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イシュダヴァが決戦と予告したその日は、曇天であった。雲は重たくたれこめ、風は湿り気を帯びて強い。木々の葉擦れの音は、絶えることがなかった。
例によって、ルジェリは気にしない。日照系の魔術の効果が薄れるな、と思う程度には魔術師団の人間になっていたが、彼の魔術師とは関係ない。
「いいですね、突出は禁止ですよ」
そういいながら、ルジェリは魔術師の足首に革製の枷をかけた。
「……これはなんだ」
「けっこう高かったので、こわさないでいただけると助かります」
枷には魔術を仕込んだ鉄の鎖がついている。これも高かった――まぁ、払っているのは実質イシュダヴァではある。その鎖の先は、ルジェリの腰に繋がっていた。
「なにをしているんだ」
「物理的に、上官が離れ過ぎるのを阻止しようとしています。突飛な動きをされると、自分がふっとぶことを考えていただければと思いまして」
「こんなことをしたら、君がまともに動けないだろう」
「平気ですよ? イシュダヴァ様と離れるのは、最大限、この距離と決めています。ちょっと魔力を通していただければ、この鎖も魔族への武器になりますし」
もちろん平気ではないし、いざとなったら即座に切り離せる仕掛けになっている。それをイシュダヴァに伝える気がないだけだ。
「わたしも思うように動けないではないか」
「狙い通りです。思いつきで動いてしまわれるのを阻止するためのものですから」
「……わかったわかった。誓う。ちゃんとした誓いを立てるから、これはやめてくれ」
「誓いに実効性はあるんでしょうか? 物理的な?」
「魔術的な実効性があるやつだ。剣を貸せ」
許可を待たず、イシュダヴァはルジェリの腰から剣を引き抜いた。刃に親指を当てて、少し血を流す。
「なにを――」
「君も同じようにしてくれ。嫌なら、この話は終わったものとする」
ルジェリも刃に指の腹を当て、傷をつけた。その傷に、イシュダヴァが自分の傷をかさねた。残っている指をからめ、短く唱える。
「日没まで、魔術師イシュダヴァは、護衛騎士ルジェリと規定の距離――この鎖の長さでいいか?」
「はい、上官」
イシュダヴァは、空いている方の手で鎖を握った。
「鎖の長さ以内に留まることを、おのれの血に賭けて誓う。君も復唱しろ、名前だけ入れ替えて」
「日没まで、護衛騎士ルジェリは魔術師イシュダヴァと、この鎖の長さ以内に留まることを、おのれの血に賭けて誓う」
「すぐ復唱できるなんて、すごいな。……さて、うまくいっているか、試してごらん」
鎖の長さより遠くに行くなら、イシュダヴァの天幕を出ねばならない。
ルジェリはすたすたと歩み出て――はっと気づくと、隣にイシュダヴァがいた。
「ほらね? 勝手に引き戻されるようになった。うまくいった」
「こんな魔術があるのですね。知りませんでした」
「魔術というか、呪術みたいなものだね。ちょっと系統が違うんだ」
ふうん、とルジェリは思った。呪術は魔族がよくするもので、人間が扱うのは難しい。たしかに系統が違う。
「ありがとうございます。では、装具ははずしておきます」
「ああ。こわさずに済んで、よかったよ」
手枷と鎖を回収し、ルジェリはそれを片づけに、装備を管理する天幕に移動した。
そこには同僚の護衛騎士と魔術師がいた。魔術師は、ルジェリが手にしたものを見て眉尻を下げた。
「イシュダヴァに紐をつけようとしたのね」
「断られましたが」
「しかたないね。イシュダヴァは、制限をかけられるのを嫌うから」
「あのひとが自由にこだわるのって、たぶん、自由じゃないからなんでしょうね」
ルジェリがこぼすと、魔術師が目をほそめた。
「君のような護衛騎士を得られて、イシュダヴァは幸運だと思うよ」
「まったくです」
真顔で返すと、同僚が吹き出した。
「ルジェリってルジェリだよなぁ……いいよ、その調子!」
「それより先輩、準備は順調ですか」
「手練れの護衛騎士を、優先的に配置できてる。重唱魔術がうまくはたらけば、俺たちの出番だ」
「手柄がっぽがぽですね」
「おうよ。知ってるか、上級魔族の素材って国宝級のが獲れるらしいぞ」
「知ってます。腕が鳴りますね」
魔術師が首をふった。
「重唱魔術がうまくはたらけば? 我々の仕事を信じていないの?」
「もちろん信じております、言葉の綾であります、上官!」
「その通りです、上官!」
ルジェリの弁明に即座に乗ってきた同僚は、ほかに呼ばれて天幕を出て行った。
残った魔術師に、ルジェリは尋ねた。
「失礼ながら、血をもちいた誓いの呪術というものをご存じでしょうか?」
魔術師は眉根を寄せた。
「イシュダヴァがなにかしたの?」
「一定距離以上は離れない誓いを立ててもらったとき、そう説明されました」
「わたしが知る限り、ただの因習だけど……イシュダヴァがやるなら、なにか理屈があるのかな」
ないね、とルジェリは思った。あいつは嘘つきのクソ魔術師だ。
初手から信じていなかった。こんな簡単便利な呪術があるなら、広まっていないはずがない。となると、あれはイシュダヴァの嘘だ。不意に近くに来たのも、あの魔術師が能動的にやったことだろう――誓いも呪術も関係なく。
だいたい、今イシュダヴァがここに来ていないのもおかしい。詰めが甘い。この程度で謀ることができると思われているなら不愉快だが、実際はルジェリを侮るもなにもなく、単に雑で迂闊なだけだろう。そういう奴だ。
「力になれなくてごめんね」
これでも師団内では呪術に詳しい方なんだけどね、と魔術師は肩をすくめた。
知っている。だから確認した。彼女がわからないなら、調査はここで終わりである。
「いえ、参考になりました。ありがとうございます」
「わたしがいうのも変だけど……イシュダヴァを守ってやってほしい。わたしの家族は、あいつに救われたの。あいつがいなければ、消えていた村だった。魔族の動きに気づいたイシュダヴァが、ひとりで飛んで行ってね。かなり強引に撃退してくれて――もちろん、当時の護衛騎士も師団の仲間も、誰もかれも置き去りにしてね」
だから、と魔術師は澄んだ目でルジェリを見た。
「もう、あいつだけを行かせたりしない。わたしも――いや、我々も全力を尽くすと約束するよ」
恩を受けたのは、わたしだけじゃないんだ。魔術師はそういって立ち去った。
ほれみろ、とルジェリは思った。
返せない大恩を背負わされても困るのだ。たまには回収しやがれ。