアしてゴールテープを切った。


静寂。


そして――


「木村さん……やばくない?」


「……パルクールじゃん……」


「……かっけぇ……!」


拍手が、自然に起こった。


最初は小さな音だったが、やがてあちこちから沸き起こり、気づけば大きな拍手の渦がグラウンドを包んでいた。


木村は一礼し静かに歩いて戻っていった。

まるで、“やるべきことをやっただけ”という表情で。


結衣は、唖然としながらも手を叩いていた。

ただ一言、ぽつりと漏らす。


「……すごい」




──リレー、最終種目。


大会も終盤、応援席の熱気は最高潮に達していた。


最終種目がスタート

声援と歓声が入り混じる中、レースは進んでいく。


結衣は得点表を確認しながら、じっと走路を見つめていた。

木村のチームは、ここで勝てば総合優勝。

まさに、運命の一戦。


第1走者、第2走者と順調にバトンが繋がれ――

最終アンカーの木村にバトンが渡る!!!


しかし、彼が受け取った時点で順位は3位。

先頭とは10メートル以上の差があった。


――が、


「速いッ……!」


差が、みるみるうちに詰まっていく。


フォームはぶれず、ただ淡々と地面を蹴り続ける。

静かに、圧倒的に、加速していく。


第二コーナーで2位のランナーに並び――

「木村!」「いけええええ!」


抜き去る――


ラスト100メートル!!トップに追いつけるかどうか


自チームの応援席が揺れるように立ち上がる。

みんな我を忘れて叫んでいた。


「木村あああああああ!!」


「木村ああああああああ!!!」


「いけえええええええ!!」


叫ぶ、叫ぶ、総立ちで絶叫する。

社員も管理職もパートも関係ない。みんなが声を張り上げる。


そして――


木村が、誰よりも先に、ゴールテープを切った。


歓声が爆発する。


「うおおおおおおお!!」


「優勝だぁぁぁぁ!!」


仲間が駆け寄り、次々と木村に抱きつく。



木村は堂々と、勝者の風を背負っていた。



──閉会式。夕方。



グラウンドには、一日中動き回った社員たちの心地よい疲労感と、達成感が満ちていた。


壇上に立つのは木村。



障害物競走でもリレーでも見事な活躍を見せた彼は、チームを勝利に導き、堂々のMVPに選ばれたのだ。


拍手が鳴り止まない中、司会者が促す。


「では、最後に一言、お願いします!」


マイクを受け取った木村は、明らかに戸惑っていた。

手のひらに汗をにじませながら、ひと呼吸おいて口を開く。


「……あ、あの……今日は、本当にありがとうございました」


少し緊張した声に、和やかな笑いが起きる。


「昔の自分を知ってる人がいたら……たぶん、今の姿は想像もできなかったと思います」


言葉に少し間をあけ、ゆっくりと続ける。


「もしかしたら、俺……少しだけ、変われたのかもしれません」


その一言に、会場の空気がふっと温かくなる。



気づけば、若手社員たちが立ち上がっていた。


「……木村さーーーん!!」


「木村あああああああ!!」


「木村!!木村!!木村!!」


木村コールが巻き起こる。


最初は自チームだけだったその声が、周囲にも伝播していき、“木村コール祭り”と化した。


木村本人は真っ赤な顔で頭を下げながら、マイクを両手で持ってペコペコしていたが――


その姿すら、なんだか誇らしくて、皆が笑っていた。



その少し後ろ。


列の端で静かに拍手していた結衣が、ぽつりと呟く。


「……木村さん、かっこよかったですね」


その一言が、隣の若手社員たちの耳に入った。


「え、今藤原さん“かっこよかった”って言ったよな……?」


「なんだと…?」


「……やばい、俺も絞るわ。今夜から走る」


「俺も! プロテインってどれ買えばいい?」


――その日を境に、社内に筋トレブームが始まった。



楽しんでいただけましたか?


評価やブックマークをいただけると励みになります。


よろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ