火事息子
時代が変わる、潮目が変わる、そんな大きな分水嶺の中で、
まだ何につながるかわからないような、ささやかな出会いという至極小さな分水嶺の話。
明治元年。
定火消しが、廃止されることになった。
つまりは、定火消し配下の火消し人足、臥煙である藤三郎の仕事もなくなるのだ。
定火消しは、幕府直轄の消防組織だった。
幕府がなくなる以上、定火消しもなくなるのは時間の問題だと言われていた。
それはその通りだろうと思い、覚悟はしているつもりだったのだが、いざその日が来るとなると、あまりにも唐突に思えて、なんとも心許ない頼りない気持ちになる。そんな寄る辺のない気持ちになった己自身に、藤三郎は戸惑った。
火事と喧嘩は江戸の華、
などと言われ、火事が多いことが半ば当たり前となっている江戸の街を、火消し人足として守ってきた自負が藤三郎という男にはあった。
けれどそんな江戸も、この程『東京』と名を改めることとなり、時代の波は容赦なく変化を促している。
長らく江戸を、ひいてはこの国を治めてきた徳川家は、時代の大きなうねりの中で威信を失った。
政権は京の町にいらした天子様が握ることになったと聞き及ぶ。
いや、もとよりそれがこの国の正しい姿だという話もあるようだが、政治の話は何やら小難しくて、藤三郎の理解の外にある。
将軍様が暮らしていた千代田の城は、すでに新政府軍に明け渡され、いずれは天子様がお住まいになるのだろうと町では噂されている。
異国を排斥する鎖国政策は一転、いつのまにか流れは開国へと変わり、異国の人々とともに、これまでとは異なる価値観、異なる情報、異なる技術が日々もたらされるようになっている。
それでも、実際のところ自分たちごく普通の市井の者にとっては、何がどう大きく変わろうと、日々の暮らしには何も変化などないと思っていた。
ある意味において、藤三郎はたかをくくっていたのだろう。
頭に呼ばれて向かった先に、見たことのない役人がいて、ひと月の後、定火消しが廃止されることが正式に決まった、と伝えられた。
役人は見るからにやる気のない素振りの男で、気だるそうな顔でそれだけを言うと、さっさとどこかへ消えていった。
頭にはもっと早くに知らされていたのだろうか。定火消しを束ねる頭は、臥煙たちの前に立ち、共に役人の言葉を受けながら唇を一文字に引き結んで難しい顔をしていた。
もっとも、正式な知らせをされたのが、たまたまその日であっただけで、もうだいぶ前から出ていた話だったからだろうか、仲間たちはさほど動じる様子もなく、淡々とその役人の言葉を聞き、特に文句を言う者もいなかった。
藤三郎は同じ臥煙の太助から誘われて飲み屋に入った。
入ったのは、どちらにとっても初めて入る店だった。
噂が巡るのは早いものだ。
人の口に戸は立てられないものだから、定火消しが無くなる話は、町の者の耳に届いていることだろう。
馴染みの店に顔を出して、仕事がなくなることを気の毒がられるようなことになったら、気持ちが今よりもっと落ち込んでしまうような気がした。
それは藤三郎だけではなく、太助も同じことを考えていたらしく、だからわざと、この日二人は、入ったことのない店を選んだ。
店は小女が一人と、初老の店主が切り盛りをしていて、大きな店ではないものの、小ざっぱりとして感じが良かった。
繁盛している、と言えるのかは定かではないが、店の中にはちらほらと客の姿もあった。
客のうちに酔って騒ぐような者はなく、各々この店で過ごす時間を大事に思っているように見えた。
まめまめしく働く小女と、穏やかな顔をした店主の男が、馴染みの客相手に時折打ち解けた様子で軽口をたたいているのも、不思議と煩わしいところがなく、その声音が今の自分たちにはいい塩梅で、寂しい気持ちにならずに済んだ。
「藤三郎兄貴はこのあとどうすんです。いよいよ本当に定火消しがなくなっちまう、だなんて」
と、太助が言った。
当たり障りのない話をしながら飲み始めて、酒がいい具合に進んでからのことだ。
はなから、話したいのはこのことだったのだろう。
それはそうか、と藤三郎は思った。命がけでやってきた仕事がなくなると言われて、それ以外にする話なんて思いつかない。
真剣な顔をして、こちらを睨むようにしている太助に、なんと答えたものか迷って、
「どうするって言ったってなあ」
と、藤三郎は店の天井を仰いだ。
太助は、藤三郎を兄貴と呼ぶが、実際には太助のほうが二つばかり年が上だった。
いつぞやの火事のときに、太助目掛けて降ってきた火のついた木材から、藤三郎が庇ってやったことがあった。
命に関わるものではなかったのだが、そのことで藤三郎はいくらか怪我も負った。大した怪我ではなかったし、しばらくすれば治る程度のものだったから、ことさら恩義に思われる必要はないのだと、太助にははっきり伝えた。
けれど、それ以来、太助は藤三郎を兄貴と呼び、丁寧な口調で話すようになってしまった。
その敬うような態度に藤三郎が困り果て、太助のほうが年長なのだから、と説得したのだが、太助の言い分は、
「俺はあのとき一遍死んで、兄貴のおかげでもっぺん命を拾ったようなもんだから。俺はあんときに生まれたんでさ。だから兄貴よりも年は下さあね」
という、藤三郎からすれば、なんとも詭弁に満ちたものだった。
しまいにはとうとう藤三郎のほうが根負けして、太助をほったらかしにしたものだから、数年たった今でも、太助は藤三郎を兄貴と呼んではばからない。
「兄貴は、お店に戻ることも…」
「いや、戻る気はねえ。それだけは、はっきりと決めてんだ」
探るような調子で、太助がお店と言ったのは、藤三郎の生家のことだ。
藤三郎は、もともとは火消しなどをやるような生まれの男ではなかった。
とある商家の、それも、そこそこ大きな商いをしている店の御曹司、跡取りの惣領息子だった。
店を継ぐことを当たり前として育てられてはきたが、どうにもこうにも藤三郎は火消しになりたいと思ってしまって、それを叶えないわけにはいかなかった。
「火消しになりてえって言って、無理矢理に家業、捨てさしてもらったんだ。今更、商売替えしてえだなんて、どの面下げて戻れるかってんだ。それに、妹が婿を取って継いでくれることになってる。無事に、相手も決まったそうだ。子ども時分から知った相手でさ、こっちから見てるとままごと遊びみてえだけど仲も良い。祝言の日取りも決めようって頃合いだ。なおのこと、俺が戻っちゃ邪魔になるだろ」
「そうですか、そしたら」
「お前とおんなじだよ、なんにも決まっちゃいねえ」
太助は、ほっと息を吐いた。
「どした」
「いや、兄貴にはすまねえけど、ほっとしちまって。ほかの奴ら、さっさと商売替えして、俺だけなんだか取り残されたみてえに思えちまって」
「そんなことねえだろ。みんな似たようなもんだ」
藤三郎が、我ながらなんとも中身のない、その場しのぎの慰めを言っていると思っていると、隣から、けらけらと笑い声がした。
声に気を取られて、太助ともども伏せがちになっていた顔を上げる。
ひとつ離れた隣の席で小柄な男が肩を震わせて笑っている。男に連れの姿は無く、一人で酒を飲んでいるようだった。
酒を飲んでいるうち、何事かを思い出しでもしたのだろうか。相手がいないのだから、そう思うのが妥当だろう。
自分には関わりがないはずなのに、男の特徴的に響いて聞こえる笑い声が妙に気になって、ちらりと盗み見るように藤三郎はその男に目をやった。
関わりがないからこそ、盗み見たというのに、見知らぬ男のほうが、わざわざ振り返ってはっきりと藤三郎を見ていたがために、目が合ってしまった。予定としていなかったことで、藤三郎のほうでは気まずく思ったが、目が合った男は、なおも笑いながら立ち上がると藤三郎の隣にどさりと座った。
まるでそうすることが当たり前の仲だとでもいうように。
「火消しの旦那方、おもしれえなあ」
なあ、と話しかけられた藤三郎は、太助の知り合いなのかと思って、無言で問うように太助を見やったが、藤三郎の意図を汲み取ったのだろう、ぶんぶんと首を振っている。
知らないという意味だ。
なるほど、それでは自分たちは見ず知らずの酔客に絡まれているところなのだろう。
客筋の良さそうな店だと思ったが、酒を出す以上はどうしてもこういう酔っ払いというものが、つきものなのはしかたがない。
笑い転げていたためなのか、酒のためなのかはわからないが、男は色白の顔を赤く染めている。
近くで見ると、役者のような整った顔立ちをしているが、年若で小柄なせいだろうか、色男というよりは、むしろ子どものようだと、そんな印象が先に立った。
何を言い出すのかと、思わず待ち受けるようにしていると、男は藤三郎をぴしりと指差した。
いや正確には指ではなく、手にしっかりと握った銚子で。
勢いよく振り回すので周りが酒浸しにならないかと案じたが、中身は男がとうに飲み干してすっかりと空らしい。
「そっちの旦那、火事息子そのまんまのお人なんじゃないか」
「かじむすこ……?」
「火事だよ、旦那が好きな、火事。火事の息子って書いて火事息子だ。なあ、まんまだと思うだろ」
「……なんだそれ、剣呑なこと言いやがる」
火消しの自分に、言うに事欠いて火事の息子だという。意味がわからない。
段々と腹立たしく不愉快に思えてきて、隠す義理もないから、藤三郎はあからさまに不機嫌な顔になってみせた。
「あれ、旦那あ。もしかして、知らねえか火事息子」
藤三郎が不機嫌になったと見て取ると、途端に、男はくるっと目を見開いた。
目を見開くと、余計に子どものようだった。
「落語のネタだよ。見たことねえか、火事息子って話があるだろう」
「落語?いや、知らねえな」
そもそも、落語自体をあまり見ない。
火消しの仲間内で好む者もいるけれど、わざわざ寄席に出かける、遊びに出かけるといった習慣が藤三郎にはなかった。
生まれついてのものか、元は大店の御曹司、などという育ちの良さが出るものか。
臥煙というやくざな商売をしている割に生真面目で、あまり、遊びらしい遊びをしない男なのだ。
「寄席には行かねえんだ」
「あーなんだ、そおかあ」
男は口を曲げると、必要以上に肩を落とした。
何やらひどくがっかりしたらしい。
何に対してそんなに気を落としているのか藤三郎にはわからず、首をかしげた。いつのまにか、腹立たしい気持ちが収まっている。くるくる変わる男の表情に気を取られて、苛立ちがどこかへと消えてしまった。
「いや、悪い。聞き耳を立てるつもりはなかったんだ。怒らねえでくれよな。けど、ちらーっと聞こえてきたそっちの旦那の話、あれ、そりゃ火事息子じゃねえかって思ったら面白くて、つい口を挟みたくなっちまったんだあ、そっかあ」
そう言うと、元の席に戻ればいいのに、藤三郎の隣に座り込んだまま、塩のかかったナメクジか何かのようにずるずると縮こまっていく。
どうしたものかと思っていると、太助がああ、と声を上げた。
「なんだ、急に妙な声上げて」
「火事息子。たしかに、兄貴みてえな話ですよ」
「だよなあ!」
「うわ、びっくりした」
太助の言葉に、突然元気を取り戻したのか、男は勢いよくがばりと起き上がった。
「そっちの旦那は、いける口だな!」
「いける口ってのか、まあ人並みに寄席なんかには行ってると思うけどよ」
太助の返事に、男はぶんぶんと大きく首を振って頷いている。
「いやあ良かった話のわかる人がいて」
急に元気を取り戻したらしい男は、太助の手を掴むとぶんぶんと揺さぶって、にっこりと微笑んだ。
「人並みって、それじゃ俺がおかしいみてえだろ」
二人の話が通じている様子に、思わず藤三郎は口を尖らせた。
片方は見知った仲間でも、この酔っ払いはただ絡んできただけの見知らぬ他人なのだから、よくよく思えば拗ねる必要もない相手なのに、なぜだかのけ者にされた気がして、藤三郎はつまらない思いになった。
「や、兄貴そんな気で言ってやしませんよ」
「まあまあまあ、喧嘩すんじゃねえって」
藤三郎の機嫌がいくらか下がったのは、太助ばかりが原因ではないのだが、小柄な男は当然思い当たることもないという調子で、鷹揚に取り成してくる。
「いや喧嘩はしてねえけど」
「そんじゃここはひとつ、そっちの旦那にも火事息子を聞いてもらわないといけねえ」
藤三郎の言葉を無視して男はそう言うと、ひょいと身軽に空いている席に乗り上がった。
「ちょっと小坊主、どこ乗ってんだい」
「いいんだよ、いつものことだ、やらせてやりな」
慌てた様子で奥から出てきた小女と、店主の会話で、男がどうやら「こぼうず」と呼ばれているらしいことがわかった。
わかったが、一体なにを始めるつもりなのかは、藤三郎にはまるで検討もつかなかった。
だというのに、少ないながら店の中にいた他の客たちまで、始まったと笑いながら近づいてくる。
「おい、小坊主。今日は何かけんだ」
「師匠にまた目玉くらうぞ」
「師匠はさておき、小坊主の場合はおっかねえのは兄さんのほうだな」
「違いねえや」
なにがなんだか、こちらにはさっぱりだけれど、この店にとっては、いつものことらしい。
「しいぃ。だから、皆、静かに、おとなーしく聞いてくれよ。兄さんに聞かれっとあとで俺がどやされるんだ」
「そりゃおまえの出来によるだろうよ」
「おまえの噺がまずけりゃ、心配せんでもここら一体しーんと静かにならあな」
「それでおまえがいいってんならの話だけどな」
「そいつはもっともだ。聞いてくれる皆にしーんとなられながらの高座なんてぞっとする。ええい、かまわねえや。兄さんにみっかったらそん時はそん時。逃げてやらあ。皆も俺に加勢してくれよ」
「何言ってんだ。そんなことした日にゃ俺らがおっかねえ目を見る」
「心配せんでも、おまえの兄さんが来たら俺らはとっととずらからせてもらうぜ」
「そんなこたいいから、さっさと始めてくれや」
「わーっかったわかった。ほいじゃ、初めさしてもらうとしやしょう」
馴染みの客たちと小坊主という男との、ぽんぽんと掛け合うようなやり取りを、訳も分からず聞きながら、藤三郎が隣を見ると、太助もぽかんと口を開けている。
一体全体これから何が始まるというのか。視線を感じてふっと顔を上げると、いくらか高くなった位置から、じっと小坊主が藤三郎を見つめていた。
「火消しの旦那、あんた名前は」
「へ、俺か? 藤三郎だ」
「藤三郎の旦那、あんたによく似た男の話を今からすっから、聞いて帰ってもらいてえ」
男の顔を見上げて、わからないまま藤三郎が頷くと、男は一度にかっと笑みを浮かべてから、すぅと息を吸って、突然すらすらと話し始めた。
「『神田あたりのこれは質屋の若旦那でございますが、小さい頃から火事が好きで遊ぶおもちゃといや、ハシゴだとか火消しのまといだとか、そんなものばかり。これが段々と大きくなってまいりますが、火事だってえと目の色変えて表に飛び出してくてんで…』」
始まったのは落語だった。
立板に水とはこういうことを言うのだろう。
男は、飲み屋の席をあっという間に、すっかり落語の高座にしてしまった。
声を聞きつけてか、いつの間にか戸口のところにも一人、二人と人が集まってきている。
物珍しげというよりは、ああまた始まったと楽しんでいるような様子があって、この小坊主という得体のしれない酔っ払いの落語が、この店、この界隈では、よく知られているらしいことが見て取れた。
藤三郎に、芸の出来不出来はわからない。けれど、明朗な声でコロコロ表情を変えながら、調子よく話す小坊主に、いつの間にやら引き込まれるようにして、話に聞き入っていた。
『火事息子』という話は、たしかに藤三郎にいくらか似ていた。
火消しになりたいと家を飛び出し、勘当された男が、生家である質屋の近くで火事が起きたと知り真っ先に駆けつける。やって来た火消しが、勘当して臥煙となった自分の息子だと知った父親は、会えて嬉しいのだが素直になることができない。最後には母親である女房に泣きつかれる形で父親のほうが折れる。
最も、藤三郎は生家を勘当はされずに済んでいるし、家族が火事にあったことも、これは有難いことに今のところは無い。
顔を出せば家の者もごく当たり前に接してくれる。これから家業を継いでくれる妹も、よく慕ってくれていて、気まずい思いをしないですむのが、かえって気まずいような気がするという、なんとも贅沢なものだがそんな家だ。
だからとてもよく似ているというほどでは、実際はないのだが、それでも大店の跡取り息子が、好き好んでやくざな臥煙になろうというのは、あまりある話ではないことかもしれなかった。
物語の流れとしては、親子の情愛を思わせるような筋立てだが、小坊主の芝居はそれよりも、火消しが自分の息子だとわかる前と、わかってからとで、態度ががらりと変わる父親や、その間を取りなそうと四苦八苦する番頭の様子が、とにかく笑いを誘って終始おかしかった。
久方ぶりに息子の顔が見れたのは火事のおかげだと、母親が火元にお礼参りに行きたいと言い出すのが話の落ちるところで、本物の火事場を知っている藤三郎は、そんな理由で礼を言いに来られては、火元の家はたまったものではないだろうなと妙にひやひやとしてしまって、他の客たちのように馬鹿笑いするまでには至らなかったが、それでも十分おもしろかった。
終いまで小坊主が話し終わると、店の中は、わっと歓声が沸いた。
客の中には、ネタを見た代金だと、小坊主に祝儀を渡そうとするものもいるようだったが、小坊主は笑いながら首を振って受け取ろうとはしないでいる。
客に取り巻かれている姿を、藤三郎は感心したように見ていると、小坊主のほうで思い出したように、急ごしらえの高座をひょいと身軽に飛び降りて、藤三郎の元へと駆け寄ってきた。
「藤三郎の旦那、どうだ火事息子。面白いだろ」
名乗ったばかりの名を昔馴染みのような気安さでいきなり呼ばれたことに、多少面くらいながら、藤三郎は頷いた。
「そうだな、面白かった」
素直に言ってやると、小坊主はへへ、と子どもっぽく笑った。そんな笑い方をすると、小坊主、という呼び名が似合うと思ったが、それはわざわざ言わずにおいた。
「あんたに似てるだろ」
「そうだな、俺はまあ勘当はされずにいるけどな」
「へえ、そいつは何よりだねえ、仲のいい家族なんだ」
「ありがたいことに」
小坊主は、目をくるっと見開いてから、けらけらっとまた笑う。
「俺の落語、悪かねえだろ」
「うまいもんだったよ」
「俺は萬来亭小坊主ってんだ。まだ修行中の身の上だけどよ。いつか、あの圓朝師匠みてえな、すんごいネタを作って、歴史に残る大名人になる男だ、覚えといてくれよ」
ぐいっと胸を逸らした小坊主に、ひょっとするとこれは酔っ払いの余興ではなく、この男の本業だったのかと、藤三郎は今更ながら合点がいった。どおりで堂に入っている。
「圓朝って、えーとあれか。牡丹灯籠とか」
「そう! 旦那あ、なんだ、知ってるじゃねえか」
そう言って、小坊主は心底嬉しそうな顔で笑った。
あんまり嬉しげな顔をされたので、噂を聞いて題名を知っているだけで、見たことはなく話の筋も知らないとは今更口には出来ず、藤三郎はまあな、と濁した。
あんまり屈託なく嬉しそうにされたもので、なんだか悪い気がしてしまって、そのうち機会があれば見ておこう、とこっそり思った。
「まあ、それくらいは有名だからな」
「だよなあ、芸事に興味のねえ堅物なお人にも知られてこそ、本物ってことだよなあ」
うんうん、と何やら感じ入ったように頷いている。
そんな小坊主の後ろに、表から入ってきた長身の男がゆらりと身体を揺らしながら立ったのを、おやと見上げる。
「小坊主」
その長身の男から呼ばれた名前に、人懐こい笑顔のまま振り返った小坊主は、声の主を見てとるやいなや、げっとひと声、ひしゃげたような声を発したまま、固まってしまった。
「八万兄さん」
「今そこで店から出てきたお客に聞いたけど、」
絞り出すような小坊主の声に、たたみかけるようにして、「はちまんあにさん」と呼ばれた男が言葉を重ねた。
顔は微笑んでいるが、声はひどくヒヤリとしていて、理由はわからないまま藤三郎も何故だか背筋を伸ばしてしまった。
「火事息子、人前でやったって?」
「や、それはその」
あれだけいた客たちが、一体どこに消えたのか、気がつけばいなくなっていると、藤三郎が思い至ったのと、地の底から響くような野太い声で、八万の口から雷が落ちるのとは、ほとんど同時だった。
「てめえは習ってねえネタだろうが!!!!」
ひっ、とひきつけたような声を出したのは、関係がないはずの太助で、怒りの矛先だろう小坊主は、眉尻を下げて媚びるような顔をして見せている。
はじめにひしゃげた声を上げて、体をこわばらせていたことが嘘のように余裕めかした態度になって、悪びれる様子もない。
「いやそうなんですけどね、こないだ兄さんがやってるの見てたら覚えちまって、どっかでやってみてえなぁって」
「習ってねえ噺をやんじゃねえって、こないだ師匠に叱られたのをもう忘れたってのか、あ?」
「兄さん、ガラ悪い」
「ああ? なんだ、減らず口を叩いたのはどの口だ?」
「いたた痛い痛い兄さん」
ぺらぺらと言い訳を吐き出していた小坊主は、八万に耳を引かれて今度は泣き言を口にした。
「いやだから……金は、もらってないです、よっ」
「当たり前だっ」
「そう、寧ろこっちが代わりにお勘定をもらわねえとならねえんだよ、八万さん」
「へ」
笑みを浮かべた店主が、妙にがっちりとした腕で八万の肩に手を置いたのを見てとるや、小坊主はするりと八万の脇をかいくぐった。
「兄さん、ご馳走になります」
「は? え? なんで」
「ここの飲み代、兄さんにつけといたんで」
「いや、待て、おい」
小坊主を追いかけようにも、逃がさないとばかり立ち塞がった店主を前に、八万は途端に分が悪くなったらしい。
攻守交代、いやそれ以前に相手が変わってしまっているのだけれど。
八万が、店主に対してぺこりぺこりと頭を下げているのを尻目に、小坊主は表へ飛び出した。
それら全てがほんの少しの間に、一度に起きたことで、藤三郎は嵐が巻き起こるのに居合わせたような気持ちで、その一部始終をただただ目を丸くして眺めていた。
これはいったい何の騒ぎだったのか、と。
何とも妙な男だったなと、たった今出て行った小坊主を思い浮かべた途端、ぱたぱたと軽い足音が聞こえて、戸口からにゅいっと小坊主の顔が覗いた。
忘れた物でもあって、戻って来たのだろうか。
逃げるところだっただろうに、迂闊な奴だと眺めていると、目が合ってちょいちょいと手招かれた。
どうやら、小坊主が呼んでいるのは藤三郎のことらしい。
手招かれるまま戸口によると、ぐいっと袖を引かれてたたらを踏んだ。
態勢を崩した藤三郎は、予想外に至近距離で小坊主と顔を合わせた。
「言いそびれちまったと思って。藤三郎の旦那、今度寄席に来てくれよな。俺の話がさ、面白かったってんなら、兄さんやお師匠方の話はもっともっとおもしれえから、念押しときたくてよ」
きっと本心からそう思っているのだろう、目の前の小坊主の目が妙にきらきらとして、ほんの一瞬の間だったけれど、返事をし損ねた。
「ちょ、待て小坊主!」
「逃さねえよ、八万さん。あいつのツケが溜まってんだ」
「やべ、もう行かねえと」
小坊主は、最後にニッと笑うと、藤三郎の背中越しに飛んできた八万の小言を無視して、今度こそ表へと姿を消した。
「はちまんに、ばんらいていこぼうず…。ああ、八百万師匠の弟子が、変わり者ばかりだって話だけど、あいつらかあ」
自分たちの勘定を済ませて、店を出てしばらくしてから、太助がおもむろに口にした。
どうやらずっと、さっきの騒ぎを気にかけていたらしい。
「やおよろず?」
「兄貴は知らねえですか。今、当代きっての人気噺家っていえば、さっき話に出てた牡丹灯籠の三遊亭圓朝師匠か、萬雷亭八百万師匠かって言われてんですよ。さっきの二人は、その八百万師匠の弟子ですね。八万のほうが兄弟子で、あの火事息子かけた酔っ払いが、小坊主って二番弟子ですけど、まだ前座なんじゃねえかな」
「へえ」
太助はその方面に興味があったらしく、うろ覚えだと言いながらも、うんちくを語っている。
ほんの少し前まで、自分の身の振り方を案じていた時と、状況は何も変わってなどいないのに、いくらか明るい顔色になっている。
人間というのは不思議なものだと、藤三郎は楽し気に話し続ける太助の様子に思った。
そういえば、小坊主の火事息子を聞いている間も、隣で楽しそうに大声を上げて笑っていた。
この世はままならないもので、己一人気を張って真正直に生きてみたところで、大きな流れには逆らえない。
こちらの理由なんて度外視で、仕事があっという間になくなったりしてしまう。人なんて頼りないちっぽけなものだ。
だからこそ、一時の憂さを晴らしてくれる、芝居やら演芸やらというものがあって、人々が楽しみにしているのかもしれない。
と、藤三郎は思った。
つい今しがた覗き込んだ、小坊主の心底楽し気な目だとか、そんな男の荒削りの芸に心から笑っていた客たちの声が、頭の中でしっかりと根を張っている。
太助はまだ熱心に話をしているが、完全に門外漢の藤三郎には何を説明されているのかもよくわからない。何しろ基本となる知識と言えばいいのか、そういったことが抜けているのだ。
そんな藤三郎の様子に、
「ほんと兄貴は、火事にしか興味がねえんだから」
と太助は面白そうに笑った。
「あいつの言う通りに、とんだ火事息子だ」
「太助」
「なんですよ、怒らねえでくださいよ」
「怒っちゃいねえよ。まあその、なんだ。今度寄席に付き合ってくれねえか」
「え、珍しいですね」
「そうだな、行ってみるのも、悪くねえかと思ってよ」
約束というほどのものではないけれど、最後の最後に、わざわざ戻ってきたあの男が言った、
『今度寄席に来てくれよな』
というあの呼びかけには、応じてやらないとならないような気にさせられたのだ。
「面白かったですねえ、あの前座」
「そうだな」
また、そのうちどこかで会うこともあるのかもしれない。
根拠はないが、なんとなく、藤三郎はそんなことを思いながら、どこへ行くというわけでもなく歩き出した。
じつは、頭の中にある長い長い話に出てくる主人公たちの出会い、という。
本編がまだ存在しない前日譚です。
いつか本編をお目にかけられたらいいなあ。