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記念すべきその日は曇天だったが、ルジェリはいささかも気にしていなかった。
平民の出身ながら士官候補生を育てる学校に入学し――建前上は平民も受け入れることになっていたが、実際に入学できる者は一握りであったし、卒業を迎える者はさらに少なかった。金銭的あるいは身分差別的な問題は解決されていないからだ――主席で卒業したのだ。未来は洋々たるものだと、彼は信じていた。
辞令は今日、発表される。
近衛……は無理だろうし、宮仕えは望んでいない。主席で使い捨てやすい平民となれば、魔族との戦いの前線に立つ騎士団の、いずれかに配属されるはずだ。武勲を立てやすくて助かる。
――実力をもって、俺の力を示してやろう。
そう意気込んでいた。
結論からいうと、ルジェリは騎士団には配属されなかった。
彼が配属されたのは、魔術師団。前線には出る。派手な戦いもする――ただし、手柄は魔術師のものだ。護衛騎士は、魔術師の背景である。
十日間の研修を終えたルジェリは、異動の機会を待つしかないだろうなと考えていた。
騎士団に欠員が出れば、きっと呼ばれる。主席卒業なのだし。それまでは、魔術師の護衛という地味な仕事を堅実にこなすしかない。
同期が次々と直属の上官と引き合わされる中、ルジェリが守ることになる魔術師はなかなか来なかった。夕刻まで――昼食抜きで――待ちぼうけを食わされた挙げ句、日が沈みかけた頃にようやく、その魔術師はあらわれた。
強力な魔術師のほとんどが女性である例に漏れず、ルジェリの上官も女性である。顔の上半分を覆うほど、幅の広い目隠しをつけていた。額の中央に縫いとめられた輝石が、西日を受けてきらりと光る。目隠しはかなり分厚いようだが、なにか見えているのだろうか。
鼻は高いが小さく、くちもとは厳しく引き締められている。魔術師団の制服に包まれた身体は幼くも見えたが、声は少し低めの落ち着いたものだ。
「やあ、遅くなって悪いね。ちょっと小型の飛竜とやりあっていたものだから」
「困りますよ、イスダヴァ様。護衛なしで前線に出るなんて。師団長に禁止されてましたよね?」
事務官――やはり昼食抜きの憂き目にあった――が、恨みがましい声をあげる。
だが、イスダヴァと呼ばれた魔術師は平然としている。
「わたしは前線に出ていないよ。前線が向こうから来たんだ」
「誰も信じませんよ……」
「心外だな。ところで、彼がわたしの担当かい?」
「はい。ご注文通り、今年の新人でもっとも優秀な者です。士官学校を主席で卒業しました」
目線でうながされて、ルジェリは敬礼をした。軍の敬礼は、右手を心臓に当てるものだ――この命を捧げます、という意味である。
――こいつが優秀な新卒を望んだせいで、俺はここに配属されたのか。
そう思ったが、表情には出さなかった。あの目隠しで見えているとも思えないが、念のためである。
「本日付けで着任しました、ルジェリと申します」
「わたしはイシュダヴァ。これからよろしくたのむよ。わたしの護衛はなかなか長続きしないんだ。できれば最長記録を更新してほしいね。まず、訓練場に行こう。わたしのやりかたを説明する。それから夕食を奢る。初日だからね。宿舎にも、わたしが案内しよう。部屋は隣になるわけだし。シュレンド、君はもう帰っていいよ。世話になったね」
「帰る前に、師団長に報告していきますよ。飛竜の件」
「師団長はもう知っていると思うよ」
からりとした笑いとともに、魔術師は手をふって歩きはじめた。ついて来いという意味だと察して、ルジェリは彼女に従った。
研修で教わった通り、左斜め後ろ半歩の位置につけ、そのまま訓練場まで移動する。訓練場には、何人かの魔術師がいた。もちろん、護衛騎士も控えている――影のように。
「イシュダヴァ、新兵かい?」
「わかることを訊くなよ。見物しに来たくせに」
軽口を叩いて、イシュダヴァは的の前にルジェリを呼び寄せた。
藁を束ねて棒に巻きつけたものが、三つ並んで立っている。
「さて。君が研修で覚えたことは忘れてもらう。その代わり、わたしのやりかたを覚えてくれ」
「はい、上官」
突拍子もないことをいうとは思ったが、新兵に口答えは許されない。
「研修では、魔術師の詠唱時間の隙を守ることを前提に指導がなされたと思う。だが、わたしは基本的には詠唱しない」
「はい、上官」
従順に答えながら、ルジェリは内心、首をひねる。
――詠唱しない?
「単純な魔術であれば、瞬時に発動が可能だ。たとえば――」
パチッと魔術師は指を鳴らす。同時に、中央に据えられた的の上部が切れて落ちた。藁束がひらりと舞って散っていく。
「――このように。仕込みだと思われては心外だから、次は君が右とか左とか指示してみたまえ」
「……は?」
「口にしてみろ。右、と」
「はい、上官。……右?」
魔術師は指を鳴らすことさえしなかった。右の的の上部が切れた。
ルジェリは呆気にとられた。詠唱なしの魔術なんて、聞いたことがない。
「今のはわたしが右を誘導したからな。気が済むまで指定してみるといいぞ」
ルジェリは上官を見下ろした。ほらほら、と魔術師は楽しげである。
――じゃあ、やらせてもらうか。
上官に指示するなど僭越きわまりない行動だが、命令だ。問題なかろう。
「右」
シュッ、とするどい音をたてて的が削れた。
「左……右、中央……右」
左の的の上部が消し飛び、右は藁が飛び散り、中央もまた上部が切り落とされた。
――心棒は避けているのか。
上部なら切り落とすのは、藁が棒より高く括られているからだろう。だから、てっぺんを落とした的は藁にかすめて切るだけにしている。自分の推測が当たっているのだとしたら。
――すごい精度だ。
具体的になんの魔術かはわからないが、無詠唱で、ろくに的の方を見もせず――まぁ目隠しがあるのだから、視覚にたよらない認識法があるのだろうが――瞬時に対応可能、しかも必中とは。
魔術師は声をあげて笑った。
「君、なかなかやるね。そんな風に指示してきた者は、かつていなかったぞ。これは期待ができるな」
「失礼ながら、質問してもいいでしょうか」
「無詠唱の理屈なら説明できないぞ。ただできるだけだ。魔術師団でこれが可能なのはわたしだけだし、どうやっているかは自分でもわからん」
「……いえ、前任が長持ちしなかった理由を伺いたいです」
こいつが破天荒なせいじゃないかと思いつつ訊いてみると、だいたいそんな感じの回答が返った。
「あらゆる意味で、わたしについて来られなかった……が、理由かな。君、竜に騎乗は?」
「は。訓練は受けていますが、自分の竜は所持しておりません」
「では、わたしの竜に挨拶してもらおう。明日だな……今から行っても機嫌が悪かろう。あいつは朝がいちばん機嫌がいいんだ。明朝にする。的当ての方は、もう満足したかね?」
「はい、上官」
魔術師の口が弧を描いた。
「では着任祝いとしゃれこむか。行きつけの店がある。ついて来たまえ」
「はい、上官」