プロローグ
「お嬢様、お嬢様!」霧の中から遠くに響くその声が、徐々に浮かび上がってくる。お嬢様?一体、誰がその呼びかけをしているのか。頭の中でぼんやりと鳴り響いていた声が、次第に鮮明さを増していく。
「お嬢様!ご無事で何よりです!」瞼を開けると、そこには鮮やかな赤髪をたたえた少女が立っていた。彼女の容姿はまだ幼く、小学生ほどに見えるが、その眼差しには成熟した品位が漂っていた。
現代の子供たちは、ここまでしっかりとした教育を受けているのだろうか?と、私は内心で驚嘆する。
「お嬢様、お体の具合はいかがですか?」赤髪の少女の問いかけに、私は曖昧に頷いた。その瞬間、頭の中に鋭い痛みが走り、まるで封印されていた記憶が一気に解放されるかのような感覚に襲われた。
私の名はかつて「勇者」として知られていた。異世界に召喚され、魔王を討つ使命を帯びた過去がある。しかし、その任を果たした後、私の人生は幕を閉じ、次に目覚めたときには、自分が討ち取ったはずの魔王の姿でこの世界に立っていた。自らがかつて憎んだ存在として再び生を受けたとき、私の心には深い絶望と混乱が渦巻いていた。
そして今、この赤髪の少女が私を「お嬢様」と呼ぶこの瞬間、私は再び転生していることを悟った。過去の勇者としての記憶、そして魔王としての記憶が鮮明に蘇り、私を現実に引き戻す。
「お嬢様、何かお忘れですか?」少女の声が私を現実に引き戻す。彼女は心配そうに私を見つめているが、私は自分の内面で渦巻く感情を整理しなければならない。
この世界は一体どこの世界なのだろう。今まで転生してきた世界とは異なる次元に転生してしまったのだろうか。この世界の理を解明する必要がある。
「ねえ、私の名前は一体何ていうの?」心配そうにたたずむ少女に問いかけると、彼女は驚きと共に私を見つめた後、柔らかく微笑みながら答えた。
「お嬢様、やはり打撲の影響で記憶が混乱してしまわれたのですね。」彼女は心配しつつ、続けた。「お嬢様のお名前はイーシャ・オルフェです。」彼女は悲しげな表情を浮かべながら言った。
「イーシャ・オルフェね・・・。どこかで聞いたことがある名前な気がする・・・。」
妙に既視感のある名前。その違和感を探るべく、私は過去の記憶を呼び起こそうとした。
前の世界では、私は世界を支配する魔王だった。深い絶望に囚われながらも、魔王として世界に影響を与えた。その時の知り合いには、この名前の人物はいなかった。魔王という立場は極めて厳格で、部下の名前を徹底的に記憶していたが、イーシャ・オルフェという名の部下はいなかった。むしろ、魔物としての部下が多く、名を持つ者が少なかったため、この名前は存在しなかった。
さらに遡ると、私は勇者だった時代がある。立場は違えど、魔王であった時と同じ世界に存在していたが、仲間や知り合いの中にはそのような名前の人物はいなかった。
そうなると、更に前の前・・・?女子高生だった時代の記憶は薄れている。女子高生としての私が転生してから既に三回目であり、その間に長い年月が経過している。勇者として約50年、魔王として約200年を過ごした後、女子高生としての時間は微々たるもので、当然記憶は浅い。
「思い出せ・・・!!!女子高生だったころの自分の記憶!!」全身に思考を巡らせた。
「もしかして・・・?」一つ思い当たる節があった。それは当時高校二年生の春のことである。女子高生として青春を謳歌していた私は、ある一本のゲームと出会った。それは、恋愛シミュレーションゲームの一種で、主人公アリサが学園に入学し、様々な人と恋愛関係を築いていく王道のストーリーであった。そのゲームには魔法やダンジョン探索などRPG的要素も組み込まれており、やりごたえがあった。しかし、その一方で、ゲームには多くのバグが存在し、最終クリアには至らなかった。そのゲームの中には、似たような名前のキャラクターがいた気がする。そして、よりにもよってそのキャラクターは主人公をいじめる悪役、いわゆる「悪役令嬢」であった。
「その終末は・・・」わからない。なぜなら、誰も最後までクリアすることができなかったからだ。
イーシャ・オルフェという名前の違和感が消えない。ふと、記憶の奥底にひっかかる何かがある。女子高生としての最後の日々に思いを馳せると、その時の感情が再び甦る。
「あれは確か…」私は心の中でつぶやいた。そのゲームは、その存在自体がまるで私の人生の一部のような気がする。そこに出てくる悪役令嬢が一体どんなキャラクターだったのか、記憶の断片を掴むために全力を尽くす。
確か、ゲームの中でその悪役令嬢は、非常に魅力的でありながらも陰険な立ち回りをしていた。彼女は主人公アリサを徹底的に苦しめ、試練を与える存在だった。しかし、その一方で、悪役令嬢の背景にはどこか悲しげな過去が存在しているようにも思えた。その過去が彼女の性格に影響を与え、逆境に立ち向かう彼女の姿が描かれていたのだ。
「そのキャラクターの名前がイーシャ・オルフェだったのか?」私は自問自答する。記憶の断片が繋がり始め、かつての自分がどれほどそのキャラクターに強く影響されていたかを思い出し始める。もしかすると、この名前には深い意味があるのかもしれない。私が転生した先が、まさにそのゲームの世界と関連があるのではないかと考えると、胸の高鳴りが止まらない。
「お嬢様、お加減はいかがですか?」赤髪の少女、エリナが心配そうに見つめている。彼女の視線が私を現実に引き戻し、私は意を決して彼女に質問することにした。
「エリナ、あなたはこの世界について知っていることがあれば教えてください。特に、このイーシャ・オルフェという名前について。」
「お嬢様、何かを思い出そうとしているのですね。」エリナは一瞬驚いたような表情を浮かべた後、慎重に言葉を選びながら答えた。「オルフェ家はこの国の貴族家系の一員で、非常に高貴な血筋を持ちます。しかし、その家系は過去にいくつかの悲劇を経験しており、その影響で一部の人々からは忌み嫌われる存在となっています。」
「この家系に関する歴史や伝説についても知っているのですか?」私はさらに深く尋ねた。
「はい、お嬢様。」エリナは少し考え込みながら答えた。「オルフェの家系は、かつて強大な魔法使いが出たことで知られています。しかし、長い間にわたって家系内での権力争いが続き、今ではその栄光は失われつつあります。そのため、イーシャ様自身も現在は名ばかりの貴族となっているのです。」
「わかったわ。ありがとう。」確かに、そんな感じだった気がする。「とにかく、未来を変えるために今からやれることをやるべきね・・・」私は決意を新たにし、自分自身を奮い立たせた。